第二話

 篝火の爆ぜる音が聞こえる。それ以外に目立った音はなく、周囲は不気味さすら感じられるほど静まり返っていた。

 次代の巫女の後に付いてイルハがムラの広場へとやって来ると、円を描くように並べられた篝火の中央に祭壇が用意されていた。無数の篝火に照らし出された祭壇は、先程イルハが控えていた祭壇よりも一回りも二回りも大きく、色鮮やかだった。炎が揺らめく度に、その色もまたゆらゆらと揺れて変化していくように見える。

 祭壇を囲む篝火のその外には、ムラの者たちが同じく円を描くようにして座し、巫女のマツリを今か今かと待ち続けていた。

 このマツリはムラの民が総出で見守る。ただこれだけ多くの人が集まっているにも関わらず、口を開く者は誰もいない。皆が皆、示し合わせたかのように口を閉ざし、静かにその始まりの時を待っていた。

 イルハはゆっくりと祭壇に進みながら周囲の様子を窺っていると、ムラ長のために用意された特別席にタガミの姿を見つけた。彼に取り入ろうとする若衆が彼の両脇を固め、その中央でまんざらでもない表情でふんぞり返っている。

 イルハの視線に気付いたのだろう。タガミが自信に溢れる笑みをその口元に浮かべたのがはっきりと見えた。篝火に照らされたその表情は、ひどく下卑たものに感じられて、イルハは思わず視線を逸らせた。

 タガミはイワトの現ムラ長の息子である。長男ではないが、ムラ長の息子たちの中でも腕力にも知能にも優れており、彼がムラ長の後を継ぐのは間違いないだろうと目されている。

 ただどれほど優れていようと、欠点がない訳ではない。能力が高くとも、人格的には決して同じように優れている訳ではなかった。

 タガミは、自分の能力の高さを自覚していた。自負ではなく、自覚をしていた。だからこそ、その自分の有能さを笠に着て、傍若無人な振る舞いを行うこともあった。

 イルハは、そんなタガミの愚かさをよく分かっていた。何しろこの数年、タガミに一番付き纏われたのはイルハなのだから。

 巫女であるイルハに手を出そうなど、タラチネの神に対する冒涜である。それでもタガミは何度も何度もイルハにしつこく言い寄ってきた。彼女を手に入れるためには手段を選ばない。巫女の役目が終わっていなくても関係ない。そう言うように。

 ムラ人もタガミの暴挙は知っていた。知っていたが、誰も彼に口出しすることができなかった。何せタガミは腕も立つし頭も切れた。誰も彼には勝てない。誰も彼を止められない。

 それに、唯一止める権利があったであろう人は、もうここにはいない。

 それでも、イルハは自分が神聖な巫女であることを理由に、ずっとタガミを突っ撥ねてきた。巫女であること、ただそれだけがイルハの身を何とかここまで守ってくれていた。

 でも、マツリの日が来てしまった。イルハに取っては最後のマツリの日が。

 このマツリが終われば、イルハの役目も終わる。そして、巫女を次代に譲ったイルハは、そのまま男の所へ嫁ぐことになる。

 選りに選ってあのタガミの所に。

 今日まで巫女を続ける交換条件にムラ長に突き付けられたのが、タガミとの婚礼だったのだ。きっとタガミの入れ知恵に違いない。だからこそ、あのように自信に満ち溢れた笑みを浮かべられるのだろう。

 今日で最後だ。あらゆる意味で、今日で全てが終わる。


「…………っ」


 イルハは唇を噛み締めた。

 視線を逸らしたにも関わらず、視界の端であのタガミの嫌らしい笑みが感じられて、イルハの心はますます乱れた。そして乱れた心に、またあの人の姿が浮かんだ。救いの光のように、仄かに淡く。

 現実逃避に走っているのだと分かってはいた。それでも、イルハは祭壇に向かいつつ、早くも祈りを捧げていた。神に、ではない。あの人に、だ。


「……トオノ」


 その呟きを聞き咎めた者は誰一人としてなく、マツリは今まさに、始まろうとしていた。


 * * *


 トオノ。

 その名前を口にすると、イルハは今でもどうしようもなく胸が痛んだ。しくしくと、しくしくと、泣いているかのように。

 トオノは、イルハの一歳年上の幼なじみだ。

 イワトのムラでは、一つの家に複数の家族が同居するのは珍しくない。イルハの家族とトオノの家族もまた、同じ家で暮らしていた。

 そう、最初は家族だった。小さい頃から共に育った。トオノはイルハを実の妹のように可愛がり、甲斐甲斐しく面倒を見、慈しみ育てた。イルハもまたトオノを実の兄のように慕い懐いていた。

 その気持ちが、ただの家族への親愛から、異性に向ける恋情に変わったのは、果たしていつの頃だったか。今となっては、もう遠い昔のように思える。

 トオノはムラの男たちに比べると体が細く、故に力も弱かった。狩りに必要な剣も弓矢も、お世辞にも上手いと言える腕ではなかった。ムラの男たちは、タガミを始め、狩りで鍛え上げられた屈強な者が多かったが、獲物一匹捕らえるのも一苦労なトオノは、特に同年代の若者たちには軽んじられていた。彼を嘲っていた筆頭は言うまでもなく、あのタガミである。

 でもトオノは、どんなに他の男たちから軽んじられようと、いつも穏やかに笑っていた。


「確かに、俺はあまり剣も弓も得意ではないよ。でも、俺は一向に構わない。剣も弓も、結局は命を奪う道具だ。自分が生きるためだとしても、動物たちの命を奪うなんてことは俺にはできない。殺しの道具をなんて、上手に使えない方がいいんだ」


 だから、誰に何を言われても大丈夫だと、トオノは言った。


「何よりイルハ。君なら俺の気持ちを誰よりも分かってくれているからね。君さえ分かってくれるなら、俺はそれでいいんだ」


 そう言って、彼は穏やかに笑った。

 トオノは決して力は強くない。でも、その代わりに、トオノは他の誰よりも優しく、慈愛に満ちていた。この地を愛し、タラチネの神と山を愛し、この地に芽吹いた草花や動物、命あるもの全てを愛した。トオノの陰口を叩いたり、トオノの狩りの腕を嘲笑ったりする男たちをも、トオノは微笑んで許し、そして嫌うようなことはしなかった。

 誰よりも優しかった。何よりも広い心を持った、美しい青年だった。まるであのタラチネの神のように。

 そして。


「愛してるよ、イルハ」


 誰よりもイルハを大切に想ってくれていた。妹としてではなく、一人の女として、イルハを愛してくれていた。


「愛してるよ、イルハ」


 トオノが口癖のように何度も繰り返した言葉が、自分の名前を呼ぶあの声が、今も鮮明に耳に蘇る。その時にトオノが浮かべていた、少し照れた笑顔すらも。

 ある時、トオノは言った。何度も何度もイルハに愛していると囁きながら、彼は言った。


「イルハのことを愛しているよ。心から愛している。でもね、君はまだタラチネの神様のものだ。だから、俺は君にまだ触れられない。いくらこの思いを言葉に重ねても、本当の意味で君との距離を縮めることはできない。だって、俺はその手を握ることすらできない」


 巫女に選ばれた乙女は、その役目を終えるまで、異性との触れ合いを許されていなかった。その身はかつての名もなき女人のように、タラチネの神に捧げるもの。清い乙女でなければいけなかった。───後に、それがタガミから身を守る唯一の盾になるが、当時のイルハは無論知る由もない───

 幼い頃は二人共、互いを家族だと思っていた。仲睦まじい兄妹は互いに手を取り合い、兄の体温を、妹の鼓動を分け合うことができたのに。互いの息遣いが感じられそうなほど近くにいたとしても、二人は本当の意味でその熱を分け合うことは未だできずにいた。


「でも、君もそのうち役目を終える。だから、俺はそれまで君を待つよ。待って、改めて君の手を取って言うよ。俺は君のことを心から愛していると」


 そう言って、トオノは笑った。その時も穏やかに、イルハが泣きたいほど大好きな優しい笑顔でそう言ってくれた。

 その時、イルハは果たして笑っていられただろうか。わたしも好きなのだと、愛しているのだと、トオノに伝えられていただろうか。トオノが与えてくれるものと同じだけのものを返していられただろうか。

 今となっては分からない。答えてくれる人は、もう何処にもいない。


 ───トオノが、タラチネ山に消えてから、今年で三年経った。


 三年経っても戻らない者は、大地に還った者、死者として扱われる。トオノは、もう戻らない。生きた人の姿としては、きっともう戻らない。

 その三年を境に、イルハは巫女の役目を終える。

 そして、巫女としての責務も、トオノへの思いも捨てて、ただの娘にならなくてはいけない。ただの娘になって、あのタガミの元へ、トオノをずっと笑い物にしていたタガミの元へ嫁がなくてはいけない。


 今宵が最後だった。イルハにとっては、何もかもが、最後の夜だった。

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