「ハズレ」

長埜 恵(ながのけい)

第1話

 会社で行われた健康診断で異常が見つかり、ちょっとした検査入院をすることになった。


 とはいっても、さほど大事おおごとな話でもないらしい。大体は何事も無く、一晩入院しただけで翌朝には解放される。だから気軽にお越しくださいと、まるで民宿に誘われるかのように言われたのを覚えている。


 一応二日分の着替えを鞄に詰め、病院へと向かった。

 検査は午後からで、それまでは四人部屋のベッドで休息してくれればいいと指示された。


 実際、全く何の問題もなく終わったのだ。看護師に連れられ病室に戻る途中も、平気で会話ができたほどに。


 この話も、確かその時に聞いたのだ。


「“ ハズレ ” って、なんですか?」


 僕は、付き添ってくれている看護師の女性に尋ねた。対する看護師は、わざとらしく声を潜めながら僕に顔を近づける。


「あんまり大きな声で言えないんだけどね……。この病院、実は “ 出る ” のよ」

「“ 出る ” とは、オバケのことですか」

「そう。看護師の幽霊なんだけど、夜になると患者の巡回に来るんですって」


 嫌な話を聞いたものだ。まあ、大抵こういうことはホラー話ならぬ法螺話ほらばなしと相場が決まっている。僕は、聞き流しつつもうんうんと相槌を打った。

 看護師は、いよいよ饒舌に言葉を続ける。


「で、なんで “ ハズレ ” って呼ばれてるかというとね……その看護師の幽霊は患者のベッドまで来ると、ジーッとくまなく体を見るのよ。匂いを嗅ぐように、体を舐めるように」

「はぁ」

「そして患者の耳元で言うの。――“ ハズレ ” って」


 それでおしまい、と看護師は両手を合わせた。

 ……おどろおどろしい内容の割に、呆気ない幕切れである。


「どういう意味ですか、ハズレって」

「さぁ、そこまでは分かんないわ」

「ハズレって言われた人が数日以内に亡くなったとか、そんなことは無いんですか?」

「ううん、むしろ皆手術に成功して元気いっぱい。今でも時々お手紙をくれる人がいるくらいよ」

「じゃあ縁起のいい幽霊じゃないですか」

「そうかもね。まぁあなたはただの検査入院だし、関係ないでしょうけど」


 思いの外淡々とした僕の反応に、看護師はつまらなそうに鼻を鳴らした。……つまるところ、僕はただイタズラにこの人に脅されただけということか。多少性格に難がある人なのかもしれない。


 そこまで話した時、ちょうど僕の病室の前に着いた。途端に、彼女は怪談の語り部から看護師の顔になる。


「では、痛んだり、眠れなかったり、“ ハズレ ” が現れた場合は遠慮なくナースコールをしてくださいね」


 余計な一言を付け加えるのも忘れない。僕は黙って、首の動きだけで返事をした。


 僕が使うベッド以外の三つは、ほかの患者で全て埋められていた。カーテンは閉められ、テレビの音やラジオの音がそこかしこから漏れている。

 この人たちも “ ハズレ ” に会ったのだろうか。気にはなったが、わざわざ尋ねるほど彼らと距離を詰めたいわけでもない。

 僕もカーテンを閉めると、ベッドに寝転がってイヤホンを耳に詰めた。










 そして夜。ふと、僕は目を覚ました。


 昼間に寝過ぎたからか、看護師の怪談が案外響いていたからか。枕元のスマートフォンで時刻を確認すると、午前二時と表示された。

 草木も眠る丑三つ時とは、何時を指す言葉だったろう。そんなことを考えながら、静かな寝息に満ちた病室で、僕は妙に寝付けないままゴロゴロと寝返りを打っていた。


 どれぐらいの時間、そうしていただろうか。突然、カーテンの向こうに人の気配を感じた。


 僕がまどろんだ一瞬に、巡回の看護師が戸を開けて入ってきたのかな。起きていると知られぬよう布団をかぶり、じっとしていた。


 向かいの患者のカーテンが引かれる音がし、そこからしばらく何の音もしなくなる。……やけに念入りな看護師だ。そこまで重病の患者なのだろうか。


 ――いや、そんなはずはない。


 僕は、徐々に醒めていく脳の片隅でようやく違和感に気づく。


 ――呼吸を確認するだけなら、すぐにカーテンから出るはずだ。ならば、あの訪問者は一体何をしている?


 まさか。


 体が硬直する。法螺話と笑い飛ばしたあのウワサが蘇る。

 そんなバカな。ありえない。でなきゃあの看護師の悪ふざけだ。

 ……何の為に?

 起きているかどうか分からない一患者の為に、そんなバカなことをする人間がいるか?


