鬼哭啾々
晩秋の丘に、崩れかけの小屋。
ぼろぼろの床に腰を据え、老人は静かに目を閉じる。 古着物から覗く細腕を、かつて数多の剣士を斬って捨てた男のものだと、今となっては誰が信じようか。
枯れ葉を背負った寒風が、木立に切り裂かれ金切り声を上げている。 絶え間なく、忙しなく、慣れ親しんだ、耳障り。
分厚い雲がそこらを陰らせて、雨の便りを報せてはいるが、そもそものところ、この廃墟と呼ぶのも憚られるような、いっそ
権威を極め、武を極め。 そうやって掴み取ったありきたりな幸福の数々。この老人はそれら全てを捨てさって、賊に身を
身一つと刀一振り。 もとからこれしか自分にはあり得ないと悟り、それより他の何かでは、決して自分を満たし得ないとわかった。
穏やかな屋敷で我が子を抱き上げても尚、この眼には、内に眠る『人斬り』の本性しか映らないのだと知った、あの時から。
どれだけ空虚だったことか。 剣の腕を磨いたばかりに、斬り合いとは程遠い場所に根を下ろしてしまう。 生涯の多くはままならぬこと。 そんなことは世の常だと弁えていた筈だったが……。
人の気配が近づいてくる。 足音から察するに一人。 まっすぐに、この廃墟を目指している。
老人の目は、固く閉ざされたまま。
「……久方ぶりです、
ゆるりと開いた視界には、若い男が映っていた。
軋む床板を意に介さず、目の前に男は鎮座する。 風体に目だったところはない。 安物の羽織と腰に指した打刀、足軽か野武士か。
久方ぶりという言葉を鑑みるに、かつてどこかで縁のあった者らしいが……。
「すまない。 見ての通り、すっかり老いさらばえてしまった身でな。 あんたがどこの誰かさんか、てんで見当がつかなんだ」
意味のある言葉を発したのも、もういつぶりかも思い出せない。 己は疑いようのない世捨て人。 今更そんな老いぼれを訪ねる若人がいるとは、俄には信じられなかった。
男は表情を変えずにこちらを見据えたまま、 やがて何かを決心したように、口を開いた。
「
捨松。 ああ確かに、幼子を拾いそのような名で呼んだ覚えが、
「……なんとまぁ、一丁前になりおって」
お陰様で。 そんな他愛ない返事を聞き流す。
「今日はどうした、昔話に花でも咲かせに来たのか」
「……ええ、ある意味では」
捨松の、不穏な一言を皮切りに、軽く怖気が走った。 鳥肌を這うような冷たさ、この身震いに、老人は奇妙な安堵を覚えている。 そう、これは、紛れもなく──。
「爺さん、貴方は強い剣士だったと。 古い時代を生きた知り合いがよく話していた」
独り言にも聞こえる調子で、捨松はかつてを語る。 一言一言を経る毎に、声音に更なる重しを乗せながら。
「武士として大成したこと。 それら全て裏切り、人斬りに身を落としたこと。 行商を襲って奪った金品で暮らしを成り立たせていたこと」
全て、事実だ。 己が気の向くままに、なんの罪もない者を大勢斬った。 金のために
「ある日は大罪人を逃し、またある日は、行商の一家を斬りに斬った」
全く以てその通りだった。
「その行商には赤子がいて、そして、」
「拾い上げ、捨松と名付け育てた。 応とも、まさしく俺の所業だ」
弱々しい喉から出る声は、外の風に立ち消えるかというほどに小さかった。
捨松から怒気が迸る。 当然だろう、親同然に振る舞っていたその男こそが、紛れもなく家族の仇だったのだから。
「……何故、そのような真似を」
何故。 何故と問われるのは、あまりに悩ましい。
「何の酔狂で、この俺を拾って育て上げた!!」
声を荒げる捨松の眼は、獣さながらだ。 気づけばもう刀を強く握りしめている。 そこまで怒りを
「今までなぁ捨松。 俺は、捨てて来たんだよ。 栄誉も家族も、お前も……」
捨松の右手が、よりいっとう強く震えた。
「それでも、刀だけは。 人斬りだけは捨てられなんだ。 犬畜生にも劣る、醜い俺の
「違う」
怒気に喉を
「あんたは刀を捨てられなかったんじゃない。 刀を捨てない為に、その他全てを
「……罪は、認める。 この首だって差し出そう。 それで捨松、お前の気を晴らしておくれ」
……それだけのことを、したのだ。 むしろ息子同然に育てた男に首を落とされるなら、幸福ですらあっただろう。
しかし捨松の応えは、老人の予期し得ないものであった。
「……いいえ、できません」
怒気を、憎しみを無理矢理に噛み締めたような、苦し気な声で捨松は言う。
「まがりなりにも貴方は育ての親。 この捨松に斬ることは叶いませぬ。 だから──」
震える身体を、力ずくで押さえ込んでいるのが見てとれる。
何故、と今度は老人の口から零れ出た。
顔を伏せ、柄を握ったまま、捨松は立ち上がる。
「……剣を抜け、人斬り。 貴様の外道を、今ここで斬って断つ」
固唾を飲んだ老人は、やがて。
「……表へ」
鍔のない、武骨な刀を手に
自分は情けなく、弱い男だ。 今もそう、つくづく痛感している。
