出立
額に走る痛みで目を覚ました。
ぼんやりとした頭が視界をゆっくりと認識し始める。
まず見えたのは車の座席、割れた窓、そこから吹き込んでくる雪、それを染める血飛沫。
次いで全身の感覚が戻ってきた。全身を襲う鈍い痛み、そして刺すような冷気。凶悪な苦痛が一気に意識を覚醒させたようだった。
「お母さ……、おと……さ……」
かすれて消えそうな声しか出なかったが、前の席に座っているはずの両親に呼びかける。しかし返事がない。右隣に目を向けると、空席。そこに居たはずの弟は影も形もない。代わりにあったのは割れた窓ガラスの破片だけだ。
頭が冷やされると、だんだんと状況が飲み込めてきた。
サチの乗っていた車は事故に遭ったのだ。思い出せる最も新しい記憶は、車が谷沿いの大きなカーブに差し掛かったときのこと。スリップしたのか、身体に異様な慣性の圧があったような気がする。次に強い浮遊感、そして轟音と衝撃。
痛みはあるが、身体は動くようだった。サチは前の席へと身を乗り出し、両親の様子を確認する。
「ねえ」
やはり返事はない。
「ねえってば」
強く揺すってみるも、反応はなかった。両親がどういう状態にあるか察することが出来ないほど無知ではなかったが、そうするしかなかった。
ようやく呼びかけるのを諦め、壊れて開いたままのドアから外へと出た。山は白一色。風と共に雪粒が肌に当たってくる。
「ユウ君!」
弟の姿を探す。白く霞む視界の中、注意深く周囲を見渡すと、それは見つかった。
車が転げ落ちてきたであろう崖の傍、白ばかりの中に赤い点があった。
「ユウ君……」
駆け寄ってみるも、状態は両親より酷かった。もはや呼びかける気も起きない。揺すれば身体のどこかが取れてしまいそうだった。
しばらく弟の傍に座り込んでいたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
サチは立ち上がって歩き始めた。
不幸中の幸いか、全身を酷く打ちつけた痛みはあるが、動くことが出来ないほどのケガは無いようだ。しかし、携帯電話は圏外、横殴りの吹雪に視界は不良で、寒さも酷い。急で高い崖に阻まれているため、元の道路に戻ることは不可能だった。
なんの当てもなく木々の合間を歩いた。雪にかじかんだ手が寒さも感じなくなるころ、吹雪の向こうに明かりが見えた。人家か。
近寄ってみるとそれは大きな洋館であった。辺りは葉を落とした森と雪ばかり、道路は通じていないようだ。異質なものを感じずにはいられないが、四の五の言っていられる状況ではない。体力は既に限界だ。
「ごめんください」
震える肩を抱きながら声を絞り出し、扉を叩いた。
内から扉が開かれ、小柄な人影が見える。その姿はまるで――
――お人形……?
朦朧とする意識の中だからか、そんなことを思いながら、サチは意識を失った。
暖かい。
頬に当たる熱と、木の爆ぜる音に目を覚ました。
上体を起こして辺りを見る。大きな洋室だ。サチは暖炉前のソファに横たえられていたようだった。
「気がつきましたか」
背後から声がかけられた。立っていたのは少女だ。黒のドレスを身に纏った、西洋人形のような少女。意識を失う直前に見たのはこの子だろう。どうやらサチを助け出してくれたようだ。
「あの……ありがとう。助けてくれて」
「いえ」
「そうだ! 電話、借りられないかな。助けを呼ばないといけなくって、その、車が事故になってて」
いま助けを呼んでも間に合わないことは分かっていたが、それは考えないことにした。
「ここに電話はありません」
「え?」
「お食事の準備が済みましたら、また呼びに参ります」
事故という話を聞いても、少女は表情一つ変えなかった。呆気にとられるサチを背にゆったりとした動作で部屋を出ていくと、扉を閉めてしまった。
「ちょ、ちょっと待って! それどころじゃ――」
サチがすぐに追いかけて扉を開いた。
「あれ……?」
少女の姿は消えていた。ただ奥の見えない暗い通路があるだけだ。どこか近くの部屋に大急ぎで駆け込んだのだろうか。なんのために?