 混乱する僕を嘲笑うように、しわがれた声がした。


「ハズレ」


 ――あの看護師の声じゃない。


 僕の全身が、ぞわりと粟立つ。誰だ、あれは。なんだ、あれは。


 カーテンが開く音がする。次いで、べちゃり、べちゃりと粘着質な足音も。

 ……僕の番も回ってくるのだろうか。そう思うと、勝手に体が震えた。


 寝なければならない。起きていることを悟られてはならない。直感的にそう思ったが、体が言うことを聞かない。


「ハズレ」


 また声がする。今度は早かった。べちゃっという音と共に、僕の隣のベッドにソレは移動する。


 ――大丈夫だ。


 僕は深呼吸をした。


 ――“ ハズレ ” は、害のあるものじゃない。ただ患者を眺め回し、「ハズレ」と呟くだけの不気味なオバケだ。

 だから、僕がこんなにビクビクする必要は無い。


「ハズレ」


 そうだ。しかも僕は既に検査を終え、明日退院するのを待つばかりの身だ。だから、何も恐れることはない。鼻をつくような悪臭も、一歩一歩迫る粘着質な足音も、寝息すら聞こえなくなった他の患者のことも。


 カーテンが引かれる。


 僕は、固く目をつぶって布団に潜り込んでいた。


 触れられることはなかった。ただ、足もとから段々とソレの視線が上ってきているのを感じていた。


 永遠とも思えるような時間。その先で、とうとうソレは僕の耳元までやってきた。


 大丈夫。あとは、「ハズレ」と言われて終わりだ。それで “ ハズレ ” はいなくなり、病室には平穏が訪れる。僕は退院し、いつも通りの毎日を送るのだ。


 ――なぜ、「ハズレ」なんだ?


 このタイミングで、僕は最悪の疑問を抱いてしまったことに気づいていなかった。


 ……何がハズレなのだろう。宣言されるということは、そうでないケースもあるのだろうか。そのケースに、僕が当たらない保証は?


 心臓の音がうるさい。嫌な汗が全身から吹き出る。……これでは起きていることがバレてしまう。バレたらどうなる? いやだ、考えたくない。

 後悔がぐちゃぐちゃと脳をかき回す。――なんで僕はあの看護師に言われた時に逃げなかったんだ。不愉快な病院だと即刻帰らなかったのだ。誰か来てくれ。誰でもいい。この状況を打破してくれるなら。そうだ、ナースコールだ。あれを押せば、きっと看護師が……。だめだ、ナースコールを押すためには起き上がらねば……。


 恐怖と混乱に窒息しそうになる中、ついにソレは口を開いた。


 しわがれた耳障りな声は、しかし呼吸を感じることはなかった。


「ア タ リ」


 ――ああ、選ばれてしまった。


 理屈ではない。感覚で、僕はそう確信したのである。


 思わず目を開けた。

 諦めからではない。一刻も早く、この場から離れなければならないと思ったのだ。そうでなければ、とてつもなくおぞましいことが起きると。


 ――目をつぶって逃げ出せばよかったのだ。

 転んでもいい。怪我をしてもいい。とにかく、脇目も振らずに逃げるべきだった。


 何故なら、僕の目が捉えたソレは、僕の脳が処理できるイメージを完全に超えていたのだから。


 ――女の顔が、僕を覗き込んでいた。ただしそれは、逆さまになった状態で首の上に乗っかっていた。てっぺんにある口に歯は一本も無く、その下の鼻は無残に潰されている。

 引き千切られたまぶたのせいでこぼれ落ちそうになっている眼球は、まじろぎもせず僕を見つめていた。全身は腐り、血と肉で汚れた白衣の裾から悪臭を放つ液体がどろりと滴っている。


 この世のものではなかった。


 しかし、間違いなくソレは僕の目の前にいたのだ。


「――ッ!!」


 きっと、僕は悲鳴を上げたのだろう。もしかするとそれは、他の患者を起こすほどのものだったかもしれない。あるいは、結局声にならなかったのか。


 少なくとも、僕の中にある記憶はここまでだ。次に気づいた時、僕は怪談を話してきた担当看護師に肩を叩かれていたのである。


「かなりうなされていましたよ。ひょっとして “ ハズレ ” でも出ました?」


 ケラケラと笑いながら言う看護師に、青い顔をした僕は何も答えることができなかった。


 事後経過も特に問題は無いということで、僕はすぐに退院することになった。本音を言うとありがたかった。こんな場所には、もう一秒たりとていたくはなかったからだ。


「お気をつけてお帰りくださいね」


 受付まで見送りに来てくれた担当看護師が、明るく声をかけてくれる。これでおしまいだと思った僕は少し気が大きくなり、最後にちょっとだけこの人をびっくりさせてやろうと振り返った。


