かなわない

雨後の筍

かなわない

「子どもの頃の夢はかなわない。初恋はかなわない。あいつにはかなわない」


 彼女は肩を踊らせ口ずさむ。

 口の端を持ち上げ、皮肉を謳って上機嫌だ。


「なら、何にかなうんだろう。何ならかなえられるんだろう」


 僕を見るわけでもなく、手元の本のページをめくりながら、彼女はだれに向かって謳っているのだろう。


「かなう必要あるのかな。かなおうとしないものが、かなうわけがないのにね」


 きっとだれにも言わず、誰にでも謳っているんだろう。


「ああ、かわいそうな人たち。かなう夢も諦めて、かなう恋から目をそらして、かなう相手におびえて」


 彼女が読書しながら考え事ついでに謳うのはいつも通りだけど、今日は珍しく自作の歌だ。

 いつもなら、当たり障りないJPOPばかりなのに。

 こういう時の彼女は、考えがまとまる寸前の状態なのはわかっている。

 ここ最近悩んでいたことに答えが出るのだろう。

 昔は数日おきに来ていたはずのは最近は数週間ごとにしか来ない。ひどく久しぶりに彼女が彼女らしく見える。


「なにがしたかったのか忘れちゃうんだよね。忘れちゃって、大人になるんだ」


 ふっと、彼女が顔を上げる。

 ぼーっと彼女を見ていた僕と目が合う。

 穏やかな微笑みを浮かべた彼女は、小首をかしげ僕に聞く。


「君は、かなわないと思うものはある?」


 頭が揺れると彼女の綺麗な黒髪も揺れる。

 僕の心も揺れる。

 かなわないもの。確かにある。


「例えば、僕は子どもの頃から小説書きになりたいと思っていた」

「今回のもすごい面白いよ」


 彼女は手元の本を掲げて見せる。

 著者名のところに僕のペンネームが見える。

 先日出たばかりの僕の新刊だ。

 僕が本を出すたびに、彼女は飽きるんじゃないかというほどそれを繰り返し読む。

 僕からすれば、そんなに読んだって、書いてあることは変わらないと思うのだけれど。


「そして、僕は大変喜ばしいことに初恋の人に奥さんになってもらうことに成功している」

「とびきり美人でウィットに富んだ賢い奥様ね」


 彼女はくすくすと少女のように笑う。

 出会ったときは見た目通りの文学少女だと思っていた。

 いや、実際文学少女らしく変人だった、という方が正確だろう。

 そして、その彼女のセカイの見方は蠱惑的で、ハエトリソウに釣られるように僕は引っかかってしまったわけだ。

 望んでそうなったのだから、彼女のものになるのに抵抗などあろうはずもない。


「そのうえ、僕は今飛ぶ鳥を落とす勢いで名声を稼ぎつつある」

「処女作で直木賞取って、前回はドラマ原作、次は映画原作。すごいよね」


 どうやら僕の小説は妙に世間受けがよく、万人から評価されるものだったらしい。

 ただ、僕から見たセカイのゆがみとそれに個々人が何を思うかを書いているだけだ。

 つまり、共感性だけで僕の小説は成り立っている。

 人の間と間を取るのが上手かったのだろう。それ以上でもそれ以下でもない。


「つまるところだ」


 そう、つまるところ。


「かなわないものばかりだ」


 子どもの頃の夢はかなった。初恋がかなった。かなわない相手がいない。

 ……本当にそうだったらどれだけ楽なことか。

 セカイはそんなに甘くない。


「僕は別に売れる小説が書きたかったわけでも、奥さんが欲しかったわけでも、エンターテインメントの第一人者になりたかったわけでもない」


 彼女は静かに笑っている。いつだって静かに嗤っている。


「誰かが永遠に覚えていてくれるものを書きたかった。一生愛し続けられるという確信が欲しかった。大衆に広く届くから一番だなんてそんな相対評価はくそくらえだ」


 彼女の目元の泣きぼくろは笑ったときに歪む。彼女は常に微笑んでいるから、歪んでいないそれを僕は見たことがない。


「君は、僕の小説を繰り返し読む。君は、僕が一生かけて愛してもその笑みを崩さないだろう。君だけが、僕を歪みない窓の向こうから評価してくれる」


 僕は、その歪んでいないほくろが見たいのだ。それを見るためには、すべてを投げ捨てる価値があるだろうから。


「子どもの頃の夢はかなわない。初恋はかなわない。君にはかなわない」


 確かに一部かなったものはある。でも、言葉にすればかなったように見えるそれらは、実際は今も僕の奥底で唸りを上げてかなう日を待ち続けている。


「かなわないものに焦がれる気持ち、それをセカイで一番感じてるのは僕だよ」


 かなえばいいのに、かなってくれ、なんでかなわないんだ。

 セカイはいつだってこんなはずじゃなかったことばかりで、他人からすれば僕はただ贅沢を言っているように見える。

 そんなことは僕にだってわかる。だが、かなわないことを受け入れたやつらが僕の何をわかったつもりでさえずるのだろう。


「君を笑わせたくない。僕の夢は恋は対抗心は、すべてそのために存在している」


 君は笑う。君にはわかりきっていたことだろうに。彼女が言うことは、常に僕が先に進むために必要なことばかりだ。

 数週間かかったのは、きっと、僕の歩みが遅くなり始めたからなのだろう。

 前のように数日ごとには進めない。

 でも君は笑い続ける。変わらずに、ずっとだ。僕は変わっているのに、君はいつまでも変わらない。変わってくれない。


「そっか」


 彼女は嬉しそうに笑う。いつも笑っている彼女と一緒にいて、笑顔にも種類があるということに気づけた。

 言葉にすると陳腐かもしれないが、笑うということには意味がある。

 彼女は意味なく笑うから、表情が変わると、笑い方を変えただけなのに、天気が変わったように印象が変わる。


「君がそう思ってくれている間は、私も笑っていられるかな」


 彼女は意地悪だ。

 すべてをフラットに見ている。

 そういう風に僕に思わせる。

 そうじゃないことも僕は知っているけれど、彼女の笑みはそれを忘れさせるのだ。


「だって、私は君のことが大好きだからね」


 そう言って、童女のように純粋に笑う。いくつになっても、彼女のその笑みは無垢で、河原に生えるたんぽぽのような温かさと力強さを僕に与える。

 そんな彼女と一生いることを選んだ僕なので。

 彼女の愛を受けても、苦笑いするしかない。その苦笑いを見て彼女の笑みはますます深まる。

 こんな些細な抵抗すら許してもらえないわけで、そりゃまぁ、


「こりゃ、かなわないな」


 負け惜しみを口に出すのが僕の限界なのであった。


 彼女に笑ってほしくないけれど、彼女にはずっと笑っていてほしいのだから。

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