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山瀬岬は帰宅する。岬は施設に入居している。彼女は三ヶ月前両親を亡くした。親戚のいない彼女は施設に引き取られた。

幸いにして岬が入居した施設は彼女が十三年間暮らしていた月の丘町にあるため、岬は転校することなく同じ学校に通い続けている。

学校や先生や友達は変わらず生きている。そりぁあそうだ。両親を一度に亡くしたのは岬だけなのだから。変わらないことが私自身の変化を教えてくれる。岬だけが変化してしまったのだ。

岬はだるそうに丘を登っていく。首に掛けたタオルで汗を拭う。日焼けが定着した白髪のお爺さんは昇天しそうな勢いで丘の途中に設置されたベンチに腰を掛けている。

施設、『月の丘の家』は丘の多い月の丘町の頂上にある。三ヶ月経ってもこの丘にはなれない。まるで長崎の丘みたい。行ったことはないんだけれど。岬が生まれ育った家はもっと下の方にあった。

岬は月の丘の家に戻った。洗濯物が干してある施設の前の広場を通って施設の中に入る。施設の中はクーラーが効いており大変涼しい。

「おかえりなさい」

入居者の真矢総が広間の掃除をしている。帰宅した岬に気づいて微笑みながら迎えてくれる。真矢は毎日岬が帰宅する時間帯に広間にいた。真矢さんは清潔ですらりとしていて、なんかいい。岬にとってこの施設に来てからの唯一の癒しは彼だった。

「ただいまー」

岬は広間のソファーにカバンを放り出して、座る。カバンはクッションを跳ねてソファーの座に落ち着く。岬ははー暑いと呟いてぼんやりと天井のシャンデリアを見つめた。まるでミステリーが始まる館のような様式の広間。施設長を務める由紀子さんがいうにはこの建物は昔、月の丘町を第二の故郷としていた財閥のお偉いさんの別荘として使われていたそうだ。しかし幾たびの戦争でそのお偉いさんは死に、何十年もこの施設の扉が開かれなかったのちに財産整理の関係で浮かび上がったこの施設を利用したいという現在の施設の理事長に譲り渡されたらしい。理事長の写真が広間奥の壁に掛けてある。白髪混じりに白い髭。温厚そうな表情を浮かべている。

「理事長が気になるかい」

真矢は岬が理事長の写真を眺めていたのに気づいたのか話しかけてきた。岬は暑さがまだひいていないためダルそうにしている。

「だって、理事長のくせに私ここに来てから一度も会ったことないんだよ。おじさん、一体何しているんだよ。そんな忙しいの。理事長って」

「あの人はあの人なりの仕事があるのさ。僕だってもう何年も会っていない。みんなそうさ。理事長はあまりここにはいないからね」

「それって理事長としてふさわしいのかなぁ」

岬は机の上に置いてあったうちわをパタパタ扇いでいる。岬はぼーと理事長の写真を眺めつづける。いくら温厚そうだって騙されない。岬はこのおじさんのせいでこの施設に厄介になったのだから。別に嫌いというわけではない。しかしどうしてわざわざここなんだって考えてしまうとき、うまくいえないが胸がムズムズとする。

両親がこの施設と縁のある仕事をしていて、岬も幼少時代一度両親の付き添いで月の丘の家に来たことがある。春。岬が地を二本の足で歩き始めた頃、お昼遊園地に行くからと待ちきれない岬が両親に付いていって理事長と会っている、らしい。岬はそのことを覚えていないが、それは確かのようで由紀子さんもその光景も見ていたそうだ。岬と理事長の出会いはそれっきりで、それ以降二人は二度と顔を合わせたことがない。

「理事長って変わってるね」

岬は机に頬杖をついてため息をついた。うちわは机の上に無造作に放り投げられている。

「うん、そうかな?」

真矢にはあまり岬の言葉が伝わらなかったようだ。岬は変わっている理事長を変わっているとも思わない真矢も大概だなと思った。決して口に出さないが。

「おい、そこは俺の居場所だぞ発情期」

うるさい声が聞こえる。岬はうんざりする。デブで引きこもりの神沢タカオが誰のものでもない広間のソファを自分のものと思い込んでいやがる。タカオはソファで毎日psvitaでギャルゲーに励んでいる。正直言ってウザいったら仕方がない。

