部屋の片隅で、うずくまっている。体育座りをしてみたり、胡座をかいてみたり、寝転がってみたりと、時折その姿勢を変えながら、僕は長い時間そこに居座っていた。

 空調の効いた室内には、僕と、そして彼女だけが存在している。僕は気配を殺しながら、彼女の一挙手一投足をじっと観察している――。

「……ねえ。わたしを見てよ」

 それが、彼女の持ち出した条件だった。ただ、彼女のことを見ていれば良い。視姦でも何でも……いや、わざわざそんなことに労力を使わなくたって、ただ待っているだけでそれなりのものが見られるかもしれない。彼女にとって一方的に不利であるとしか思えないような、そんな提案だった。

 見るということは、加害するということだ。一方的な視線は、必ずと言って良いほど危険をはらんでいる。

 思うに野生動物にとっての強い視線は、とりもなおさず捕食の前段階を意味している。だからあらゆる生物は捕食から逃れるために視線を危険として認識する必要があった。そうして人間も例に漏れず、一方的に見られることを嫌い、見る側は必然的に加害者となってしまう……。これは、人間社会においても未だ有効な危険認識であると、僕はそう思っている。

 彼女の肉感的な体つきを、舐め回すように見た。そこには確かに加害の罪悪感が存在して、同時にサディズム的快感があり、そして最後に湧き上がってきたのは、ちょっとした嫉妬の念であった。

 彼女は、随分と幸福そうな表情をしている。艶っぽい唇を軽く噛んで、汗ばんだ背中にクリームを塗り込んでいく。脱ぎ捨てられた衣類は小さくまとめられて脇に置かれ、日に照らされるままになっている。クリームの、甘ったるく半透明な香りが部屋に漂い、鼻孔を誘惑するように優しく刺激した。

 普段ないほどの汗をかくと、通常では使用されていなかった汗腺が異臭を放つという。僕はふと自分の体臭が気にかかって、そっと体を丸めた。汗臭い、どことなく安心する生暖かい感触が、そこにはある。それがクリームと混ざり合って、うっとりとした感情を起こさせた。

 彼女を見ていると、自然、息が荒くなっていく。そうして、自分の呼吸がいやに大きく聞こえる。白昼、男と女がたった二人、狭苦しい部屋の中で黙っているというだけで、それはもう、許されざる罪であった。彼女のうなじが差し込んできた陽光に照らされ、そこに張り付いた小さな汗の玉一つ一つが、かすかに微笑んでいるように見えた。髪の生え際、頸椎の骨の輪郭が、チカチカと明滅する。

――生命の最終的な存在意義は、他者に観察されることではなかろうか……。

 僕はふと、そんなことを思った。

 生命は他者に見られるために誕生し、自らの存在を知らしめるために子孫を残す。種の保存というのも、結局は自分の存在を主張するための手段でしかないのではないだろうか。他者に見られないものなど、存在しないも同然だ。道ばたの小さな石ころは、たとえそこに存在しなくたって、さしたる問題は発生しない。生物の最終的な欲求が他者に見られること……承認されることであるとすれば。この承認欲求というやつは、案外性欲なんかよりずっと強いのかもしれない。

 そう。普段は息を潜めていて、ふとした拍子に表へ現れる……。そうして、取り返しのつかない強烈な欲求不満をもたらすことだって、あるのかもしれない……。


「……これ」

 彼女が僕に標本箱を渡したのは、その日の夕暮れのことだった。

「色々……ありがとうね」

 玄関先。頬が火照っているように見えたのは、開いた扉から流れ込む熱気のせいだろうか……。

 標本箱の中には彩色虫の姿があって、橙赤色の陽の光を浴びながら、美しく輝いていた。僕は疲れが一気に襲いかかってくるような感覚を受けて、思わず座り込みそうになりながらも、彼女に向かって微笑んだ。

 特に、言うべきことは見つからなかった。

 僕は彼女と別れて、海沿いの道を延々と歩き続け、ローカル線を乗り継ぎ、都心へと帰って行く。その途中で橙赤色の光は赤に変わり、いつしかすっかり暗闇に包まれていた。

 僕は何度も鞄を持っているか確認し、そしてそれ以上に紫色の小箱に気を配った。

――明日、大学へ行く途中、どこかで油性ペンを買っていこう……。

 乗客のほとんどいない深夜の列車で、僕は、そんな計画を立てていた。

――それから、顔にべったりと塗りたくってやるのだ。できれば目立つ色が良い。赤とか緑とか、あるいは青……。

 僕は喧噪の中をたった一人、そんな奇抜な格好で練り歩く妄想をして、湧き上がる欲求と高鳴る心臓を抱えながら、家へと向かって歩いていた……。

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見せる虫 亜済公 @hiro1205

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