爺さんから剣術を教わるときも、自分は泣いてばかりいた。 木刀を持つと途端に凄みを増した爺さんが、幼い頃は怖くてたまらなかった。 ──いいや、それは今も変わらない、か。
剣鬼。 人斬り魔。 自らを育てた男の正体を聞いたときは、目眩がするほど怒りに狂った。
いくつもの戦場を経て、人斬りに仕込まれた刃を
仇敵を討つのだと心に叱咤して、いざ勇んでこのぼろ屋敷に足を踏み入れてみれば。
そこにあったのは、この捨松をどこか懐かしむ、育ての親の姿のみだった。
そのとき理解した。 俺に親は斬れぬのだと。 家族の仇という重責でさえものともせず、心の内にある秤は、目の前にいる男に傾いてしまうのだ。
どうして思い出してしまうのか、幼い頃を。 苛烈に過ごしたとばかり思っていた日々が、こんなにも、自分を成り立たせる柱となっていただなんて。
すでに賽は投げられた。 目の前にいる老人を、親同然として斬れないのであれば、人斬りとして、この
刀を構え、両者は静かに向き合う。 冬の訪れを告げる北風が、二人を等しく、ゆっくりと、死へと追い詰めていく。 まるで彼らを斬り合いへと
視線が交わる。 老人の濁った目に、己の姿は見えない。
先手を打たんと地を蹴った。 胴と脚を生き別れさせる腹積もりの、横薙ぎの一閃。 だが相手も老境に達しているとはいえ達人だ。 こちらの斬撃に刃を這わせ、あらぬ方へと斬り流す。 まるで衰えを見せない技の冴えは、流石の一言に尽きる。
初手は不発に終わったが、勢いのまま踏み込み、此度は袈裟懸けを揮う。 老人が手早く刃を引き戻すと、まともに鎬どうしがかち合った。
ぎぃ、と渇いた耳障り。 押し切れる、と捨松は合点する。 体力と膂力で勝るならば、競り合いに持ち込み勝機を見出だせるはずだ、と。
だが、それは悪手も悪手。
押し込んだつもりが、ぬるりと背後に回り込まれた。 おまけにだめ押しと言わんばかりの脚払い。
重心を大きく崩された捨松に、老人は情け容赦のない振り下ろしを見舞う。
恥も外聞もなく、背を見せたまま、文字通り必死に老人から距離を取る。 が、背に一瞬の冷ややかさが、少し遅れて、舐めるような熱さ。
斬られた──。
その確信は、火を見るより明らかだった。
「どうした」
老人はゆるりと構えを直して、嘲る。
「それがお前の実力か」
その表情に、老人の内に潜む鬼を見た。
構えでわかる。 しなやかでいて獰猛、緩やかに見えて、何より鋭く相手を貪る。
そう、あれは毒蛇だ。 間合いを惑わせ、毒牙を突き立て、殺す。 そういった手練手管を、あれは身に付けている。
ならば競り合いなど愚の骨頂。 言うなれば、大口を開いた蛇に、好き好んで頭を差し出すようなものだ。
技量で言えば差は明らかだった。 この老獪は、まるで手に負えない。 刀を弾き落とそうにも、先の斬り結びで、それが不可能であると実感した。 あの枯れた細い指は、廃屋に根を張る老樹のように、柄を絡めて離さないだろう。
どうする、焦りを見透かすように、冷たい風が強く吹き抜けた。
捨松は、剣を執るには優しすぎる男だ。
仇討ちでさえ心が揺れる、甘いとすらとれるほどに情の深い人間だ。
そんな人間だと知ったからこそ、二度と外道に屈しないようにと、剣の稽古をつけてやったのだ。 他ならぬ自分が。
だというのにどうだ。 自分の内の鬼は刀を握ったが最後、執拗に捨松の血を求め続けている。 この斬り合いに満たされながらも、捨松を斬りたくて仕方がない。
嗚呼、捨松。 こんな外道に負けないでおくれ。 どうか、俺に育てられたことなど忘れて、ただ醜い人斬りを殺すためだけに、その刃を揮っておくれ。
怒りと憎しみと恐れに戦慄く我が子は、決して刀を手離そうとしない。
「そんな心任せの段平がまかり通るなら、お前の親とて、俺に斬られることなど無かっただろうさ」
すらすらと、流れるように捨松を煽り立てる。
瞬間、捨松の目が怒気に染まった。
「貴様が道を説くか、外道めが!!」
そうだ。 怒れ憎しめ。 殺気と怒気を忘れるなかれ、されど気に飲まれるなかれ。
刀を握りしめろ、気を引き締めろ。 そうして研ぎ澄ませた刃であれば、或いはこの老いぼれを、斬って捨てることとて造作ないはずだ。
捨松が迫る。 己が渾身を込めて。
怒りと憎しみに晒されながら、老いた剣鬼は思い出す。 鳥肌を這うような冷たさを、この身震いを。
今、斬り結ぶ此処こそが、己を己足らしめている桃源郷なのだ。
歓喜が心から溢れだし、身体のそこかしこでのたうち回り。
思いのままに刀を構える、捨松を迎え打たんと。
そして。
怒りと憎しみを乗せた刃と。
喜びと哀しみに染まる刃が。
最後の交錯を果たす。
曇天は深い鉛色に染まっていく。 どこから嗅ぎ付けてきたのか、烏の群れが、まだ生温かい屍を啄んでいた。
やがて、冷たい雨が降る。
短編 進捗雑魚太郎 @lancelot4989
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