「私、自分の部屋戻るから」

「おうおう。帰宅早々はだけて。大人の階段にも慣れが必要だからな。頑張れよ。チビと百合っていうのもオツだ。お前はアワビ貝ってツラかな。はっはっはっ」

下品にもほどがある。反応する気にもなれない。腹丸出しにして汚臭を周りに晒してよく平気でいられる。タヌキかお前か。

岬は愉快そうにソファに横になったタカオの頭に唾を吐く。タカオはそれに気づいていないのでちょっと馬鹿だ。

しかし真矢さんはタカオの暴走に目をつぶっていいのか。年長者だからもっと彼の行為に注意を施して欲しい。その方が素敵ですよ。岬は声に出さず思う。

岬はカバンを持って目をこすりながら二階へと脚を進めた。

二階には各自の自室がある。もともと寮として建築されていないため、部屋への進路も大きさもみんな違う。空いている部屋を新規入寮者が選ぶ。岬は海が見える部屋を選んだ。少し小さな部屋ではあるのだが。

部屋へと続く廊下の窓に今日も藤川サダオが掛けている。藤川さんは窓の外の青い空を眺めている。藤川さんは無表情でありながら、どこか影がある。彼を見ていると、なにか大変恐ろしいことが起こるのではないかと考えてしまい岬の頭の中は戦争恐慌になる。

「やあ岬ちゃん」

岬はハッとする。いつのまにか立ち止まっていたようだ。岬は藤川の瞳から目を逸らした。なにか後ろめたかった。

「こんにちは藤川さん」

「今日も暑いね。夏だね」

「藤川さん、今日もお仕事だったんですか」

「ああ。今日も不況でしてね。何一つ客は買いやしない。当たり前だよ。誰が夏にカイロを買うというんだ。いくら半額といってもね。限度があるよ」

藤川さんは新卒二年目の社会人。カッターシャツはすっかり汗を掻いている。しがないセールスマンをしているが、まったく成績があがらない。岬が帰宅する頃には毎日施設にいるほどの身だ。でも、藤川さんはあまり気にしていない様子だ。瞳の奥が語っている。

「藤川さんも苦労しているんですね」

「うん。ここの人はみんなそうだろ。岬ちゃんもだし、僕ももちろん。みんなだってそうだろうね」

そう言い終わると藤川さんは再び窓の外を眺め始めた。岬はそそくさとその場を後とした。

岬は自分の部屋に着いた。カバンを部屋に放り投げて、クーラーを着ける。岬の部屋は本とぬいぐるみが置いてあるぐらいで地味なレイアウトだ。

岬は汗で濡れたカッターシャツを脱いで部屋着に着替え始める。着替えなければやってられない暑さだ。

「岬ちゃんお帰り」

岬は即座にシャツを着る。隣部屋の岡下るみは岬が帰宅するとすぐにこの部屋にやってくる。るみは小学五年生の11歳。寂しいのだろうか。岬より歳下のくせにお姉さんぶっている。この歳にしては確かに頼れる部分はあるんだけれど、少し鬱陶しい。もちろんユリユリなんかするはずがない。馬鹿なタカオめ。

「ドアはノックしてからって言ってるでしょ」

「いやぁわかってんやけどね。どうしても忘れちゃうねん。ウチの家、ドアのない家やったから」

「凄い家で暮らしてたんですね。毎度のことながら」

「まあまあお勤めご苦労さん。これでも飲んで気を落ち着けて」

るみちゃんは部屋の中央に置かれた机の上にコーラを置く。るみちゃんは勝手に私のコップを二つ置いてコーラを注ぎ始める。なぜかるみちゃんはコップ一つだけに注ぎ飲んだ。ここは私の部屋なんだが、と岬はむかむかする。

「あ、コーラはセルフサービスよ」

「そもそも私は炭酸飲めないんですけれど」

「コーラほど美味しい飲み物を飲めないなんて、岬ちゃんってかわいそう」

デリカシーがないっていうかなんというか。コーラぐらい飲めるわボケ。岬は自分にデリカシーがあると思っているわけではないが、それにしてもるみちゃんは常識が無さすぎる。一体彼女の親は何をしていたのだろうか。彼女の親が一体どういう人物なのか気にはなるが聞けない。

