第21話 エピローグ
エピローグ
赤になる前に黄が危険を知らせ、ブレーキを踏んだ。車では初めて通る道に、ナビはかかせない。このまま順調に進めば、目的地へ辿り着く。
恋人はどんな気分で待っているだろうか。なんせ会うのは一か月ぶりだ。お互いに仕事が忙しく、気持ちに余裕もなくて会うことすらままならなかった。少し髪を切ったと、照れながら送られてきた画像には、いろいろな用途があった。ありがとう。ありがとう。
公園には、待ち人はまだ来ていない。駐車場で車を停めて待っていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。それほど激しくはない。昨日食べたインスタント焼きそばの湯切りの方が激しかった。湯でないものまでシンクに降り注いだ。
ベンチに座るお婆さんは、空を見上げている。小さな鞄にも、おそらくお目当てのものは入っていないだろう。なんせ、今日は雨の予想が十パーセントだった。
後部座席には、白いドット柄の傘がひとつ。偽善めいたものが頭に浮かんでも、なかなかそれを発揮するのは難しい。傘の持ち主と車の持ち主は一致しないからだ。この傘は、今から助手席に座る恋人が忘れていって、預かっていたものである。
遠くに見える鈍色の雲に、傘をひっつかんで外に飛び出した。悩んでいたのも忘れて、身体が動いていた。
「よろしければ、どうぞ」
表情はあまり変わらないものの、雰囲気が警戒と驚きで揺れていた。
「いいのかい?」
「はい、大丈夫です」
なんていったって、恋人は優しい。許してくれるだろう。弁償はするけれど。
「坊や、どうもありがとうねえ」
坊やなんて年ではない。お婆さんは何かのチケットを二枚出すと、どうぞと差し出してきた。
「新聞に挟まっていたのよ」
「これは……?」
「プラネタリウムの割引券よ。あげるわ」
大人が五百円引きになる割引券だ。金額が大きい。
「でも、お婆さんは……?」
にこにこ笑うだけで、あげるの一点張りだ。スーパーでも、クリーニング屋でも、割引券を集めるのが好きらしい。様子を見るに、行きたいわけではなさそうだ。ならば、有り難く頂戴する。新しくできたばかりのプラネタリウムには、とても興味がある。テレビCMも放送され、とても良い声の持ち主が、ナレーションを務めているのだ。
お婆さんは二度三度、頭を下げると、傘を差して出入り口に向かって歩き出した。
見えなくなると、すれ違いに待ち人がようやくやってきた。遅れて五分。許容範囲。走ってくる姿は珍しい。だいたい、彼の方が早いから。
「ごめん、遅れた!」
「ユキさん、汗がすごい」
僕はハンカチを彼に渡し、早く拭くようすすめた。
「どうしたんですか? 嬉しそう」
「嬉しいことが重なってね」
「僕はユキさんに謝らなきゃいけないことが……」
「傘のこと?」
え、と驚くが、すれ違っただろうし、何よりユキさんが嬉しそうだ。だんだん強くなる雨に、まずは車に乗るよう促した。
「いつもと逆だね。晴弥の運転を楽しみにしてきた」
「それが嬉しいことですか?」
「うん。晴弥に会えたことと、晴弥のスーツ姿を見れたこと。あとは、その手に持つものが気になるかな」
「傘のお礼にって、割引券をもらっちゃいました。運命を感じます」
割引券を見せようと距離が縮まり、彼の唇に吸いついた。甘い。久々のキスに雰囲気も甘いけれど、そうじゃなくて、物理で甘い。
「………………これはフルーツキャラメル」
「せ、正解……」
「ラジオでお土産にもらったって言ってましたもんね。いいなあ」
「……ラスト一個だけど」
甘いものに食い意地を張るユキさんは、二度もラストだと言う。僕は遠慮なく口を開いた。
「ソラ色の傘、プレゼントさせて下さい」
アクセルを踏み、ゆっくりと車を発進させた。一度で自動車運転免許を取得した腕前を早く披露したくて仕方なかった。
「そう? なら、せっかくだし買ってもらおうかな。もしかして、初給料?」
「そうです。母さんには、ケーキの食べ放題を奢りました」
「いいね、それも」
僕の気が済まないと、ユキさんはきちんと理解してくれる。ひとり暮らしの手伝いをしにきてくれたときから、言っていたのだ。社会人になって、初めてのデートは絶対に僕が出す、と。ずっとユキさんに奢られっぱなしで、これで引け目を思う存分お返しできる。
「ねえ、晴弥」
「なんでしょうか?」
「セックスしたい」
信号が赤で良かったと思う。停まったから言ったんだろうけれど、道路を走っていたら、激突まっしぐらだ。
「むらむらしちゃったんですか」
