第7話

一週間はあっという間に過ぎた。早坂の言った通り、あの日の朝のホームルームには、先生からクラスのみんなへ転校の話は伝えられ、クラスの女の子たちは騒然とした。そのあとは、残り少ない時間を惜しむように、早坂は毎日放課後になると友達とどこかへ遊びに行っていた。


たくさんの友達に囲まれて教室を出ていく早坂を、僕が目で追うことはなかった。


そうして、早坂が学校へ来る最後の日。あれから、ちょうど一週間。花壇の水やりの日だ。


早坂にとって、最後の水やりだ。


その日は、爽やかすぎるくらい良く晴れていて、空に描かれた赤から青へのグラデーションが、日の短さを表している。空気はもう肌寒さを感じるほどに冷え、たまに触れる水がとても冷たい。


僕たちはいつも通り中身のない会話をして、いつも通り花に水をやっていく。転校の話も、彼女の悩みも、なにも知らなかったかのように。何も知られていないかのように……。


沈黙が訪れそうになるたびに、僕は意味のない会話を切り出した。もし沈黙が流れようものなら、それに僕の心まで流されてしまいそうだったから。


「……もう、秋の花も終わりだね」


全ての花に水をやり終えたころ、いつかのように、すっかり元気のなくなった花を見て、早坂がそう呟いた。


「ねぇ……葉山。何か花の名前一つでも覚えた?」


「ううん……。全然だよ」


「ダメだなぁ、それじゃあ美化委員失格だってー」


乾いた空気に、ただ響き続けていた二人の乾いた会話。けれどここにきて、早坂が紡いだ言葉には、僅かな湿り気が含まれていたように、僕は感じた。


「じゃあ一つだけ、花の名前教えてあげるよ。紫色のヒラヒラ―ってした花をいっぱいつける花なんだけどさ、」


そう言いながらジョウロを片付け終えた早坂が、僕のほうへ向き直った。夕日を背にした彼女の顔には、淡い笑みがあった。


「リナリアって名前なんだ」


「リナリア……?」


「うん。綺麗な花なんだよ。覚えといて」


「うん……。次はその花を植えるよ」


僕がそう言うと、早坂は噴き出した。


「あは、ごめん。その花咲くの春なんだ」


「ええ……」


肩透かしを食らって、思わず力が抜けた。


そんな僕をひとしきりに笑うと、早坂はカバンを担いで僕へと背を向け歩き出した。振り返ることなく、後ろ手に手がふられる。


「んじゃ、忘れないでね。その花の名前」


適当に、いっそ投げやりにさえ感じる物言いで、そんな言葉を残して、彼女は去っていった。


僕はそのあとを追うことも、別れを告げることもしなかった。


花壇に腰をかけ、星の瞬きが見え始めた紫の空を見上げ、小さな雲の動きをただ目で追いかける。そうすることで、僕は時間が流れていくことをただただ待った。


僕が重い腰を上げたのは、早坂ともう会うことはないだけの、充分な時間がたってからだった。


「遅かったね」


昇降口まで行くと、そこには本を片手に持った僕の彼女がいた。今日も一緒に帰るために、待ってくれていたのだ。


二人並んで、帰路へ着く。あれから、彼女との関係は良好だった。喧嘩も一切していない。


この日の帰り道。彼女の口数は少なかった。その理由が、なんとなくわかってしまうのが辛い。


「今日、遥ちゃん最後だったね……」


「うん……」


「明日の見送りには、行くの?」


「ううん。行かないつもりだよ」


「そ、そうなんだ……」


その声が少し上ずったことに、僕は気付いていないふりをした。


「美奈は行くんでしょ? 仲良かったもんね」


「うん。はじめは、私とはタイプが全然違う子だし、あんまり合わないかなぁって思ってたんだけど、転校してからしばらくして、遥ちゃんのほうから話しかけてきてくれたんだよ。『借りてきてほしい本があるんだけど』って」


「え……?」


 小さな雷が僕の体を貫いた。


「ね。ひどいよね。先生たち本の借り方遥ちゃんに教えてなかったんだよ。教えてあげようかと思ったんだけど、それはいいっていうから、代わりに借りてきてあげたの」


脳が氷の縄で縛られたかのように痺れ、凍っていく。無邪気な表情を見せる彼女に、僕は強い温度差を感じた。


「『一次元のスタンドアロン』って作品。知ってる?」


バリンッと大きな音をたてて、凍り付いた脳が砕けた音がした。


考える力を失った僕には気付かず、彼女は続ける。


「どうして遥ちゃん、あの本が気になったんだろう? 私も読んでみたけど、だいぶ暗い話で、遥ちゃんの性格にあわなさそうなんだけどなぁ……」


僕にはもう、彼女の言葉は届いていなかった。


徐々に戻ってきた思考が、事実を理解していく。


そうか、そうだったのか……。


ああ……どうして僕たちはこんなにも不自由なのだろう。自分以外の世界という檻に捕らわれ、あまつさえ自分で自分を鎖につないでいる。


檻の中でしか生きることが許されないのに、檻の中にも傷をつけてはいけないものばかりのせいで、鎖にも繋がれる。


鎖を切ってしまう獣にあるのは、強さか愚かさか、はたまた残酷さか……僕にはわからない。


けれど、これだけは言える。


檻を壊す獣にあるのは、きっと強さだ。


「ねえ美奈」


「うん?」


「僕は、君が好きだよ」


「うん……」


 彼女は頬を染めてはいなかった。



◆◆◆




昼食を終え、僕は大学内にある図書館へと向かっていた。


今も変わらず読書は好きだ。毎月新刊が出ると必ずチェックするほどだ。今日がまさに新刊が入る日だった。


自動ドアを抜け、ロビー近くにある新刊コーナーへと目を通す。気になる本があれば、即座にスマホにメモしていく。


ふと、とある本が僕の目に入った。


『花言葉・花図鑑』と、シンプルにそう書かれただけの厚めの本。


手にとり、ページをめくっていく。めくれるページから生まれる風が、ある項目で止まる。


それは、金魚のしっぽのような、薄い紫色の花弁をいくつも持つ花。


リナリア。


その花言葉は、『この恋に気付いて』




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さよならのかわりに 那西 崇那 @nanishitakana

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