短編

進捗雑魚太郎

貴方のために歪む世界

死が身近になったのは、いつからだったっけ。 ひいじいさんが死んだときは、まだ小さかったし、本人と殆ど会ったこともなかったから、人が死んだ実感なんて無かったと思う。 自分の血縁が亡くなった経験もこの一回きり、知り合いだって、今のところ五体満足で生きている。 ──あぁ、でも飼っていた猫が死んだときは、滅茶苦茶に泣いた。 死を身近に感じて、死について考えるようになったのは、これがきっかけだったかな。




「今年度中に死ぬと思うから、あとよろしく副部長」


中学の頃から密やかに憧れていた先輩は、まるで気軽にそう言ってきた。

普段からあの人は冗談を言うような人じゃなかった。 だから、きっとあの言葉は真実なのだろう。 藍色の細縁眼鏡から覗く目付きも、少し気怠いようにみえる表情も、だけど薄く上がり気味の口角も、普段のままで。 だから、普段通りに、ありのままを語っただけなのだろう。

面食らった俺は立ち尽くして、蝉のうるさい夏の帰り道を進む先輩を、ただ眺めた。 遠ざかっていく白いワイシャツと飾り気ない一本結びの黒髪が、陽炎に揺らいで見えなくなる。 何かを言おうとしていたはずだったのに、何も言えないまま。

──何も言えないまま、月日は流れる。 蝉の鳴き声はいつのまにか途絶えて、気がつきもしない間に落ち葉もどこかに消え去って、街には静かに雪が降り積もっていく。


十二月二十二日。 年内で最後の部活だといっても、わざわざこんな雪の中、休みを棒に振ってでも絵を描きに来ようとする人間は、相当に限られるのだろう。

高校の正面玄関をくぐり、雪が滲んで湿った靴下で、冬の外気で冷やされた上履きに踵を下ろす。 凍りつきそうな足先の感覚は、いくら雪国育ちと言っても親しみたくはない。

人の気配が全くない、温もりの欠け落ちた渡り廊下は、見ているだけでも底冷えしそうになる。 馴染みのあるこの景色が、こんなに虚ろだったなんて思いもしなかったな。

そんな風景に紛れこんでいる、美術準備室の表札。 冷たい世界から逃げ込むように、早足で向かって、部屋に入った。


部室は静かな温もりに満ちていた。 昔ながらの石油ストーブが、外界と切り離された小さな世界にささやかな火を灯し。 電気は点いていないけれど、大きな窓ガラスが雪明かりを招いて、大雑把に室内を照らしている。 その中の光に溶けない陰影に、一つの人影を見出だした。


「おはよう、私より一時間くらい遅く来たね」


先輩は俺の顔も見ないまま、スケッチブックに向き合ったまま言う。 ありのままをありのままに発する、無駄な想いの籠もっていない声色。 人によってはいい印象にはならない、実直な言葉選び。 そんな人格の一つ一つが、スケッチブックに少しずつ、絵になって表れていくようだった。


「盛りすぎじゃないですか、五分くらいの遅刻のはずです」


手荷物を整理する傍ら、先輩の手元にホットココアを置いた。


「貰っていいの?」


「遅刻の免罪符のつもりなんで」


「それじゃ遠慮なく」


先輩は絵を描く手を止めて、缶を両手で包み込む。 少しかじかんでいたのだろう、スケッチブックの線も、俺が言えたことじゃないけれど、いつもよりキレがないように思えた。




先輩の作品を初めて見たのは、中一の、入学式から一週間くらいのことだ。

かつてスポーツ少年だった俺は、だけど中学では運動部に入ることは全く考えていなかった。 チームプレーやら人間関係やらに辟易して、人と接することが億劫になって。 いっそ独り気楽に帰宅部でいようとさえ考えたくらいだ。

そんな折に、たまたま美術部の勧誘の貼り紙が目に留まった。 鉛筆を持つ右手が、桜の花を描いている絵。 そのとなりに『新入部員募集、お気楽にどうぞ』と添えられていた。 人肌のような柔らかさと春のような温かさの宿ったその絵に、たった二言だけの貼り紙。 美術なんて飾りたててなんぼだと思っていたけれど、あの貼り紙は違ったと今でも思う。 それから美術部に興味を持って、その週にはもう正式な部員になっていた。


「貴方が、谷 秀介くんかな」


GW目前のある日、先輩は声をかけてきた。 なんでも、新入部員の顔と名前を頭のなかで整理したかったそうで。


「副部長の長谷川です、入部ありがとう」


言うだけ言って立ち去ったその先輩が、あの貼り紙を描いた本人だと知ったのは、もう少し後のことだ。




あの日から、もう少しで三年が経とうとしていた頃。

長いのやら短いのやら。 先輩の絵を知って、先輩の絵に憧れて。 もっと先輩のことを知ろうとして、高校さえ、先輩の進んだ道をなぞって。

いつかの帰り道、葉桜が陰るセピア色の夕方で、先輩は口を開く。


「私さ、似眠症じみんしょうなんだって」


それは、緩やかに罹患率を上げていく不治の病だった。

意識障害や感覚の麻痺、記憶障害に重度の睡魔といった症状が見られ、発症から五年以内の死亡率は九割を越えるとされている奇病。 年齢、性別、人種、生活習慣、分布、どれも傾向を特定できず、対策のしようもない。 そして殆どの人が、眠るようにして最期を迎えることから、似眠症じみんしょうと呼ばれていた。


