喫茶店の窓から見た海は、確かに綺麗だった。しかし、今はどうだろう。灼熱のコンクリートを踏みしめながら、僕は考える。随分見劣りしないだろうか。

 波打ち際に浮かんだオイルの虹色、なかなか消えない白っぽい泡、ビールの空き缶、塩で錆びてしまった赤茶色の金属……。

 ともすれば、靴底が熱で溶けてしまうような気さえした。引っ込んでいた汗があふれてくる。Yシャツが背中に張り付いて、気持ちが悪い。

 僕は眉の辺りにまで下りてきた水滴を拭おうと、手ぬぐいを取り出して……取り出そうとして、鞄を喫茶店に置いてきてしまったことに気がついた。手ぬぐいは、鞄の持ち手に巻き付けておいたのだ。

 僕は来た道を振り返る。ここまでずっと、傾斜の緩い坂を下ってきた。……戻るためには、今度は上らなければならない。じっとりとした汗が、眉を超えて目に入った。

 僕は坂に対して、悪意というものを感じずにはいられない。どうせなら延々と平坦な道でいれば良いものを、わざわざ波打って見せ、そうして実質的な距離を増やしているのだ。大体、上る人と下る人とで不平等なのがいけない。坂を通る者達の間には、暗黙の上下関係と言うようなものが確かに存在して、それは無論下る人間の方が上なのである。

 けれども立場は容易に逆転してしまうというのがこれまた面白いところで、例えば山なりになっていた場合、その前半と後半でそれは全く正反対のものとなってしまう。けれども案外、現実での地位なんていうものも、結局はそんな儚いものなのではないかなと、時々ふと思ったりもする。

 ともあれ、喫茶店まで戻らなければならないのは事実だ。炎天下、いつまでも突っ立っているわけにはいかない。

 一歩目を踏み出そうとしたとき、僕は坂の向こう側に人影のようなものが揺らいでいるのを見つけた。……いや、「ようなもの」ではない。人そのものだ。


「暑いわね」

 彼女は坂を下りきってから、はあと息をついて、僕に向かって微笑んだ。先の喫茶店で、うたた寝をしていた女だ。白いワンピースと、青いジーンズを履いている。汗でしっとりと湿っていて、なんとなくエロティックな首筋の曲線。汗を含んで太くまとまった前髪が、目の辺りにかかっている。それを片手でのけながら、彼女はもう片方の手を差し出した。

「はい。……これ、あなたのでしょ」

 僕は自分の鞄を受け取ってから、湿った手ぬぐいを慌てて外し、首にかける。

「わたし、ずっと起きていたのよ。鞄、出るときに持ってなかったから……」

「どうも。……わざわざありがとうございます」

「いいえ。わたしも、どうせこっちに向かわなくちゃいけなかったから。あなたが坂道を下ってくれて、助かったわ」

 日差しは強く、地面はすっかり焼け石だった。僕と彼女は連れだって、一本道を歩いていく。時折、思い出したように現れる木陰は、喫茶店ほどではなくとも、まさしくオアシスであった。

「この通り暑いから、あそこで休憩していかないと干からびちゃう」

 彼女は可笑しそうに笑う。背中に負っていた小さなリュックサックから日焼け止めクリームを取り出して、それを肌に塗りたくった。

「日焼け止めクリーム、血液中に成分が浸透するらしいよ」

「毒……ね」

 彼女はちょっと考えてから、やはり作業を再開した。

「見た目が大事なのよ。中身はどうだって良いの」

「そうかな」

 そうよ、と彼女は答える。

「何しろ、誰かに見てもらいたくて仕方がないんだもの」

 僕は、反射的に喫茶店の二人の中年男の会話を思い出していた。そうか、起きていたということは、あの会話だって聞いていたんだろう。

「……別に女に限った事じゃないわよ」

 彼女はクリームの容器をリュックサックにしまうと、今度は折りたたみ式の日傘を取り出した。日傘は白く、レースの模様が入っている。

 坂を下ってずっと歩いて行くと、やがて砂浜が見えてくる。人気はなく、幾つかのボートがうち捨てられたかのように、船底を黒っぽくしてたたずんでいた。細かな流木が絡まり、塊となってその周囲に転がっている。

「あの入道雲の辺りにあるらしい島なんだけど……」

 と、僕は彼女に語りかける。

「そこまで、船で連れて行ってくれる人はいないかな……」

「無理よ」

 と、きっぱりそう言った。

「あの辺りは潮の流れが複雑だからめったに近づかないし、大体このお天気じゃ……」

 手をかざして空を仰ぐ。

「誰も外へ出ようとはしないでしょうね」

 肩を落とす僕に向かって、どうして? と問いかける。真っ白いワンピースに目を細めながら、僕は手ぬぐいで汗を拭った。

「虫さ。彩色虫っていう、珍しい虫を探してるんだ。ハサミムシみたいな見た目で、毒々しいくらいにカラフルなヤツだよ……。あの島にはわんさかいるって聞いたんだけれど……」

「そんなもの、いくらだってあげるわよ」

 あっけにとられる僕を見て、彼女はふっと吹き出した。

「標本で良いんでしょう? 家にたくさんあるから……」


 海沿いの街では、年々若い人が減り続け、住民の高齢化は進む一方だった。それはそうだろう。こんなへんぴな場所で一生を終えるくらいなら、都会に行こうというのはごく自然な流れだ。都会が良い場所であるかというと、一概にそうとは言い切れないが、こういう場所では都会に対する憧れが、一種の神話を形成していることが往々にしてある。

 残されたのは老人ばかりで、結果、街にはどことなく古びた……時代において行かれたような、寂しい雰囲気が漂うことになる。第一、活気がない。鎖で繋がれた番犬、垣根の向こうに咲く向日葵、道ばたの石ころから街灯に至るまで、何から何までくたびれている。

 彼女のアパートは、海沿いの道を数十分歩き、幾つかの角を曲がった先にあった。随分年季の入った建物で、二階へと繋がる鉄製の階段は所々錆びてしまい、剥離した塗装が足を踏み出す度に湿った煎餅のような音を立てた。

 鍵を差し込み、少し手間取った後に扉は開いた。ギィと扉はきしんで、真っ暗い部屋の向こう、カーテンの間から差し込む細く白い光が見えた。

「そこらへん、適当に座って」

 明かりがともり、カーテンが開かれる。一人用の卓袱台、平たい座布団、木製の箪笥。ぶら下がったハエ取り紙、台所に散乱する食器、古びた冷蔵庫、戸棚からはみ出した洗剤のボトル。壁に貼り付けられた「自治体のお知らせ」、「熱中症予防の手引き」、「夏季ラジオ体操の日程」……。

「麦茶? 水? それともビールの方がいい……」

「麦茶がいいかな」

 僕は卓袱台の前に腰を下ろす。白っぽい環染みが所々についていた。一人で暮らすには丁度良い広さの部屋は、けれど二人には少しばかり狭く感じられた。互いの息づかいさえ聞こえてくるような気がする……。

 彼女はコップを二つ持って、僕の前に腰を下ろした。

「で、彩色虫だっけ……。この前親戚の叔父さんが死んじゃってさ……貰ってきたのよ。大の虫好きだったから」

 僕は頷く。彼女は膝立ちで部屋の端まで進み、そこに設置されていた箪笥の中から、紫色の小箱を一つ取り出した。標本箱だ。プラスチック製の安価なやつで、角がすり減っている。窓から見えるピンで留められた虫の姿に、僕は見覚えがあった。

「彩色虫だ。間違いない」

 彼女は標本箱を手の中でもてあそんだ後、興奮を隠しきれない僕を焦らすように、こう尋ねた。

「ね、何でこんな色なんだと思う……」

「何でって……」

 彩色虫に目をやる。色彩豊かで艶のある体表。音響生殖というのも興味深いが、何よりこの昆虫の色がなぜこのようになったのか……。僕は、以前からそのことが気にかかっていた。日本の風土でこんな派手な格好をしていては、生存競争で不利になることは間違いない。

「わたしはね、見られたいんだと思うの」

 僕はあっけにとられて彼女を見た。本気だろうか? 虫が何らかの意志を持って……それも「見られたい」などという人間的な欲求に従って自らの体表の色を決めるなど、あるものだろうか……。

 僕がそう言っても、彼女は一向に気にする気配がない。

 そうして、しばらくの沈黙の後、彼女は僕にこう持ちかけた。

「……ねえ。わたしを見てよ。そしたらこの虫、あげるからさ」

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