「るみちゃん、一応私年上ってわかってる」

「でもここに来たんは私の方が先や。先輩やで。先輩に対して接待するんは世の常識やで。ぐへへへ」

「じゃあ年上への敬意を払うのも年下の務めよ。後でぷよぷよしてあげるからしばらく自分の部屋に戻っていなさい。お姉さんにも休憩が必要なの」

「へー。岬ちゃんってすっかりおばんやってんね。おばんにはやさしゅうせぇって言うのがウチの家訓やから此処はおとなしくひいたるわ。まあ往生せえな」

どこまでも口の減らないお嬢さんだ。岬は苦笑いをするほかなかった。

るみは部屋から退散し岬は自室に一人となった。岬はふーとため息をこぼし、ベットに横となった。白い天井。岬は思索を始めた。

岬が此処にきてから三ヶ月。両親が事故で亡くなり、あっという間に時間が経った。変わったこと、変わらなかったこと。涙にくれる暇はある。まだまだ両親が亡くなった痛みが岬には残っている。

だからといって悲しみに身を費やし続けるわけにはいかなかった。岬は家族がいた時と同じ学校に通い続け、施設に戻っても前のように一人でゆっくりできる時間もすぐには訪れない。

岬は自分はすぐに大人にならなければならないという気持ちに苛まれていた。はやく独り立ちしなければならない。頼れる両親はもうこの世にはいないから。岬はこれから、一人で考え歩いていかなければならないのだから。

目をつぶりながら、考え続けているといつのまにか夢想と思考が混ざり始め、次第に岬は眠り始めた。


『岬、ごはんよ。起きなさい。岬。』

お母さんが私を呼んでいる。ひぐらしの鳴き声が聞こえる。夕方の消えてしまうような光が私の部屋を思い出の世界へと錯覚させる。

岬は帰宅して着替えたばかりなのに汗ばんだシャツを感じて、夏の暑さを恨む。このまま寝続けたい。瞼の裏が心地よさを呼んでいる。

『岬ちゃん、起きて。ご飯や。祭りやで。浴衣着などうしようもないわ。』

お母さんにしては高い声。そして関西弁。

岬は体をびくりと震わせた。なるほど。これは夢の世界か。

岬は現実世界を認識すべく瞼をゆっくりと開いた。顔の前にはるみがいた。るみは岬の感覚からして異常なほどに顔を接近させている。もう少しで赤い唇が接触する。

岬は思わず飛び跳ねた。るみは少し飛ばされて、叫ぶ。

「お姉さま。よだれが垂れてますことよ。そんなにお腹が空いているのにどうして毎日帰宅してはお眠りなさることですかね」

るみは御機嫌斜めなようで、少し歪んだ顔をこちらに浮かべている。岬はため息混じりに話す。

「るみちゃん。私いつもいってるけど、ダイエットしてるからそんなね、ご飯いらないの」

「そんなの断然拒否ー。施設長さんに怒られるよ」

「構いません」

むにゅ。無遠慮にるみは岬の横っ腹を掴んだ。

「ダイエットするほどかな」

「するほどなの」

岬は横っ腹を掴むるみの手を解放させる。なんてデリカシーのない子なのかしら。流石にここまで無遠慮な小学生、むかつくったらありゃしない。

「とにかく、ご飯は食べに行きませんからね」

「知らないよ。どうなっても知らないからね」

そうしてるみは岬をチラチラと見続けながら部屋を出ていった。岬はるみから目を逸らし続けた。

るみが完全に部屋を出たことを確認すると岬は大きなお腹の音を部屋に響き渡らせた。岬は誰も見ていないというのに顔を赤く染めた。

どうしてあんなにるみを拒絶したのだろうか。岬は正直言って腹を空かしている。今すぐご飯を食べたい。腹一杯食いたい。花より団子、上等だ。ダイエットなんてするはずがない。そんなこと気にする極楽浄土な女の子ではない。

岬は自分自身のややこしい性格が嫌いだ。昔はこうではなかった。思春期になってから少しずつ物事を単純に捉えられなくなった。大好きだったカレーに拒否感を覚えて、どうしても見るだけで吐き気を覚えてしまう。それほどまでに岬は自分自身をコントロールできなくなった。

