第12話 ライン河の夕べ2
俺は思いがけないお客サマを前にして、一瞬でこれまでの怒りや羞恥心が吹き飛んでしまった。それと同時に思考回路までぷっつり切れてしまったようで、接客のABCも忘れた脳内を占めるのはクエスチョンマークのみとなる。
俺、バイト先教えたっけ? ――いや、店自体を教えた記憶はねェ。じゃあなんでカオルがここに? ――そりゃ客として来たんだろうが。……
ニューロンの繋がらない頭で一人問答を繰り返している間、カオルは可哀そうに、困惑した表情でドアノブに手をかけたままだった。
「……えっと、僕は入店を許されますか?」
そのおずおずとしたテノールにより、一気に現実へと引き戻される。しかし間抜けな俺より早く、叔父とヨーニーが「どうぞいらっしゃい!」「遠慮せずにこっち来な」と彼を店内に招き入れた。
モスグリーンのスニーカーがおっかなびっくり寄木張の床を踏む。カウンターまで案内した店長は、まだ名残の漂っていた先ほどの剣呑な雰囲気を払拭するように明朗な声を上げ、彼に右手を差し出した。
「君がカオル・ウルーか。いやあ、二人からよゥ話を聴いとるんだ。滅茶苦茶優秀な学生さんだってな……初めまして、俺はクラウス・エッティンガー。レネーの叔父で、この店の
「初めまして、マスター、クラウスさん。カオル・ウリューです。レネーとは寮の隣人で、ヨーニー……ヨーナタンのバディです」
昔
「随分ドイツ語が上手じゃねえか、感心だな」という叔父の言葉に、何故かヨーニーの方が誇らしそうに照れた笑みを浮かべる。
「お前、どうしてここに? まだ待ち合わせの時間にしちゃ早いだろ?」
二人に大きく出遅れたものの、ようやくカオルに話しかけることが叶った俺は、メニューを手渡しつつ尋ねてみた。「ありがとうございます」と受け取ると、カオルは言葉を手繰り寄せるように目線を揺らしながら事の次第を説明し始めた。
「今日は、朝から、デュッセルドルフにいました。デュッセルドルフには、沢山の美術館が存在します。僕はその一つを観ました。そして、まだ約束の時間には早いので、駅の近くのお店で、時間を使うことを望みました……二人とも、このお店でバイトですか?」
「ああ、そうだよ。俺が調理補助で、レネーがホールの担当なんだ。あと、コーヒーもこいつだな。せっかくだし、なにか飲んでいくと良い」
俺の横からヨーニーがひょいっと顔を出す。この剛毅なアフリカ系ドイツ人も自身のバディには一定の気を配っているらしい、その口調は通常の数倍柔らかく、ゆったりとしたものだった。
……こいつ、俺との会話ではいつも切れ味抜群のジャックナイフで武装しているクセに、猫被ってやがる。
「はい、ぜひとも」とカオルが微笑を浮かべたのを見て、ヨーニーは満足げに頷くとそのまま調理場へ引っ込んでいった。
若干の気恥ずかしさから頭をガシガシ掻いて、俺はカウンターの奥へ向かう。
「じゃあ、ご注文をどうぞ?」
「それでは……この、オリジナルブレンドを」
「ミルクも?」
「お願いします」
「かしこまりました、少々お待ちを……あ、砂糖はそこの……そうそれ、その容れ物な」
カウンターを隔てた向こうには、もっぱら砂糖入れとなった小さな
――ああ、こいつも気恥ずかしくて、どこを見たら良いのか分からないんだな と、ささくれだっていた胸の奥が少し凪いだ気がした。
俺が注文の準備に専念している間、叔父が彼の隣に腰を下ろし、この珍しいお客サマのお相手を引き受けた。
「カオル、さっき、美術館に行ったって話しとったな。楽しかったかい?」
「はい、K21(現代美術館)に行きました。それは素晴らしかった」
「そうかい、そりゃあ良い。俺もたまに行くんだよ……あそこデカいよなあ。
カオルは、美術が好きなのか?」
「好きです、しかし、美術の知識に、詳しくない。でも、美しいもの、好みます」
そう言ってひと息ついたカオルは、どこか落ち着かない様子できょろきょろと店内のあちこちに視線を向け始めた。いつもなら微笑ましい様子だが、今に限っては笑えない、非常に困る。
そして、とうとう彼は奥の壁に掛けてあるそれに気付いたらしい。いつもの遠慮がちな、どこか夢見心地なテノールで叔父に訊ねた。
「あの、マスター、あの絵は……」
「ああ、良い作品だろう? さっき飾ったばかりなんだ」
「はい、とても美しいです。その……近くで鑑賞することは、許されますか? 僕は目が悪くて」
ゴリッ と、豆を引く音が一段と不自然に響く。止めてくれ と言いたかったが、それではあの絵の作者が俺だとカオルにバレてしまう。それだけは嫌だった。
叔父はチラリとこちらを一瞥した後、満面の笑みを浮かべて了承した。こンの馬鹿叔父のクソったれ、後でおぼえてろ……
「ありがとうございます」と述べ、カオルが徐に椅子を引く。絵のすぐ前で足を止めた彼は、ゆっくりと息を一つ吐き、ただ黙って立ち尽くした。
実に、居心地の悪い時間だった。この寂れた、差し込む光の弱々しく薄暗い店内の空気が、まるでゆっくりと凝固していくかのような、そんな息苦しさを覚える。
……最悪だ。
あのオニキスのような静謐な瞳を、俺なんかの作品が汚しているという事実に、いっそ叫び出したいほどの羞恥で鼓動が荒ぶっている。
