第7話 普通

 高校を入学して四日目、朝のホームルームを終えた後のことだった。


「ムー、見てて」


 日浦がそう言って、俺に見せつけたのはドロップキックだった。

 綺麗なドロップキックだった。地面と平行に浮き上がった日浦の身体は静止したようにも見えたが、まさかそんなはずもなく、昨日と同様にノートに整然とした文字列を連ならせようとした横峯に直撃し、この世を統べる物理学に従って、横峯は吹っ飛んだ。


 派手な音がした。


 椅子は転がり、机は倒れ、日浦はなぜか誇らしげな顔をし、遠藤さんはびくりと肩を上げた後にこちらをみて、俺はまた巻き込まれたと思った。


 横峯は何一つ言わなかった。

 痛みを訴えることも、驚きの声を上がることもなく、ただ一言


「あ?」

 

 と日浦を睨みつけた。


 昨日俺に向けられた眼差しとは明らかに別種だった。蝉の死骸をみるような情の籠らない目ではない。

 そこには明確な敵意があった。否が応でも伝わるホンモノの殺意だった。

 

「お前、自分が何したか分かってんのか?」


 横峯は立ち上がり、日浦は鼻で笑う。

 中学時代に、どこかで見たような光景だった。嫌な記憶ほど頭に残っているものだ。


「お前は人類の未来を奪いかけたんだよ」


 横峯はそう言った、何を言いたいのか理解できない。彼なりの理屈はあるのだろうけれど、あまりにも飛躍した発言で、俺たちに伝える気もないはずで。

 流石の日浦も理解できないだろう。


「俺より優れた人間は世界にいない。俺の頭脳で世界は変わる。全人類、ありとあらゆる人間に進化の恩恵をもたらすに違いない俺の頭脳を、お前は損傷しかけた。それがどれほどの咎か分かってんのか!」


 激昂していた。おごりにも自惚れにも聞こえる台詞を横峯は吐き出し続け、そうしてそれが冗談でなく、彼の本心であるのだと、日浦のような頭のおかしい奴と幼馴染だった俺は少しだけ、ほんの少しだけ理解することが出来てしまっていた。


 こいつらはいつもこうなのだ。


 自分が特別な存在なのだという態度を隠そうともしない。

 特別だ。特別だ。特別だ。

 そんな風に振舞うこいつらは、あまりにも平凡な俺にとっては隔離しすぎていて、幸せそうだと思う一方、恵まれた人間だと思う一方、やはり羨ましいとは微塵も思わないのだった。


 横峯は拳を振り上げた。女の子を殴ることに躊躇はない。

 俺はそれを身をもって知る。


 痛かったから。

 そうだから、殴られたのは俺だった。


 超スピードだとか、超能力だとか、そういう大したものじゃない。俺たちは全員がヒト科ホモサピエンスで、いくら変人でも、傲慢でも、平凡でも、人外は一人だっていない。特殊能力が使えるわけじゃないのだ。


 だから俺が殴られたのは、単純に俺が日浦の前に割って入ったせいで。本当にただそれだけの理由だった。


 1メートルぐらい吹っ飛ばされたと思う。

 そのまま地面に叩き付けられた俺は、頬を抑えてうずくまり、それから数秒。なんとか上体を起こした。ぽたぽたと真っ赤な血が垂れていた。鼻血を出すのは久しぶりだなとぼんやりと思う。


「お前は何がしたいんだよ!」


 横峯が俺のことを理解できないといったように叫んだ。純度100%の苛立ち。当然、俺に対しての罪悪感とか、憐憫などは含まれているはずもない。


「いやだって、付き合ってるし」


 俺は答える。

 頭がふらふらした。滴り続ける血を俺は眺める。制服。白いシャツが赤く染まる。ティッシュが欲しい。ポケットティッシュ持ってきてたっけ、ああ、有った。


「は?」


 横峯は言う。


「その女のせいで、お前は面倒なことになってんじゃねぇのか!」


「関係ないんだよ。そんなこと」


 俺は答える。ティッシュで鼻を抑える。痛ぇ。血ぃ止まんねぇ。


「お前には分からないよ。ただ、付き合ってる女の子が殴られそうになってたら割って入るのが、変人じゃなくて、普通の人間の平凡な感覚なんだよ」


 なんでこいつらはそんなことも分からないんだ。

 

 性質が悪い。


 本当に性質の悪い話だ。何が性質が悪いって、当の日浦は全部分かってやってるってことだ。俺が割って入るってことを知っていて、わざわざ俺に宣言してからドロップキックをかました。