今すぐにも部屋を飛び出して食堂に行ければいいのに。これで何日目だろうか。岬の頰には涙が垂れ始める。ベットの上で地団駄を踏み始めた。

トントン。ドアのノック音が聞こえる。岬は返事をするか躊躇した。すると

「山瀬さん。聞こえますか。山名です。夕食を持ってきました。開けますよ。いいですね」

ドアは開かれて山名雪江がお盆を持って入室する。カレーの匂いが部屋に充満する。岬は自然にお腹をグーと鳴らした。岬は布団の中に急いで入り雪江から目を逸らした。雪江は子供を見守るように素敵に微笑した。雪江はお盆を机の上に置く。雪江の大きな胸が今にも机上のカレーに溢れそうだ。岬は目を逸らしながらも見逃さなかった。

「お腹はどうしても減るものよ。どうするの。カレーの匂いを部屋に充満させて。どうせ食べるのならば気持ちよく食べなさいよ。じゃあ私は帰るわよ。山瀬さん自分でお盆とお皿返して施設長さんにしっかり失礼を詫びなさいよ。わざわざあなたのためにこのような処置を下していらっしゃるのだから。じゃあね」

雪江は一礼をして部屋から去った。

岬は布団から頭を出して雪江が去った扉を見続けた。そこにはもう誰もいないがどうしても見続けたい気持ちに駆られた。

しかしカレーの匂いが部屋を充満する。カレーをどうしても食べろということなのだ。岬は降参するしかない。岬は布団から抜け出していただきますを唱えながらスプーンを掴んだ。カレーを食べ始めた。

カレーを食べ終わると、岬はベットに横になる。今、お盆を返しにいくと面倒臭い連中に絡まれる。岬は好き好んでそのような状況を作るようなアホウではなかった。岬はスマホをいじり始めた。安っぽいヘッドフォンを耳の穴にねじ込み、音楽を流し始める。父親が聞いていた『無罪モラトリアム』。

「岬ちゃん、何聞いているの」

心地よく音楽に身を委ねていたのに、いきなりるみに遮られた。岬はうざそうにしながら答える。

「幸福論よ」

「へー。なんか難しそうだね」

「るみちゃんは何しにきたの」

るみはにやにやと笑い、机上の真っ白になった皿を指差した。岬は自分自身のいやらしさを年下の女の子に指摘された恥ずかしさに身体を火照らせる。

「ダイエットしてたんじゃないの。岬ちゃんってやっぱり見栄張りだね」

「早く出て行ってもらえるかなぁ。お姉さんも我慢の限界だよ」

いくらなんでもこの言い方はないだろう。岬はまた自分自身をうまくコントロール出来ていないことに気づいて、悔しいなと感じた。るみは岬の態度に長居は無用と察してすぐさま部屋から出て行った。年下に気遣ってもらうこと。遊びたいし、甘えたい盛りの年齢のるみの当然の行動を岬は邪険にしている。こういうことが続くのであれば年下であるのはむしろ自分の方ではないかと岬は考え始めた。悪いことをしたなと罪悪感を覚える。なにか、明日にでもいい。るみに何かしてあげなければと岬は考えた。

なにか考え始めると狭い自室に籠るのも嫌になって、岬はお盆を返しに食堂へと足を進める。二階廊下を進み、一回広間への階段へ行くと嫌な奴、神沢タカオがソファーの上でくつろいでるのが見える。岬は再び名状しがたいぐるぐるの感情を頭にもたげさせるが、何事もないように階段を降りていく。

