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真矢と二人で見えない月を眺め続けた日から岬は自分は本当にどうかしてしまったと思うほど、変化してしまった。急に腰が抜けてしまって唖然とするかのように、自分という人間が何者なのか理解できなくなった。
笑っているかと思えば泣き出すし。辛いと思っていたことが急に楽しくなったり。
周りにもそれが伝わっており、るみは岬のことを気味悪がり最近部屋にやってこなくなった。
施設長は「青い春。美しく咲け。花ならば。」と575を岬に詠んでくれた。国語が苦手な岬にはどういう意味なのかよく理解できない。
大変なのは学校の方で、つい最近まで暗く沈んでいたらしい岬とは思えない喜怒哀楽ぶりに表現する言葉が見つからないらしい。皆が岬は此処にはいないように扱う。自分の席にポツリと座りながら岬も別にそれで問題ないと感じた。昔から岬は学校というものが苦手だった。どうして好きでもないものを好きと言わなければならない。苦手なものを無理やり得意にしなければならない。岬は岬だ。好き嫌いの押し付けほど押しつけがましいものはない。
岬は雪江に相談しに行った。休日の日中いきなりドアをノックした。なぜ自分が雪江に相談しにいくかわからない。岬は雪江と特別な仲を築いているわけではない。雪江は誰とも仲良くせず、自分の世界にこもっている。どうして私の話など聞くだろう。どうして私は雪江さんに相談するのか。なにを相談するのか。
はーいとドアの向こうから返事がする。ドタドタと足音が近づいてくる。ドアがゆったりと開かれて、雪江が現れた。
「あんたか。一体何の用」
「えーと、ちょっと、ご相談を」
「そっか。じゃあ、中にお入り」
案外簡単に通してくれる。岬は自分の想像と違い、戸惑う。
「何してんの。早く入んなさいよ。人に見られても構わないっていうのかい」
雪江は普段からこのようなことを受け入れるのが常のように手慣れている。岬は遠慮していたらむしろ失礼のように思えてもじもじしながらも中に入った。
「何もないからね。少し待ちなさい」
雪江は岬を入り口前で待たせて、押入れから座布団を一つ出して、部屋の中央に置いた。
「さあお座りなさい」
岬は雪江の促すままに座り込んだ。岬は胸の鼓動を抑えきれない。お尻がムズムズとする。自分がとんでもないことをしでかしたのではないかと体が震える。岬はゆっくりと辺りを見渡す。ベットと机とタンス。そして新聞の切り抜きや本の山。そして色々なサイズのキャンバスが地面や壁やイーゼル、ダンボールの中に置かれている。案外、乱雑だ。
「初めてよね。私の部屋に入るの。驚いた。結構汚いでしょ」
岬は自分が見透かされたような気がして、顔を真っ赤に染めて、否定した。
「そんな、べつに、いや。凄いですね。絵を描くなんて。わたしにはできないですね」
「ありがとう。どの絵も未完成のまま描けなくなった代物なんだけれどね」
雪江は寂しそうに微笑した。その表情は印象的だった。
岬は再び絵を見た。今度は一体どうして雪江さんが寂しそうに笑わなくちゃならなかったのか考えながら。
しかし答えは出そうにない。確かに未完成のような気がする。色々なものが詰め込まれた、見ていると目が回るような、強くてキツくて激しくて。ポロっと涙が溢れる。しかし何かが決定的に描きこまれていなくて、悲しい、そんな絵。
でもだからってどうして雪江さんが寂しそうに笑わなくてはならないのか。そしてどの絵も描きかたが少し違うだけで同じ印象を受ける。どうしてこんなに同じ絵を描き続けるんだろう。
「あなた、何か話しがあるんじゃないの」
雪江は岬を許すように話しかけた。岬が雪江にとって大切な空間に土足で足を踏み入れることを許すような。岬は相談を持ちかけたことを後悔した。岬には雪江の寂しさを受け止めるには子供すぎる。
「いや、わたし、えっと、えっと」
