第11話 ライン河の夕べ1

 

「――え、お前まだデュッセルドルフに行ったことねえの? そろそろ一ヶ月経つのに?」


 端々の焦げたガーリックブレッドを持ったまま、俺は目の前に座る黒髪猫背の童顔男を信じられない気持ちで見つめた。

  

 夜も深まる午後八時、こうして約束通り俺達が夕食を共にしている共同キッチンは、暖房の渇いた熱気で満たされている。度々このフロアの住人達がふらりとやって来ては洗い物をしたり調理をしたりしていたが、今室内にいるのは俺とカオルの二人だけだ。

 今晩の食事は鮭のムニエルにサラダ、いつものガーリックブレッド。焦げたバターとハーブの香りが、換気扇にまで染みついていそうなくらい強く漂う。


 当のカオルは小さく頷い後、鮭の切り身をナイフやフォークではなく箸でほぐし、器用に口まで運んでいる。思わず見惚れてしまいそうなほど上品な所作だ。


「デュースブルクを、出る……今まで一度もありません。いつも僕は寮と図書館にいます」


「おいおい、せっかく学生証一枚で、タダで州内どこでもいけるんだぞ? 引き籠ってちゃ勿体ねーよ、息抜きは必要だぜ。

 ……デュッセルドルフはドイツで一番日本人が多い街なんだ。アジアンレストランとか、アジアンフードを売ってる店とかも多いんだぜ。行ってみると良い……って、故郷の味を恋しがるにはまだ早いか」

 

「あはは、そうですね。しかし、デュッセルドルフ、行ってみたいです……あっ、そうだ」


 カオルは突然、何か思いついたように表情を明るくし、箸を置いた。こうして彼の方から何か切り出すのは珍しい。


「次、一緒にご飯食べるのは、土曜日ですね」


「ん? ああ、そうだな」


「その日は僕が日本の料理を作りたいです。レネーが……レネーに? 日本の料理を食べてほしい。ただ、僕が作ることの可能な料理の限り、ですが」

 

 だんだんと尻すぼみになっていく言葉を聞き漏らすまいと耳を凝らし、もれなく俺は息を飲んだ。


 これは何という僥倖だ! まさか、あのカオルが、自分からをしてくれるとは!


 衝撃から上手く言葉を次げないでいると、ただでさえ猫背の彼の背筋がどんどん卑屈に縮んでいった。上目遣いにこちらを窺う黒い瞳が、遠慮がちに揺れている。今にも先ほどの発言を撤回しそうだ。

 このチャンスを逃してたまるかと、若干前のめりになりつつも俺は何とか賛同した。


「良いじゃねえか! だったら一緒に、デュッセルドルフに買い出しに行くか。丁度俺のバイト先もデュッセルドルフでさ。幸いその日は早くに抜けられるし、ついでに街中回っていこうぜ」


「……はい! レネーさえ良ければ、ぜひ一緒に」


 ほっと安堵の表情を見せ、カオルは再度ムニエルに箸をつける。俺はというと、突然降って来たこの幸運に、口元が緩みそうになるのを隠すので必死だった。


******


 弱々しい金色の日差しを導く鐘の音が、暗色の屋根から屋根へと厳かに伝い、デュッセルドルフの旧市街アルトシュタット中に響き渡る午後三時。

 繁華街の玄関口たるこのハインリッヒ・ハイネ通りでは、土曜日の飲食店などは戦場いくさばの只中にあるようなものだ。しかし哀しいかな、どちらかと言えば平日昼間の客が多い我らがカフェ・マグダレーナは、今週も閑古鳥が鳴いていた。客の多くなる気配がない。

 ……大丈夫なのかこの店は? まあ客が少ないおかげで、今こうして裏口で煙草休憩をさせて貰えているのだが。 


 卵色の化粧漆喰の壁に凭れかかり、遠くから聞こえてくる喧噪に自然と耳を傾ける。あと一時間で本日の勤務は終了する。その後はカオルと旧市街散策の後に買い出しだ。ハインリッヒ・ハイネ通りの地下鉄駅入り口で、四時二十分に待ち合わせとしたが、あいつ、ちゃんと場所が分かるのだろうか……?

 一抹の不安を煙に乗せ、俺は既に傾きかけた晩秋の空に向かって吐き出した。次第に明度を失いつつある空中に紫煙が揺蕩い、溶けるように消えていく。まあ、何かあったら連絡でもしてくるだろう と、昨晩のうちに交換した電話番号とメールアドレスを思い出し、随分短くなった吸殻を地面に落として靴底でぐりぐり踏みつけた。


 店内に戻ると、何やら叔父が工具を片手に壁に向かって何か作業をしていた。その直ぐ傍には、鈍い金色の額縁に飾られたモネの複製画レプリカが降ろされてある。模様替えか? しかも今? まだ開店中なのに何をやっているんだか……呆れつつも、戻ったぞ と一言伝えようとしたその時、叔父の陰から覗いたその絵画に、俺は一瞬、ぎょっと身体が硬直した。


