サーモン転生NTR ~最後に俺は静かにざまぁする~

徳川レモン

サーモン転生NTR

 誰かが言った。人生とは鮭のようだと。


 川で生まれた稚魚は流れに身を任せてひたすら大海を目指す。

 だが、たどり着いた先で待っているのはさらに過酷な世界。


 多くの仲間が食べられ、傷つき、弱り果てて死んで行く。それでも振り返ることは許されず、逃げ出すことも許されない。鮭に産まれた運命は変えることはできないのだ。

 課せられた使命はただ一つ。子孫を残すことだけ。


 これは鮭に転生した男の悲しき物語。



 ◆



 俺は半透明な球体の中で目覚めた。

 球体の中で身体は折り曲げられ、苦しさに何度も何度も球体を破ろうと回転した。


 なんだこれは? どうなってる??

 ここはどこなんだ? なぜここにいる?


 思い出すのは会社のPCの前で作業をしていた自分の姿。

 そうだ、思い出したぞ。俺は山積みだった仕事を終わらせようと深夜まで会社にいたんだ。

 ここ最近は忙しくて睡眠時間は三時間くらいしかとっていなかった。

 そして、限界が来て意識が朦朧として……。


 じゃあ俺は死んだのか?

 これは来世??


 球体の外は水だ。見るからに激しい流れが見て取れる。

 ごろごろと転がっている岩の隙間に俺はいて、近くには何個も球体が存在していた。

 それを見て俺は自分が何に転生したのか一瞬で理解する。


 鮭だ。俺は鮭に転生した。


 これから迎える未来を想像すると俺には絶望しかなかった。

 過酷な弱肉強食の世界で人の精神を保ったまま生きてゆくのだ。

 とてもではないが受け入れられない。


 ”卵から出ろ”