階段の音が響いたのだろうか。タカオはゆっくりと振り向いて岬の姿を確認すると、嫌ったらしい悪意のこもった笑みを浮かべた。

「おい、お前。たいそうなご身分だな。どうしましたお嬢様。今日は太ももが太くなってきましたので自室で養生しますって感じか」

冷静に冷静に。岬はお盆がブルブルと震え出すのをなんとか抑えながらトラベレトラベレと岬の母親が好きだった歌をつぶやいて気を紛らわす。

ずれたメガネを直して、顔にできたニキビを潰しながらタカオは笑い始めた。

「おい女中は使わんのか。なんなら卑しい身分の私が岬様のお盆を運びましょうか。代わりと言ったらなんですが岬様。これ以上太ると御前に姿を現わすのも厳しくなるという」

どこまで話し続けたら気がすむのか。岬はどうしても抑えきれず、キリッと蛇のように鋭く階下から上ってくるタカオを見つめた。

岬は我慢のタガが外れた。腕をブルリと震わせて、結果お盆が宙を舞う。やっちまったぞ。両方が同じことを思い、岬は惨事を防ごうと宙のお盆と皿とスプーンを追いかけて、飛び出し、タカオはこちらへと降ってくる諸々の物体の中でふわりとシャツをまくって見える岬の肉つきのいいお腹に目を奪われてた。

岬はタカオの視線に気づくことなく、皿に夢中のままタカオに飛び込んだ。タカオは衝撃に耐えきれず背中から吹っ飛ばされる。可哀想にタカオは岬のクッションとして階下の広間の床まで落ちた。その衝撃はかなりのものでタカオは痛々しい咳を激しく、そして内臓に溜まったものをリバースし始めた。岬はクッションのお陰で無事だった。キョトンとタカオの上に座り込む。

岬とタカオとともに宙を浮いたお盆と皿とスプーンは壊れるものは壊れ、壊れないものは壊れないという結果に終わる。

しかし音というものは防ぎようなく、施設内で大事故が起こったことを知らせる。すぐさま身の軽い連中は広間へと集まってくる。

一目散にやってきたるみは階上から階下の二人を見て大きな声を上げた。

「カップル誕生や!!」

岬はそれを聞いて、一体どう考えればそのような考えを呼び込めるのか不思議で仕方がなかった。

その後幾人かの寮生に混じり、寮長がやってきてこってりと絞られたのはいうまでもない。


夜中も11時。今日も今日とて色々なことのあった一日だった。

岬とタカオは皿を割った罰として十日間の謹慎処分を言い渡された。中学生二年生の岬は以前よりも厳しい門限を設けられた。タカオは寮長に自分は悪くないと釈明したが通じず岬を恨む目つきを浮かべていた。岬からするとタカオが私にちょっかいをかけなければ何事も起こらなかったのだから罰をもらって当然のように思う。

岬は自室でテスト勉強に励んでいた。もう少しで期末試験。勉強しなければどうしようもない点数でとてもじゃないがみんなに顔を出すのも恥ずかしい。

岬は床に座って勉強する。尻が痛くならないようにころころ座り方を変えながら。鉛筆の重さに耐えきれない右腕をほぐしながら。頭がヒートアップしないようにコーラを飲みながら。

気分良く勉強するためには小休憩が必要だ。岬は五分ごとに横になり、これからの日本はいったいどのような道を辿るのか。戦争だけはもう嫌だと参加したこともないのに実感のこもったため息を吐いた。

そうして休憩終わりに気分上昇のコーラを飲めば最高だったけれども岬が隠しもっていたコーラは全て飲みきってしまった。毎度帰宅途中の気のいいおじさんがくれるコーラを毎夜自室でちょびたょび隠れ飲むのが岬の日課なんだけれど、流石にテスト勉強はストレスでいつもの倍飲んでしまう。

コーラがないと身体がむずむずする。岬はただでさえ進めようとしないテスト勉強を努める気力が湧かない。今すぐコーラを飲まなければ発狂してしまう。今、岬は自然とトマト小僧のぬいぐるみをバシバシ叩いている。傍目からおかしな子かもしれないが、これでも岬は真剣なのだ。

岬は決断した。コーラを買いに行こう。コーラのある自販機が丘の下の方にある。寮長からは厳しめの謹慎処分を食らってはいるが、まだ最警戒人物にリストアップされていないだろうから、誰にも気づかれずに外に出ることはできるだろう。

