第20話 ふたりの結末
何度も鳴らされるチャイムの音で、目が覚めた。母は出ない。こっそりドアを開けると、部屋が冷気を吸い込み、熱が奪われていく。時刻はとっくに昼を過ぎている。朝方に帰ってきたとはいえ、寝過ぎだ。
謝罪の言葉を連呼する声は、聞いたことのない声だ。急いで着替え玄関に行くと、見慣れない男性が二人、父に向かって頭を下げている。僕に気づくと、申し訳なさそうに顔をしかめた。
「志摩晴弥さんですか?」
「はい……そうですけど…………」
渡された名刺にぎょっとした。良く知る会社と、縦社会に相応しく、僕なんか手が届かないであろう肩書き。
「この度は、うちの安井がとんでもない無礼を……」
父にしていた以上に、深々と頭を下げる。安井。久しぶりに聞く名前だ。僕のアルバイト先の店長の名で、内容を語られずともフラッシュバックした。
つらつらと難しい言葉を並べられても、でこぼこした取り扱いの難しい語彙はピンとこない。
「もっと、分かりやすくお願いします」
父の眉間の皺がこれでもかと深くなる。これ以上溝を作らないために、男性たちは父にも分かるように説明を入れる。
「つまり、僕にアルバイトに戻ってきてほしいと?」
神妙な顔つきで、頷いた。
「……揉めた上司の元で、二度と働けませんから」
「安井は、退職しました。責任を取りたいと、本人から申し出がありました」
「え」
これには驚愕した。
他の社員たちからも話を聞き、もう一度僕と話を聞きたいと家までやってきたと説明があった。それに関しては丁重にお断りをした。父の前で辞めた原因を復唱できるほど、僕の心は強くない。
「わざわざ来て頂いてお気持ちは嬉しいのですが、戻る気はありません」
男性たちは顔を見合わせ、鞄から封筒を取り出して僕に差し出した。
「せめて、ほんの気持ちです」
「謝礼、ですか」
父のため息が聞こえる。なんと言われようと、どうすべきか僕には決まっていた。
「受け取ることはできません。簡単に受け取ってしまったら、僕が受けた仕打ちが無かったことになります。それは許せないのです」
「そ、そうですか……」
「こちらもまだ話し合うべき人がおりますので、今日はどうぞお帰り下さい」
腰を曲げると、男性たちも深々とお辞儀をする。何度頭を下げられただろうか。形だけの形式でも、心のこもったものでも、慣れない仕草に大人の仲間入りをしたようで、なんだかそわそわする。
見えなくなるまで見送ると、途端に気まずい雰囲気が流れた。父と二人きりだ。同じ気持ちなのか、頭をかいたり腕を組んだり忙しい。
「…………昼食は食えるか?」
「…………うん」
「…………作る」
作る。作ると言ったか、今。作れるのか。
玄関には母の靴がない。買い物に行っているのかもしれない。正真正銘、二人きりの時間を過ごさなければならない。部屋に戻るのも落ち着かず、リビングのソファーに座る。が、それも違うと心臓が音を鳴らし、渋々キッチンに入った。
「…………手伝うよ」
雑に散らばる野菜をトレーに乗せ、残りのキャベツや豚肉を一口大に切っていく。父は焼きそばの袋をじっと見ては、まずは野菜から炒めようとフライパンに油を広げた。
「……………………」
「……………………」
肉の焼ける匂いと、野菜の水分が油で跳ねる音が静寂をかき消してくれた。油も使わないホットミルクを作っていなくて心底良かった。ホットミルクは好きだけれど、きっと音を消してくれない。
ソースを入れると、香ばしい匂いが空腹を刺激する。朝は食べずに寝て、今日は初めての食事となる。
三枚の皿に分けると、焦げまくった焼きそばの出来上がりだ。母に帰ってほしかったけれど、あいにくまだ買い物の途中だった。
「先に食べていよう」
逃げ道を失ってしまった。父の斜め前が僕の席で、おとなしく座るしかない。まだ湯気の出る皿を見て、朝食に出た野菜定食を思い出した。
箸が動かなくなった。炒め方が、野菜定食のときと似ているのだ。焦げついた野菜や具合が、母の炒め方とは異なる。ここ最近の朝食もおかしかった。焦げすぎた食パンも出たときがあったし、母の体調が悪いんじゃないのかと心配していた。
次々と目まぐるしく変わる朝食の映像に、あってほしくないのとなぜだという食い違いが生じていて、曇る眼鏡にすら気がつかなかった。
もしかして。もしかして。もしかして。
「どうした? 焼きそばは好きだろう?」
「あっうん……好きだよ……」