「おねえさん」
突然服の裾を引かれた。サチが驚いて振り返ると、先ほどの少女よりも小柄な、しかしそれ以外の風貌は非常によく似た少女が立っていた。片手でサチの服をつまみ、ちょいちょいと引っ張っている。さっきまでこの部屋にいただろうか。見落としていただけか。
「ごはんできるまで遊ぼ」
「ごめんね。いま遊んであげられないの。大変なことになってて」
そう言って窓のほうを見る。日はすっかり落ちており、外は真っ暗だ。吹雪は強さを増しており、窓はガタガタと揺れていた。
もう一度携帯電話を確認するも、圏外なのは変わらなかった。
「ねえ、この家に電話は無いの?」
「ないよ」
「近くに電話を借りられる場所は?」
「しらない」
「近所の家とか」
「しらない」
「お父さんとお母さんは?」
「いない」
「そんな……」
一か八か歩いて探しに出かけるべきかとも思ったが、すぐに却下した。今度こそ遭難するだろう。それに、急いだところで家族はもう助からないのだ。もちろん放置する気はないが、吹雪がおさまるのを待つしかないだろう。
サチは再びソファに腰掛けると頭を抱えてうつむいた。
「これからどうしたらいいの」
生命の危機を脱すると、いままで麻痺していた感覚が強く感じられる。ひどい悲しみと恐れ。もう自分が家族でただ一人の生き残りだという実感。
「おねえさんどうしたの?」
顔をあげて少女を見る。サチの心中など全く察していないのだろう。何の感情も持っていなさそうな表情でサチの目を見ていた。
「車がね、崖から落ちて」
「うん」
「みんな死んじゃったんだ。お父さんもお母さんも、ユウ君も。みんな」
改めて口に出すと涙がこみ上げてきた。言葉の最後のほうは震えてうまく喋れなかった。
「ふうん?」
幼いからか、よく分かっていないのだろう。サチもあえて説明するようなことはせず、黙って再びうつむいた。少女もそれ以上話しかけてくることはなく、別のソファに座って、どこからか取り出した人形で一人遊びを始めた。
しばらく吹雪が荒れ狂う音だけが部屋を支配した。
「お客さんだ」
人形遊びをしていた少女は、唐突にそう言うと、人形を放り捨てて部屋を出ていった。
人が来たような物音はしなかった。それに外は猛吹雪である。人が出歩くような天候ではない。と、そこまで考えたが、自分の例を思い出す。本当に希望的観測でしかないが、家族の誰かが実は生きていて、自分の足跡を辿ってここまで辿りついたとしたら。
サチも部屋を出た。
少女の姿はすでに無かったが、幸い玄関にはすぐに辿りついた。扉の向こうから客人のものらしき声が聞こえてくる。
「ごめんくださーい。ごめんくださーい」
どんどんと扉を叩く音と共に聞こえてくる声は――
「うそ……! ユウ君?」
少女が扉に手をかけようとしていたのを、とっさに止めた。
「どうしたの?」
「開けちゃダメ」
弟の惨状はこの目で見てきた。両親ならもしやと思ったが、どれだけ楽観的に考えても弟が生きているなど考えられない。それではいま扉を叩いているのは誰だ。
「お姉ちゃん? 開けてよー。開けてよー」
サチの声が聞こえたのか、何者かはいっそう激しく扉を叩きはじめた。
「ごめんね……」
「あけてあげないの?」
「うん」
少女は不思議そうにしたものの、素直に従って扉から手を引いた。
「鍵はかかってる?」
「かぎないよ」
驚いて扉を見直すが、確かに錠らしきものが存在しない。
「どうしよう。入ってくる」
「はいってこないよ」
「なんで?」
「はいりたくないって」
どういうことか分からず返答に困っていると、背後から声がかかった。
「ここに居られましたか」
振り返ると、もう一人の少女が立っていた。食事を用意するといって消えたほうの子だ。
「お食事の準備が出来ました」
食堂は広かった。清潔な白いテーブルクロスが敷かれた長い机に三人分の料理が用意されている。部屋の明かりは机上の燭台と壁のオイルランプのみ。どうやらこの屋敷には電灯すらないらしい。
席には着いたものの、食事が出来る気分ではなかった。
「さっきのお客さん」
隣で少女が肉を切り分けながら言った。
「おねえさんのきょうだい?」
「うん」
「わたしたちも姉妹なんだよ」
なんとなく分かってはいた。今喋っている小さい子が妹で、机の向かいで食事をしている静かな方が姉だ。
「死んでたね」
「え?」
「おねえさんのきょうだい」