雪江は岬の狼狽にくすりと苦笑いをし、立ちあがった。雪江は机の上に置いてあったコーラをコーヒーが染み込んだような模様のカップに入れて岬に手渡す。岬は呆然として、受け取ろうとしない。
「ほら。早く」
雪江が促すので、岬はなすがまま受け取り飲んだ。炭酸の抜けた暑くも冷たくもない死んだコーラを岬は飲んだ。
「落ち着いた?」
雪江はなんてことない表情で岬をみる。岬はコーラをゆっくりと飲み続ける。冷たいコーラとはまた違った匂いを味わう。甘い水って感じがして健康に悪そうだけど。
岬は無言でからになったカップに唇を接触させながら、ゆっくりとうなづいた。
「どうしたのさ。まあゆっくり話してごらんよ。話ぐらい聞いてあげるからさ」
岬は心を落ち着かせることに努めて話し始めた。
最近どうしようもなく自分をコントロールできないこと。発端は真矢と二人で月を眺め続けたこと。
岬は時々無言となり、進んだと思ったら堂々巡りする正解へと辿り着かない話を辿々しくも誠実に話そうと努めた。その気持ちが伝わったのか、伝わらなかったのかはわからない。ただ雪江は何も話さず、灰色の回転椅子に座っていた。
話もひと段落つき、岬は大きく息を吐いた。肩の荷が降りたように。岬は伺うように雪江をみた。はたして私はなんと言われるのか。自分が何者なのか。全ては雪江が決定する。雪江は神だったのだ。岬の中で全てはこの時のためにあったのだと錯覚をする。
雪江はなかなか口を動かさなかった。岬が入室してからどれほどの時間が過ぎたのか。窓から入る夕日が空中の埃を溶かす。雪江はどうしてこの埃を吸っても人は生きていられるのか、なにか岬とは違う想像に身を置き始めているのではないかと思う。
石像のように思われた雪江は腕を動かす。残り少ないコーラの蓋を開けて、机の上のサボテンにかけ始めた。
「それって、…よ」
雪江は唐突に言った。岬は雪江の奇行が意味するものについて考えていたから言葉を聞き逃してしまった。
「え?」
「だから、恋。あなたは恋したのよ。山瀬岬、ちゃん」
今度こそ雪江の言葉を聞き取れたのはいいが、岬は雪江が何を言わんとしているのか理解できなかった。
「こい?」
まさか泳ぐ鯉なはずはない。
「恋よ」
恋とはなんだろう。もしかして人が人を好きになる恋ってやつか。岬もそれぐらいは知っている。しかしどうして私という人間が恋をするのか。シカト、どうして真矢さんにコイヲスルノサ。歳上だぜ? 私とは縁もゆかりもありませんゼ。理解不能です。
「はい! 不詳山瀬岬。ポンポコたぬきからおそわった腹芸をここらで一挙お見せ致しましょう。今日のディナーはたぬきそば。あっそれ、それ、それそれそれそれ」
「どうしたの、ちょっとちょっと」
「あれま」
岬は頭があまりにもパニックになったのか、急に不思議な踊りを始める。雪江は岬がどうなってしまったのか理解をする前に岬は直ぐに倒れた。恋をするのはそれほど衝撃的なことか。雪江はバカになった岬をみて世の中の真理をまた一つ知った。
高いビルの屋上に岬は立っている。真夜中の都市は電気を失い、月の光が地上の輪郭を忘れさせない。
岬は月を背に立っている。屋上のフェンスにしがみついて、その中身に餃子を詰め込んだように瞼を腫らしている。涙がどうして止まらないのか。岬は自らの感情を支配できない。
岬の視線の先にピンクと白で出来た塔がある。その塔のてっぺんに一人、立っている。その人はタキシード姿にハット帽をかぶっている。彼は月の光に輪郭を示して、彼が何者なのか彼だけが知っている。事実を明確に示す遠さと明るさに岬は焦ったさを感じている。岬は目を離せば、彼はすぐにいなくなる。電気がなくなった町に現れた奇跡を自らの手で遠ざけることは、愚の骨頂。岬は自分の涙の意味を知った。岬は自らの領域には遠い行為に挑み、負けそうになっている。
どうしてこんな馬鹿げたことにしがみつくのか。涙をタラタラと流しながら、考えても考えても岬には思いつかない。
