はたふた子月

 はじめは、そうと分からなかった。弟は無口で、家族にも滅多に口を開かない。聞けば中学でも同じような態度らしい。物静かで、大人しい、風通しのいい窓際の席が似合うような、思春期の少年。それが私の弟だ。

 異変に気がついたのは、弟の担任が最初だった。

 “あの……◯◯君、もしかして、病気なんじゃないでしょうか”

 そんな電話を貰ったときには、私と両親は互いに顔を合わせて目を丸くしたものだ。学校に迎えに行くか、先生と一緒に弟が家に戻るかという話になり、両親は迎えに行くことを選んだ。私も一緒に着いて行った。

 懐かしい中学校の校舎は、私を異物のように迎え入れた。数年前には私も同じこの学校の生徒だったはずが、今では何一つその時の感覚を思い出せない。目線の高さが少し違うだけで、目に映る物の輪郭が全てずれているようだった。寂しさを感じたが、優越の方が大きかった。私は今ここにいる大多数より大人なのだと思った。

 弟は保健室にいた。保健室の先生と担任の先生に挟まれるようにして、弟はベットに腰掛けていた。そして弟の他にも、弟の友人が数名いた。彼らは私達を見るとぺこりと頭を下げ、弟に声をかけその場を去っていった。

 まず、父が弟に呼びかけた。弟はいつも通りに父を見たが、少し目を合わせただけですぐ逸らしてしまった。両親には、それで十分らしかった。二人は顔を強張らせ、母は口元に手を当てて、弟をじっと見つめた。「そんな……」母の声がわざとらしく空気を打った。

 弟はいつものすまし顔でどこか遠くを見ていた。

「ねえ、ほんとに聞こえないの?」

 自分の声はどこか遠くに感じた。弟は私を一瞬見ると、同じように視線を逸らした。しかしさっきより、どこか面倒臭そうな態度だった。そこに姉への敬意は一片も感じられない。

「おたんこなーす、ばーか、ドアホー」

 私は真実を確かめようと罵りを口にした。父に小声で「やめなさい」と咎められたが、それよりも強く私に反発を示してくるものがあった。弟だ。弟は私をキッと睨んだ。

「聞こえてんじゃん」

 弟はむっとした様子になって、鞄からノートとペンを取り出すと、「口の動きで分かる」と書いて、私に見せた。

 耐え切れなくなったように、母が声を上げて弟を抱きしめた。母に抱きしめられている弟と目が合う。弟は戸惑って、途方に暮れたような顔をしていた。

 父は先生たちと話していた。特に担任の先生から詳しい話を聞いているらしい。その間、私は暇だった。本当に聞こえないのだろうか。私はまた「ばーか」と繰り返したが、今度は誰にも咎められなかった。


 その日のうちに病院に行った。学校には後日連絡することになって、病院へは家族全員で向かった。

 やけに時間がかかったような気がする。はじめは病院内を探索して時間を潰していた私だが、それに飽きると、父たちのいる待合室に戻った。しかしそこには誰も居なかった。キョロキョロとあたりを見回していると、通りすがった看護師さんが「ご家族なら、診察室へ呼ばれましたよ」と教えてくれた。「こっちですよ」彼女は私を案内してくれようとしたが、私は慌ててそれを断った。長ったらしい話を聞くのは嫌だった。

 結局、私はその場で待つことにして、置いてあった雑誌などを読んで時間を潰した。流し読みだが、三冊も読んでしまった。新しく雑誌を手に取ろうとしたとき、父たちが戻ってきた。

「お前、どこに行ってたんだ」

 父が言った。

「だって、長かったんだもん。で、どうだったの」

 父は苦々しい表情をした。

「……わからん。治るかどうかも……」

 見れば母は、学校の保健室に居た時よりいっそう悲壮な顔をしていた。その傍らに立つ弟の表情と比べると酷い違いだ。当事者である弟が一番、のんきそうな顔をしている。それは私も同じだった。

 もう一度どういう病気かを問えば、医者から貰った書類をそっくりそのまま手渡された。何十枚はありそうなその分厚さに私は即座に降参して、ろくに読まないまま父に返した。

 帰りの車の中で弟は窓の外ばかり見ていた。いつもそうだ。家でも、おそらく学校でも、弟は景色を見るのが好きだ。遠い青色に、弟はいったい何を映しているのだろう。鳥になりたい、なんてことでも考えているのだろうか。