「……分かるの?」
「だって生きてなかったもん」
答えになっていなかったが、弟が死んでいることは直接見てきたサチがよく知っている。その話を続ける気にもなれなかったし、食欲も無かったのでサチは席を立った。
食堂を出て、はじめに目を覚ました暖炉の部屋へ向かう。途中で玄関の前を通った。
どんどんと扉を叩く音は続いていた。
「おねえちゃーん」
吹雪の音と共に声が聞こえる。紛れも無く弟の声だったが、そんなことがあるわけがない。声の主は弟かもしれないが、サチの知っている弟ではないだろう。
「ごめんなさい……」
サチはそう呟いて、玄関を後にした。
そして、吹雪は一向におさまる気配を見せないまま深夜となった。
サチは宿泊の為の部屋をあてがわれた。
ベッドの中で一日を振り返る。今日は不思議なことばかりだった。この屋敷も、あの姉妹も、そして弟も。事故の悲しみと、今後どうすべきかという現実的な問題が頭の中でごちゃごちゃと混ざって渦巻く。
この屋敷は普通ではないから、きっと助けは来ないだろう。家に帰るためには、自分から動かなければならない。だが、家に帰ってどうするのか。もう誰もいないのに、帰る必要があるのだろうか。
悶々としたまま風の音を聞いているうち、サチはいつのまにか眠りについた。
朝になっても吹雪は続いていた。
窓の外は白一色に塗りつぶされ、少しの景色も見えなかった。
用意された朝食を少しだけ食べ、玄関の前を通って暖炉の部屋へ行く。扉の向こうではいまだ弟の呼び声が続いていた。
何もできることが無いので、不思議な姉妹の妹にせがまれて遊び相手をすることにした。
ボールを使って、長い廊下で遊ぶ。妹がボールを投げる。大した距離は飛ばずに床に落ち、てんてんと少しだけ跳ねた後サチの足元まで転がってくる。サチはそれを拾って、軽く投げ返す。同じように床を転がって妹のところへとたどり着く。彼女はそれを拾って投げ返した。
遊んでいる間、妹は無言・無表情を貫いていた。単に無表情というより、生気がないと言ったほうがいい。瞬きすらする気配がない。助けてもらった身で無礼極まりないが、姉妹揃って不気味だとサチは思った。そしてふと気づいて自嘲する。今の自分も大差ないではないか。
なにが楽しいのか分からない遊びを終え、その日も眠りについた。吹雪は止む気配がない。弟の呼ぶ声も止む気配は無かった。
屋敷にたどり着いて数日が過ぎた。
妹の人形遊びの相手をしながら、サチはふとたずねた。
「あなたたちはいつからここに住んでいるの?」
「しらない」
なんとなく予想していた答えだった。
「おねえさんはいつまでいるの?」
「私は、吹雪が止んだら――」
「止まないよ」
「えっ?」
妹はサチの目を見ながら言った。
「だって、おねえさん出て行きたくないんでしょ?」
「そんなことは……」
自分はどうしたいんだろう。
ここを出て行きたくないというのは正しくない。あえて出て行く理由がないだけだ。帰るところもないのに、どうしたらいいのだろう。
人形遊びを終えた後、サチは玄関へと足を運んだ。扉の向こうからは吹雪の音と共に弟の呼ぶ声がずっと続いている。この数日間休むことなくずっと。
吹雪と弟の声、どちらもサチが屋敷に来たときから続いている。
昼間に受けた指摘を頭の中で反芻する。吹雪が止まないのはサチが出て行きたくないからだと、妹は言った。
もう一度よく考えてみる。
明日は吹雪が止むかもしれない。
翌朝、吹雪はすっかり止んでいた。
サチは玄関へ向かった。いまだ扉を叩く音と声は続いている。胸に手を当てて深呼吸をすると、意を決して扉に手をかけた。
「おねえさん」
振り返ると、妹が立っていた。手にボールを持っている。
「今日はあそばないの?」
「ごめんね。おねえさん、いかなきゃ」
「ふーん」
最後までぶれない子だ。残念がっている様子もない。
「ありがとうね。お邪魔しました」
「ばいばい」
小さく手を振って返し、サチは屋敷を出た。
玄関に立っていた妹に、姉が話しかける。
「お客様は?」
「もういった」
「そうですか。朝食が一人分余りますね」
「たべる」
二人は食堂へ向かって歩き始めた。
扉を叩く音は止んでいた。
迷い家の客人 加藤 航 @kato_ko01
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