理髪店
池田蕉陽
おじいさん?
さすがに平日の昼間に理髪店へ訪れる客は少なかった。いつものことだった。この時間帯は学校やら仕事やらで忙しく、わざわざそれを休んでまで髪を切りに行こうとはならないのだろう。来るとすれば老翁か、ちょうど一時間前くらいに最後にやってきた空きコマで暇を持て余している大学生くらいだ。
今店内は俺と店長だけで、軽い雑談を交えながら床掃除などをしている。といっても、さすがにやることが無くなってきた。
「なあ土村」
「はい」
俺は
「ちょっと俺事務作業してくるから、客が増えたら呼んでよ」
「あ、わかりました」
そういって店長はスタッフルームに消えてった。店内は俺一人となった。そのせいか、店内のFMラジオがやけにうるさく聞こえた。
扉の開く音がしたのは、それから五分後のことだった。ぼーっと考え事をしていた俺は振り返って「いらっしゃいませ!」とついついでかい声を出してしまった。
ん、ええ?
そう咽喉から漏れそうになった。何かの間違いと思った。俺は客を見るなり、そんな不安感を抱いていた。さっき一瞬で膨れ上がった期待は既に沈殿してしまっていた。
店に入ってきたのは、何の変哲もないおじいさんだった。服装も至って普通で、その歳だからこそ着こなせる抹茶色のセーターを身にまとっている。低身長で腰は曲がっているが、何となくまだまだ元気そうだなという印象を受けた。そう、どこにもでいる老人だ。
ただ、おかしな点が一つある。それはもし俺が仮に街を歩いていて、 この老人とすれ違ったとしても、その点に関して何とも思わないことだ。この店に来るからこそ抱かざるを得ない疑問。
そう、このおじいさん、髪が無いのだ。一本もないのだ。禿げているのだ。つるつるなのだ。蛍光灯の明かりが頭に反射して少し眩しいくらいなのだ。
もしかして道を聞きにきたのか? それともトイレを借りに来たのか?
それなら腑に落ちる。
しかしおじいさんはそんな俺の内心なんか余所に、堂々とバーバーチェアに「おいしょ」と座り込んだ。
鏡越しにおじいさんと目が会う。俺の顔はやや引きつっていた。
「え、えーと……今日はどうなさいますか?」
一応マニュアルに乗っ取った。
シャンプーだけしろとでも言うのか。
「ツーブロックで」
できるかっ!
このおじいさん、どうかしている。認知症か。でないと、ハゲがツーブロックにしてくれなんて頼まない。
「え、えーと……」
言葉が詰まった。
「なんやツーブロックしらんのか?」
「いや、それは分かるんですけども……お客さん……その……ないじゃないですか……」
ストレートに髪が無いとは言いにくかった。怒号が飛んでくるに違いなかった。
「ない? 金ならあるぞ」
「いや、お金ではなくてですね……その……」
「なんや、ハッキリ言うたらどうや」
「その、お客さんの今の状態ではツーブロックは難しいと思われます」
「だからなんでや」
「ツーブロックにするには、毛量が足りないかと……」
そこでおじいさんは姿見に目を向けた。目を凝らすように細めてから、自分の右手を頭に乗せた。
「ふさふさやないかい」
「……」
「もうええ。話ならんわ。店長呼んでこい」
俺は言われた通りに店長を呼んできた。
「どうかなさいましたか?」
「こいつにツーブロックしろ言うても髪無いから無理とか言うんや」
「ええ?」
店長が横目で俺の事を訝しそうに見てきた。
「それは大変失礼致しました。今から代わって私が担当になりますので」
「ほんまに頼むで」
店長が散髪ケープをおじいさんにつけた。それから専用のハサミを取り出す。そのハサミで何をするというのか。何も切れるものなんてありゃせんのに。
すると、店長がおじいさんの頭上、つまり空気を切り始めた。
なにをしているんだ。なぜ空気を切っているのだ。まさか、店長には髪が見えるのか。俺にだけおじいさんのふさふさな髪が見えないのか。そんなのまるで、髪の毛の幽霊じゃないか。
俺は心配になった。俺がおかしいのか店長がおかしいのかおじいさんがおかしいのか分からなくなった。俺は目を凝らしておじいさんの頭に注目する。やはりハゲだ。髪一本生えてない。散髪ケープも最初のまんまだ。
そんな世にも奇妙な光景が十五分くらい続いた。
「こんな感じでよろしいでしょうか」
店長が四角い鏡を持ってきた。おじいさん自身の後頭部を見せるためだ。
「うん。ええよ」
どうやら満足した様子だった。俺からすれば何も変わっていなかった。依然としてハゲだった。
会計を済ますと「また来るわ」といって、おじいさんは店を後にした。
「店長、もしかして店長には見えてたんですか?」
「は? なにが」
「さっきのおじいさんの髪の毛ですよ」
「おじいさん?」
店長が首を傾げた。
「お前何言ってるんだ。さっきの客、どっからどう見ても若い女だったぞ」
「え……」
理髪店 池田蕉陽 @haruya5370
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