 そんな声が聞こえた気がした。

 俺は無意識に卵の膜を突き破って外へと出る。

 すぐに岩陰に潜んで身を守る。


 不思議なことにこれから何をすべきかはすでに分かっていた。


 腹にある栄養の袋を完全に消費するまで、ここから動いてはいけないらしい。

 一応ではあるが泳ごうと尾を動かしてみるが、力が入らずまともに泳ぐことなどできそうになかった。

 つまり身体がきちんとできるまで、ここで待たなければならないということだ。

 いっそのことこの自我を消し去って欲しい。そうすれば楽なのに。


 卵の一つから仔魚しぎょが生まれる。


 そいつは俺と同じく腹に卵黄を抱えていて、おぼつかない動きで隣にやってきた。

 魚に産まれたせいか、そいつを見るとやけに可愛く見えた。

 大人が子供を見て「この子は将来美人になるかも」なんて思うあんな感じだ。

 鮭の美的感覚を備えた俺には、彼女は顔が整っているように見える。


「ここはどこなの?」

「!?」

「なんで川の中? しかもすごく泳ぎにくいのはなぜ?」


 俺はハンマーで頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

 この仔魚は俺と同じく人から転生したのだろう。

 そうでなければあまりにも知恵がありすぎる。


「な、なぁ、あんた元人間だろ?」

「ひぃ!? 魚が喋った!?」

「何言ってんだ。あんたも魚じゃないか」

「…………私が……魚??」


 彼女は大きな目で俺を観察する。

 いや、恐らく見ているのは俺ではなくギリギリ視界に入る自分の身体だろう。

 魚と言うのは構造上視界は広いが、自分を見るようにはできていない。車でたとえるならせいぜいサイドミラーで車体を確認するくらいしかみることはできないのだ。


「俺を見ろ。あんたは俺と同じ種類の魚だ」

「…………なんで」

「俺達は鮭に生まれ変わったようだ。しかも前世の記憶を持って。正直、俺一人かと思って絶望しかかってたが、あんたがいると知って心から安堵してるよ」

「なんで私が魚に生まれ変わらなきゃいけないのよっ!!」


 彼女は現実が受け入れられないのかヒステリックに叫んだ。

 そして、卵のある穴でジタバタと暴れて砂を巻き上げる。

 ここが人間の家で家具のある部屋なら、きっと椅子を持ち上げて全てを台無しにしていただろう。

 だが、幸いなことに俺達は魚で泳ぐことしかできない。

 しかも生まれて間もない仔魚だからそれすらもできない。


「落ち着いたらどうだ」

「できるわけないでしょ! だって魚よ! ずっとこの川の中で水草を食べながら生きていかなきゃならない!」

「残念。俺達は川にいる間は虫を食べて育つ。しかも鮭だからいずれは海に出なければならない。ああ、海に出ればプランクトンやオキアミを食べれるから少しはマシかな」

「そんなことどうだっていいわよ! と言うか虫を食べるの!? 最悪!」


 彼女は少し落ち着いたのか俺の隣で漂っていた。

 見れば見るほど可愛い顔つき。

 一般的に鮭は寿命が近づくと産卵するが、俺は一年中発情している人間の記憶を持っているせいか、無性にムラムラしていた。

 生まれて間もない彼女に性欲を感じているなんて倫理観に引っかかりそうだが、ここは人間の世界じゃないし、彼女も身体は魚だが中身はそこそこの大人……だと思う。


「自己紹介をしよう。俺は健太。日本でサラリーマンをしていた」

「私はオリビア。アメリカで、アメリカで――なにをしてたの? ごめんなさい、これ以上はなぜか思い出せないの」


 アメリカ人のオリビアか。覚えた。

 てか、英語もまともにできない俺が彼女と会話をしていることに驚く。

 鮭に転生すると言葉の壁がなくなるのかな。それとも口で会話をしているようで、実は脳波的な何かでやりとりしてるとか。


 兎にも角にも俺達は鮭として生きることとなった。



 ◇



 体感だが五十日から六十日ほど経過した。

 俺達は腹部にある袋の栄養を全て吸収して泳げるようになっていた。

 兄弟の内、数百匹は敵に食われてしまったが、まだ二千以上存命している。

 そして、俺とオリビアも。


 この頃になると俺もオリビアも平気で虫を食べていた。


「ラッキー! こんなところに一匹いたわ!」

「あんまり取り過ぎるなよ。兄弟の食べる分がなくなる」

「分かってるわよ。総数が減ればそれだけ私達が狙われる確率が上がるってことでしょ。確かサーモンの回帰率って四%くらいじゃなかったけ?」

「だいたいそのくらいだな。つっても平均的な数値だし川やその年によって変動するからあてにはならないと思うぞ」

「さらに厳しい状況が待っているかもしれないってことね」


 会話を交わしつつ俺とオリビアは並んで泳ぎ、身体をこすり合わせていた。

 これが人間の身体ならとっくの昔に交尾をしていたところだ。


 俺と彼女はいつしか恋人関係となっていた。


 同じ腹から生まれただろなんて野暮は言うなよ。

 中身は縁もゆかりもない赤の他人同士だ。

 しかも彼女は魅力的でいつも明るく俺を元気づけてくれる。

 顔だって好みだし、身体だって良い卵が産めそうでとんでもなく興奮させる。

 どうやらそれは向こうも同じようで、俺を魅力的な雄に見てくれていた。


「ヒロイバショ、イク」

「イコウイコウ」

「タクサン、タベル」


 周りの兄弟が流れに沿って泳ぎ始める。

 とうとう海を目指す時が来たか。

 俺とオリビアはできるだけ敵に襲われないように、群れの中心部に身を置くように泳いだ。未だにここが地球のどこかも分からないが、今の俺にできる事と言えば大人になって子孫を残すことくらいだ。


