第三話
イルハがゆっくりと祭壇の中央に進み出る。そして、仰々しい動作で腰を下ろし、深く頭を下げた。イルハを真正面から見下ろすのは、勿論霊峰タラチネ山。あの山の上からタラチネの神は、今宵もイワトのムラを見下ろしているのだろうか。もし見下ろしているのだとしたら、どんな面持ちなのだろう。かつて愛した女人の末裔が住むこのムラを、どんな思いで見守っているのだろう。
そんなことをぼんやり考えて、イルハは深呼吸を一つ。もうマツリが始まる。雑念は捨てて、今は舞のことだけ考えよう。
今宵のマツリのためだけに今年新たに織られた真白い装束の袖をゆっくり持ち上げ、イルハは予め用意していた鈴を手に取り「シャン」と一つ鳴らした。そしてこれまたゆっくりと顔を、続いて上半身を上げると、再び鈴を鳴らして、足を大きく踏み込んだ。立ち上がり、また鈴と足音を響かせる。鈴の音に合わせて祭壇を踏みならすイルハの足音が、心地よい律動と調和をもたらす。タラチネの神に捧げる巫女の舞だ。
そんなイルハの舞に合わせて、祭壇の脇に控えていた男たちが楽を奏で始めた。ある者は縦笛を、ある者は太鼓を、またある者はイルハと同じく鈴を奏でて、巫女の厳かな舞に彩りを添える。
弾ける火の粉を纏わせながら、イルハは舞う。長い黒髪が夜風と共に柔らかく広がり、白き衣が篝火と月光に照らし出されて明るく浮き上がる。
タラチネの神が愛した女人は、タラチネの神が降り立つ以前は、この地に棲む荒ぶる神に舞を納める舞姫だったという謂れがある。それに倣ってのことだろう。秋の満月の夜に行われるこのマツリでは、代々の巫女たちの間で伝承されてきた舞が神への祈りと共に奉納される。
鈴の音が響く。笛と太鼓の旋律に合わせて、イルハが回る。くるり、くるりと。足音を鳴らす。たん、と、どん、と。火の粉を纏わせて、優雅に、美しく、イルハは舞う。
歴代の巫女たちの中では恐らく一番長く巫女を務めることになったであろうイルハの舞は、何年にも渡って舞い続けている間に洗練され、見る者全てを魅了するものにまで昇華されていた。誰もが感嘆の溜め息を漏らして、黒髪の巫女の舞をただ見つめた。タガミですら自然と開いてしまった口を閉じることも忘れて、ただひたすら自分の花嫁になる娘の舞に酔いしれていた。
皆が皆、魅了されていた。イルハの舞に夢中になっていた。だから、ムラ人たちは誰一人気付かない。ムラ長も、タガミも、自分の演奏ばかりに気を取られている楽を奏でる者たちも。誰もが気付かない。誰もが気付けない。今、イルハがどんな想いで舞っているのか。どんな祈りを捧げているのか。
「テウン、エク」
不意に、不思議な響きの言葉が、楽の音に合わさり、周囲を満たした。
イルハの薄紅の唇が、神へ捧げる言の葉を紡ぐ。
「テウン、エク」
それは古来より伝わる、今となっては失われた古き言葉。歴代の巫女の口伝によってのみ伝わるその言葉の意味を知るのは、巫女だけだ。
だから、イルハはここぞとばかりに声高らかに歌う。叫ぶ。祈りの言葉を。
「テウン、エク」
本来なら神に捧げる言葉を、神にだけではなく、愛しい人へも捧げる。
「テウン、エク」
その言葉の意味は。
「 帰 っ て お い で 」
帰っておいで。
わたしの、傍に、帰っておいで。
かつては傍にいてくれた神に捧げる、祈りの言葉。愛の言葉。
人とは相容れぬ方でした。彼の人は、高き山の頂に登ったまま帰ってこない。
だからこそ、わたしは祈りを捧げます。未だ帰らぬ愛しいあの人へ、願いを紡ぎます。
帰っておいで。
帰っておいで。
かつて神を愛し、そして神から愛された女人は、舞に合わせて愛しいあの人へ呼びかけた。
「テウン、エク」
帰っておいで、と。
愛を込めて、何年も、何年も───こうして今年も、呼び続けているのです。
* * *
イルハは来る日も来る日も繰り返した祈りを、今宵のマツリでも捧げた。タラチネの神への祈りと、そして───トオノへの祈りを。
トオノがタラチネ山に行ったきり帰ってこなくなってから、イルハは誰にも打ち明けることなく、日課の神への祈りに加えて、愛しいトオノへの祈りも捧げるようになった。
「テウン、エク」
巫女のみが知る秘密の言葉に、神への感謝とトオノへの恋情を乗せて紡ぐ。