月の光が強くなる。何もかもの輪郭が明らかになる。岬のフェンスを強く握る手。岬の瞼に映る彼の姿が次第に明らかになっていく。
理解していいのだろうか。これほどまでに塔の上の彼にしがみついて、それでも尚理解しない方がいい方策などあるのか。
馬鹿だ。私は大馬鹿だ。岬は涙が止まる。岬は背を向けた。彼から視線を外し、背中の月をみる。
岬はもう彼は背中にいないことを理解しながら、月が本当は重要であったことを思い出した。
岬は月から目を逸らしていた。涙を垂らし尽くした岬の目に浴びる月の光は強い。岬の目を焼き尽くす。
岬は痛みに膝を崩し、背中を床に跳ね飛ばす。
しかしこれこそが正しい姿。岬はもう見てはならなかった。岬はただ感じなければならなかった。月の恩恵を背に受けて、これから先どうなるかを月と相談して毎日を送らなければならなかったのに、今まで忘れていた。
岬は自分の目など最初から存在してはならなかった、それなのにどうしてこれまで世界が目に映っていたのか。そのことに疑問を持ったが、しかしもう既にそのようなことに時間を使うことは無駄であることを察し、次第に自らの内奥に意識を潜め始めた。
しかし、あそこまでに執着した彼は一体どういう存在だったのか。岬はもう何もかも月の導きと相談する身だというのに、月とは全く関係のないものを頭に入ってもたげさせていた。それだけがまるで目が存在していた頃の面影だというように。
岬が瞼を開くと、痛い。室内灯の光は優しさをほんのりとヤマダ電機にでも置いてきたように眩しい。
今、岬の心に残る夢の形。岬は刻々と失われていく夢に真矢がいたように思う。岬は大切な姿が夢の中ではっきりと示されたように思って、今見た夢が嘘ではなかったように脳裏に描き出そうと必死だが、全く簡単に遠ざかっていく。
岬は欠伸をする。背を伸ばし、柔らかいベット、やさしい風。ゆったりと背を起こすと近くに雪江がいる。そういえば、岬は雪江に相談しに来ていた。どうして、目を覚ませばまだそこに雪江がいるのか。
雪江は絵を描いていた。雪江の部屋に沢山ある絵と相違ない。また同じ絵を雪江は描いていた。
雪江は岬が起きたことに気づき、筆をパレットの上に置く。
「こんにちはお嬢さん。目覚めはいかがかな」
「水を一杯いただけないでしょうか」
岬は喉がカラカラだった。雪江はゆっくり立ち上がり、コップにミネラルウォーターを注ぐ。
「ありがとうございます」
岬は雪江からいただいた水を美味しくいただいた。喉の渇きを癒す水ほど素晴らしいものはない。岬は落ち着きを覚えて、再び欠伸をした。
「あなたはどうしてこうなったか覚えている?」
雪江は岬が入っているベットに頬杖をついて微笑む。岬は自分がどうして雪江の部屋でくつろぐ結果になったのか身に覚えがない。
言い淀む岬に雪江は答えが返ってこないことを理解する。
「あなた、恋に発狂したのよ」
恋に発狂。岬はその言葉が何を示すのか、わからなかった。
「若いってすばらしいけれど苦いわね。自分でとてもコントロール出来ない感情が溢れだす。岬ちゃん。あなたを受け止めてくれる器、早く見つけなさいよ」
「ちょっとちょっと。雪江さん。わたし一体全体どうしたんですか。何をしたっていうんですか。私、発狂したんですか」
雪江はミネラルウォーターをコップに注ぐ。岬はまた水を頂く。
「落ち着きなさい。深呼吸。時間はみんな平等に与えられているのよ。生き急いでも、結果は同じ。なら落ち着きなさい。落ち着かないと、あなたの顔に落書きするわよ」
雪江は筆を握り、指で回す。筆は愉快にまわる。雪江は本当に岬の顔に落書きをする気だ。落ち着かないと落書きって、変わった形式のハロウィンみたいだ。
「えーと。私、雪江さんのいう通りならば、もしかしてほんと。まさか。えっ」
岬は自分にも信じられない。岬が恋したならば、相手は今のところ思い当たるのは一人、真矢しかいない。
