迷い家の客人

加藤 航

復讐

 竹川はアクセルを強く踏み込んだ。

 車は狭い山道を乱暴に掻き分けて進む。左右から突き出た枝葉が車体に擦れ、耳障りな音を立て続ける。雨と風の勢いは衰えることを知らず、貧弱なワイパーはほとんど用をなしていない。

 未舗装の山道はひどい走り心地だった。時折大きな石を踏みつけているのか、突き上げるような振動が絶え間なく続く。竹川の額からはとめどなく脂汗が滴り、汗を吸ったシャツがべったりと体にまとわりついていた。

 樹木にぶつかったのか、車内にメキメキバキと嫌な音が響く。

 車体のあちこちをぶつけながら、強引に車を進ませる。

 もはやどこを走っているのかも分からない。何故かカーナビは山にはいった辺りから不調で現在地を示さないし、携帯電話も圏外だった。

 竹川は少しだけ振りかえる。

 視線の先、後部座席には一人の女性が横たわっていた。荒い運転と激しい揺れにもかかわらず文句一つ言わず、ピクリとも動かない。

 不意に雷が轟いた。稲光が車内に差込み、横たわる女性の顔を照らす。血の気の引いた、冷たい顔面が竹川の視界にとびこんできた。

 その女性は死んでいた。

「くそっ!」

 竹川は殺人者だった。所謂、突発的犯行というやつだ。きっかけはほんの些細な口喧嘩だった。竹川と女性はもともと馬が合わず、普段から小さな諍いが絶えなかった。こうなるのに十分な下地はあったのかもしれない。

 しかし、いまさら後悔しても仕方がない。まずは死体をなんとかしなければならなかった。

 随分山奥まで走ってきた。ここらに埋めてしまえば見つからないのではないか。しかし、あいにくと土を掘る道具は持ち合わせていない。計画性などないのだから当然だ。それに、この大雨では土が流れて死体が露出するかもしれない。そうなれば全てが無駄だ。

 焦る頭で思案しつつ車を進めていたが、不意に速力が落ちたかと思うと、車はそのまま動かなくなってしまった。アクセルを強く踏みこんでも反応がない。故障だろうか。

「おい。おいおいおい。なんなんだよ」

 静まり返った車内に、荒れ狂う暴風雨の音だけが響く。

 動きがなくなると、背後の死体が急激に存在感を増したように感じた。

 どことも知れぬ山奥で雨と風に閉ざされ、動かない車の中で死体と二人きりだという現実。

 竹川は再び後部座席を振り返った。死体は変わらずそこに居たが、闇に隠れた顔から恨みを向けられているような怖気を感じ、すぐに前へ向き直る。

 そして気づいた。降りしきる雨の向こう、木々を抜けた先にわずかな灯りが見える。人家だろうか。

 竹川は迷った。雨はしばらく止みそうにない。車は動かず、行くことも戻ることも出来ない。元より後先考えずに突っ込んできた悪路を車で戻れる気はしなかった。このまま留まったとしても土砂崩れに巻き込まれるかもしれない。

 動かなければ。

 意を決した竹川は車を出ると、車の後部へと向かった。強い風雨が叩きつける中、トランクの中を探す。

 目的のものはすぐに見つかった。大型の旅行鞄だ。

 車中に死体を放置はできない。悪戦苦闘の末、なんとか手足を曲げて死体を詰め込むことができた。竹川は鞄を肩にかけ、灯りを目指して歩き始めた。



 それは巨大な洋館だった。

 道路も通じていない山奥に何故このような立派な建物があるのか。疑問はあるが、いまは暴風雨からの避難が先だった。

 門扉を押し開いて玄関へと進む。呼び鈴が見当たらないので、扉を叩いて呼びかけた。

「すみません、すみません」

 しばらく待つと内から扉が開いた。  

出迎えたのは少女だった。

 金髪と青い目、日本人ではないのだろうか。背丈はかなり小さく、幼いことが分かる。年齢は一桁後半ごろか。喪服のような黒のドレスを着ていた。

 竹川は、まるで西洋人形のようだなと思った。

「こんばんは。お父さんかお母さんはいるかな? 車が壊れてしまって、山を下りられないんだ。明るくなるまでここで休ませて欲しいんだけど」

 竹川の言葉を聞いても、少女は微動だにしないまま竹川の目を見つめていた。もしかしたら言葉が通じていないのだろうか。瞬き一つしないガラス玉のような青い目には生気が感じられず、正体不明の気味悪さに気圧される。

「あの……」

 沈黙に耐えかね、竹川が繰り返そうとしたとき、少女の目が竹川の背後に向いた。少なくとも竹川にはそのように見えた。

 鞄を見たのだろうか。もしや何か感づかれたか。思わず体が強張る。

 しかし、少女は表情を変えることなく竹川へ視線を戻した。

「どうぞ」

 そう言って竹川を屋敷へ招きいれた。

「おねえちゃん。お客さん」

 少女はそう呼びかけながら、屋敷の奥へと消えていった。

 竹川は辺りを見回した。広い。敷かれた赤い絨毯や各所の調度品からは素人目にも質の高さが感じられる。映画やドラマに出てきそうな豪邸だ。ただ、照明が少なくて暗い。壁に点在する橙色のランプが薄ら闇を照らして不気味な陰を作り出している。