「実は俺、もう相手を決めてるんだ」

「あら、私もよ。その時はよろしくね」


 俺とオリビアはまだ小さな身体で将来を誓い合った。



 ◇



 海は広大だった。

 もちろんそんなことは初めから分かっていた。

 だが、改めて言いたい。海は広大だ。


 鮭に産まれたからだろうか、泳げども泳げども先が果てしない。


 不思議なことに海の中は居心地が良かった。

 周りは暗く冷たいのに、それが気持ち良いのだ。


 もちろん良いことばかりでもない。

 身体の小さな俺達は常に敵に狙われストレスを感じてもいた。

 それが生存への起爆剤となっているのか、俺達兄弟は懸命に、ロウソクの火が燃え尽きるかのごとく激しく生命力をたぎらせていた。

 それでも兄弟はだんだんと数を減らし、今や半分をきっている状態だ。


「君が危険な時は俺が守るから」

「貴方を失いたくない。死ぬ時は一緒よ」


 俺とオリビアは少し大きくなった身体で愛を確認する。

 両腕があれば今すぐにでも彼女を抱きしめるのに、そんな感情をいつも抱いていた。


 まだ旅は始まったばかりだ。



 ◇



 一年が過ぎた頃、群れに見知らぬ鮭が紛れ込んでいた。

 恐らく他川出身の同種だろうが、そいつは明らかに違っていた。


「へぇ、オリビアちゃんって言うんだ。君すごく可愛いね」

「寄ってこないで。私にはちゃんと将来を決めた相手がいるの」

「そうなんだぁ、どいつなの?」

「あそこにいる彼よ」


 そいつは「ふ~ん」と意味深に俺を見ていた。


 どうもそいつは俺達と同じ転生した奴らしい。

 名前は『竜介』と言っていた。

 俺と同じく日本人なのだろう。


 しつこくオリビアにちょっかいを出す竜介に、俺は度々注意をした。


「別にいいじゃん。誰を選ぶのかはオリビアちゃんの自由だろ」


 それがあいつの言い分だった。

 もちろん俺だってそれくらいはわきまえている。

 けど、オリビアが嫌がっている以上その理屈は通らない。

 なにより俺にとって奴の行動は不愉快極まりなかった。



 ◇



 旅が始まって一年と半年が過ぎた頃、オリビアに変化が現れた。

 俺との時間が極端に減って、竜介と会話する時間が圧倒的に大部分を占めていたのだ。


「オリビア、群れの外側は危険だからなるべく中心に行こう」

「ごめんなさい。今、竜介と話をしている途中だから」


 そして、俺はとうとう二匹が愛を確認するように、身体をこすり合わせる光景を目撃してしまった。


 それはどうしようもないほどの敗北感。

 心も体も深く暗く冷たい場所へと誘っているような感覚があった。

 同時に深い喪失感が俺を支配する。


 だが、それでもまだ信じられなかった俺はオリビアに問いただした。


「さ、さっきのことはただの間違いだろ? 竜介と愛を交わしたわけじゃないよな?」

「……ごめんなさい」


 彼女はそう言って俺から少しずつ離れる。

 けれども俺は近づいて話を続けた。


「どうしてだ!? 俺と君は将来を誓い合ったじゃないか!」

「それは昔の話よ。とにかくごめんなさい」


 彼女は今度こそ俺との関係が終わったことを態度に示した。

 ちらりと見えた竜介の顔はニヤついていた。


 俺は群れの最後尾に移動し、一人孤独に泣いていた。

 もちろん涙なんて出ない。心の中で嗚咽を漏らすのだ。


 最愛の人を失った瞬間だった。



 ◇



 それからは地獄だった。

 群れの中でボス面をする竜介。

 彼に従う兄弟達とオリビア。


 俺にもはや居場所はないに等しかった。


 けれど、今さらどこに行けよう。俺は決められたルートを泳ぐしかできない鮭。

 一匹でどこかに行こうものならあっという間に食べられてしまうだろう。