しかしとうの本人に理解できない恋などあるものか。先に他人に恋していることを気づかれる馬鹿な話があるものか。岬は少し纏まらない思考に怒りを覚え始めた。
「岬ちゃん。なかなか素直に信じられないでしょうがね。これは本当の出来事なの。あなたぐらいの年代ならば恋に恋しがちだけれども、あなたは少し進んでいるんじゃないかしら。お姉さん、そのように思う」
「雪江さんは恋をしたことがあるんですか。他人の恋が恋だとわかるような」
雪江は岬の質問に口を閉ざす。雪江は部屋の中にある未完成の絵たちを見始める。また、これだ。雪江のなんとも言えない悲しそうな目。岬には受け止め難い。涙を流さないのに、それ以上に悲しさがその瞼には潜んでいる。
「忘れてしまったよ。恋とか、その他諸々」
雪江は口角に微笑を潜ませた。岬は何か胸が苦しくて仕方がなかった。居場所を求めてそわそわ身体を動かすけれど、このベットからどうして出られるのか。岬は頭が燃えてきて、今にもパンクしそうだ。
岬はまた雪江から水を頂いた。ゴクゴクとトイレが近くなるだけの水が岬の物語をさらさらに洗い流す。岬は水を全て飲まず、コップに揺れる水面に映る自身の顔を眺めていた。まるで爬虫類のような。
「お互いに恋の話は難しいようね」
岬は雪江をみた。雪江の背中から察するに、とても岬には解決できない話だ。
「私、もうねむるわ。岬ちゃんはどうするの。べつにゆっくりしていてもいいわよ。私、よく床で寝るから」
「いやぁ、私、ちょっとお腹空いたので自分の部屋に戻ります。なんていうか、ここだけの話ですけれどクッキーあるんですよね。ですから。今日はありがとうございました」
岬はコソ泥のようにベットから抜け出して会釈をし、部屋を出た。岬は自分の部屋に戻る。コーラ。無性にコーラを飲みたいが、この部屋にはない。丘の下の自販機まで買いに行かなければ。岬は自室の時計を見る。もう夜中は11時。なかなかな時間だ。最近、夜中が怪しい。平和な町に物騒な臭いが漂い始めている。人が血を流したり、失踪したり。
しかし岬はハローキティーが刺繍された財布をポッケに入れて部屋を出た。いつも通り、非常階段から施設を出て行く。誰にも気づかれないように。
岬が外に出てから、ゴタゴタ岬の横の部屋、るみの部屋から大きな音が鳴っていたが岬は気づかなかった。
岬は非常階段を降りていく。しかし階段の下から登っていく音が聞こえてくる。一体どうしてもしかして施設長ならば大変な問題となる。残念ながら非常階段に逃げ場がない。汗がダラダラと流れ始める。岬史上最大の修羅場だ。どんどん階段を上ってくる音が大きくなる。いったい全体どのように反省の言葉を言い返せば救われるのか。
上がってくるものの姿が岬の目に映る。藤川サダオだ。
下を俯きながらゆっくりと上がってくる藤川サダオはまだ岬の存在に気づいていない。先に話しかけるべきか。岬が判断に迷っているうちにサダオは目の前にやってきた。
「おおっと。岬ちゃん。奇遇だね。なんだい。夜遊びはほどほどにしなよ」
サダオは頰のシミを深くした。非常灯の光がサダオの顔を怪しく示す。
岬はサダオの姿をよくみる。サダオは汗と埃にいつものカッターシャツをヨレヨレにさせている。なんだか、疲れている様子。そしてよく見れば足元に赤い鮮烈がみえる。
本当にこの人のことを深追いしてはいけない。なにか身が危うい立場に追いやられてしまう。最近起こっている事件はもしかしたらこの人のしわざなのかもしれない。
「藤川さんこんばんは。藤川さんも夜遊びほどほどにしてくださいね。あまりに帰りが遅いと施設長に怒られますよ」
「はっはっはっ。さすが謹慎処分を食らっている岬ちゃんがいうと重みが違う」
うぅ。痛いとこをつく。岬はなんだか胸がこそばくなる。
「じゃあ、藤川さん。良い夜を」
「ああ岬ちゃんも無理をしないでね」
外は夏を思い出していく。毎日が熱くなっていく。蝉が発情している。月の光を遮る雲は一つもない。電灯と月の光に混じり、色々なものの輪郭がはっきりと示される。
