第四話(最終話)

 最初は、篝火から飛び散る火の粉が夜風に乗っただけだと思っていた。イルハの舞を見ていたムラの民たちも、当初はその異変に気が付いてはいなかった。

 無論、祈りに夢中だったイルハも気が付いてはいなかった。ただ目の前が急に明るくなったような、そんな気がしただけ。


「───イルハ」


 イルハがその異様な光景に気付いたのは、そう囁く声を確かに聞いた時だった。今まで一度だって忘れたことのない、愛しい声がイルハの名前を呼んだ。


「イルハ」


 目の前が眩しい程、輝く。それは篝火が齎す火の粉だけでは決して起こりえない奇跡。まるで雪のように光の球が天から降る。そして、今度は夏虫のように舞い上がり、イルハの舞に合わせてくるりくるりと舞った。

 やがて、光の球は一つ、また一つと合わさり、より大きな光となった。そして丸い形だった光が重なり合っていく間に、段々と人の形を取っていく。見覚えのある、あの人の姿に。


「イルハ」


 帰ってきたよ。


 そこには。


「……トオノ……」


 もう会えないと覚悟した。

 もうこれで最後だと腹をくくった。

 だからこそ、一目だけでいい。

 会わせてくれと神に願った。

 でも、まさか本当に。


「トオノ!」


 本当に会えるなんて。


 イルハの目の前には、確かに。

 トオノの姿が、そこにあった。


 * * *


 ムラの民たちは、今目の前で展開されている奇跡の光景に、誰もが目を疑い、誰もが口を開けたまま呆然と眺めることしかできなかった。

 そして、誰もが思い出していた。今光り輝きながら降臨した男が、まるでタラチネの神のように巫女の前に降り立った光の男が、あのトオノであることを。

 思い出して、思い出したからこそ信じられずに立ち尽くしていた。


 ただ一人。


 そんな人々の中でただ一人、タガミだけが、青白い顔をしたまま唇を震わせていた。

 かさかさに乾いた唇が、言の葉を紡ぐ。


 何で。

 どうして。

 あり得ない。

 あり得る訳がない。

 あり得ない!

 どうして!

 何で!


「何で、お前がここにいるんだよ。お前は。お前は!」


 ───俺が、殺した筈だ。


「俺が、殺した!」


 そう喚き散らした。


「殺したんだ! 俺が、この手で!」


 この手が、この目が覚えている。あの男を、トオノを斬りつけた手が、そして息絶えていく様を見届けた目が、今でもはっきり覚えている。

 最初から邪魔な奴だったのだ。トオノさえいなければと、いつもそう思っていた。

 タガミは幼い頃からイルハに好意を寄せていた。イルハが巫女として選ばれる前より、彼女のことが好きだった。

 そして、ムラの中で一目置かれる自分が、そのイルハを手に入れるのは当たり前だと、そう思っていたのだ。子供の頃から自分は、誰にも負けない強い男だった。誰も自分に勝てないと、早くから自覚していた。

 しかし、そんなタガミの鼻っ柱をへし折ったのが、あのトオノだった。

 イルハの横にはいつだってトオノがいた。ずっとイルハのことを見ていたから、タガミはすぐに気が付いた。思い知らされた。あの二人が、家族のように育ってきた筈の二人が、互いに強く惹かれ合っていることに。きっと他の男たちより早くに気が付いた。自分は優秀だったから。

 何で、あのトオノが。俺より弱い、他の男よりも弱いトオノが、イルハの心を手に入れようとしているんだ。そう思うと、腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えた。

 許せない。許せる筈がない。

 トオノが、邪魔だった。ずっとずっと邪魔だった。イルハが巫女の役目を終えれば、自分を差し置いて、あの二人が自然と夫婦になるのは、タガミには分かっていた。分かり切っていた。

 だからこそ、殺した。邪魔者を排除した。簡単な理論、簡単な話だ。

 そう、トオノを殺すのは簡単だった。彼はイワトのムラで誰よりも弱い男だった。タガミの敵ではなかった。

 そうだ、あいつは敵ですらない。強い者に蹂躙される弱者でしかない。まして、イルハの気持ちを手に入れているという点で自分に勝っているなんてことは、決してあり得ない。あってはならない。