「実はね、昨晩、僕の元に “ ハズレ ” が来たんですよ」


 この言葉に、看護師の目が驚きの色に染まる。僕は得意になり、抑揚をつけて言ってやった。


「でも僕は、彼女にハズレと言われなかったんです。……アタリ、とそう言われたんですよ。おかしいですよね、だってあなたはそんなこと一言も言わなかった。そこで僕は思ったんですよ」


 目を閉じ、大袈裟な手振りで僕は語る。


 彼女の姿を見ようともせずに。


「……今までアタリと言われた人がいなかったのは、そういう人こそ、“ ハズレ ” に魅入られて死んでしまったからではないかと」


 僕は、恐怖に歪む看護師の顔を見てやろうと目を開けた。しかし、そこにいたのは担当看護師ではなかった。


 悪臭が鼻をつく。白衣から汚い汁が落ちている。首の上に乗っかった頭は百八十度ひっくり返っていた。


 ああ、ああ。


 ああ、ああ。


 てっぺんについた歯の見えない唇が、蠢く。


「――アタリ」


 その瞬間、けたたましい音を立てて、ブレーキを踏み違えた車が病院に突っ込んできた。僕は反応を取ることもできず、呆気なくその鉄の塊に跳ね飛ばされたのである。










 全身が痛い。息ができない。それでも呼吸をしなければならない。僕は、悲鳴と怒声が飛び交う下で意識を取り戻した。

 うっすら目を開いた先にあったのは、僕を取り囲む白衣の人々。どうやら僕は、担架に乗せられて手術室に運ばれる最中のようだった。


「先生! 患者が意識を取り戻しました!」


 切羽詰まった担当看護師の声がする。その顔は、もうハズレのものではなかった。一気に安堵した僕は、このまま彼らに身を任せることに決め、痛みから逃げるようにまた意識を手放そうとした。


「良かった、そのまま彼に声をかけ続けてくれ」


 だが、できなかった。

 そのしゃがれた声の主に、聞き覚えがあったからだ。


「あ、ああ、あ」


 目を見開く。重傷を負っただろう体なのに、それでも逃げろと本能が叫んでいる。


 それは、 “ ハズレ ” の姿をしていた。“ ハズレ ” の姿をした何かが、僕に近づこうと白衣の人々をかき分けてこちらに歩いてきていた。


 僕は、腕をめちゃくちゃに動かして暴れた。


「やめろ! そいつを、近づけるな! 死にたくない!!」

「どうしました!」

「意識が混濁しているんだ。大丈夫、私が君を必ず助けてあげるから……」

「嫌だあああぁっ!! やめろっ!! 殺される!! 助けて!!」


 担架から身を乗り出し、逃げようと体をよじる。当然数人に押さえ込まれたが、ここで死のうとアレに身を委ねるより百倍マシである。絶叫しながら、思うように動かない手足を振り回した。


 ――僕が何をしたというんだ。なぜ選ばれなければならないんだ。どうしてこんな思いをしないといけないんだ。


 叫んで、叫んで、暴れ、きっと泣いていた僕は、誰かが用意した機器を口にあてがわれ大量のガスを吸い込むと同時に、緩やかに意識を失ってしまった。










 そして、僕はまだ生きている。


 あの後どういう経緯があったかは知らないが、別の病院へと移された僕は、適切な治療の甲斐あって無事回復した。勿論しばらくは入院措置となったが、恐れていた “ ハズレ ” が夜現れることもなかった。


 驚いたのは、その二週間後に例の病院で一人の医師が殺人罪で逮捕されたことだった。死んでもおかしくない患者を、あえて天命に見せかけ手術中に殺していたらしい。それが判明したきっかけは、ひとりの看護師による内部告発だったと書かれてあった。しかしそれが、僕を担当していた彼女であったかどうかは分からずじまいである。


 結局、“ ハズレ ” とは何だったのか。

 僕に忠告し、あの殺人医師を糾弾する為の幽霊だったのか。


 僕は、それだけだとは思わない。


 忠告し糾弾するのみが目的だとしたら、彼女が僕を利用する必要は無いからだ。


 “ ハズレ ”は、明確に僕を利用した。僕を都合の良いコマとして脅し、重傷を負わせ、一つのトリガーとした。

 最初こそ、殺人医師の存在を忠告するだけの幽霊だったのかもしれない。ただ、あの “ ハズレ ” と呼ばれる看護師が、今や生きている人間を脅かすおぞましい何かに成り果てていたのは事実だ。あえて自らの存在を知らしめ、恐怖させ、病室を徘徊する何かに。


 ――あの医師が裁かれた今、“ ハズレ ” も消えるのだろうか。

 それとも、人を恐怖させる喜びに目覚めたバケモノとして、今なお患者の耳元に囁きかけているのだろうか。



 僕は、未だにあの病院の前すら通れないでいる。

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「ハズレ」 長埜 恵(ながのけい) @ohagida

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