 私は母に「今日の夕食は?」と尋ねたが、母は俯いて黙ったまま答えなかった。


 その日から、我が家から音が消えた。

 弟のためにやりとりは全て紙で行われた。至るところにメモ用紙とペンが置かれ、一つだけだったホワイトボードは五つに増えた。母は紙とペンを携帯し、まれに私に対しても文字で言葉を話すようになった。私が「お母さん、聞こえるよ」と言うと、母は「……ああ、そうだったわね」と酷く掠れた声で言った。

 両親は弟に携帯電話を持たせたが、それは効果が薄かった。弟はまったくそれを携帯しないのだ。文字盤を押すほうがはるかに便利だと思うのに、弟はそれを嫌うようにペンを握った。私が中学生の頃には、携帯に夢中だったのに。


「ねえ、なんで喋らないのよ」

 ある時、私は我慢できなくなってそう聞いた。なにも声まで失ったわけではあるまい。

 弟はいつものように紙とペンを持ち「聞こえないから」とだけ書いた。

「それは知ってるわよ。でも、喋れるんでしょ」

 こくん、と弟は頷く。

 不思議なことではあるが、弟は私の言いたいことだけは紙に書かなくとも理解できるらしい。奇妙なことだが、なんだか私にとって不本意な理由が隠れている気がして、そのことについては触れなかった。

 何度かやりとりを繰り返して、私はやっとこの言葉の足りない弟が、単に恥ずかしいからという理由で喋らなかったことを理解した。変なイントネーションやトーンで喋るのが嫌らしい。自分の声も聞こえない、というのは盲点で、私は驚いた。

「でも、喋れるんでしょ」

「…………」

 弟はジェスチャーも、手も、何も動かさなかった。

「喋んなよ。不便じゃない。あんたが喋んないせいで、この家、すっかりお化け屋敷だわ」

 そう言うと、弟の方も何か思うところがあったのか、唇をほんの少し開いたまま、静止した。

「お姉ちゃんって言ってみ」

 睨まれた。

「台詞を用意してあげたの。いきなりしゃべれって言われても、わかんないでしょ。ほら」

「…………ぉ……」

「うん?」

「お、ねえ、ちゃん……」

 私はしばらく間をおいた後、「プッ」と吹き出してしまった。弟の声は情けないくらいに震えていたし、ひっくり返ってもいた。私はしばらく腹を抱えて笑った。

 弟は顔を真赤にして、目を怒らせて私を睨んた。私は切れ切れに謝罪したが、弟は口を大きく動かして、自分の部屋に戻っていった。

 その口真似は私でも理解できた。

 “しね!”

 私は弟の声を思い出して、もう一度笑った。

 翌日、私は弟に謝ったが、許してはくれなかった。怒りに目を燃えたぎらせた後は、私を哀れむように見た。それにカチンときて、思わず「なによ」と尋ねたが、弟は「別に」と書かれた紙を私に寄越すだけだった。私が読み終えると、弟はそれをポケットにしまった。使い回しているらしい。



 弟は普通の高校には進学しなかった。代わりに、通信教育を始めた。障害者のための学校を両親が見つけてきたが、弟はあまり乗り気ではなかった。私は身内が障害者になるという事実に今更ながら愕然としてしまって、しばらく弟のことを変な目で見ていた。弟もそれをわかっていたのか、その時期は一層私を見る目が冷たかった。


 季節が過ぎ、弟の耳が聞こえなくなってから数年が過ぎた。弟は通信教育で高校の勉強を終え、資格まで取った。そして私には分からない分野で働くようになった。仕事は主にパソコンでのやりとりだけなので、耳が聞こえなくとも問題はないらしい。

 両親は手話を覚え、弟とそれで会話していた。私だけ手話ができなかった。必要ないと思っていた。

 私はいくつもの仕事を転々としていた。いわゆる派遣社員だ。たまに遠くまで行って家を空けることもあったので、弟の関わりは一層希薄なものになった。





 あるとき、私が数カ月ぶりに家に帰ると、母がすっかり手話をマスターしていて驚いた。しかしそれより驚いたことは、「おかえりなさい」と、声を出して私を出迎えてくれたことだ。

 弟の耳が聞こえなくなってからというもの、母はこの世の音すべてを嫌悪するように、すっかり耳を塞いでいたのに。

 母は微笑んだ。

「聞こえなくても、話しかけることに意味があるんですって。口の動きや表情で伝わるものもあるって、先生がそう仰ったの」

「……手話教室の先生?」

「そうよ」

 最後に見た時と、母は随分様子が違っていた。とても明るくなった。頬もふっくらとして、昔以上に快活としている。

 私は「素敵な先生だね」とだけ返した。「だったら私も習ってみようかな」

 そう言ったとき、ちょうど二階から弟が降りてきた。弟は私を見るとわずかに眉根を寄せた。聞こえていたのかもしれない。その表情は、私をばかにするときの顔によく似ていた。