焼きそばは給食に出ると嬉しかったランキングで第三位には入る。日曜日だと母にせがみ、作ってもらったこともある。でもそれは子供の頃の話で、今は焼きうどんの方が好みだ。話さなくなってから、僕の好みを知る術は父はなかった。
何か、何でもいいから話さないと。
「あ……のさ、ユキさんが、ありがとう、だって」
父は顔を上げた。何か考えあぐねているようだが、何を考えているのか分からない。普段からあまり笑わず、真顔か怒るかの二種類しかほぼ見たことがなかった。
「………………ああ」
一度は僕を見たものの、すぐに目線は焼きそばに向いた。それでいい。いきなりフレンドリーになられたって、僕だって戸惑うし許せない。子供の頃に浴びせられた言葉は、今もなお呪いとして心を蝕んでいる。
きっと、父もゲイの息子とどう接したらいいか分からないでいる。だからこそ、このくらいの距離感がちょうどいい。
世の中のお父さんが夢見るような、息子とキャッチボールをしたり、ゲームをしたり、キャンプをしたり。そんな夢の浮橋は志摩家に起こることはない。一般的な家族という枠組みからは外れているけれど、枠通りの生き方なら僕はごめんだ。
母が帰ってきた。玄関まで出迎えると、お腹が空いたわ、と匂いにはそぐっていても空気にはそぐわない発言だ。言いたいことがあっても、天使の微笑みを見ていたらどうでもよくなった。
午後は、ひとりで買い物をしに外に出る。相変わらず父はソファーで新聞を読んでいるが、行ってきますと声をかける勇気はまだない。
クリスマスが終わり、外は数日後の元旦に切り替わっている。クリスマスより、まだ元旦の方が受け入れられるものがある。クリスマスは、今まで恋人ができないと思い込んでいた後ろ向きの愚かさと、家族の有り難みに直視できないでいた居心地が二重になり、少し苦手意識があった。元旦は、餅を食べて勉強して、寝ていればあっという間に過ぎる。
──ちょっと話せないか?
ユキさんじゃない。かつて友達だった人だ。既読が彼に伝わっているだろう。僕は、ぶっきらぼうに返信した。
──何?
──渡したいものがある。
──何を?
──お前の家の最寄り駅まで行くよ。
来いよ、ではなく、行くよ。雷太君にしては珍しい。来るのであれば、待っているしかない。
駅のホームのベンチに座っていると、元友人が電車を降りてきた。僕に気づき、居心地が悪そうに片手を上げる。僕も、ベンチから立った。
「久しぶり」
「………………うん」
「元気だったか?」
「普通だよ」
嘘だ。居心地が悪いのは僕の方だ。
「さっそくだけど、これ」
鞄から取り出した封筒を僕に渡し、中身を確認するように言う。
「ちょっと待って……、」
身近で支えてくれる人以外で、一番お世話になっているお顔が垣間見える。むしろ日本の支え。枚数は5枚。アルバイトをしていた経験から、これを手に入れるためにどれだけ働かなければならないのか、身を持って理解している。
「バイトして手に入れたもんだから。お前の記事を売った分だ」
後付けの理由は、僕に対してやましい気持ちがあるからなのか。
「あとはお前が納得できる金額を言ってくれ。ちゃんと稼いで渡す」
「いいよ……もう」
「俺が納得できない」
「出た記事は消せないから」
これがすべてだ。書いたものは消せても、浴びせられた言葉は消えない。世に出た記事も、一生消えない。
「失ったものは元通りにはならないけど、気持ちは伝わった」
証として、封筒は受け取ることにした。彼の気も落ち着かないだろうし、本当の意味で最後にしたかった。
呆気ない別れに涙も出ない。見送りもせず、僕はさっさとホームを出た。
遅い足取りで帰宅すると、目ざとく母はビニール袋に気づいた。
「何を買ってきたの?」
ナタデココ入りのゼリー二つを購入し、片方を母にあげた。天使の微笑みはプライスレス。
夜まで勉強をして過ごし、刻々とやってくる時間を無駄のないものにした。ユキさんも今、戦っていると思うと、自分なりのやり方で戦うしかない。僕は大学生で、ユキさんは芸能人。あちらの領域は、任せるしかない。
──ラジオ、聴いてね。
本番の三十分前、ユキさんからメールが届いた。
──聴きます。絶対に。
数か月前とは違い、今は連絡先も交換した中なのに、あの頃と同じくどうしたら想いが届くのだろうと交錯している。手を伸ばせば届く距離でも、伝え方が難しい。
今日はベッドの中ではなく、机に向かい、月明かりの中でラジオをつけた。