もう周りに岬を留めるものがいないか首を左右に振りながら抜き足差し足忍び足。
施設前の広間にはあいも変わらず、シスター服のノエルがいる。彼女は今日も体操をしている。
「あ、岬さん」
カンがいいのか、岬はまだ遠いところにいるというのにノエルは気づく。体操をやめて近づいてくる。
「やあ、ノエルさん」
「奇遇ですね。今日は山瀬さんとも会えるなんて。こんな月がきれいな夜はお互い興奮して眠れませんよね。私、昔から月が好きなんです」
ノエルは毎日外に出ているのだろうか。そしてよく藤川さんと出会うのだろうか。岬は気にはなる。
「好きなんですか」
「大好きです」
惑いのないノエル。岬は自らの存在を揺るがされた気がして、少し心が小さくなる。
「今度、満月の夜にでもお月見しませんか。私、誰かと一緒に月を見るのが夢だったんです」
ノエルは目を輝かせながら、指を組んで月を見る。小さな夢で子供っぽいけれど、凄く純粋。美人でかわいくて可笑しくて幼くて。岬はノエルっていう人はずるいな、と思う。
岬も月を見る。満月を見るならば、ノエルとではない。だからノエルの純粋に釘をさすから悪いけれど。
「ごめんなさい。私先約があるのよ」
「じゃあその人も一緒に」
ノエルはしつこい。
「私、その人と二人で見るのよ」
「うーん。残念です」
ノエルは岬の拒絶に何も悪い気を覚えなかったようで、ただただ残念そうに頭を回していた。こういうあまりしつこくない勧誘もノエルの美徳だ。おそらく藤川さんも同じように誘われているんだけれど、拒否されているんだろう。
「じゃあ、ノエルさん。私、用があるので」
「お元気で、岬さん。またの機会にでもお祈りしましょうね」
時々岬はノエルにお祈りを誘われるが、一度ものったことがない。シスター服を着ているが、彼女の宗派がキリスト系というわけでもない。ノエルだけのノエルのためのノエルによるノエルの信仰がある。どうして岬が参加しなければならないのか。
岬はすたこらさっさと丘を下っていく。胸の鼓動がドクドク。ただ降っているからだけでない。岬はコーラを購入しようとするのは口実に過ぎないと気づいていた。岬の本当の目的は真矢だ。
『月が出る日に教えてあげるよ。君が知らない丘の秘密を』
あれから二週間。岬は口実を求めていた。真矢から誘われることはなかった。ならば自分から行くほかない。だからって見え透いた出会いはあからさま過ぎて岬の趣味ではない。
岬はコーラが欲しいのだ。その時にたまたま出会うだけ。そうなのだ。
岬は自販機にたどり着いた。今日もどうしたことかコーラはない。誰かが買い占めているのか、業者がサボっているのか。そんなことはどうでもよかった。岬は三ツ矢サイダーを二本買った。がたんごとんと三ツ矢サイダーのペットボトルが自販機を滑る音が夜中の町に響いた。
岬は胸に三ツ矢サイダー二本を抱えて、丘を駆けていく。真矢は丘の途中にいるはずだ。
すると黒い輪郭が丘の途中に現れる。真矢は確信している。真矢は月を見ている。真矢は岬と会うためにそこにいる。
黒い輪郭が次第にクリーム色のズボンと灰色のシャツに。そして顔の輪郭はまさに真矢そのもの。岬は胸のドキドキが激しくなり、目の前がぐるぐると回り出すのを感じ始めていた。
岬は高まりすぎて今自分が何をしているのかわからなかった。岬は地面の小石に引っかかり、あからさまにコケてしまった。岬はこけきるまえに三ツ矢サイダーを放り出した。三ツ矢サイダーはクルクルと回って真矢へと突撃する。真矢は急に現れた岬の急転直下ぶりに驚き飛び跳ねて、尚突撃する三ツ矢サイダーを避けようと身体を逸らす。が、あまりの体勢に体が耐えきれず、その場で尻餅をついた。
二本の三ツ矢サイダーは地面にぶつかった衝撃で穴が空いた。じゅわじゅわと泡をはきながら、丘をゆるゆると降り始める。
「いたた…」