「お待たせ致しました」

 暗がりから突然呼びかけられ、一瞬身構える。

 そこにいたのは先ほどの少女と、その姉と思われるもう一人の少女だった。姉のほうが少し背は高いが、服装が同じせいもあるかもしれないが、二人はとても似て見えた。おそらく歳も大きくは離れていないのだろう。手に提げたランタンに下から照らされた顔は、妹と同じく美しいのにどこか生気のない、作り物めいた薄気味悪さがあった。

「少し休ませて欲しいんだけど、お父さんかお母さんはいるかな?」

「両親は不在ですが、歓迎いたします。お部屋を用意いたしますので、上がってください」

 姉はそう言って屋敷の奥へと歩き始めた。竹川はそれに続き、その後ろに妹が続いた。

 無用心だな。前を行く姉の背中を見ながら竹川は思った。竹川にとっては幸運といえたが、事実として危険人物を家にあげてしまっているわけだ。

「ねえ、おじさん、どこからきたの?」

 背後の妹からだった。

「まあ、ちょっと遠くからね……」

「ふうーん」

 雨と風が止めばすぐに出て行くのだ。余計な素性を漏らすことはない。幸い大人はいないようだし、滞在中は適当に濁しておけばよいと竹川は考えた。この子達の親が帰ってくる前に出られるとよいが。

「じゃあ、おねえさんはどこからきたの?」

 雷が鳴った。

「え?」

 やはり感づかれていたのだろうか、鞄の中身に。

 しかし、それにしては様子がおかしい。妹は「へえ」とか「ふうん」とか、誰かと話しているような相槌を打ち続けている。もちろん彼女の姉も竹川も、何も応えていない。聞こえてくるのは雨が窓にたたきつける音と、妹の声だけだった。

「誰と話をしているのかな?」

「おねえさん」

「……」

 近くで再び雷光が閃いた。

 腹の奥に響く雷鳴と共に、激しい光が通路を歩く三人を一瞬照らした。しかし竹川には通路の壁に四人目の影が見えたような気がした。



「こちらへ」

 案内されたのは屋敷の四階にある一室だった。

「必要でしたらお食事も用意しますが」

「いや、食事はいいよ。少し休めるだけで十分だから」

「そうですか。何かありましたら申し付けください」

「ああ、ありがとう……」

 姉は部屋を出て行った。

 やけに親切な子供だ。普通、突然夜中に押しかけてきた怪しい男にここまでするだろうか。こんな時間まで子供を放って帰ってこない親も気になる。そもそも屋敷自体が妙だ。この部屋にしてもベッド、机、椅子、棚、時計、基本的な家具の類は揃っているようだが、一方でテレビや冷蔵庫と言った家電の類は見当たらない。照明もこれまでの通路で見たのと同じ、油で灯すランプだった。まるで大昔にタイムスリップしたかのようだ。

 竹川は死体の入った鞄を床に置くと、ベッドに横たわって目を閉じた。

 考え出せばおかしなことばかりできりがないが、そんなことはどうでもいい。とにかく疲れた。窓に叩きつける暴風雨が心地のよいノイズとなって眠気を誘い、竹川は眠りに落ちた。



 どのくらい経った頃か、扉をノックする音で竹川は目覚めた。

 相変わらず窓の外は暗く、大荒れの天気のまま。それほど長くは眠っていないようだ。

 竹川が部屋の扉を開けると、姉妹の姉のほうが立っていた。眠気の残る目でその姿を見下ろしたとき、一瞬背筋にヒヤリとしたものを感じた。

「なんだそれは」

「包丁がご入用だと伺いましたので、お持ちしました」

 姉は鋭い包丁を手にしていた。

「そんなものを頼んだ覚えはない」

「いえ、お連れ様に頼まれました」

「連れ……?」

 竹川は肩越しに背後の鞄を見た。竹川が寝る前に床に置いたままになっている。

「とにかく、頼んでいない。ふざけるのはよしてくれ」

 竹川は扉を閉めて強引に会話を打ち切った。

「なんなんだ、まったく」

 連れとはどういうことだ。通路での妹の発言といい、もしや事情を分かった上で竹川をからかっているのだろうか。だとしても、そうする理由が分からない。しかし姉妹のせいでこの鞄がやたらと意識されるようになった。じっと見ていると、今にも動き出すのではないかという妄想がじわじわと湧き上がってくるようだ。