 だから、さっさと消してしまえばいい。簡単な、実に簡単な話で、簡単な作業だ。造作もない。

 狩りの獲物を一緒に追い込もうと言ってトオノを誘い出して、何の疑いもなくついてきた彼を振り向きざまに斬りつけた。あっという間の出来事。本当に簡単な作業だった。

 面倒だったのは、地に伏したトオノの息が確実に止まるまで見届けなくてはいけなかったことくらいか。それをきちんと成し遂げた後、彼の躯をタラチネ山に放置した。

 同行した男たちには口止めをしておいた。誰もタガミには勝てないし、逆らえない。これも話は簡単だった。ちょっと脅せば、皆口裏を合わせた。また捜索の際も、痕跡の残る場所は自分が探したとして誰も近寄らせなかった。

 それで、終わった。実にあっけなく、恋敵は消えていなくなった。

 それから、三年。トオノを思う彼女を思いやって、三年は待ってやった。でも、三年経てば、ムラに帰らなかった者は死者になる。イルハが彼を待つ理由はなくなる。そして、誰に咎められることなく、タガミは彼女を手に入れることができる。

 これで終わる。今宵のマツリを最後に、イルハは巫女の座を降りる。そして、愛しい彼女は、自分のものになる。

 なる、筈だった。

 それなのに、どうして。それなのに、何で。


「お前がここにいるんだよ!」


 光り輝くトオノに気を取られていたムラの民たちは、タガミの独白にこれまた我が耳を疑った。動揺して無意識の内に事実を告白しだしたタガミに、取り巻きの若衆はぎょっとした後、ばつの悪そうに視線を逸らせた。彼らは、トオノが消えたあの日、狩りに同行していた者たちだった。タガミに協力させられた者たちだった。口裏を合わせていた若衆は、ただ視線をトオノと、そしてタガミから逸らすことしかできなかった。

 ただ事情を全く知らなかった大人たちが同じように顔を見合わせ、そして信じられない面持ちでタガミを見上げていた。ゆくゆくはムラ長になるべき筈だった───卑怯者の姿を。