「今年度中に死ぬと思うから、あとよろしく副部長」


その言葉を耳にして、早いこと八ヶ月。

気がつけばずっと、死について考えていたと思う。

例えば葬式は部員も行っていいのかとか、クラスメートは多分、皆出るんだろうとか。

例えば先輩の家族は、どんな思いでこの毎日を過ごしたのかとか、先輩の友達はどう思っているのだろうとか。

例えば先輩は、死んでしまったらどこに行くんだろうとか、俺が死んだときにまた会えるんだろうか、とか。


どれにも満足いく答えを出せないまま、答えを出してもいいのかさえわからないまま、それでも確実に、別れの時は近づいている。 スケッチブックに擦れる鉛筆の音が、なんだか刻々と巡る秒針みたいだ。

その音を聞き流しながら、いつかの日の桜の絵を思い出す。 その桜を、今までやってきたことと同じように、記憶の通りにシャーペンでなぞっていった。 時間が経ってあやふやになってしまった記憶を、それでも手元に、はっきりとした形で描いていこうと。

不意に先輩は手を止める。 軽く伸びをして、免罪符のココアに手を伸ばした。


「いただきます」


缶が、ゆっくり開く。 カカオの濃い匂いが、部室の温もりに薄く馴染んでいく。

ココアを飲む先輩を尻目に、シャーペンを走らせようとした。 けど。


「谷ってさ、どうして美術部に入ったの?」


突然、そういう話を振られるのは、ちょっと困る。


「……なんすか、いきなり」


「気になったから」


なんともまぁ、先輩らしいといえばらしいか。


「そんなに面白い話でもないですよ」


「結構もったいぶるね」


「どころか話すつもりもないです」


「あぁそう」


軽い落胆の表情を先輩は見せてくる。

そんな先輩から、思わず目を逸らしてしまう。 なんだか今の先輩は、いつも以上に直視するのが気恥ずかしかった。 この気分を抱えたまま、先輩の絵に憧れて美術部入りました、だなんて死んでも言えるか。


「先輩こそ、どうして美術部に?」


上手いこと切り返せた気がする。

先輩はすぐ真顔になって、明後日の方を向きながら、話し始めた。


「ずっと昔に、五歳くらいまで住んでたところ、もう街並みが随分変わっちゃってさ」


眼鏡を外して、拭き布でレンズを拭きながら。


「小四の時に一回だけ戻ったんだけど、全然知らない街になっちゃっててね。 小さい頃でも大事にしたかった思い出、みたいなのも、全部なくなっちゃった感じして悲しかった。 だけど昔の街並みの写真を見ても、私の中の街とはしっくり来なくてさ。 なんとか必死に、私の中の街にある思い出がなくならないように、絵に描いて残したかったのかな、で、」


眼鏡をかけ直す。


「絵ばかり描いてたらインドア人間になっちゃって美術部に入ることに」


ご清聴ありがとう、と話を締めくくる。

正直、想像してた以上に話が長くて、半分くらいしかちゃんと聞いてなかった。


「深いっすね」


「途中から聞いてなかったでしょ」


見透かされていた。

なんとかバレないように話を変えようと、無理矢理に話題をひり出そうと考える。

部屋中に視線を泳がせて、先輩の眼鏡に目が止まった。


「目悪いんすか」


「学年一悪いかも、眼鏡取ったらさ、」


眼鏡を外すと先輩は、不意に俺へと顔を寄せてくる。

目を細めながら、近づいたり、少し遠退いたりして、その間もずっと、俺の目に視線を向け続けていた。


「これくらい近づかないと谷の目が見えない」


「目付きすげぇことになってますけど」


「仕方ない」


「いやぶっちゃけ怖いっす」


先輩は俺の方に眼鏡を差し出してくる。


「ちょっとかけてみてよ」


「え……」


「似合うかもよ」


藍色の、細い縁の眼鏡。 俺がかけるには少し小さく思えるが、言われるままに眼鏡をかけてみる。

景色が酷く霞んで、近くの先輩すらぼやけてしまった。 遠近感がいつも通りじゃない。 見慣れない視界に、軽く吐き気を催しそうになる。 これは相当に度がキツいんだろう。


