言い伝え

紫 李鳥

言い伝え

 



 夜、口笛を吹くと叱られた。


「蛇が出るぞっ!」


 そう言って、親父はコップ酒を飲みながら、卓袱台ちゃぶだいに載った西瓜の浅漬けを口に放った。


 他にも言われた事がいくつかある。


 下の歯が抜けたら、屋根の上に。上の歯は床下に。

 雷が鳴ったら、へそを隠せ。

 霊柩車を見たら親指を隠せ。

 夜、爪を切ると親の死に目に会えない。

 北枕は死人だけ。


 もう一つ。


「夜中に蛍川には絶対に行くな!」 


 念を押すようにそう言って、俺を睨み付けた親父の目は怖かった。


 蛍川は近くにある小さな川で、夏になると沢山の蛍が飛び交う美しい所だった。


「……なんで夜中は駄目なの?」


「……昔からの言い伝えだ。それに、その時間は子供は寝てる時間だからだ」


 確かに親父の言う通りだ。




 だが、小学4年の時、俺は親父との約束を破った。


 夜中に行ってはいけないのは、別に理由があるような気がしたからだ。


 いびきをかいている親父の横を抜き足差し足で通ると、ズックを突っ掛けた。




 川に続く農道の誘蛾灯には沢山の蛾が群がっていた。それを横目に、全速力で走った。




「ハァハァハァ……」


 川の辺りまで来ると、せせらぎが聞こえた。


 生い茂る雑草を掻き分けて川辺まで行ったが、蛍は飛んでいなかった。


(……もう、寝てるよな、蛍も)


 対岸にも変わった様子はなかった。


(俺の思い過ごしか……)


 諦めて帰ろうとした時だった。


「あ~……」


 女の声がした。


 俺は慌ててきびすを返すと、身を屈め、息を殺した。


「あぁぁ……」


 また、女の声がした。


 すると間も無く、対岸からくさむらを掻き分けるような、ガサガサという音がした。


 俺は咄嗟とっさに屈むと、丈の高い葦に身を隠した。


 すると、畦道に向かう男の後ろ姿が見えた。


(こんな夜中に何をやってたんだろう……)


 そんな事を考えていると、また、ガサガサと音がした。


 音のする対岸に目を据えていると、白い服を着た女が川に向かってきた。


 高い葦が作った暗闇に浮かんだその姿は、まるで蛍のようだった。


 俺はドキドキしながら、女の挙動を窺っていた。


 女はスカートの裾を捲って川に入ると、下半身を沈めた。


 途端、雲間から覗いた月が、女の横顔をかたどっていた。




 そんなある日。夜中に小便に起きると、親父の姿が無かった。


 親父も小便かと思い、暫く待ったが、出てこなかった。


 不審に思い、「父さん!」と声をかけたが返事が無かった。


 慌てて戸を開けたが親父は居なかった。


(……どこに行ったんだろう? ……アッ!)


 俺は思い当たると、急いでズックを突っ掛けた。




 俺はあの時と同じ場所で、高い葦に身を隠していた。


 暫くすると、対岸からガサガサと音がした。


 目を凝らすと、男の顔が月明かりに現れた。


(アッ!)




 俺は走った。必死に走って家に帰った。





 《蛍川に売春婦の遺体!》


 新聞記事に、そんな見出しを見つけたのは、それから間も無くだった。





 あれから20年が経つが、犯人は未だ捕まっていない。


 捕まるはずもない。


 まさか、子供の仕業だとは誰一人として思いもしないだろう。




 俺があの時見たのは親父だった。子供ながらにも、それがどういう事なのか理解できた。


(汚い! 親父は汚い!)


 親父を不潔に思いながらも、俺は後日、女に会いに行った。




 雑草を掻き分けるガサガサという音に、女が顔を出した。


「なんや、子供かいな」


 女はがっかりしたように肩を落とした。


「こんな時間に何してんの?」


「…………」


 俺は俯いたまま、言葉が出なかった。


「……もしかして、わてが欲しいん?」


 女が目を見開いた。


 俺は恥ずかしくて、顔を伏せた。途端、


「ぷっ!」


 女が吹き出した。


「もうちっと大きくなってから来や。お金持ってな。アッハッハッハッ……」


 女は赤い唇を大きく開くと、高笑いをしながら背を向けた。


 その瞬間、俺の中に殺意が芽生えた。


「ウワーーーッ!」


 俺は大きな声を発すると、女の背中を思い切り押して、川に倒した。


「キャーッ!」


 女の悲鳴と共にバシャッと水面を打つ音がした。


 俺は、俯せになった女の頭を力一杯押して、川に沈めた。


「ブクブク……」


 女は懸命にもがいていた。


「お前が悪いんだーっ!」


 俺はそう叫ぶと、更に力を込めた。――






 俺はあの女に初めて会った時、亡き母の面影を重ねていたのかもしれない……

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言い伝え 紫 李鳥 @shiritori

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