テウン、エク~あなたとわたしの帰る場所~
伊古野わらび
第一話
帰っておいで。帰っておいで。
今宵も神と、あなたのために祈るから。
帰っておいで。帰っておいで。
あなたはもう大地に還ってしまったのだとしても。
それでも「最後」に一度だけ、どうか。
たった一目で構わないから。
どうか、今宵。
わたしの所へ帰っておいで。
* * *
霊峰タラチネ山。
その昔、この地にまだ荒ぶる神々が数多く蔓延っていた頃、その神々を平らげるべく天の神の世界より降り立ったタラチネの神。そのタラチネの神が棲んでいるとされる霊山。そんなタラチネ山の麓には、イワトのムラと呼ばれる小さな集落があった。
季節は秋。時刻は夜。満月が頭上高く昇る頃。
イワトのムラにて、古くから伝わるマツリが、厳かに行われようとしていた。
* * *
「…………?」
祭壇の中央にて跪き、一人瞑想に耽っていたイルハは、不意に何かの気配を感じて顔を上げた。
今イルハが身を置いているのは、イワトのムラに伝わるマツリを前に、主役である「巫女」が最後の精神統一をするために用意されたこぢんまりとした祭壇の前だった。ムラより程近い森の中にある、少しばかり高くなった丘の上に準備され、眼前に聳える霊峰タラチネ山に祈りを捧げられる好位置にあった。
「誰かいるの?」
イルハの声に応える者はいない。周囲を見渡してみるが、辺りは深い夜の色に染まり、イルハから見える範囲に人の姿は見えなかった。もっとも、夜の闇に覆われても、今宵は満月。普段よりも寧ろ辺りは明るい。誰かがいれば、見える筈だ。それなのに、何の気配もない。人も、動物すらも。
何だったのだろう。何かが、いや───誰かが自分に触れた気がしたのだが。
「気のせい、よね」
イルハは首を振り、再び膝をついた。マツリの前だ。気を散じている場合ではない。心を落ち着かせるため、ゆっくりと深呼吸をする。いつもの務めと同じように瞳を閉じ、心の中にタラチネ山の悠然とした姿を思い描く。そして、その山に棲む神に対して、心より祈りを捧げる。それがイルハの役目。
でも何故か、その時ばかりは、心を鎮めてタラチネ山の光景を思い描くことができなかった。無心となってタラチネの神への祈りを捧げることができなかった。
瞳を閉じた視界に広がる闇。今宵の夜の色より深くて暗い闇の中で鮮明に浮かび上がるのは、あの人の姿。心に強く強く沸き上がってくるのは、愛しいあの人への恋情ばかり。
『イルハ』
そう優しくイルハの名前を呼ぶ、あの人の声まで蘇える。
ああ、こんなことでは駄目なのに。分かっていても、心は逸るばかり。落ち着く気配が微塵もない。
それは、きっと。
今宵が、最後になるから───なのであろう。
* * *
イルハは、このイワトのムラに古来より伝わるマツリにて、タラチネの神へ祈りと舞を捧げる巫女である。
巫女とは、イワトのムラの言い伝えにある女人に倣った役職だ。タラチネの神がこの地に降りたった際、その神の傍で仕えた女人。具体的な名前までは伝わってはいないが、その女人のことをイワトのムラでは「巫女」と呼び習わしていた。
荒ぶる神々を平定した際、深い傷を負い動けなくなったタラチネの神に付き添い、その身が癒えるまで甲斐甲斐しく世話をしたというその女人を、タラチネの神は深く愛した。その女人もまた、この地に平和をもたらしたタラチネの神を崇め、また一人の女として男神であったタラチネの神を深く愛した。
しかし、神と人とは、そもそも相容れない存在。別れはやってくる。
やがて傷の癒えたタラチネの神は、神の世界に帰らねばならなくなった。しかし、タラチネの神はその定めを良しとせず、自らが平らげたこの地を終生の地と心に定めた。その代わり、この地で一番天に近い山に登り人の前から姿を消した。その山が霊峰タラチネ山。イワトのムラの北に聳える神聖な山だ。
そして、タラチネの神に仕えた女人は、神との別れに涙したが、他の誰よりも神の傍にいることを誓い、タラチネ山の麓に居を構えた。そこから集落として発展したのが、イワトのムラ。このムラの民は、その女人の子孫だと言われている。