……最悪だ、最悪だ、最悪だ。最悪な気分で死にそうだ。
無尽蔵に湧き上がるすべての感情を豆と一緒にすり潰さんと、俺は無心でミルの取っ手を回し続けた。助けてくれる人は誰もいない。ここからチラリと姿を覗かせるヨーニーは厨房でグラスの点検に入っているし、叔父さんは相変わらずカウンターの椅子にどっかりと座り込んだままだ……おいコラ店長仕事しろ。
――一体どれほどの時間、カオルはその絵を見つめていたのだろう。俺にとっては永遠のように思えたが、実はそんなに経っていなかったのかもしれない。それでもコーヒー一杯を淹れるには十分な時間だった。できたぞ と教えようとしたのよりも早く彼は振り向いて、「マスター」と叔父さんに呼びかけた。
「とても、とても素晴らしい絵です。河の上の遊覧船、夕方の空の色、ライン河の水の色、奥の街の様子、手前の牧草地と羊の群れの様子……すべての色彩が繊細で、少し物悲しくて、とても懐かしい雰囲気です……
長く鑑賞している間に、きちんと感想を用意したのだろう。カオルにしては発音のはっきりとした明朗な喋り方だった。その温和な声音に、俺は堪らずに唇を噛む。こんなモノに今更……しかもお前の口から、そんな優しい言葉を聞きたくなかったのに。
叔父が嬉しそうに、「そうだろう」と相槌を打つ。コーヒーを と言おうとした俺は、またしても口にすることができなかった。カオルは喜びに顔を綻ばせて、その形の良い唇を開く。
――お願いだから、止めてくれ。
「僕、この絵をとても……ああ、どう言えば良いのか……とにかく、好きです」
心臓が、一際大きく脈を打つ。
ふわりと空気を孕んだ黒髪が、バター色の肌が、眼鏡の奥の黒い目が、斜陽を受けてキラキラと輝いている。その耐え難い美は叔父に、そして俺に容赦なく向けられる。
――止めてくれ。止めてくれ……
「僕は、この絵が好きです」
まるで祈りのように、カオルはその言葉を繰り返した。
その立姿は、その声は、他の何物にも代えがたいほどの静謐な清さに満ちていて。
喜びと苛立ち。期待と失望。
――二つの相反する感情の奥底を
叔父とヨーニーの視線が、一瞬こちらへと向けられたのを感じる。
俺はカオルに聞こえないようになんとか深呼吸をして、ようやく「コーヒーができたぞ」と喉の奥から声を絞り出した。立ち上る白い湯気が、空気の流れを証明する。「ありがとうございます」と席に戻ったカオルに対して、俺はちゃんといつもの表情を作れているだろうか? 自信のないまま手渡すと、カオルがふっと目を伏せた。
「ああ、良い匂いですね」
「レネーの淹れたコーヒーは、常連のジーサン共からも人気なんだ。そいつァサービスだ、金は要らんよ。ゆっくり飲むと良い」
「え!?」と丸く見開かれた黒い瞳が俺と叔父を交互に見遣る。俺も思わず叔父の方へと視線を向けた。
まあ、元々俺が奢ってやろうと考えてはいたのだが……良いのだろうか。俺の視線に気付いた叔父は、ふっ と目元の皺を深くした。
カオルは慌ててカップを置き、どもりながら遠慮する。
「い、いけません。お金、払います」
「若ェモンがなに遠慮してんだ、良いってことよ」
「しかし、その、」
「初回特典だよ、カオル」と、グラスの点検を終わらせたヨーニーが、厨房から歩み出て援護射撃を行った。
「その代わり、また遊びに来てくれよ。うちの店、店長の
「ヨーニー!?」
……援護射撃からの思わぬ流れ弾に、カオルの隣から情けない声が上がる。このビターチョコレート色の肌をしたハンサムな調理補助は、ぴゅうっと軽く口笛を吹くと、いつの間にか止まっていたCDを別のものと取り替えた。
ジャズピアノの軽やかな音に導かれるように、カオルの強張っていた表情は次第に和らいでいった。
「……ありがとうございます。大学の友人に、ここを教えます」
「おう、頼むぜ」
ニィっと豪快で人好きのする笑みを浮かべ、叔父がカオルの背中を叩く。可哀そうに、線の細い彼は反動で軽く咳き込んでしまった。
まったく、これだからオッサンは。力の加減ってモンを知らねェんだから……呆れてねめつける俺の視線を意にも介さず、叔父はどこか嬉しそうに目元の皺を深めてこちらを見る。
「おい、レネー。お前、今日はもう上がれ」
「……良いのか?」
「カオルがこれを飲み上げる頃にはいい時間になってるだろうさ。気にすんな」
そう肩を竦めた叔父の見事なまでに青く澄んだ眼差しには、言葉にはならない労りが滲んでいて。
胸の奥になにか、重い塊が沈み込んでいく。俺は少し視線を逸らし、「ありがとう」と低く言った。
「カオル、俺、荷物取ってくるから。ゆっくり飲んでな」
奥のスタッフルームに向かうべく一声掛けてカウンターを出ると、丁度CDデッキと『ライン河の夕べ』の中間に立つヨーニーの前を通り過ぎる。鼓膜をくすぐるいやに明るいメロディと、視界の隅を汚した「繊細で、少し物悲し」い色彩の、なんと危うくちぐはぐなことか。
……俺は右頬が引き攣るの感じつつ、暗い小部屋のドアを開けた。
午前三時のコーヒーを君と 高槻菫 @sumire-t16
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