見せる虫
亜済公
一
君、島を知ってるかい?
僕は湿った手ぬぐいで頬を伝う汗を拭いながら、通りすがった小太りの男に尋ねた。
「ああ、島かい……」
男は一瞬煩わしそうな表情を見せたものの、根はいいやつなのだろう、目の前の海の方を指さして、答えた。
「あそこに入道雲があるだろう。あの根元の辺りにある。だが、観光なら諦めた方がいい。島と言ってもごく小さいやつで、人は住むなんて以ての外、時々渡り鳥が休憩所に使うくらいなものさ。見たって面白いものじゃない。この暑さじゃあ、船だって出ないよ……」
「有名なのかい?」
「漁師達の間じゃあ、ね……」
男は、手にした団扇で顔の辺りを力強く扇いでいた。
「そんなに力がこもってちゃぁ、いつまで経っても涼しくならないんじゃないか」
「いいのさ」
男は答える。
「俺は別に、こんなもので涼しくなるなんて思っちゃいないよ」
暑苦しい、どんよりとした湿っぽい空気が、海の方からゆっくりと流れてくる。風が当たると肌がなんとなくこそばゆくなり、僕は慌ててかきむしった。生臭い潮の香りが、不快感を一層増している。
僕は男に礼を言うと、再び海沿いの道を歩き出した。明るいねずみ色のコンクリートは容赦なく太陽光を反射し、時折ミミズのミイラが転がって、小さな染みのようなものを作っている。片手に持った鞄が、鬱陶しく感じられる。そんなに重いものではないはずなのだけれど……。
海に面した街なら少しは涼しいだろうと思っていたが、そんなことはなかった。拭う度に汗が垂れてくる。汗が体表をすっかり覆い尽くして、皮膚があえいでいるような気がした。全く、魚になった気分だ。風呂に入れられた魚は、丁度こんな気分なのだろうか……。
道の左に海、右側に細々とした倉庫や駐車場、それから何に使っているのか分からないビルディングが点々と並んでいる。そんな道をポツポツと進み、坂を上ってカーブに差し掛かったところで、僕は小さな喫茶店を見つけた。「カフェ」とだけ書かれた木製の看板が、潮風に白っぽく染まりながら立てかけてある。
見ると、どうやら営業中らしい。僕は幸いとばかりに、店内へと駆け込んだ……。
店に入ると、その寒さに思わず身震いする。冷房の効いた店内に、案の定客は少なく、座っているのは、ヨレヨレのTシャツをだらしなく着て向かい合う中年の男二人と、窓際の席でうたた寝している若い女だけだった。
店員は、僕よりも一つか二つ若い、背の高い青年一人だけだった。厨房の方には、まだ何人かいるのかもしれない。この客の入りようであれば、店員一人であっても何とかやっていけるだろうから、実際のところ従業員はそう多くないだろう。
僕は入ってすぐの席に腰を下ろした。鞄を脇に置いて、一息つく。
体を覆っていた生臭い汗が、すっかり消えてしまった。冷房が効き、シンと張り詰めた空気の中で、店員の陽気な声がいやに目立つ。
「注文、お決まりのようでしたら、大声で言ってください。……これ、お冷やです」
机の上に、メニューと安っぽいプラスティックのコップが置かれる。砕けた氷が数個浮いていて、表面は薄く曇っていた。
メニューは、手書きのプリントを束ねたもので、所々に茶色っぽい染みがついている。
僕は丸みを帯びた文字を眺めながら、友人との会話を思い出していた……。
「こいつを見てくれ」
小さな、ガラス蓋付きの小箱を取り出しながら、Aは言う。箱の中には小さな昆虫が、ピンセットで固定されていた。
一見するとハサミムシのような外見だが、その体表は、毒々しい黄色と紫、橙と緑に彩られていた。鮮やかな色彩のグラデーションが、チカチカとまぶしく僕を魅了する。
「こいつは独特な生殖をするんだけれど……」
と、彼は得意げに説明を始めた。
「こいつは秋以外の季節では、周囲の環境によって色が異なる。土が露わになっているところでは茶色っぽく、植物の多いところでは緑色になる。ところが、秋になるとこいつは急にカラフルになるんだ。で、一斉に鳴き出す……」
「そんなに独特でもないな」
僕が言うと、彼はまあこれからさ、と軽く流して話し続けた。
「実を言うと、この昆虫に雌雄はない。強いて言うならば、全てが雌なんだな。雌は自分以外の鳴き声を耳にすると、途端に卵を作り始める。そうして一週間もすれば、地面の下には茶色っぽい卵が、植物の葉の裏には緑色の卵が、どっさり産み付けられているというわけさ」
「でも、それだと親の形質がそっくりそのまま子供に受け継がれてしまうんじゃないか。つまり無性生殖だろう? 何らかの要因で一斉に死滅してしまうことだってあるわけだ。昆虫なんて高等な生き物に、そんな種がいたとはな……」
「いや、こいつはちゃんと遺伝子の交換をしているよ」
Aはにやりと笑った。
「自分の遺伝情報を、鳴き声に乗せて飛ばしているんだ。……つまりは、音響生殖というわけだ」
彩色虫という昆虫なんだ、と彼は得意げにそう言った。
レモネードは、奥歯がキンと痛くなるほどよく冷えていた。
それをすっかり飲み干してからスパゲティを口にしていると、かすかに話し声が聞こえてくる。例の二人が、顔をこれでもかと言うほど近づけて、何事かひそひそと話し合っているのである。
他に……厨房の方からさえ、目立って物音は聞こえてこない。
僕は自然、彼等の会話に耳を傾けることとなった。
「女ってのは……」
煙草のヤニが染みついた並びの悪い歯を露わにしながら、片方が話している。滑舌はお世辞にも良いとは言えず、時折唇を舐める癖があるようだった。
「……自分を見せなきゃならんということを、本能的に知っているんだ」
もう一人は僕に背を向けて座っていたので、顔を見ることはかなわなかった。
「大体、女が着る服は実用的じゃない。ハイヒールやら、アクセサリーやら、本来いらないはずのものをこれでもかと言うほど身につけているじゃあないか」
「つまり男に見せるためだと、そう言いたいんだな」
もう片方が、口を開いた。
「そうさ。女は自分を飾り、男に価値を認めてもらおうとする。女より男の方が立場が上ということになるんだ。これは、下等な動物とは真逆だね……」
僕は会話の内容に興味を失い、窓の外へと視線を移した。第一都会では、女に限らずやっぱり若い男だって、ピカピカ光るアクセサリーを十個も二十個もぶら下げて、我が物顔で街を闊歩しているではないか。
窓の向こうには焼けたコンクリートの道路が一本あって、それを挟んだ先には海が広がっている。湿っぽく、なでられるような息苦しい空気がなければ、案外その風景は美しいもものだった。
小太りの男に道を尋ねたときにあった巨大な入道雲は、少し形を変え、真ん中辺りに窪みを作っていた。ひょうたんのような形だ。
外へ出てみれば、案外大したことはないかもしれない。僕は、ふとそんなことを思った。そうさ、さっきは疲れていたからあんなにへばってしまったんだ。水分は補給したし、昼食も取った……。
僕は立ち上がり、会計を済ませる。
そうして、再び海に沿って歩き始めた……。
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