コケてしまった二人は互いに顔を見合わせた。岬は顔が真っ赤。真矢は顔が固まっている。
時はしばらく止まったようだった。蝉は変わらず鳴きつづける。
「いやあ、なんだかとんでもないことが起きたような」
真矢は呆けたように呟いた。岬はブンブンと顔を横にふる。
「すみません。私が不注意なばっかりに」
「岬ちゃんじゃないか。奇遇だね。お互いもしかしたら運がいいかもしれない。神のなんちゃらほいってやつかも。怪我はないかい。なければ互いに幸せなのだが」
真矢は地面に伏せた岬の両脇に手を入れた。岬は顔がこれ以上ないほど赤くなり、汗で湿った脇を真矢は嫌がっていないだろうかと懸念し、自己嫌悪で頭がいっぱいになる。
真矢は岬を抱き抱えて、地面に座らせる。
真矢は驚く。岬のひざは血で真っ赤だった。
「岬ちゃん。痛くないのかい。これは、手当が必要だ。少し待っていたまえ」
そうして真矢は岬から去っていく。岬は真矢が自分から離れて欲しくないから、真矢の右手を掴もうとしたのだが、遅かった。決断の遅さに岬は嫌悪する。
岬はひとりぼっちの間、もしこの行いが自らと真矢との関係に悪く転がってしまうのなら私はこれからどうすればいいのか。もう生きてはいけない。失踪しよう。手紙を残して、飛行機に乗って韓国にでも行こうかと思考を巡らせる。
しばらくすると真矢が手にビニール袋を提げて駆けてくる。真矢は消毒液と絆創膏を取り出した。
「こんな傷、どうってことないさ」
真矢は甲斐甲斐しく岬を介護してくれる。誠実な態度を見せつけられる。岬は涙を流し始める。また、悪い癖が出た。岬は愚かな自分自身を恥じる。
「だからね、俺もあの時は。って岬ちゃん、そんなに痛むのかい。女の子は強くなくちゃ。これ、スーパモデルスティージの言葉ね」
真矢は馬鹿な岬を慰めるから、岬は更に涙を深める。自分自身がよくわからないのだ。
「私ね、痛くないの。でも、でも止まらないの。どうしたら、いいのかな。最近、グェッ。ゴホ。うっうっ、うーん」
「岬ちゃんは感受性豊かなんだね。こんなこと言われるのは嫌かもしれないけれど羨ましい。僕は鈍すぎてなにもかも分からないから」
「鈍すぎるってそんなはずないです。だって真矢さん。あなたは月を見ている。月の美しさを知っている」
岬は治療が終わったばかりの脚で立ち上がろうとするがうまく立てず、真矢に抱えられる。
「無理したらいけないよ。身体に毒だ」
「真矢さんは決して鈍くない」
「僕は別に月が美しいから、見ているわけではないさ。
僕は臆病なんだよ。月を見続けなければ、彼がいつか消えてしまうことを思うと夜も眠れない。不眠症なんだ。ベットの中にいると耐えきれない。だから蝉が鳴く季節にも関わらず僕はここにいる」
真矢は本当に苦しそうに話す。岬は真矢が自らの苦しみを包み隠さず話してくれることに驚く。自分が彼の苦しみを聞くことができるのは幸せなことだが、私は彼にどのように答えればいいのか。少し不安になる。
胸がドクドクと。真矢の吐息がかかる。月なんてどうでもいい。ただ真矢の側にいたい。これこそが岬のたった一つの願い。
「もう、立てるかい」
「あっ…」
真矢は岬をやさしく抱えながら、岬の脚を痛まないように配慮する。岬はこのまま真矢の身体に触れ続けたかったが、どう話せば彼とそのまま居続けれるか、うまく処理できなかった。
「大丈夫そうだね。まだ痛むだろうから、無理しないで。ゆっくりとね」
「うん…」
岬は真っ赤な顔を俯かせる。痛めた右足を左足の後ろでグルグル所在無さげに回す。
「はい。どうぞ」
「あ…」
岬の目の前にはコーラ。しかも瓶コーラ。岬が本当に大好きなやつ。
岬はびっくりして、なんかよくわかんない。手をぶんぶん回し始めた。肩が外れてもおかしくない。
「そんなに、嬉しいかい。僕も嬉しい」
岬は真矢の顔を見る。彼は顔を赤らめていた。真矢は本当に嬉しいのだ。岬は胸が本当に温かい。興奮の余り岬は歌を歌い始めた。ワンダバワンダバワンダバワンダバ。MATのテーマだ。