 竹川は鞄から強引に視線を外してベッドに腰掛けた。一眠りしたはずなのに疲れが取れていない。しかし、もう寝なおす気分ではなかった。

「うおっ」

 いつの間にか目の前に少女がいた。今度は妹のほうだ。

「いつ入り込んだんだ。驚かせないでくれ……」

「つまんないもん。おじさん、お話しよ」

「ごめん。おじさんは疲れてるんだ」

「じゃあ、おねえさんとお話しする」

 またそれか。竹川もそろそろうんざりしてきた。疲れが恐れを上回ったか、先刻まで少々びくついていた自分が馬鹿らしくなってきた。苛立ちすら覚える。

「あのな――」

「ほら、おねえさんもおじさんとお話したいって」

 竹川の言葉を遮って、妹が言う。見れば竹川が置いた鞄のほうを指差していた。つられて指差すほうを見る。一瞬、竹川は息が詰ったかと思った。

 鞄から死体の手が突き出ていた。

 体が硬直する。自分が死体になったかのようだ。鞄から突き出た手から目が離せない。嫌な汗が全身から吹き出ているのが分かる。

 凝視していても死体の手は動かなかった。少しだけ開いたファスナの隙間から、ただ黙して突き出ていた。

「き、君がやったのか」

「なにを?」

「とぼけるんじゃない!」

 焦りで声が裏返った。ようやく動いた足で鞄に駆け寄ると、手を掴んで強引に鞄に詰めなおした。死体は硬直しており、容易ではなかった。

「君が……君が、この鞄を触ったんだろう。え?」

「なにもしてないよ」

「嘘をつくなっ!」

 竹川にいくら怒鳴られても、妹は表情を全く崩さなかった。ただ虚ろな目で竹川を見返しているだけだ。耐えられなくなって、竹川のほうから視線を外した。

「とにかく、出て行ってくれ……」

 やっとのことでそれだけを言った。妹は何も言わず部屋を出ていった。

 落ち着いてから鞄を見下ろす。そして竹川は自分に言い聞かせた。あの子供のいたずらに違いない。もしそうでなくても死後硬直やら発酵によるガスやら、詳しくは知らないが生物学的な作用によって起こったことだろう。死体が少々動く現象なんて珍しくないはずだ。

 ひとまず無理矢理自分を納得させた。しかし問題はそれだけではない。

「見られたな……」

 幼さゆえか、事態は把握できていないようだった。しかし後からなんらかの証言を取られる可能性がある。

「どうする。どうする」

 もはや休むどころではない。竹川は落ち着きなく部屋の中を歩き回りながら今後の方針を練ったが、いい考えなど浮かばない。なにより鞄が気になって仕方がない。先ほどから視界に入れたままでいるが、あれから妙な動きはない。

 背後で時計が鳴った。

 突然の物音に肩を跳ね上がらせて振り向く。古い壁時計が、ぼーん、ぼーんと鳴っていた。もう午前二時だ。屋敷に着いたのは何時頃だったろうか、よく思い出せなかった。

 ふうと息をついて鞄のほうを向き直る。

 

 鞄から顔が出ていた。

 

 竹川は情けない悲鳴を上げながら後ろによろめき、尻餅をついた。顔は死んだ目を大きく開いたまま、黙って竹川のほうを向いている。

 もうダメだ。

 竹川は震える体を必死で押さえながら部屋の入り口まで行き、扉を開いた。

「どうかなさいましたか」

 目の前に姉妹が立っていた。

「ずいぶんと大きな声を上げていたようですが」

「し、死体が、死体が」

 竹川が背後の鞄を指し示すと、姉妹は揃って鞄のほうを見た。

「お連れの方がどうかなさいましたか?」

「はあ? お前ら、お、おかしいんじゃないのか!」

 竹川は思った。やはりここは変だ。屋敷も姉妹も、そして出来事も普通じゃない。

 振り返ると顔を突き出したままの鞄があった。先ほどから場所は動いていないようだ。

「くそが、舐めやがって。元はと言えばお前が悪いんだろうがっ」

 半狂乱で喚く竹川を姉妹は相変わらず感情の読み取れない表情を貫いたまま見ている。

 大声で喚き続けていると、狂気か怒りの成せる業か、竹川の中に少しずつ気力が湧いてきた。ようやく殺してやったのに、どうして自分が死体に振り回されなければいけないのか。その思いは利己的で身勝手なものだったが、それだけに竹川を奮い立たせた。

 竹川は部屋の中へと引き返すと、恨めしく突き出た顔に構わず鞄を担ぎ上げた。

「こうしてやる!」

 鞄を肩に担いだまま窓際へと駆け寄り、大きく振りかぶった。死体入りの鞄は窓ガラスを叩き割り、未だ吹き荒れる暴風雨に投げ出された。

 そのとき、鞄から再び手が突き出し、竹川の手首を掴んだ。

 冷たく、硬い、死んだ手。竹川は鞄を手放したが、死体は竹川を手放さなかった。とっさに踏ん張りを利かせるものの、勢いをつけて乗り出した身体はもう止められなかった。

 死の重みに引かれるまま、竹川は絶叫と共に地上へと墜ちていった。



 喚く男がいなくなったので、屋敷はまた静かになった。

「お帰りになったようです」

「うん」

 姉妹は割れた窓から顔を出してしばし地上を見下ろしたが、特に何を言うでもなく部屋へと頭を引っ込めた。妹が「つまんない」と言いながら部屋を後にしたので、姉もそれに続いて出て行った。

 誰もいなくなった部屋を、雨と風の音だけが静かに満たしていた。

 

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