 生きる為には群れから離れることはできなかった。


「たまには健太を先頭にしてやろうぜ。可哀想だし」

「え? 健太を?」


 強引に群れの先頭に出される。

 すぐ後ろでは竜介とオリビアがひそひそと話をしていた。


「ぶふっ、だせぇ。女も居場所もとられてよく生きてられるな」

「止めてあげなよ。可哀想じゃない」


 俺は逃げるようにして泳いだ。

 もうこの現実から解放されたい。


「もっと速く泳げよ。のろま」

「あぐっ!?」


 竜介は俺の尾びれに何度も噛みつく。

 オリビアは「ひどいことをしないで」と言うばかりで本気で止めようとはしない。


「もういいじゃない。そろそろ最後尾に行かせてあげて」

「ふん、良かったな。彼女の優しさに感謝しろよ」

「…………」


 俺はよろよろと群れの最後尾に下がった。

 すぐにオリビアがやってくると哀れんだ目で俺を見る。


「貴方もいけないのよ。強ければこんなことにはならなかったんだから」

「何が言いたい。全部俺が悪いって言いたいのか」

「そうじゃない。そうじゃないけど、貴方にはない魅力が彼にはあったの」

「……そうか」


 これ以上話をしても無意味であることはお互いに理解していた。

 すでに旅を始めて二年。彼女への愛は冷め切っていたのだ。


 すっと離れて竜介の元へ戻るオリビア。


 その後ろ姿を見ながら俺は妙な感覚を覚える。

 なにか重大なことを忘れているようなそんな感覚だ。


 なんだろう。何を忘れているのだろう。



 ◇



 進行度八十%

 精神状態:C

 記憶領域プロテクト:正常

 チェックA……OK

 チェックB……OK

 チェックC……OK

 チェックD……OK

 チェックE……OK


 プログラム継続可能。



 ◇



 四年が経過した。

 この頃には俺も立派な大人になっていた。


 だが竜介とオリビアの関係は変わらなかった。

 相も変わらず見せつけるようにいちゃついている。

 ただ、この状況に慣れすぎたせいかなにも感じなくなっていた。

 俺が成すことは無事に子孫を残すことだけ。


 群れは生まれた川へと向かい始めていた。


「生まれた場所は違うけど、君の為に同じ川に行くよ」

「嬉しい。きっと良い産卵になるわ」


 くだらない。もう産卵するつもりかよ。

 俺達はこれから長く険しい道を上らなきゃいけないんだぞ。

 ああ、そうだよな。愛があるから君達は無敵なんだったな。


 そんなことを考えつつ俺は、次々に合流する群れで良さそうな相手を探す。


 だが、俺の身体が小さいせいか雌達は見向きもしない。

 竜介達に餌を横取りされ続けて成長が満足にできなかったせいだ。

 悔しいがもうタイムリミット。

 鮭の生涯は一大イベントを超えたら終わる。


「!?」


 突然視界にノイズが走った。

 すぐに元の景色に戻ったが、俺はひどく混乱する。

 なんだ今のは。目の錯覚か。



 群れはとうとう河川に突入した。



 そこからは下った時とは逆の行動を行う。

 流れに逆らい生まれた場所へと泳ぎ続けるのだ。

 膨大な同胞達が身を寄せ合い進み続ける。

 空からは鳥が狙い。

 川岸からは獣が牙をむく。


 疲労が蓄積し、限界が近づいていた。

 身体はひどく傷つき泳ぎも雑になってくる。


 それでも目は、意識は、ギラギラとしていた。


 ”子を作れ”


 ただそれだけの命令が俺をかきたてた。

 進め。進め。進み続けろ。

 気が付けばそこは生まれた場所だった。


 すでに産卵が始まっており、尾びれで砂利をどかした雌が卵を産む。

 そこへ雄が生命のシロップをかけていた。


 俺も! 俺も相手を探さないと!