「何故ウルトラマン?」
真矢は苦笑していた。岬は場違いな歌を歌っていたことに気づき、口に両手をあててやっちまったと顔を真っ青に染める。
「いや、お父さんがよくお風呂で歌ってて。私も移ちゃって。変ですよね」
「いやぁ面白い。実に面白いよ。サイコー」
「それ、馬鹿にしてますよね」
「うん。馬鹿にしてる」
私はこんなにも恥ずかしい思いをしているのに、どうして真矢さんはここまで正直に返答するのか。岬はどこにやり場をもっていけばいいのか。死んだ父さんの頭を殴りたくて仕方がない。
「まぁコーラでも飲んで気を楽に」
岬は真矢からコーラをいただき直ぐに飲む。やっぱり瓶コーラはそこらのコーラと価値が違う。一体真矢はどこからもってきたというのか。
「まだ眠るには早い時間帯だよね。よかったら散歩しないか。月を見ながら」
真矢は少し丘を登り振り返る。月光に照らされた真矢は実は神様ではないのか、そんな気がして両手を思わず合わせてしまった。
「それはいいよかい。それとも駄目かい」
「あっ。これはそういうことじゃなくて。もちろん行きますよ。そうに決まってるじゃないですか」
岬は少しずつ登っていく真矢についていこうと駆け出そうとしたが、脚の怪我に痛み、思わずよろけてしまった。再び真矢に抱えられる。岬はその温かさに反射的に飛び跳ねようとするが、真矢はそれを逃さない。
「ほらっ。またこうやって無理をする。僕はすぐに君をほったらかしになんかしないよ」
そんなことを言わないでよ。岬はたった数分の間に真矢に愛を覚えていく。どうしようもないほど。
「ゆっくり歩こうよ。それが僕たちの歩き方」
真矢は岬の手をやさしく握り、歩き出す。岬は俯きがちに進む。
「月が、やさしい」
真矢は振り向き月を見る。岬もみる。岬には月のやさしさをうまく感じ取れない。
「君にも伝えようと、最近はそのことばかり実は考えていたんだ。君と今日出会えてよかった。これは運命だね。僕たちは幸せものだ」
「私は、」
岬は自分が幸せだと彼に伝えようとしたが、言葉をどうしても続けられない。岬は自分に悔しく、モジモジとする。真矢と繋がれていない左手は嫉妬して、むにゅっと固くなる。
「君の気持ち伝わっているよ」
「えっ」
岬は真矢の言葉に頭がクラクラとなる。岬は自分が一体何者かわからない。自分の気持ちって一体なに? なに! わかんないよそんなのなのにどうして真矢さんは伝わってるの。反則だよそれ。
「この町は大切な町なんだよ。月と町はきってもきってもきれない関係さ」
「大切な町」
真矢さんはたちどまった。随分道を曲がり、丘を下り登った。岬の知らない場所だ。初めてくる、でもいつもと変わらない道。当たり前の風景だ。
「見てごらん。あの岩を」
「岩ですか」
「そうさ岩さ」
真矢が指差す方向を岬はみる。岩はいたって普通にゴツゴツな岩で、丘の途中に突起している。この町にはよくある光景だ。
「岩の上をごらんよ」
「あっ」
岩の上には水が溜まり、月がある。そして、岬は唖然とする。丘の上から見える様々な岩全てに月がいた。空の月と水面の月。存在感が強い。
「こんな綺麗な風景がこの町にあるだなんて」
「綺麗なだけじゃないさ。こういう風景はこの町にはごまんとある。それこそがこの町の本当に大切で僕たちが守らなければならないこと」
「どうして守らなければならないんですか」
「僕はこの情景がいつまでも続いて欲しい。それだけじゃ駄目かい」
「だめ、じゃないと思います」
「うん。だから僕はいつまでも願っている」
そうして真矢はずっとその光景を見続けていた。岬は正直だるさを覚えていたが、真矢と手を離すことが嫌でそのまま所在なさげにたち続けていた。
気にしてしまう私たちだとしても 容原静 @katachi0
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