「――お、おい叔父さん!」


「ん? おお、戻ったかレネー」


「戻ったか、じゃねーよ! アンタ、その作品は……!」


 衝動のまま駆け寄ると、叔父の身体を押しのけるようにしてソレの前に立つ。

 この大型の油絵は。凍えるような薄緑の川面の、金色の斜陽に霞む暗色の屋根瓦の、忘れもしないこの風景画は。


 ――『ライン河の夕べ』。間違いない。先週俺がごみ袋に入れたはずの、アカデミー時代の作品のひとつだ。


 どうして、こんなものが……絵の前に愕然と立ち尽くす俺の横で、この馬鹿叔父は実にあっけらかんと笑い飛ばしやがった。


「いやあ、昔お前に見せてもらった時から、これ結構気に入っててさ。夕闇迫る晩秋のライン河畔の風景なんて、今の時期にピッタリじゃねえか。あの時はコンクール用の作品だってことで何も言わなかったが、捨てるなんて勿体ねえから、お前が要らねえなら飾ろうと思ってよ」


「ふざけんじゃねえ! なに俺の作品を勝手に、なんの断りもなく飾ってんだ!」


「ああ? そりゃ事前にお伺いなんぞ立てたら、絶対お前は駄目っつーだろうが」


「当たり前だ、早く外せよ恥ずかしい! 第一、それは捨てたんだぞ!」


 店内に流れる古いフォークソングを掻き消さんばかりに、俺の怒号が反響する。久々にでかい声を出したせいで変に喉に力が入ったし、存外に大きく響く自分の声に俺自身軽くびっくりした。


 気を取り直し、肩を怒らせ叔父に詰め寄る。すると俺の顔の前に両方の掌を翳して宥めるポーズだけ取った叔父は、唇の端に浮かべた笑みを崩すことなくこう続けた。


「捨てたっつーことは、レネー、お前は絵の所有権を放棄したっつーことで。じゃあ俺がコイツを貰っても良いよな?」


「ハア? アンタ、何を言って……」


「そしてここは俺の店なわけで。俺の所有物もんを俺の店にどう飾ろうが、俺の自由だろ? なあ、ヨーニー?」


「あー、たぶん問題ないんじゃないんスか、店長マスター


「おいこらヨーニー!」


「わりィな、俺はいつでも店長の味方なんでね」


 厨房の入り口でケータイを弄るヨーニーが事も無げに言う。グルか、こいつらグルなのか!

 口元の筋肉がひくひくと痙攣するのを感じつつ、二人への反論を試みた。


作者おれの意向はガン無視ってェのかコノヤロー……つーかこれ著作権侵害だろ! 断固、作品の撤去を要求する!」


著作権ソレを突かれるとキッツいな」と、ヨーニーがケータイをジーンズの尻ポケットに仕舞って俺を見た。


「――なあレネー、俺もさ、この絵は……なんつーか、すげえ良いと思うぞ。こんだけ上等な作品が、なんの日の目も見ずに、そのまま焼却炉にポイッつーのはあんまりだろ」


 気性の荒いヨーニーにしてはいつになく落ち着いた声をしていて、それが逆に神経を逆なでる。なにが上等な作品だ? どいつもこいつも、揃いも揃って好き勝手なことばかり言いやがって。


「……結局なんの評価も受けることのなかった作品が、上等なわけねェだろうが」


 呻くように低く、小さく吐いた独り言に、叔父が息を呑むのが分かる。店の前を往く通りの喧噪も、店内のBGMも、どこか遠くで響いているように聞こえた。


 この『ライン河の夕べ』は、俺が美術アカデミーを退学する前にコンクールに出品した最後の作品だった。そして結局――それまでの作品と同じように――審査員の誰にも顧みられず、誰にも評価されずに終わってしまった、無価値なモノ。

 曰く、俺の画風は地味で、ありきたりで、古臭いのだ と。他の同期が次々に入賞したのを目の当たりにして、ああ、俺には才能がないのか……そう事実を再認識させられた、一番最後の作品がコレだった。


 それを、今更。あの時オマエラは、一度も俺に光を当ててくれなかったのに。筆を折った、夢を諦めた今更、そんなことを言うのか。


俺の作品こんなモンに、なんの価値もねェだろうがよ」


 体が微かに震えるのは、半分ほど開いた窓から入り込んでくる秋風の冷たさ故だろうか。


 思わず視線を床に落とした俺の右肩に手を置いて、叔父は「悪かった」と静かに言った。顔を上げると、目の前の叔父はどうしてかひどく辛そうに、そしてそれを何とか抑え込んでいるといったように眉間に皺を寄せていた。


「勝手に飾ったことを詫びよう。ただしレネー、観者おれたちとってこの作品に価値が有るか否か。それを決めるのはお前じゃねェよ」


 ああ、分かっているさ。叔父の言葉が耳に刺さり、思わず拳を握り締めた。

 この怒りの奥に潜むどうしようもない哀しみは、この二人とは無関係なことも。二人は当時の人たちとは違うことも。この感情の爆発が単なるガキ臭い八つ当たりだってことも。

 ちゃんと分かっている。けど、だけど……。

 

 ――その時。何故か閉めっぱなしにしていた出入り口のドアが控えめに開くと同時に、呼び鈴がシャンシャンと甲高い音を立てた。


「二人とも、一旦休戦です。客が……って、ええ!?」


 声のトーンを二つくらい上げ、調理場からヨーニーが飛び出す。一体何事だ? ……彼の視線を辿った先で、俺も思わず声を上げてしまった。

 ドアの陰からひょっこりと顔を覗かせたそのお客サマは。ふわふわとした猫っ毛に黒縁の眼鏡、猫背で華奢な体格を紺色のダッフルコートで覆い隠した、俺があと約一時間後に出会うはずの男で。


「か、カオル!?」


「あれ、レネーと、ヨーニー?」


 分厚い眼鏡の奥の小さな両目を丸く見開いたカオルが、吹き抜ける秋風に黒髪を揺らして佇んでいた。

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