「今、私に出来るわけないって思ったでしょ」

「…………」

 弟はその質問に答えないまま、リビングの中に入ってしまった。



 家では弟と居合わせることが多かったが、私達はほとんど会話をしなかった。ただお互い、縄張りを意識する野生動物のように互いを視界に映して、警告めいた視線を送った。相手が見てきて、私が睨み返す。それ以降の会話はない。

 しかしそれも時間が経つと変わっていった。弟は一切私を見なくなった。私が弟を睨んで、弟がやっとこちらを見る。しかしすぐに興味を失ったように逸らされる。私はその生意気な態度を問い詰めたかったが、無遠慮に弟に向かって食って掛かるのには、私達の間には膨大な時間が横たわっていた。

 何回目かの休日、母はリビングで寛ぐ私達二人を見つけると、唐突に「ね、出かけない?」と聞いてきた。

「どこに?」

 尋ねると、母は弟を見て、「あのお店」と言った。どうやら二人だけで通じる秘密のお店があるらしい。私が尚も「どこよ」と聞くと、母はいたずらっ子のように笑って「着いてあらのお楽しみよ」と言った。

 私も弟も断る理由はなかったので、支度をして、母と共に家を出た。母と弟は道中、楽しそうに会話していた。手話は目を多く使うので、歩きながらの会話には不向きだ。なので道中の先導は私の役目だった。私は二人を後ろに引き連れて、母の指示に従って右へ左へと曲がった。

 着いたのは一軒の喫茶店だった。個人店のようだが、なかなか繁盛している。落ち着いた雰囲気は人を穏やかな気持ちにさせる。

 二人は慣れた様子で店へ入っていく。窓際の四人席に座った。メニュー表はテーブルの脇に立てかけてあったので、それを手に取る。

「おすすめはね、クリームソーダよ」

 母が言った。

「ふうん」

「とっても美味しいのよ。頼んでみたら?」

「……やめとく。もうちょっと他のも見させてよ」

 メニューを見ていると、しかし何故だが店員が注文をとりにやって来た。

「ちょっと」

 小声で声を上げると、母は「大丈夫よ」と笑った。それから「クリームソーダを一つ」と頼んだ。

「食べないわよ」

「あなたのじゃないわよ」

 弟のほうを見る。

 弟は相変わらず窓の外に目を向けていた。

「……ふうん」

 私はもう一度メニュー表に目を落とした。

 クリームソーダがやって来ても、注文は決まらなかった。そのうち、母が「あら」と言って、知り合いを見つけたと言って席を立った。店の奥の方を見ると、私にも見覚えのあるご婦人たちがお茶をしていた。弟はクリームソーダを食べながら、私はメニュー表を見ながら母を見送った。

 考えても決まらなかったので、私は結局食べることを諦めた。

 何気なく目を向けた先は、窓の向こうの景色だった。

 鏡に反射して映る弟の影は、熱心にクリームソーダを食べている。

「そんなもんが好きだなんて、あんたってガキねえ」

 弟は私をちらりと見るだけで、何も取り合う様子はなかった。

 私はしばらく窓の外に目を向けて雑踏を眺めていたが、ふと弟の様子が気になって、目をそちらに向けた。

 何かこだわりでもあるらしいのか、さくらんぼは緑の海のそこに沈めたまま、バニラアイスだけを食べている。

 気泡だな、と思った。

 弟にとって、私は気泡だ。空気に触れるとなくなってしまう、目に映る虚無。弟が私を見てくれない限り、私は弟に認識されることはない。私の言葉を、聞いてくれることはない。

 しばらく無言の時間が過ぎた。

 弟がとうとうさくらんぼを食べるときになってやっと、母が戻ってきた。「ごめんなさいねえ」

「あら、頼まなかったの?」

「……お腹、空いてないから」

「そう? 遠慮しないでも良かったのに」

 家族なんだもの、するわけない。

 そう思ったが、目の前に映る一人の“家族”を目に映して、もう同じことは思えなかった。

 母と弟は手話で話し始めた。母は所々を声に出しているが、それだけで会話の全容がつかめるほど私の頭は利口ではない。話が終わるまで、私は窓の外に目を向けて過ごした。いつも弟がしているように。しかし私には、これのいったいどこが楽しいのか分からない。

 弟の目はいつも遠くを見ている。高い空、飛んで行く鳥、季節の色……。そんな時の弟の目は、まるで見ている色を写しとってしまったみたいに美しく澄んでいて、それはまれに何物も映さない透明な水のようだった。