岬は心許ないサイフの中身をチェックした。小銭は今後の活動に影響を与えない程度に余裕がある。

岬は部屋着から外着に着替える。長袖長ズボン。夜でも蝉が鳴いているほど暑いが太陽がないだけまし。虫に刺されないようにする方が重要だ。

着替え終わりサイフをポッケに入れてゆっくりとドアを開けて外に出る。寮長は恐らく広間であみぐるみをしているはずだ。気づかれないように外に出なければならない。

岬は二階廊下奥の非常階段へと忍び足で進む。そしてドアを開けて階段を降りていく。

外は蒸し暑い。蝉の声が響いている。全く最近の蝉は発情し過ぎだ。よっぽど相手が見つからないんだろうな。岬は余計なお世話な思考を展開していた。

施設前の広場へと足を進めると人がいる。一体こんな時間に誰だと目を細めると、黒いシスター服ではないか。こんな服を着るのは一人しかいない。ノエルだ。今日も彼女は奇行に走っているのだ。なにやら身体を前後左右に動かしている。体操だろうか。

岬が唖然としているとノエルは細長くあだっぽい目がパチクリとする。岬に気づいたようだ。ノエルは体操を中断して控えめに岬へと会釈した。

「おはようございます岬さん。今日もお元気ですか」

ノエルはその日初めて会う人には必ずおはようございますと言う。これも彼女の奇行の一つ。

「おはようございます。ノエルさん。私は元気ですよ」

「そうですか。それは良かった。なら、一緒に体操をしませんか。身体が温まりますよ」

岬はこれほど暑いというのに温まることがいいことのように語りかけるノエルの神経を疑った。同年代だけに人一倍彼女と仲良くなりたい岬ではあったが、どこまでいってもノエルは奇人すぎてついていけない。

「今、結構ぽかぽかだから大丈夫だよ。また身体冷えているときにお願いするよ」

「そう。そうなら残念ね」

ノエルは本当に残念そうなしぐさをし、また体操を開始した。

岬は何事もなかったようにノエルから離れていく。あれほどの美人だというのに様々な奇行がノエルを異次元物体のように存在させる。世界というのはうまく出来ているなと岬は感心する。

「あ、藤川さんおはようございます。今日もお仕事ですか」

藤川さん? 岬はノエルが発した言葉がなにを示しているのかよくわからなかった。振り返ると確かにサダオがそこにいた。

岬はなんだかサダオが何をしに外に行くのか気にはなったが、彼の暗い影の部分に接触するようで、気にしない方が身のためのように考えられた。岬は今の光景はなかったと思い込み、場を後とする。

岬は丘を降りていく。今日は月がみえない。散り散りに存在する電灯の光だけが行き先を教えてくれる。岬はブレーキを踏みながら丘を早く下っていく。

丘の下にまでいくとようやく自動販売機に出会う。岬はコーラを買おうとじろじろと目的物を探したが、なんと売り切れという表示が出ている。嘘だ。コーラがないなんて。すっかり岬は意気消沈する。更にコーラを買い求めるにしたって今降った丘の二倍ほどの距離を歩かなければならない。それを考えるともう今日はコーラはいいやと思えてくる。岬はコーラの代わりに三ツ矢サイダーが残っていたので二本購入した。本当の気分にはなれないけれど、なにも飲まないよりましだった。

岬は一本開けて飲み始めた。帰宅しながらの飲みほど気分が安らぐものはない。岬はこういう気分をいつまでも過ごせるならば人生も捨てたもんじゃないとまるで40後半のおじさんのような諦観を心に抱いた。

岬は両手に三ツ矢サイダーを抱いて丘を登っていく。夜の丘を下から見ると何やら壮大なものが此処にはあるのではないかと点滅する古い電灯にも期待してしまう。だからといってなにか素晴らしいものを岬に提示するはずもないのだが。

ぼんやり息を切らしながらゆっくりと登っていく。丘の途中で黒い人影が見える。不審者だ。岬はゴクリと唾を飲む。自分はまるでここにいないかのように自然に通過しなければならない。刺激を与えたら、何物ではないという岬の主張は破壊されて私はここにいるんだよと不審者に教えてしまうことになる。

岬は緊張で汗がダラダラと垂れる。嫌だな。シミが出やすい服を着てきたものだから、電灯に照らされると不審者を煽ってしまうことになる。岬は自分の選択ミスに憤りを感じた。

もう少しで不審者の横を通る。岬はどくどくと鳴り響く心臓音を抑えようと気にならない程度の深呼吸を始めた。わん、つー、わん、つー。できる限りゆっくりと。

目の端に映る不審者の様相が次第に明らかになる。ダークブルのズボン。灰色のシャツ。映る顔の輪郭は見覚えがある。もしかしてと視線を向けると男は物憂いげな顔つきを浮かべていた。不審者の正体は真矢だった。