本来なら許されないことだろう。役目を終えるまで、神のものである巫女は、マツリ以外でも日々タラチネの神への祈りを欠かしてはいけない。神以外のものに祈りを捧げてはいけない。その筈だ。
それでも、イルハは祈り続けた。願い続けた。
愛しいあの人が、いつか帰ってこられるように。イルハの所に帰ってこられるように。祈り続けた。願い続けた。
「テウン、エク」
帰っておいで。
帰っておいでと。
何度も、何度も繰り返した。
* * *
あの日───トオノが帰ってこなかったあの日も、いつも通りの一日だった。普段と何ら変わらない一日だった。
ただ、トオノが帰ってこなかった。違うのは、ただそれだけ。
いつものように男たちと狩りに出かけたトオノは、日が暮れてもイワトのムラに帰っては来なかった。
同行していた男たちは誰もトオノの行き先を知らなかった。タラチネ山の裾野に広がる森に一緒に入ったところまでは覚えがある。ただその後、トオノとははぐれてしまったのだと、男共は口を揃えてそう言った。
「あいつなら、タラチネ山に入ったんじゃないか」
誰かがそう言った。今となっては誰がそう言いだしたのかも分からない。ただそれを耳にした誰もが、恐らく口にした本人でさえも顔を青くした。
タラチネ山は霊山。神の棲まう山だ。神が終生の地と定めたその山は、もはや人の世界のものではない。神の世界のものだ。何人も立ち入りを許されていない聖域。あの女人ですら、どんなに願えども立ち入れず、麓に居を構えるしかなかったその山に入るなどと、信仰深いイワトの民では考えられないことだった。入ったが最後、神の聖域に人は留まれない。いくら女人の末裔であるイワトの民だとしても、生きては帰ってこられないのだと聞いていた。
タラチネ山の麓に広がる森は決して深くはない。まして、この地で一番高いタラチネ山が木々の間からでも十分確認できるのだから、方向を間違うこともない。余程のことがない限り、イワトのムラの民が迷うことは考えられなかった。それでもトオノが帰って来られないというのであれば、故意か偶然かは分からないが、タラチネ山に踏み行ったのではないかと。
「そうであれば……諦めるしかないな」
ムラ長の言葉に、異を唱える者はいなかった。
タラチネ山に入った者をイワトの民は救いには行かない。念のためと、ムラの男たちが総出で捜索したが、森の中で彼の痕跡を見つけることはできず、結局「トオノは恐れ多くもタラチネ山に登って、大地に還ったのだ」と、そういう結論に落ち着いた。ただ一人、その結論に納得できずにいたイルハだけを残して。
そうして、誰もがトオノを忘れていった。大地に還った者として扱われる三年を待たずして、誰もがトオノの存在は最初からなかったものとして記憶から消し去り、イルハと───例え触れ合えなかったとしても───恋仲だったと知っていたムラ長ですら、タガミとの婚礼を勧めてくる始末。
イルハだけだった。イルハだけが、彼の生存を信じた。信じて、祈り続けてきた。あの日から毎日欠かさず祈り続けてきた。
帰っておいで。帰っておいでと。
彼のために、祈り続けてきた。
でも、それも今日で最後だ。今宵を最後に、イルハは愛してもいない男のものになる。
だから、せめて今宵だけは。
「テウン、エク」
イルハは何度も何度も祈りの言葉を繰り返しながら、願った。
あなたが既に大地に還りし人であるというのであれば、もう生きては会えないというのであれば、それも認めましょう。今まで認められずにいたけれど、受け入れましょう。
でも、最後に一つだけ。
最後だからこそ、どうか。
巫女のわたしの祈りに導かれて、再びわたしの前に姿を現してほしい。わたしだけに分かる姿で構わない。
最後にあなたに一目でも会えたなら、それでわたしは、この先も生きていけると思うから。
だから。
帰っておいで。
帰っておいで。
あなたの帰るべき場所は、「ここ」なのだから。
溢れ出す思いを止めることができず、瞳からひとしずく涙となってこぼれ落ち、そのしずくが火の粉に混じって祭壇の上で光り輝きながら舞い上がった時───それは起こった。
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