僕の屍

ひらがなのちくわ

僕の屍

 機械仕掛けの男が「もう死にました」と宣告した。ちょうど僕はこの機械仕掛けの男が、随分旧式で古ぼけていると思っていたところだった。なぜなら、少女の屍を診ているときの眼差しや手の動きには、微妙な誤差があったし、時折、錆びた鉄の擦れたようなギシギシという不自然な音が、この小さな部屋を行ったり来たりしていたから。

 それに「もう死にました」というのはどうも釈然としない。「もう死にました」の「もう」はいつを指して「もう」と言ったのか。その曖昧さは僕の焦燥足り得るには充分だった。そしてこれは僕にとってはとても重大な問題なのである。

「もう死にました」ってことはつまり、今の今まで息があって、そしてたった今絶命したことによる「やっともう今死にました」ということなのか、あるいは、「もうとっくに死んでいますよ」という意味の「もう」なのか。しかしそんな僕の悲痛など、機械仕掛けの男にはまるで届いてはいないようだった。

 3日前のことだったか。違う、1週間。はたまた、一か月。さては一年も経ってしまったかもわからない。僕は工場跡地の深い草叢で、少女の屍を拾った。

それは、天海のすべてが透けて見えるんじゃないかと思うくらいに透明な夜で、二日目の針金のような鋭い意思を持った月が、ただ少女のためだけに蒼い光を放っていた。刹那、僕はもう恋をせずにはいられなかった。

 誰に?…少女に。…いや。…いや、そうじゃない。この異常で儚い夢に?…いや、そうでもない。僕は僕のために恋をした。


「どうなさいます?」

薄っぺらい二次元のような年老いた女が囁くようにして言った。いつの間にか機械仕掛けの男の姿はなかった。真っ白で息が詰まりそうな薄暗い部屋の中、わずかな風くらいでペラペラ捲れるこの女は、あの男の助手をつとめていた。年老いた女は言った。

「再生なさいますか?」


 少女は何も纏っておらず、両手をひろげて仰向けに斃れていた。世界中の何もかもを一つ残らず零すことのないように。すべてを抱きしめるようにして。大きく見開いた真っ黒な瞳は、僕の内部を通り越し、ずっとずっと遠い宇宙へと照準を合わせている。まったく、その潔さには恭敬に値する。

 そしてその時確かに少女は死んでいた。だからあの「もう」は、「もうすでに死んでいましたよ」の「もう」でなくてはいけないのだ。

恋で盲目となった僕は、早速少女の屍を担いで家に持ち帰ることにした。高貴な少女の屍は僕の薄汚いアパートには、似つかわしくない。それでも僕は僕の欲望を抑えることはとうていかなわいと思った。純真な少女の屍は異質であると同時に、純然たる破滅のシンボルにほかならない。僕はすでにさっきまでのガラガラした僕ではないのだ。


 少女の肢体は時を刻むほどに美しく変化してゆく。シミだらけの畳の上で、少女は下劣な僕によって凌辱されていることに耐えがたき屈辱を感じているようだった。

 僕はそんな少女からひとときも目が離せない。一秒でもここを離れてはいけないと、脅迫めいた言葉が僕の内耳を占領する。それは僕の知らない僕なのか、外部による何者かなのか。海馬がしんしんとガラントに染められゆく。

 次第に腐敗してゆく屍。熟した肉は芳醇な香りを放ち、ところどころ表面がずるずると溶け始めていた。もう何日も眠らず喰わず排出も瞬きもせず、僕は少女の肢体と対峙していたが、放たれる匂いまでもがおくゆかしく気品のあるものに感じられた。

 つるりとした感触の、冷たく蒼ざめた磁器のような頰に、僕の卑しい親指を押し当ててみる。

 そおっと。

 それは少女の秘密めいた顔に醜い痣をつけ、時が経つにつれて深く不気味に変色していった。完璧な作品の唯一の汚点! 僕は臍を噛んだ。しかしもう元には戻らない。そう思うと僕にはもう何も残されていないような寂莫とした心持ちになった。滔々と手のひらから僕の身体に僅かに残った液体が放出してゆく。


『法医学輪廻完全再生研究所』

 いったいぜんたいに、ここでどんな研究が行われているのかはわからなかったが、今の僕にはもう何もすがれるものはなかった。ガラントに浸蝕された僕の脳漿は分裂し、当たり前の機能を喪っていたから。

僕は少女を背に担ぎ無我夢中で、誰もいない静かな夜を駆け抜けた。何年も紡がれてきたようなナニモノかの夥しい残像に見送られて、ここにたどり着いたのは、もう明け方近くになっていた。

「再生なさいますか」

 ペラペラの女は繰り返した。返事をしない曖昧な僕を、鋭く批判しているような口ぶりで。

「かなり傷んではいますが、今ならまだ間に合いますよ」

「再生したらどうなりますか」

 ペラペラの女は意外そうな顔をした。そしてただ1枚の、なんてことのない紙みたいにずっとペラペラしているだけになった。

 僕は途端にこの嘘くさい研究所に飽きてしまった。

 再生? 何のために? 名も知らぬこの少女が、自分の意志でムクリと身体を動かして、そして僕に向かって極上の微笑みを! 僕がつけた醜い痣を、長くてしなやかなその指で恥ずかしそうに隠しながら! それを! それをこの僕が望んでいるとでも!


 僕にははじめから何もなかった。生きていることが、尊さの証しであると信じられているこの世の中で、僕の存在価値など取るに足らない。僕にとっては死も生も同じなんだ。

 しかし少女は違う。かつて、死が死であることを、これほど見事に表現するものがいただろうか。死を賜ることは尊いのか。生きることは卑しいのか。そんな痴れた言葉など、少女には、少女の肉体における死の経過には、まったくにもって意味がない。それどころか、ああ、刻の流れでさえもこれほどまでに少女に協力的じゃないか。


 僕たちはエデンを探すため、旅に出た。あの薄汚い僕のアパートにも、嘘くさい機械仕掛けの男とペラペラの女がいる研究所にも、そしてこのくすんだ街にももう二度と戻らない。僕たちは、いつかきっと混ざり合って、能動的に死を感じることになる。そして少女の屍は僕の屍となるのだろう。


二日目の月は悲しい。僕は零れ落ちた静かな光輝を残らず掬いとって少女の屍に注いだ。眩ゆいばかりの高潔さ。

別れ? そんなもの必要ない。だって僕たちはもうずっと、死ぬことを生きているのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕の屍 ひらがなのちくわ @tururun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