──こんばんは。DJユキです。今日は最初に、皆さんにお伝えしなければならないことがあります。
緊張しているときの声だった。いつものBGMがない。
──週刊誌の件で、ファンの方だけではなく、仕事先も含め、多大なご迷惑をおかけしました。
──私自身、初めてのことで……正直に申しますと、戸惑いが大きく、直前まで何を話そうか悩んでおりました。
──戸惑いの内容というのは、芸能人である宿命なのかもしれませんが、プライベートを暴かれてしまったことと、お相手の方の通う大学や勤め先まで、記者が駆けつけてしまったことです。とても心を痛めています。マスコミの皆さんは、お相手の近所を張り込んだり、付け回すような行為はお止め下さい。異変がありましたら、すぐに警察に言うよう伝えてあります。
ちくりとした表現をしながら、あっさりと認めたユキさんに拍子抜けした。すとんと肩に背負っていた呪縛が羽が生えたようで、ふわりと軽くなった。
──男女の恋愛だけが恋愛と呼ぶとは思っておりません。記事に書かれている『禁断の恋』をしているつもりもなく、ただ、好きになった人が男性だっただけです。わりと、堂々と出掛けたりしていましたし。
はっきり言い過ぎなんじゃないかと、聞いている僕がはらはらする。
──記事の内容に関してもう一つ。お相手は未成年だとほのめかしてる箇所がありましたが、ここは訂正して下さい。成人を迎えています。
偽りのない事実で、ユキさんの口調も些か強くなった。実際、僕はお酒を飲める年齢だ。
──ファンの皆様には、暖かく見守って頂けると嬉しく思います。ここからは、いつものラジオに戻るね。
念願だったタピオカを食べた、と嬉々として語るユキさん。これが彼の土俵なのだ。自分のことも含まれていても、ファンとしても暖かく見守りたい。
明日になっていれば、きっとことが大きく持ち上げられているだろう。マスコミも、ファンも、そしてどちらにも属さない野次馬たちが、みんな僕らの恋愛を腹底から出した根性を発揮し、ここぞとばかりに注視する。本当の意味での戦いは、これから始まる。
月明かりを見ても、眠気はやってこなくて、何か飲もうとリビングに降りた。明かりがついている。
「母さん……」
「初めてラジオを聴いたわ」
テーブルには長年使っている母の携帯端末がある。文明の利器とはこのことだ。生活を支える小さな力持ち。
「母さんに、何かできることはある?」
「どうしてそんな顔をするの……?」
「晴弥が苦しんでいるとき、いつも晴弥に何もしてあげられていないから」
「そんなこと……ないけど。例えば?」
「晴弥が男性が好きだと知ったとき、母さんはすぐに晴弥の味方になれなかった」
「それは……、」
事実だ。けれど、母さんの立場なら当然だ。父と息子との間に挟まれれば、一瞬の判断で息子側に立てるわけがない。
「気にも留めてなかったのに」
「母さんにとっては人生の岐路だった。晴弥にできることを考えても、いい人と巡り会えますようにって、祈ることしかできなかったから」
「そのおかげで、ユキさんと出会えたのかもしれないね。母さんが祈っていてくれたから」
母さんには笑顔が似合う。泣き顔は見たくない。
「今回の件で、自分の駄目なところも分かったんだ。依存や恋に突っ走るのはよくない。今できることを精一杯やるのが、ユキさんとのこれからに繋がる。大学は成績トップで卒業して、社会人になったら一人暮らしもする。料理もいっぱい覚えて、家事全般しっかりできるようになる。……まだユキさんに伝えてないけど」
母さんなりの苦しみがあったのに、僕は自分の不幸ばかりに目を向けていた。成績トップで卒業も、母から自慢の息子だと思ってもらえるように自身に課した目標だ。
「母さんはもう自分を許してあげて。苦しむ必要なんてないよ。僕も、必要以上に自分を縛ろうとしないから。子供の頃に言われた言葉は消えないけど……前を向いて行こうって決めた」
僕も母さんも涙ぐむ中、早急に退散した。ドアを閉めたのと同時に涙が流れ、母には見せたくなかった。
半透明なガラス越しに見える空は、都会では珍しいオリオン座が見える。正しく三つ並び、変わることのない規則性がある。いつまでもふたりで、自然でも人工的な星でも、星と同じく隣に寄り添い合いたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます