すすきのはら

夏十

第1話

 思えばあの時、わたくしはまだまだ子どもだったのでしょう。


 星がとても綺麗な夜でした。降ってきそうな星空とはこういうことを言うのだと、子供ながらに感じたことを覚えております。

 女学校からの帰り道、わたくしはその星空を夢中になって眺めていました。夜道を一人で歩くことほど恐ろしいものはありませんでしたから、普段のわたくしであれば、その恐ろしさに耐えきれず家まで駆けていったことでしょうが、その日は星空が味方をしてくれていたのでございます。

 勿論、それはそう良いことだけでもございませんでした。わたくしは頭上だけを見て歩いていましたから、前方のことなんてこれっぽっちも気にしてはいなかったのです。

 わたくしはどん、と音を立てて何かにぶつかったのでございます。それは固くもなく、かと言って柔らかいものでもありませんでした。いいえ、それどころか、それは果たして実体があるのかというほど、ぶつかった気のしない何かでございました。

 まずわたくしはぶつかったことに驚き、そしてその奇妙な感覚に驚き、そして最後に、目の前に何もなかったことに驚いて尻もちをついたのでございます。

 そう、確かに何かにぶつかった音はしたのでございますが、わたくしの眼前には何もありはしませんでした。

 ああ、こんなことをお話ししても、きっと貴方様は信じてくださらないのでしょうね。それとも、わたくしが何かにぶつかったのだと思い違いをして、一人で驚いていただけだろうとおっしゃるのでしょうか。けれどどちらも違うのです。

 ぶつかったという感覚は確かにございませんでしたが、わたくしは尻もちをついたのでございます。それはまるで空気の壁に押されたかのような心地でございました。

 あっと声をあげたわたくしは、臀部に土の感触を感じました。

 あの、尻もちをついた時特有の体を伝わる振動を、大層気持ちが悪く思いながら顔を上げますと、そこには変わらず夜道があったのでございます。どなたもいらっしゃいませんでしたし、何もございませんでした。

 わたくしは身震いを致しました。何かにぶつかり尻もちをついた、ということは確かに感じておりましたから、目の前に何もないということに大きな恐怖を覚えたのでございます。

 すすきがふわりと揺らいでおりました。草むらから鈴虫の声が響いておりました。小川から、ちゃぽん、と小魚が跳ねる音が聞こえてくるようでした。そして、月光以上の輝きをもった星々が夜道を照らしておりました。

 何度辺りを見渡しましても、ぶつかった主の姿はございません。

 いくら星空が味方をしてくれていたと言いましても、そんな奇妙なことが起これば普段より一層の恐怖を感じるのでございます。わたくしは勢いよく立ち上がり、そして駆け出しました。早くこんな恐ろしい夜道から逃げださねばと、早く母と弟たちが待つ家へ帰らねばと、そう思ってのことではありましたが、けれどそれは敵わなかったのでございます。

 わたくしは再びどん、と音を立てて何かにぶつかりました。先ほどと全く同じようにでございます。痛みはなく、けれど確かに弾き返されるような感覚でございます。

 二度目の尻もちをついたわたくしは目に涙を浮かべておりました。顔を上げて辺りを見渡しましても、やはり何も見当たらないのでございます。

 その後もわたくしは何度も何度もぶつかっては尻もちをつき、ぶつかっては尻もちをつきを繰り返しました。闇雲、とはきっとああいうことを表すのでしょうね。

 どれほどの時間が流れたことでしょう。遂に体力を使い果たして座り込んだわたくしは、わんわんと泣き出したのでございます。ああ、お伝えし忘れておりましたね。あの時、わたくしは次の月で十五になろうかという歳の頃でございました。

 幼子であれば至極当然の様子ではございますが、当時ではもう成人といって差し支えない年頃。そんな年頃の娘が夜道に座り込んで泣き叫んでいるのでございます。きっと、見るに堪えない光景であったことでしょう。

 怖い、帰りたい、臀部が痛い。そういった感情がまぜこぜになったわたくしの泣き声は、幸か不幸か、山奥にまで届いてしまったのでございます。

 突然のことです。ざあっと音を立てて風が吹いたのでございます。それはあまりにも激しく、身が凍ってしまうのではないかというほど冷たい風でございました。草花はなぎ倒され、木々は悲鳴を上げ、小川の水は震えあがり波となりました。

 わたくしは小さく声を上げ泣き止みました。恐怖を超える恐怖に泣き止まざるを得なかったのでございます。

 その風はきっとわたくしめがけて吹いた風だったのでございましょう。いいえ、わたくしではありませんね。わたくしの前のどっしり構える見えない壁に向かって吹いたのです。その風は山の方から吹き下ろしておりました。

 風はわたくしの髪をぐちゃぐちゃにしながら吹き抜けます。わたくしの目の前の壁に体当たりをするように吹き抜けます。

 わたくしは飛ばされぬよう地べたにうずくまっておりました。耳の横をごうごうと吹き抜ける風の音を聞きながら、ただ耐えていたのでございます。

 そのごうごうという風の音と、恐怖と寒さでがちがちと鳴る歯の音に混じって、絹を引き裂くような悲鳴が聞こえてまいりました。そう、それはわたくしのとても近く、眼前の壁から聞こえてきたのでございます。

 町娘が殿方を前にして上げる悲鳴がございましょう?黄色い声と呼ばれているものでございます。あのような悲鳴は、きんきんとうるさくも微笑ましいものにございますが、この時の悲鳴はとても聞き苦しいものにございました。

 虫のぎいぎいという羽音を何倍にもしたような。お皿を割った音を永遠と鳴らし続けたような。とにかく、耳を塞ぐどころか、その耳をもぎとってしまいたくなるほど気持ちの悪い音にございます。ああ、きっとわたくしは生涯、あの悲鳴よりも酷い音を聞くことはないのでしょうね。

 それは見えない壁の悲鳴にございました。いいえ、これは、きっとそうだったのだろう、というわたくしの想像にすぎません。けれど、なぜかその時のわたくしは見えない壁の悲鳴だと確信したのでございます。

 風と悲鳴は一生続くのではないかというほどの間続きました。その間わたくしはただ震えながらうずくまるしかできなかったのでございます。

 先に止んだのは悲鳴の方にございました。何かに吸い込まれるように、きゅおう、と最後に音をたて止んだのでございます。わたくしには見えない壁が力尽きたかのように感じました。悲鳴が止むのとほぼ同時に、風もまた、ぴたりと吹くのを止めてしまいました。

 戻ってきた夜の静けさに一人取り残されたわたくしは、呆気に取られておりました。

 何事もなかったかのようにりんりんという鈴虫の音が聞こえてきます。わたくしは急に息苦しさを覚えました。無意識にでしょうが、長い間息を止めていたのでございます。それを思い切り吐き出した後、背中にじっとりと冷汗をかいていたことに気付きました。

 背にはりつく着物を気持ち悪く思いながらも、わたくしはなんとか立ち上がりました。膝が笑っていましたから、それには多少の時間を要しましたが。

 ともかく、わたくしは立ち上がったのでございます。その時でございました。背後から何かにとんとん、と肩を叩かれたのでございます。

 わたくしはぞっと致しました。背後に寒気を感じつつも、それを確認するために振り向くことができません。それほど恐ろしかったのでございます。背中を冷汗が伝うのを感じました。

 わたくしが何をすることもできずにいると、再びとんとん、と何かは肩を叩くのです。

 まるで金縛りにあったのではないかというほど、わたくしの首はかたくなに後ろを向こうと致しません。けれどそのままでいると、何度も何度も肩を叩かれるのです。

 このまま肩を叩かれ続ける恐怖と、いっそ振り向いてなにものかを確認してしまう恐怖と。一体どちらがより恐ろしいのでしょうね。きっと、貴方様ならそのどちらも笑い飛ばしてしまうことでしょうが。

 その時のわたくしには、振り向いてしまうことの方が容易く思えたのでございます。だって、あのまま肩を叩かれ続けていたらきっと気が狂っていたんですもの。

 ごりっ、と音がしそうなほどの勢いで、わたくしは首を回しました。実際少しばかり痛めたのではないかと思います。

 そうして後ろを向いてみましたが、案の定と言いましょうか、そこには何も、誰もおりませんでした。ただ、歩いてきた夜道が星々の明かりに照らされるばかりにございます。変わったことと言えば、そうですね。先ほどの風によって草花がなぎ倒されていたということぐらいにございましょうか。

 その光景によってさらなる恐怖に襲われたわたくしが絶句しておりますと、また、とんとん、と後ろから肩を叩かれたのでございます。

 今度は素早く振り向きました。けれど、そこにはやはりなにもありはしません。そうして息を飲んだわたくしの肩を、またなにかがとんとん、と叩くのです。

 また叩かれて、振り向いて、その繰り返しでございました。

 いったい何度続けたことでしょう。今思えば、どこを向いても肩を叩かれるのであれば走って家に帰ってしまった方が良かったのでしょうね。もう見えない壁はなかったのでございますし。けれどわたくしはそうしませんでした。

「どなた……?」

 少し息の上がっていたわたくしは、何度目かの振り向きの後、恐る恐る尋ねたのでございます。何か分からないものに向かって問いかけることほど危ういことはないと、当時のわたくしも知っていたはずでございますが。度重なる奇妙な出来事に判断力を奪われていたのでございましょう。

 わたくしの言葉は夜の闇に飲まれていきました。そう、答えは返ってこなかったのでございます。

 すすきがふわりと揺らいでおりました。草むらから鈴虫の声が響いておりました。小川から、ちゃぽん、と小魚が跳ねる音が聞こえてくるようでした。

 問いかけたところで、夜道は黙ってただ変わらずそこにあったのでございます。

 わたくしの頬に熱い何かが伝いました。そうでございます、わたくしは恐怖に耐えきれず、また泣き出したのでございます。先ほどと違って、涙の感覚がはっきりと分かるような、静かなものでございました。すんすんと、熱い涙を流しながらわたくしは夜道に立ち尽くしておりました。

 その時わたくしの頭を占めていたのはただ一つ、早くこんな怖いところから帰りたい、という思いだけでございました。本当に子どもでございますね。

 泣く、ということは、存外集中力を持って行かれることにございます。泣くことに集中していたわたくしは、いつの間にか肩を叩かれなくなっていたことに気づきませんでした。

 それに気づいたのは、なにかに頬を撫でられた瞬間にございました。

 最初はまた風が吹いたのかと思ったのでございます。けれど、風にしてはしっかりとした感触が頬に残っておりました。

 わたくしは確信致しました。肩を叩いていたなにかに、今度は頬を撫でられたのだと。

 頬を撫でられるなんて、肩を叩かれることより恐ろしいことにございます。涙はさらに溢れてきたました。しかしその涙は頬を撫でられることによりどこかへ運ばれて行ってしまいます。

 恐怖というより、気持ち悪さといった方が正しいのかもしれませんね。何かが執拗に頬を撫でているのですから。

 その気持ち悪さに、わたくしは少しばかり俯いたのでございます。そこではたと気づきました。

 目の前の地面に、わたくしの涙でしみができていたのでございますが、そのしみはなにかをかたどっていたのでございます。いいえ、なにか、ではございませんね。

 そのしみははっきりと文字の形をしておりました。涙の粒の大小で、少しがたがたとした文字ではありましたが、

「ゴメンナサイ、ナカセルツモリハナカッタ」

 はっきりと、そう書いてありました。

 星がとても明るい夜でしたから、夜道でもその文字は綺麗に見えたのでございます。

 ふふ、今考えてみると、涙の粒で文字を書くなんて、その器用さに少し笑ってしまいますね。あら、そうでもないのですか?なんだか可愛らしくもあるとわたくしは思うのですが。わたくしには、幼子が必死に文字を書いているようにも思えたのでございます。微笑ましいことでございますね。

 ともかく、その文字でございます。

 わたくしは驚いて、ぽかんと口を開けておりました。さぞかしまぬけな様子だったことでしょう。涙はもうどこかへひっこんでおりました。

 すると、頬を撫でられる感覚はなくなり、代わりに、そばの小川から、ちゃぷん、という水をくむような音が聞こえてきました。

 そうして間髪入れず、

「モウダイジョウブダト、ツタエタカッタケレド、ツタエカタガワカラズ、タタクシカナカッタ」

 涙で書かれた文字の横に、また新たな文字が現れました。きっと、涙で文字を書くことができなくなったので小川の水を使ったのでしょう。

 わたくしはまだ呆気に取られておりました。それはそうでございますよね。誰もいない夜道に、突然水のしみで作られた文字が現れるんですもの。あの晩は本当に奇妙なことばかりでございました。

「どなた……?」

 わたくしはつい尋ねてしまいました。いけませんね。昔から、こういった見えないなにかには返事をしてはいけないと決まっておりますのに。

 けれどその文字を書くなにかは、わたくしに危害を加えるというわけでもなく、ただ文字を書き続けるのです。

「アナタノナキゴエニ、ハラヲタテタヤマガミガ、ツヨイカゼヲオコシタノダ

「キゲンガワルイトキダッタラ、キットアナタモフキトバサレテイタ

「アナタハウンガヨカッタ

「ヤマガミノカゼデ、モウカベハナクナッタカラ、カエルコトガデキルヨ

「ココニナガクトドマッテイルト、マタベツノナニカニ、メヲツケラレル

「モットオソロシイナニカダ

「アレラハ、アクイヲモッテル

「サッキノモノタチハ、ナニモカンガエズ、タダソコニアルモノダケレド

「アクイヲモッタモノガ、アナタヲオソエバ、キットヒトタマリモナイ

「サッキノコトナンテ、ヒジャナイクライニ

「ダカラモウオカエリ

 文字はすらすらと書かれていきます。わたくしはただ黙って見つめていることしかできませんでした。

 お帰り、というところまで書かれると、それ以上文字は紡がれることはありませんでした。けれどわたくしはそのままそこを離れることができず、おろおろと辺りを見渡したのでございます。どうにかして、その文字の主にお礼がしたくて。

 けれどもちろん、辺りを見渡したところで文字の主が現れるわけがございません。

 だからわたたくしは、目の前の空間に向かって、ただ、

「ありがとう」

 とだけ零しました。返事は期待しておりませんでした。

 わたくしはそのまま歩き出します。教えられた通り早く家に戻らねば、と。

 そう足早に立ち去るわたくしの背後で、ぱたぱた、と水が地面へと落ちる音が聞こえてきました。

 これはわたくしの想像でございますが、きっと、「ドウイタシマシテ」という文字が浮かんでいたのではないかと。そう思うのでございます。

 それからは何事もなく、わたくしは帰路に着くことができました。もしかしたら、またなにかに出会うのではないか。そうも思っておりましたが、拍子抜けするほど、その後の帰り道は平和なものでした。

 星が瞬き風がそよぐ夜にございます。わたくしは再び夜空を見上げておりました。

 わたくしは、その星一つ一つがなんだか目のように感じておりました。その数えきれないほどの目がわたくしを見下ろしているのでございます。

 普通であれば、それは恐ろしい考えなのでしょう。けれどその時のわたくしには、とても安心することができる、心強いものにございました。

 まるで母の様に優しく、父の様に力強く、兄の様にたくましく、姉の様に凛々しく、それらはわたくしを見つめてくれています。

 わたくしがその星々に微笑むと、星々もまた、目を細めてくれていたようで、わたくしは嬉しく思いました。

 それが、わたくしがあの夜道で出会った最後のなにかでございます。


 あれらはなんだったのでしょうね。

 見えない壁は、星空を長い間眺めていてほしかったなにか。冷たい風はわたくしの泣き声に腹を立て原因を取り去ろうとしたなにか。肩を叩いたものは一連の流れを見かねたなにか。そして星々は、わたくしの妄想でしょうか。

 わたくしはそのように想像しておりますが。

 なにか、とは何だったのか、でございますか?それはわたくしには分かりません。

 わたくしはただ、奇妙な体験をした可哀そうな娘に過ぎませんから。

 あとは貴方様のご想像にお任せいたします。

 そう、可哀そうなただの娘。まだまだ子供だったのでございます。今の貴方様と同じぐらい。

 だから、わたくしはああいったものたちに出会ってしまったのでございますね。それも、今の貴方様と同じ。

 ああ、お時間も丁度いい頃合いでございますね。きっと貴方様の帰りをご両親も待っておられるでしょう。夜道は危のうございます。特に今日のような夜道は。わたくしのように奇妙の体験をなされたくなければ、さあ、早く。お気をつけてお帰りください。


 そう言うと、僕の前で昔話をしていた見えないなにかは、どこかへ消えてしまったようだ。

 随分長い昔話だった。

 その話の間夜道で引き留められていた僕は、早く家に帰ることにした。

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