 弟はもう、私に話しかけてくれることはないのだろうか。


 ふと、そんなことを思った。

 口数の少ない弟だった。しかし決して喋らないというわけではなかった。「ねえ」という、どこか不機嫌な、静かな声で声をかけられるのは嫌いではなかった。私はそれに大抵「なによ」と返し、そこから喧嘩らしいものが始まったが、そういうやりとりも私は嫌いではなかったのだ。

 弟に声をかけようとして、躊躇う。私がこうして声を出そうとすることが、口が利けるというということが、なんだか大それた奇跡のように感じられた。音が世界からなくなると、同時に言葉まで消えてしまうのか――。

 私はその考えに首を振った。違う。形が変わっただけだ。一つの形が失われただけだ。弟の言葉は、まだ、なくなってはいない。


「そろそろ帰りましょうか」

 母が言った。

 外はもう夕日が垂れこめていた。

 結局、私と弟は一言も口を利かなかった。



 時は何事も無く過ぎていく。季節が一つだけ巡って、私はまた長く家を出ていかなければならなくなった。今日はその最後の休日だった。

 リビングに向かうと、弟がいつもの場所で本を読んでいた。こうして見るとだらだらしているだけのように思えるが、実際、弟はよく働いている。何をやっているのかは未だに知らなかったが、この先、もし一人で生きていくのにしても、弟ならうまくやっていけるだろう。


「ねえ」

 久しぶりに、弟に声をかけた。弟は私をちらりと見て、また読書の続きに戻った。

「散歩しよう」

 麗らかな昼下がり、出かけるにはもってこいの時間と気候だ。弟は少し考えこんでから、ペンを手に取り、慣れた様子でさらさらと文字を書いた。「一人で行けば」短時間で書いたくせに、見事な達筆ぶりだ。

「一人じゃ、つまんないもん」

「子供かよ」

「そーだよ。子供だよ。あんたよりもずっと……」

 ページのめくれる音がする。弟がペンを取るのを待たず、私は言った。

「あんたの好きな、クリームソーダ、おごってあげる」

 これが私の出せる最大の譲歩だった。

 弟は片眉をあげて、訝しむように私を見た。

 ペンを取った。「あの店以外はうけつけない」

 “あの店”という、理不尽な値段設定の店を指定されたのにも書かわらず、私の胸中には安堵の溜息が広がっていた。良かった――私は慌てて、眼の奥に溜まった熱を逃がすように首を振った。

「いいわよ。上等じゃない。さ、そうと決まれば、さっさと行くわよ。日が沈んだら、せっかくの良い日和が台なしだからね」

 弟は少し笑ったようだった。返事の代わりに紙とペンをしまって、小説を閉じた。

 散歩の間、何を読んでいたのか教えてもらおう。どんな話か荒筋を聞いて、他にもオススメの小説を尋ねるくらいの時間は、きっとあるはずだろうから。

「ほら、早く!」

 相変わらず、弟は私の声を理解したように、私に呆れた表情を向けてくる。どうしてわかるのか――そこにはきっと私にとって不本意な理由が隠されているはずだが、尋ねるのはやめておいた。なんだか姉の名誉が傷つけられる気がするのだ。

 二人して玄関に向かうと、ちょうど台所から出てきた母とかち合って、「あら、どうしたの?」と聞かれた。母はもう手話で話すのが癖になっている。私は指を動かしてみせ、「散歩」と答えた。手話を使った私を見て、弟が目を見開いた。

「ほら、行くぞ」

「…………」

 弟は手話を使って答えてきた。ゆっくりと話してくれたが、私には一つも理解できない。私が覚えたのはまだ三つの言葉だけだ。散歩、一緒に、奢る。

 私が理解していない様子なのを見ると、弟は口をへの字に曲げた。また手を忙しく動かした。私に手話はわからないが、弟が何を言っているのかは分かった。

「生意気ぃ」

「…………」

「アンタには昔っから敬意ってものが足りないのよ、敬意が」

「…………」

「ちょっと、無視? 姉を無視するとはどういうつもり?」

 弟は無言で靴を履いた。そして振り返って、ゆっくり口を動かした。

 相変わらず、弟は生意気だ。

 「行くぞ」だなんて、まったく言葉遣いがなってない。

「いってらっしゃい」

 玄関先で母が見送ってくれる。

 ドアを開けた瞬間、光が差し込んできて思わず目を閉じた。目を開けると、先に出た弟が不機嫌な顔で私を待っていた。

「行くぞ」

 弟と同じ言葉を言う。

 外は私の期待した通りの青空で、まっすぐに降りてくる陽光が木々や家々を濡らしているのを見て、これかと思った。弟の見ているもの一つが、今、わかった気がする。

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