イワトのムラの民は、自分たちがタラチネの神に愛された女人の末裔であることを非常に誇りに思っていた。そして女人の偉業と平和を齎した神への感謝を忘れないため、ムラの娘をその女人に見立てて、神の棲む山に祈りを、そして優美な舞を捧げるようになった。それがイワトのムラに伝わる「マツリ」であり、そのマツリで祈りと舞を納めるのが「巫女」である。
今から十年ほど前に先代の巫女よりその役目を継いだイルハは、その身をずっとタラチネの神のために捧げてきた。タラチネ山より湧き出るミガタ川の水にて禊を行い、タラチネ山に向かって深く神への祈りを捧げるのが、イルハの日課だった。そして、年に一度のマツリが、巫女の仕事の集大成となる。
特に今宵のマツリには、イルハにとって特別な意味があった。
「最後の、マツリだもの」
今年、この満月の夜に行われるマツリは、イルハが巫女として務めを果たす最後のマツリになる。
イルハも今年で十八歳。本来ならば、とうに巫女の座を退き、ムラの男に嫁ぎ、子まで成していてもおかしくない年頃だ。事実、自分と同い年の娘たちは、皆、誰かの妻となり、幼子たちのよき母となっていた。ただイルハだけが、未練がましく巫女の座に居座り、純潔を貫いてきた。
そう、未練だ。未練以外の何物でもない。どうしても諦めきれないことがあって、イルハは今も巫女を続けてきた。
だが、その足掻きも今宵までだ。
「今年で最後だもの」
今年の、今宵のマツリでイルハの役目は終わる。今宵が期限だ。それがムラ
これ以上は誰も待ってはくれない。誰も。そして、きっと神さえも。
イルハは目を開いた。瞼に思い描けないのであればと、霊峰を実際の眼で真っ直ぐ見つめる。明るい満月に照らし出されて、目の前に聳える霊峰は淡く光って見えた。
タラチネの神は、金色の光を纏わせた美しき男神だったという。霊峰が光って見えるのは、その神が棲む山だからだろうか。何度見ても荘厳な眺めである。
それでも、視界を幻となって過ぎるのは神ではなく、やはりあの人の姿。愛しい愛しいあの人の姿。神のように淡く輝きながら、笑顔でこちらに手を伸ばす、彼の姿。
でも、手を伸ばしても、彼には届かない。決して届かない。もう届くことは、ない。
「どうして」
どうしてこうなってしまったのだろう。この三年の間、何度も繰り返してきた問いだが、答えはとうとう見つけ出せないまま。
「どうして……」
イルハは他には何も望んでいなかった。ただ神のために祈り、そしてその役目を終え、ただの娘に戻った暁には、あの誰よりも優しくて、誰よりも温かなあの人の傍で、穏やかに生きていきたかった。ただ、それだけを望んでいたのに。
どうして。
「───イルハねえさま。そろそろ、お時間です」
「!」
鎮まるどころか、タラチネの神が平らげた神々のように荒ぶるイルハの心に一石投じたのは、幼い小さな声だった。
気が付くと、傍に次代巫女候補の少女の姿があった。イルハを見上げるその瞳は心配そうに揺れている。その後ろに、マツリの礼装を身に着けた男たちの姿もあった。巫女の護衛の者たちである。
「ねえさま?」
不安げに首を傾げる少女に、イルハは優しく声を掛けた。
「大丈夫よ。行きましょう」
イルハは呼吸を整えるように深く息を吸った後、意を決し立ち上がった。イルハの動きに合わせて揺れる巫女の真白い装束が、夜の闇の中でも明るく映えて見えた。
祭壇を降りる時のイルハの静かな足取りに、何ら不自然なところは見られなかった。少なくとも巫女候補の少女と男たちには、だが。
でも、イルハは後ろ髪を引かれる思いで、重い足を引きずるように祭壇を後にした。
巫女を導くように少女が先頭に立ち、その後ろに巫女のイルハ、そして護衛の男たちと続く。一行は緩やかな丘をゆっくりと下っていく。
その一行を、霊峰タラチネはいつもと変わらぬ悠然な姿で見下ろしていた。
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