青臭さが滲んだ日


 大学の喫煙所、建物の隙間に追いやられた最後の楽園に佇む先輩はこう喋りだした。

「トージ、煙草はね、落ち込んだときは気分を持ち直してくれるし、興奮したときには気分を落ち着かせてくれるんだ」

「はぁ、そうなんですか」

 だから僕は決まってこう返す。先輩のデタラメ話は話半分で聞いている分には興味深いものが多かった。

 先輩は、ぐしゃぐしゃになったソフトパックのタバコを一本、細くてしなやかな指で引っ張り出した。そして、いつもの変な形のライターをジーパンのポッケから取り出し、火をつける。ジッっと巻紙が燃える音が僕の耳に届く程静かな夕間暮れ。この様子を東京都知事が見たら聞き慣れないカタカナ語を使って感涙に咽ぶだろう。そう僕は確信しながら続きを促す。

「それで?」

 僕の素っ気ない返事を気にする事なく先輩は続ける。この人はあいも変わらず脳天気だ。「だからメンヘラや、セックスを終えた人間が煙草を吸いたがるのは至極当然なことなのさ」

「へっ、へぇ、そうなんですか」

 童貞には少し過激すぎる言葉遣いも、この先輩の特徴だ。

「はははっ!トージは可愛いなぁ」先輩は嘲笑うかのように一笑し、僕をからかった。「しかも、煙草は煙でニコチンを摂取するだけじゃない。デザインや名前、歴史に味があるものが多いんだよ」

 普段感情を伺えない仏頂面も、薀蓄を語る今は穏やかな笑みに塗り潰されている。僕はこのひとときでしか見ることの出来ない先輩の表情が好きだ。

「へぇ」

 さも関心があるように僕は相槌を打ってみせた。煙草に興味なんてないというのに。

「例えば、この”しんせい”っていう煙草は49年に作られた銘柄なんだけど、どういう意味が込められてるか、わかる?」

「わかりません」

「よろしい」得意げに顔を綻ばせながら、先輩は二本目の煙草に火をつける。「太平洋戦争が終わってまだ4年の1949年、戦後からの復活、つまり“新生”を願ってこの煙草は作られたの」

「意外と深いんですね」

「まぁ、もう売ってないんだけどね。この国は新生を捨てたの」クスッと、片方の頬だけを釣り上げて先輩は悲しそうに笑った。「冗談はさておき、この禁煙のご時世じゃあね、ただでさえ売れない煙草で、売れない銘柄が淘汰されていくのは当たり前のことでしょ?」

 先輩は滔々と続ける。

「だいたい、しんせいは重いからね。重いタバコも、重い女も、時代は受け入れてくれないの」


 ****


 あの日から僕は煙草を吸い始めた。ピース、ホープ、ハイライト、エトセトラ。話題になりそうな銘柄は粗方吸った。今日もまた大学の喫煙所、建物の間にひっそりと存在するユートピアに向かう。今日こそあの人はいるだろうか。切り通しのように細長い入り口で煙草を咥え、僕は聖域に足を踏み入れた。

「行儀が悪いな、君は」

「先輩こそ、いったい何日自主休講してたんですか?」

 そう言って僕は黒と緑のボックスを差し出す。

「KOOLか、好きだね、トージも」

「勉強したので」

 とびっきり胸を張って言う。抑えてはいるが、今僕の顔はとんでもないほど頬を緩ませ、鼻の下を伸ばしていると思う。そりゃあもう僕が犬だったら凄まじい勢いで尻尾を振っているのだろうという勢いで。

「先輩も一本どうです?偶には気分転換で」

 今までにない、まるで北海道産ミントのような冷たい沈黙が流れていく。僕がブラジル産の鶏だったなら、とっくにこの場から逃げ出しているだろう。

 先輩はすぅと息を吸い込み、柔和としか言いようのない、全てを受け止め、そして躱していくような顔でこう言った。


「残念ね、私、メンソールは吸わないの」

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