 けれどそんな都合の良い相手などタイミング良く現れるわけがない。

 雄と雌の数だって差がある。

 そこで俺は妙な光景を見た。


 メインの雄がかけた直後の卵に、別の雄がシロップをかけるのだ。

 するとその上からまた別の雄がかける。

 やるならあれしかないと俺は本能で悟った。

 何もできずに死ぬなんてまっぴらだ。


「ああ、最高の気分だわ」

「これで俺達は役目を終えたな」

「愛してるわ竜介」

「俺もだオリビア」


 ちらりと見知った二匹を見たが、横取りしようなんて気分にもならなかった。

 むしろ気持ちが悪い。あんな女の卵から我が子が生まれてくるなんて。


 俺は探し続けようやく気に入った相手を見つけた。


 それはとんでもなく美人の雌だ。

 隣には大きな身体の雄がいるが、図体がデカいだけあって俺にはまったく気が付いていなかった。

 俺は心の中で何度も何度も謝りつつ機会を窺う。


 雄がシロップをかけようとしたその瞬間。


 俺は素早く間に入り、雄を弾き飛ばして卵にシロップをぶっかけた。

 普通の魚ではできない芸当だ。

 自分で言うのもなんだが達人級の技術だと思う。

 雌はギョッとしていたが、もう力が入らないのか後方へと流れていった。


 本来最初にかけるはずだった雄は二番手となり、慌ててシロップを上からかける。


 すまない。本当にすまない。

 でもこれが生存競争だ。

 俺が竜介に負けたように彼は俺に負けたのだ。


 ふわっと身体から力が抜けるのを感じた。


 もうしばらく生きられそうだが、もうそんな気力もない。

 これで良かったんだ。


 長い旅の果てに俺は小さな希望を残した。

 俺の遺伝子を受けた子供達よ、これから始まる長い旅を応援している。

 この厳しい世界で生き抜け。どんなに辛いことがあったとしても。











 【体験プログラム終了】

 【復帰開始します】


 白い空間の中で光がいくつも瞬いた。

 頭の中で声が聞こえる。

 機械的な音声。


 【間もなく覚醒します】


 突然、五感が戻った。

 あるのは人の身体の感覚。


 うっすらと目を開けると、白衣を着た男性がこちらをのぞき込んでいた。


「あ、良かった。ちゃんと戻ってきましたね」

「う……ここは?」


 白いカプセルから俺は身体を起こす。

 頭の中が混乱していてまだ整理ができない。

 男性は薄い透明なタブレットを俺に渡した。


「貴方は田辺健太。SONEの代表取締役です。どうですか、思い出してきましたか」


 SONE……ハード機器など様々な分野を手がける日本でも有数の大企業だ。

 そうだ、俺はそこのグループ統括者だ。


 だんだんと思い出してきた。


 今回体験したのは新しく開発された没入型電脳シミュレーター。

 どうしても一度体験してみたくて、販売前に自ら最終テストを申し出たんだったな。


 体験内容は……確かサーモンの生涯。


 あらかじめ設定したキャラクターでサーモン転生ができると言う話だった。

 その際、記憶が一時的に切り離されるとも言っていたな。

 理由はよりリアルに没入する為。


 なぜサーモンだったのか……そうだ、アダルト規制を抜ける為に人ではなく別の生き物にする必要があったんだ。

 それならいくらでも男性ユーザーが快楽を得られる。

 もちろん今回体験したストーリーモードではなく別のモードでだが。


 プシュー。


 他の二つのカプセルが開く。

 中からそれぞれ男女が出てきた。


「ここは……どこ?」

「無事にお戻りになられましたね。安原千香さん」

「違う。私はオリビアよ」

「まだ混乱しているようだ。慌てず落ち着いて」


 白衣を着た男性はここの管理責任者だ。

 彼は非常に優秀な人物である。


 安原千香――俺の婚約者だ。


 そうそう、俺はせっかくだからと彼女と一緒に体験することにしたんだ。

 あともう一人いたはずだが……。


「最高の気分だったのに最悪だ」

「現実とはそう言うものですよ。だからこそこの機器は売れる。最初に私はそうお伝えしたはずですよ。中本竜介さん」


 そうだ、中本竜介。

 彼は俺の部下だったはずだ。

 頭も切れて要領が良い。俺は彼の働きを高く評価していた。


「田辺様、お体が冷えます。これを」

「ありがとう」


 カプセルには裸で入っていた。

 だから今は一糸まとわぬ状態だ。

 管理責任者からガウンを受け取った俺は羽織る。


「君は最初、このシミュレーターはその人間の本性が出ると話していたな」

「はい。だからこそ私は三人で同時に入ることをお勧めしませんでした」

「忠告は正しかった。俺は鮭の一生を送る中で本性を見たよ。あれが正しいとか間違っているとか言うつもりはないが、人の本質を思い知った感じだ」

「では今後の出資の件は……」

「もちろんする。これは莫大な利益をもたらすだろうな」


 俺は責任者と握手を交わした。


「ただし、複数人での体験は禁止だ。問題になる」

「でしょうね」


 たたたっと裸足で俺の元に駆けてくる者がいた。

 中本竜介だ。彼は素早く床で土下座する。


「申し訳ありませんっ! ゲームの中の出来事とはいえ、なんと失礼なことを!!」

「なぜ謝る? 君はあの厳しい生存競争の中で、ちゃんと強く生き抜いたじゃないか」

「ですが――」

「尾びれを噛まれた時は痛かったなぁ」


 顔を上げて目を見開く彼を、俺は笑みを浮かべて見下ろす。

 くくく、そんな顔するなよ。ただ単に痛かったって言ってるだけだ。


「心配するな。これはゲーム、現実に持ち込んだりはしない」

「…………っつ!」


 次に走ってきたのは婚約者の安原千香だ。

 彼女は俺の腕にしがみついて青ざめた顔をしていた。


「あ、あんなのはゲームの中のことよ! 本当の私じゃないわ!」

「そうだろうな。俺もそう思う」

「でしょっ!? さすが超一流企業の代表取締役だわ! ここにいる安っぽい男とは格が違う!」

「ふむ、だがそれだと君も安っぽい女ということになるが?」

「!!?」


 震え始めた彼女は後ずさりする。

 俺はにこやかに笑いかける。


「ゲームの中のことじゃないか。ここは現実、俺は空想と現実を混同したりはしない」

「もう二度と裏切らないからっ! 信じてお願いっ!!」

「何を言ってるんだ。少し落ち着きたまえ」


 俺は二人を任せ、この場を早々に後にする。

 いつものスーツを身につけると、ビルから外に出てスマートフォンを取り出した。


「あ、君か。悪いんだが中本竜介をキャリア開発室に移動させてもらいたい。そうそう、早ければ早いほどいい。それと安原への投資の件は中止だ。近いうちに婚約は解消する。では頼んだぞ」


 通話を切ると黒塗りの車が目の前で停車する。

 運転手がドアを開けたので、滑り込むようにして身体を中に入れた。


 すぐに車はゆっくりと発進する。

 俺は黙って窓から見える夜景を眺めていた。


 あの卵がどうなったのかを思い浮かべながら。


 【完】


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サーモン転生NTR ~最後に俺は静かにざまぁする~ 徳川レモン @karaageremonn

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