 * * *


 信じられないのは、イルハも同じだった。目の前に広がる光景が信じられなかった。

 でも、今ここにいるのは、光を纏わせた神のごとき姿で降り立った彼は、間違いなくトオノその人だった。


「トオノ、なの?」


 涙で滲んだ視界の中でも、彼の姿だけは滲むことなくはっきりと鮮明にそこにあった。

 光を纏ったトオノは、あの時と同じ、泣きたくなるほど愛しい笑顔を浮かべて、そうだよと頷いた。


「俺がトオノ以外の何に見えるのかな。愛しいイルハ」

「だって……信じられない」


 願ったのは、イルハだ。帰っておいでと願ったのは、イルハ自身だ。それでも、まさか本当に帰ってきてくれるなんて。現実を受け止めきれずに、ただただ涙がこぼれた。

 そんなイルハの涙を拭うように、トオノは手を伸ばして笑った。


「実は、俺だって信じられないんだよ。俺ももう帰れないと思ってた。俺は大地に還った筈だった。でもね、君の祈りを、タラチネの神はずっと聞いてくれていたんだ」


 トオノは自分と同じように淡く光るタラチネ山を見遣る。


「君がずっとずっと毎日欠かさず、タラチネの山の神に、そして俺に祈りを捧げてくれたから、こうして俺は帰って来られたんだ」


 帰っておいで。帰っておいでと、祈ったから。来る日も来る日も、一日だって欠かすことなく、祈ったから。


「俺は今、ここにいる」


 帰るべき場所に。

 トオノはまだ呆然としているイルハの手を取る。本来なら許されない筈の行為を平然と。


「君はもう巫女でなくなるのだから、もういいよね」


 やっと触れられた。

 そう言うトオノの手は、幼い頃と同じく仄かに温かかった。生きている時のように温かかった。


「トオノ……まるで、タラチネの神様みたい」

「そうかな。俺が神様って、大それたことを言うね、イルハ。この再会はタラチネの神のお導きなのに」

「だって。光り輝いて、こんなに綺麗」


 言い伝えにあるタラチネの神そのもののように、今もトオノの体は淡く輝いている。


「俺がもし神ならば……イルハはタラチネの神が愛した巫女になるね」

「でも、それでは、いつかは別れてしまうわ」

「うん。だからね、俺たちは神様でもできなかったことをしよう」


 イルハ以上に畏れ多いことを平然と言って、トオノは改めてイルハの手を強く握った。


「随分待たせてしまってごめん。でも、タラチネの神が再びもう一度機会をくれたのだから、俺は俺のしたいことをする。言いたいことを言う」


 俺はね、イルハ。

 いつも繰り返していたあの言葉を、トオノは囁いた。


「愛しているよ、イルハ。もう君の傍を離れない。君を一人にはしない。俺の帰る場所はいつだって、君の隣だよ」


 だから、これからは共に、ずっと共にいよう。

 トオノの言葉に、イルハはようやく涙を振り払い、心からの笑顔を浮かべた。三年ぶりの何の憂いもない純粋な笑顔だった。

 そして、ようやく伝えたかった思いを、言の葉に乗せた。


「わたしも、愛しています。トオノ。ずっとずっと、あなただけを愛してきました。この気持ちは、この先もきっと変わらない。ううん……絶対に変わらないわ」


 だから。

 もし、わたしがあなたの帰るべき場所だというのならば。


「わたしのいるべき場所は、あなたの隣です」


 だから、連れて行って。あなたの傍へ。あなたの隣へ。

 そして、どうか離さないで。

 それ以外は、もう何も望まない。いらない。例え、この世界から離れることになったとしても。


「愛しています、トオノ」


 手を取り合った二人の距離が自然と近付く。

 そして、祭壇の中央で硬く抱き合った二人を一際強い光が満たした。


 * * *


 ───光が去った後、ムラの民たちは一斉に我に返った。

 辺りは元の静寂を取り戻していた。篝火の爆ぜる音と、柔らかな満月の光のみが祭壇を満たしている。

 先程まで巫女が舞っていた筈の祭壇には、誰の姿も見当たらなかった。光り輝く若者の姿も、巫女の姿もない。ただ巫女が着ていた真新しい装束と鈴だけが取り残されていた。まるで、巫女が装束を、この世界という衣を脱ぎ捨てて飛び立ってしまったかのように。

 その不思議で、でもだからこそ美しい光景を、イワトのムラの民たちは、ずっとずっと眺め続けていた。


 * * *


 ───こうして、イワトのムラから巫女が一人消えた。


 巫女が消えても、イワトのムラの民の生活は変わらなかった。次代の巫女が継承すべきものを受け継いでいた後だったので、マツリはその翌年も滞りなく行われた。

 ただタガミがムラ長の後を継ぐことはなかった。彼がその後どんな人生を歩んだのかは分からない。彼の末路は伝わらないまま月日が、年月が、そして長い長い時が流れていった。


 今でも、イワトのムラには、霊峰タラチネ山に棲む神に捧げるマツリが存在している。ただ巫女が消えた当時とは、違う点が二つある。

 まず、マツリの夜、本当に心から再会を祈った者の所には、例え死に別れた者でも光となって帰ってくるという言い伝えが加わった。今ではイワトのムラの民は、死んだ者に再会できることを祈り、より盛大にマツリを行うようになった。

 そして、もう一つ。マツリの夜、舞いながら祈りを捧げる巫女が、幻を見るという話がある。決まって同じ幻の光景を。

 ある巫女は、タラチネの神と、彼の者に仕えた女人が大地に還った後、神と一緒になれた姿だと言う。

 またある巫女は、かつてこのムラから消えた巫女と、その恋人の姿だとも言う。


 巫女が祭壇から眺める幻。それは、仲睦まじく手を取り歩く男と女の姿だということだ。



【了】

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テウン、エク~あなたとわたしの帰る場所~ 伊古野わらび @ico_0712

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