「してます、してますよ。というか、昨日の夜からムラムラしてた。今日会って、スーツ姿の晴弥を見て、ぐっときた」
「今日は泊まりですし、夜にしましょうよ。プラネタリウムに行きたいです」
「うーん……」
長いうーん、だ。悩みに悩んで、ユキさんはプラネタリウムに行く決断を下した。ずっと行きたくて仕方なくて、新しくプラネタリウムができると話題になり、しかもCMのナレーションをユキさんが担当、見知らぬお婆さんからの割引券のプレゼント。運命を感じる。今回ばかりは、譲るわけにはいかない。
「来るとき、懐かしのビルの前を通ってきました」
「懐かしい?」
「僕がバイトをしていた本屋の入ったビルです」
「あー、あのときの。結局辞めたもんね」
「縁がなかったんでしょうね」
駐車場で車を停めたとき、今度はユキさんが距離を縮めてきた。ちょっと照れつつも、目を瞑って待っていると、鼻におかしな感触が当たる。
「…………いたい。鼻、噛んだ」
「晴弥も我慢すればいいよ」
なんて子供っぽい人なんだ。可愛くて全世界の人に、この人は僕の彼氏なんだと自慢してやりたい。髪を切って、大人っぽくなるかと思いきや見た目も少年みたいになった気がする。
新しくできた施設のわりには人が少ない。見回していると、小柄な男性と目が合った。黒縁眼鏡が親近感に似たものを感じる。
「いらっしゃいませ」
「この割引券は使えますか?」
「はい、大丈夫ですよ」
よく見もしないで返事をしたところをみると、何度も券を見ているのかもしれない。ロビーに案内され、席が数種類あると説明を受ける。楽しそうに話す店員を見ていると、こちらまで嬉しくなる。
「席、どうします?」
これまた横で上機嫌に聞いていたユキさんは、迷わずカップル席で、ととっても良い声で伝えた。
「はい、カップル席でございますね」
寝転がって寝られるシートがある。店員の視線が少し気になったけれど、彼は気にする素振りは見せなかった。口で伝えるのが恥ずかしかったので、シートを指差した。
チケットを購入し行こうと促すと、背後で「みさきさん」と聞こえ、同時に振り向いた。長身の男性が紙袋を持ち、先ほどの黒縁眼鏡の男性に渡している。
「わざわざお弁当作ってきてくれたの?」
「ああ、人手不足でラストまで仕事だって言うから」
「どうもありがとう」
みさきと呼ばれた男性は恥ずかしそうに、紙袋を受け取った。僕と目が合うと、照れた笑みを見せて裏口に入ってしまった。
男性同士でカップル席を頼むのは、店員として対応の慣れがあるだろうが、彼の世界では、僕が見えているものと似通ったものがあるのかもしれない。長身の男性は愛おしそうに、いなくなった扉を見つめている。
「行こうか」
負けじとユキさんも愛おしげな目で見つめてくるものだから、暗い雰囲気の中、腕を組んでみた。
「積極的だなあ」
「たまにはいいかと思って」
「夜が楽しみだね」
「あ、そうなります? 僕もちょっと楽しみだけど」
「ちょっと?」
「…………かなり」
カップルシートに横になり、いちゃいちゃしていると音楽が流れた。雰囲気に身を任せていると、何か月もの間、何度も行きたいと駄々をこねていたのにもかかわらず、睡魔が襲ってきた。ユキさんもリズムに乗せて腕を叩くから、余計に眠気には勝てなかった。
身体を揺すられ、目を開けると照明が一等星以上に輝いている。やってしまった。それに気づいたのは、ユキさんがずっと含み笑いをしているからだ。そしてユキさんの笑顔は一等星や照明以上の輝きだ。
「見たかったのに……」
「いいじゃない。仕事で疲れていたんだよ。俺としては、隣で寝てもらった方が安心感があるけどね」
スーツ姿でいるのは、仕事帰りのデートだったためだ。得意な英語を生かし、塾の講師をしている僕は、忙しく家と職場を行き来する日々である。就職に困っていた僕にアドバイスをしてくれたのは、姉さんとユキさんだった。英語を生かした職業が面白いかもしれないと、せっかくだから就職までの道中も楽しめと支えてくれた。
「星きれいでした?」
「あんまり見てなかった。俺も寝てたし」
「来た意味が……」
「また来ればいいよ。ご飯はどうする?」
「家がいいなあ。ゆっくりしたい」
「じゃあ買って帰ろうか」
ふらつく足下に情けをかけてもらい、エスコートを有り難く受けた。ロビーで先ほどの男性と目が合い、お互いに微笑んだ。優しい目の色をして、きっとあんな瞳になるまでにはとてつもない人生を歩んできたに違いないと、知りもせずに納得した。
おもいっきりジャンクフードが食べたくなり、ふたりでハワイからやってきたというハンバーガーをテイクアウトした。ユキさんはアボカドバーガー、僕はパインバーガー。いわゆる、そういう目で見てくるユキさんとシェアしようと思う。何事もチャレンジが大事だ。就活でユキさんにも教えられた。