岬は先ほどのノエルやサダオ以上の衝撃を真矢から受けた。トンッと音が鳴る。岬は自然に両手のペットボトルを離していた。ペットボトルはキツめの丘ゆえに岬が登ってきた方向にカラカラと転がっていく。

ペットボトルの音に反応して、真矢はようやく目の前に岬がいることに気づいた。真矢はどうしてここに君がいるんだと岬の顔を見る。岬は自分が真矢の顔を見続けていたことに気づき顔を真っ赤に染めた。岬は茹でたこのようになってしまった。

真矢は転がっていくペットボトルを見る。

「いいのかい。あれは君のだろう」

岬は真矢に話しかけられているのに一体どのように返事をすればいいのか分からなかった。岬は次第にうつむき始め、もじもじする。先ほどまでコーラに欲望を抱いていた女の子にしてはあまりにもお粗末すぎる。

真矢は岬が反応せず下を俯くばかりでらちがあかないと思ったのか、転がっていくペットボトルを拾いに丘を下り始めた。二つのペットボトルは障害物に遮られることなく気持ちのいい丘の滑降を楽しんでいた。

ようやく追いついて真矢は戻っていた。大粒の汗を身体中にかいている。呼吸を整えようと呼吸が激しい。

岬はまだもじもじしていた。

「これ、岬ちゃんのじゃないの。ちゃんと持っとかないとダメだよ」

岬はゆっくりと顔をあげる。

「よかったら一本飲んでください。二本も買いすぎだと思ってましたから」

「いいのかい。ちょうどよかったよ。結構汗かいたもんだし、脱水症状ぎみだったんだ。助かります」

あっ。真矢は飲みかけの三ツ矢サイダーを開いて飲む。岬はそれは私の飲みかけですと伝えようとしたが、なかなか言い出せない。ゴクゴクとペットボトルの中に泡が生まれ渦を巻き真矢の体内へと消えていく。あっという間に三ツ矢サイダーは消えた。

「どうしたんだい。こんな夜中に。飲んでおいてアレだけれど、虫歯になっちゃうよ。岬ちゃん」

真矢は謹慎処分のことを知っているのに、そのことに触れようともしない。岬はそのことを嬉しく思う。少しずつもじもじが溶け始めてきた。

「どうしても飲みたくて仕方がなかったんですよ。性分なんです。真矢さんはどうしてこんなところに立ってるんですか」

真矢は空を見上げた。岬も見上げる。なにも見えない。真っ暗な空。

「今日は新月だろう。月が見えない日は不安になるんだ。月がきえてしまうんじゃないかって」

「月がきえる?」

「そうさ。子どもじみているね。そんなわけあるもんか。でも僕はそういう理由で此処にいるんだよ。見守っていないと不安でなにもできないんだ。性分なんだ」

岬はみえない月を探す。しかし、黒い雲も覆っているのか全くどこにもその姿を確認できない。

「君はしっているかい」

「何をです」

「この丘は、月の丘町にいるとどうしようもなく月に感傷的になってしまうこと。君は感じたことないかい。君はこの町で生まれ育ったんだろう」

どうだろう。岬は自分自身を省みた。月との関係なんて人並みのように思う。両親はよく月に関する話をしていたが、だからといって感傷的になるほどではないかなと思う。

「君はこの丘の秘密をしっているかい」

真矢は返答を待つことなく話し始めた。

「丘の秘密ですか」

「どうやら君は知らないようだね。今日みたいな日ではなく月が出る夜にそれは見ることができる。また今度教えてあげる。だから今日はもうお帰り。用は済んだんだろう」

たしかに用は済んだのであとは帰宅するのみなのだが、岬は真矢と一緒に月が現れるまで此処に残りたいと思った。

岬は勇気を出して真矢の左手を抱いた。真矢は少し驚く。

「私、もう少しだけ此処に残ってもいいですか」

「少しだけなら、いいだろう」

そうしてしばらく二人で空を見上げ続けた。もちろんその日はいつまでも月が見えることはなかった。

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