「似合います?」


「見えてないんだからわかるわけないじゃん」


やられた。 さっき話を聞いてなかったら、先輩なりの仕返しなのだろう。

ため息を吐いて、眼鏡を返そうとした。


「ちょっと預かってて、一寝入りしたい」


あくびを噛み殺しながら、先輩は机のスケッチブックをどける。


「眼鏡のデッサンしてていいっすか」


「じゃあそれが出来上がったら起こして」


言って、机に覆い被さって、先輩は眠りにつく。


「谷」


かと、思った矢先。


「もしかして、私のこと好きだったりした?」


心臓を、鷲掴みにされたような感覚。


言葉に詰まりそうだったけれど、なんとか声を絞り出す。


「先輩が冗談を言うなんて珍しいですね」


先輩の表情は、見えない。


「かわいくない」


と、ため息混じりの声が、辛うじて聞き取れた。




わからない。

自分が先輩に抱いている感情は、まず真っ先に憧れだ。 好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きな部類だろう。 ただその好きが、どういった好きなのかは、まだ理解しきれない。

心臓は思ったよりも優しい鼓動のままだけれど、頭の中はまるで早送りのビデオテープみたいにせわしい。

眼鏡が画用紙に、少しずつ描かれていく。 必死に手元の感覚にすがって、気持ちを落ち着けようとする。


だけど、溢れてくるのは思い出ばかりだった。


「先輩」


記憶の中の先輩が、こっちを向く。


「普通に、呼び捨てでいいです。 そっちの方が気が楽なんで」


あれは、仮入部が終わったくらいのことか。 まだ同学年とも打ち解けてないのに、随分と大胆なことを言ってしまったような自覚はあった。


「わかった、谷でいい?」


それから先輩が俺のことを呼ぶときは、谷と呼ぶようになったのを覚えてる。


「先輩」


記憶の中の先輩が、顔を上げる。


「先輩っていつもどういう風に描いてるんすか?」


あれは、中二の夏休み前のことか。 扇風機しかなくて暑くて仕方のなかった中学の美術室で。 大して上手くならない自分の絵に痺れを切らして、アドバイスを貰おうとしていた。


「私はいつも輪郭から描いてる。 なんとなくバランスがとりやすいから」


その言葉を、いつも絵を描こうとするときに思い出すようになった。


「先輩」


記憶の中の先輩が、振り返る。


「俺も先輩と同じ高校に行こうと思ってんで、一年だけ待っててください」


あれは、先輩の卒業式のことだったか。

咲き始めの桜の花に、並木が薄く染まっていた。 あの三分咲きの桜並木は、なんとなく覚えている。

先輩なら、満開の桜よりも、こういう桜の方を絵にしたがっただろう、なんて考えていたから。


「谷が文化祭来てくれたら、一年も待たずに済むんだけど」


そう答えてくれたことも、忘れていない。


「……」


記憶の中の先輩は、歩き続ける。


「……、っ」


セピア色が染めていく通学路に、陽炎の向こう側に進んでいく先輩は、まるで夕陽みたいだな、なんて。


あの日の事は、出来ることなら、思い出したくない。




画用紙に、一つの眼鏡が描かれていく。 色鉛筆を使わなかったから、縁はやや薄い黒で塗ってみた。 レンズにぼやけた桜並木を──いつかの思い出を映した、先輩の眼鏡。

ふと部室に視線を移す。 白かった雪明かりが、もうすっかり青く凍えていた。

思ったよりも描き上がるのに時間がかかっていたみたいだ。 部の活動時間も、終了まで五分を切っている。


「先輩、もう帰らないと」


肩を軽く叩くけれど、目を覚ます様子はない。


「先輩」


少し呆れながら、眼鏡を開いて、先輩の頭に乗せて。

その時、気がついた。


先輩から指先に伝わってくる温もりが、決定的に欠け落ちてしまっていることに。


飲みかけのココアを手にとった。 さっきまでの温かさが嘘みたいに、冬に溶けきってしまったそれを、一気に喉に流し込む。 甘さの奔流で、溢れそうな咽びを押さえつけるために。


先輩のスケッチブックに目をやった。

先輩の主観で描かれた、薄暗い部室。 先輩がよく好んで描くような写実的な画風で。 その絵の左側に、机の上の画用紙に向かう輪郭があった。 その人影だけが、まだ描きかけだった。


組んだ腕に俯せになっていた、先輩の横顔。 頭に乗せた眼鏡をどけて、かかっている髪をどけて、その真っ白い肌を、手のひらで覆った。


俺はあの時と変わらず、何も言えないままだった。




先生に事情を説明して、あとの全てを任せて、家路につく。

沈みかけの夕陽さえ雪景色に阻まれて、自分の描いた先輩の眼鏡の色みたいになった影の中を、一人で進み続ける。

辺りに雪と、道なりに街灯があるだけの、なおざりな景色。


嗚咽になりきれなかった苦しみが、胸のなかで蟠る。

顔が引き攣って、呼吸が上手くできない。

重く冷たい足を、そのまま前へ、前へ。 こんなにも重い足が、自分の意のままに動くのが、なんだか不思議だ。


目頭に宿った熱は、まばたきをするだけで零れてしまいそうだった。 全部が霞んで、ぼやけていて。

その視界は、まるで先輩の眼鏡越しに見た景色に似ていた。


貴方のために歪んでいた、あの世界に。

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