初恋に捧ぐ

あじその

初恋に捧ぐ

 僕がまだ自意識の海で溺れていたころの教室の中で、呼吸の目安にしていた女の子がいた。

 彼女がいなければ僕は今頃廃人みたいになってたんじゃないかな。

 大げさではなくそう思う。


 今では記憶もぼやけてしまって、うまく顔も思い出せないんだけど。

 後ろの席からみてた軽く透けた下着の輪郭や、手入れが行き届いていなくて少しだけ野暮ったくなった、うなじの辺りや、授業をサボった彼女がよく読んでいた難しい本のことなんかは覚えている。

 昔のことを思い返そうとしても、そんなことばかり出てくる。


 彼女とは業務連絡的なこと以外は、ホントに1言、2言しか話さなかったんだけど、僕はそれで十分だった。

 その会話の記憶は今でもたまに読み返す。

 すごく他愛の無い話なんだけどね。それが良かったんだと思うよ。



 そんな彼女がある日急に学校を辞めた。



 たぶん冬だったかな。石油の匂いが鼻をついた記憶があるから。

 それで僕も少しは感傷的な気分にもなってみたものの、あんまり長続きしなくてそっちのほうに落ち込んだな。



 僕が1歩も歩かなくても、時間は平等に進むみたいで、

 なんとなくなんとなくを繰り返してるうちに、

 大人だとか言われるような姿になっていった。見た目だけがね。



 そんなぼんやりとした情景の相手から最近手紙が届いた。

 夢かと思ったんだけどね、なんかホントのことみたいだった。


 僕はずっと彼女が書く気怠そうな字のことを覚えていたんだろうね。

 自分のことながら少し気持ち悪い。。


 内容はね。丁寧な時候の挨拶以外は、今度お茶でもいかがですとか。

 まぁそんな感じだった。


 僕もちゃんとお返事を書いたよ。

 また会いたいな。なんて一言で済むような内容をまわりくどくね。

 出来るだけ緊張してることを悟られないようにして。


 きっとバレバレだったと思うけどさ。


 まぁそんなこんなで小洒落た喫茶店なんかで会うことになったんだ。

 コーヒーがすごく甘いお店って聞いたことがある。

 昔のフォークソングにそんな歌があったんだよ。


 それからの毎日は、久しぶりに楽しかった。

 少し高い靴なんか買ったりもした。

 あっというまに約束した日になった。


 何年かぶりに見る彼女はちょっとだけ垢抜けてて、ちょっとだけやつれてて。

それでもすぐにわかったよ。

 少し前に、顔も思い出せないみたいなことを書いてたくせに、恥ずかしい僕はしっかりと焼き付けていたみたいだね。


 久しぶりだね、その後どうです。みたいな本当に他愛無い会話をしたよ。

 とても素敵な時間だった。


 一息ついたところで、彼女はあらたまったように真剣な声で話してきた。

 あのとき教室の世界から抜け出した理由だったりをさ。


「あのときの私はね、たぶんアイドルになりたかったんだ。」


 当時の彼女は、何をしてもあんまり楽しくないだなんて、まるで不感症でも気取るように日常を過ごしていたそうだ。


「私もあなたと似ていたんだよ。」

 だなんて失礼なこと言って笑った。


 それでも微睡みの中でラジオを聴くのは好きだったみたいで、そこから流れる歌に恋い焦がれていたらしい。

 私も歌を歌えれば。ノイズまじりの微睡みの世界で生きられたら 。


 そんなことばかりを考えてどうしようもない毎日を過ごしていたと言う。

 甘やかされて育ったよね、なんて二人して笑った。

 そうして君はアイドルになった。


 あんまり有名にはならなかったし、いやなことのほうがたくさんあったんだけど、

それでも楽しかったよって、人間にもだいぶ慣れたよって、はにかむ笑顔は昔とあんまり変わらない。

 僕は未だに教室の世界を生きてるからさ、やっぱりなんだか眩しいよ。


 それでまあ少しばかり過激なお仕事もしたりしたみたいで、そのことがばれて退学になったんだってさ。

 どうでもいいことみたいに言うから、僕もどう反応するのが良いのかわからずに、そうなんだ、なんて答えた。


 でもなんとなく納得はできた。そんなもんだよね。きっと。


 もういまは引退して、裏方で支えてくれた男性と一緒に暮らしてるらしい。

 その話を聞いても僕は意外と冷静だった。

 と思ったんだけどしばらくして自分がポロポロと涙とこぼしていることに気がついた。


 その間、彼女は何も言わないでいてくれたのがすごくありがたかった。


 きっと、ずっと、僕は今、目の前にいるひとのことが大好きで、でもそれを恋愛感情だとか一言で言い表せるようなものにはしたくなくて。


 なんだろう。よくわからないんだよね。やっぱり。

 雨宿りばかりの人生だ。


「あなたが私のことをずっと見てたのを知ってたよ。」

 僕の目を見て話してくれた。


「あー…。でももう恥ずかしがらなくてもいいのかな。」

 なにかも筒抜けだしね。


「うん。それでね。」

「それで?」

「君の世界の私は幸せそうにしてるかな?」

 はにかみながら聞いてくる。


「正直に言うとね、ちょっと息苦しそうだ。でも、」

「うん。」

「いい匂いがする。」

「あー…。」と苦笑いをしてくる。


「幸せってなんだろうね。」

「わかんないよ。」

「わかんないよね。」

「こう…言葉にして、型にあてはめないと、不確かでなにもわかんなくなっちゃうんだよ。」


「それでも、」

「それでも?」


「もどかしい世界でも君と出会えた僕は幸せなんだと思う。」

「…そういってもらえる私もまた、きっと幸せ者なんでしょうね。」

「たぶん僕の、、初恋は君の夢なんだろうね。ありがとうございました。」

 ずっと言いたかったことを、言った。


「そっか…うん。こちらこそ、です。」

 笑顔をくれた。

 それだけで今後60年は生き延ばせそうになるくらい、そんな優しい笑顔をくれた。


 これからも僕や彼女は、不確かなことばかりのどうしようもない世界に振り回されていくだろうし、たまに不安になって、やっぱり泣いちゃったりもして、それでも言葉や笑顔ひとつに嬉しくなって。


 僕たちがいるのはそれなりに素晴らしい世界なんじゃないのか、だなんて全力で勘違いをして、



 生きていこうと思ったんです。



 了

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