 横峯の拳を避けようともしなかった。だって殴られるのは俺なんだから、日浦が避ける理由はないだろう。


 ああもう。どうして俺は普通でしかいられないんだ。


 横峯は何も喋らなかった。動きもしない。

 日浦はまだいる。

 どころかもう椅子に座って、興味深そうに俺を見ている。


 逃げる気はないようだ。


 悪いけど、まともに立つのはまだ無理そうだから、後は自分で何とかしてくれ。というか、お前のせいなんだからそれでいいだろ。もう知らないから。


 そんな風に思う。

 無力な俺の一瞬の抵抗の先には、日浦と横峯の殴り合いが始まるものだと思っていた。


 けれど、横峯は動かなかった。彼もまた俺のことを見ていた。初めて横峯が俺に興味を持ったように思う。何か得体の知れないものを見る目だった。そうして言った。


「お前、普通じゃないだろ」


「俺は普通だよ」

「ムーは普通だよ」


 俺が答えると同時に日浦が答えた。頬杖をついて


「ムーはいつだってどこだって普通なの。普通じゃなかったことなんて人生で一度もなくて、だから私にとっては最高のコンパス」


 と言う。

 なんだか悲しいような話だった。日浦が正しいのが悲しい。所詮もの扱いなのが悲しい。


「それでね」


 と日浦が言う。


「ちょっといい奴なの」


 終わりだった。

 日浦はちょっといい奴としか言わなかったけど、所詮俺は彼女にとって道具に過ぎないとしても、少しだけ救われたような気分になる。誰かに認識されるってのはやっぱり悪い気分じゃない。ちょっとだけでも、いいように認識されているのであればなおさら。


「いや、普通じゃないな」


 横峯はそう言った。それからこうも言った。


「確かにお前はここにいてもいいのかもしれないな」


 声からはもう敵意も殺意も消えていた。

 もう出ていけと言われることもないんだろう。

 横峯は座る。参考書を開く。そうして昨日のようにまた、ノートに文字列を連ならせるのだ。もう彼は目の前の数式にだけ集中していて、俺たちのことになど気にも留めない。


 一件落着なのだろうか。全てが丸く収まったのだろうか。日浦が全てを解決に導いたのだろうか。


 俺はここで上手くやれるのだろうか。


 血は、ああ、少し止まった。


 とにかく、日浦は今日もまた、俺の肩を叩いた。


「私、行くから」


 今日は断る理由もなかった。それにこういう時はついていくべきだと思った。だから俺は立ち上がって日浦についていく。


『喧嘩はやめて』


 遠藤さんがノート一杯に書いて、精一杯広げていたことに、俺は今更ながらに気づく。

 遠藤さんは必死の表情で、やはり小動物のようで、少し面白い。


 彼女もまた悪い人間ではないようだった。



 救急箱は保健室にだけあるとは限らない。誰も使わない空き教室にぽつりと転がっていたりもするものだ。

 日浦が俺を連れて行ったのはまさにそういう教室だった。


 鼻血はもう止まっていたけれど、思い切り殴られた顔は腫れていて、そう言う俺を日浦は手当てしてくれていた。


 大丈夫?とも、痛くない?とも聞かれなかった。ただ無言で手を引かれて、足を掛けられ転ばされ、気づけば膝の上。問答無用で消毒液で濡れたガーゼが迫って来ていた。


 少し染みて、顔をしかめたけれど、そんなのは一瞬のことで手当てはすぐに終わって、けれど俺はまだ日浦の膝の上にいた。

 

「ありがとう」


 俺が言うと日浦は素っ気なく「別に」と答えた。


「言ったでしょ、もののついでくらいにはムーの事考えてあげるって」


「ついでね」


 俺も昨日と同じように呟く。一体、なんのついでだというのだろう。


「日浦さ」

「なに?」

「何で俺の彼女になるとか言ったわけ?」

「何もないよりは、いいでしょ?」


 日浦の右手が頬に触れた。意味はなかった。きっとそうだと思う。


「ムーこそ、断ると思ってたのに」


 包丁で脅されただろう。と答えるのはあまりにナンセンスだった。

 別に俺は付き合えと脅されたわけではないのだ。

 だからって、顔が可愛いというだけで付き合うことにしたというわけでもないのだけど。

 

「まぁ、いいや」


 日浦は言う。

 見たことがないくらい優しい顔だった。眉間にしわなんてもちろん一つもない、かといって単にフラットというわけでもない。

 目を奪われる綺麗な表情だった。


 見とれるうちに日浦の顔が降りてきて、そうして、唇が触れて。何秒か時間が経って。


「ご褒美」


 それだけ言って日浦はこの空き教室を出て行った。振り返ることもなく


 指で唇を触れて、何がご褒美だよ。どこの女帝だよ。と心の中で呟いてみる。


 けれどまぁ、少し嬉しくなってしまっているのだから、現金なものだと自分でも思った。


 季節は春で、今日は高校に入学してからたった四日目で。

 悪くない気分だった。


 


 






 

 



 

 


 

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訳の分からないクラスに入れられた。幼馴染も一緒に。 @HIHIHIHI

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