「フレンチフライも食べる?」
「食べます! それと、モミティも」
「へえ、モミってハワイ語で真珠なんだ。俺は家にあるコーヒーにするよ」
直訳すると真珠のお茶だが、真珠に見立てたタピオカが入っているお茶である。前に過ごしたクリスマス以来、ユキさんはタピオカを口にしない。爬虫類や両生類の卵を連想してしまうようだ。テレビでカエルの卵を観たとき、ユキさんが「タピオカ……」と呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。屈しないと言っていた頃が懐かしい。
帰りも僕の運転で帰り、車内のハンバーガーの匂いで空腹に耐えながら、ユキさんの家に着いた。
「ただいま。ソラ、こんばんは」
お出迎えしてくれたソラは、まとわりつくジャンクフードの匂いを消すように、身体を擦り付けてくる。そしてすぐに餌のある戸棚の前に行き、ひもじいと訴えてくる。
「晴弥、騙されちゃダメだよ。あげてるから」
「あらら、残念でした。おやつは?」
「それならいいよ。ササミがいいかな」
美しい毛並みを撫で、おやつのある棚を開けると、これがいいと口に加えて自ら引っ張り出した。
「すごい。お気に入りだからかな」
ユキさんがコーヒーを入れている間、ソラにここぞとばかりにササミにかぶりつく。僕が来ると膝の上に乗ったりと、出会った頃に比べるとかなり甘えてくれるようになった。僕がいないときはユキさんに甘えるかというと、そうではないらしい。つれない態度も可愛いと言うが、少し悔しそうだ。
ソラはおやつをもらうと満足そうに毛繕いをし、キャットタワーの定位置に寝転んだ。次は僕たちのちょっと遅い夕食だ。
「パイナップルを焼いて挟むってどういうことなの……?」
「火を通すと甘みが倍増される、または肉が柔らかくなる……かな」
「いや味の問題だよ。ピザにパイナップルが入ってたらどう思う?」
「食べます」
「味の好みって怖いね。今からお互いの嗜好を理解しておかないと」
「ふたりで住んだときにぶつかったりしますもんね」
アボカドバーガーを差し出され、小さめの口を大きく開いた。パンに具材が収まりきっておらず、食べるのに時間がかかりそうだ。
パインバーガーをどうぞ、と向けると、僕とハンバーガーを何度か見比べ、覚悟を決めた顔でかじった。遠慮しすぎなかじり方だ。この前ケーキをシェアしたときの一口は大きかったのに。
「最近、食レポのお仕事もこなす、ユキさんからコメントをどうぞ」
「うーん……不思議な味?」
「あとはー?」
「ハンバーグが柔らかくてジューシー。具材一つ一つに厚みがあり、トマトの甘みが肉と合う」
「すごい。パイナップルには反応なしだ」
「苦手なものはあえて避けてコメントをする。学んだよ」
「パイナップルについてコメントを求められたらどうするんですか?」
「…………不思議な味」
それが今の限界なのだろう。ユキさんに料理を作るときは、フルーツを混ぜないようにすべきと学んだ。
ひとり暮らしをして、たまにインスタント麺を食べるときもあるけれど、できるだけ料理を作っている。初めてユキさんの手料理を食べさせてもらったとき、自分の腕前を披露するには勇気が必要だった。ラジオでは明かさなかった料理の腕前は、僕のユキフォルダには入っていない情報だ。テーブルに並ぶ数品に、自信がなくなりながら美味しく全部頂いた。
フレンチフライもしっかり平らげ、片付けはユキさんが担当してくれた。その間に、僕はめいっぱいソラと遊ぶ。食べ終わった頃合いを見計らい、おもちゃを咥えてくるものだから、やっぱりソラは賢い。
「ソラ、今日一緒に寝る?」
このときのユキさんの顔は見物だった。爽やかさが塵ほどもなくなり、きれいな顔からカラフルな色が消え去った。無、である。
「それは譲歩できない」
「冗談です」
ソラの誕生日に僕がプレゼントしたベッドは、ユキさんの部屋にある。ちゃんと使ってくれているらしい。
「新しいおもちゃを買ったんだ」
「良かったね、ソラ」
「え?」
「ん?」
どういう意味だろう、と思ったのも束の間で、首から上が熱くなる。
「この流れで……信じられない」
「晴弥へのおもちゃだよ。やだなあ」
澄みきった空みたいな顔で言われても。
「今夜は楽しもうね」
ガラス越しの淡いユキ 不来方しい @kozukatashii
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