第10話 カリーヴルストの誘い

  時計の針が丁度十二で重なると同時に、キム先生の授業は終わった。俺は教室を出ると、大学喫茶のある向かいのLA棟へと足を進めた。

 このキャンパスを中央で分断するフォルストハウス通りを越えて十分ほど北へと歩けば、安い学生食堂メンザがあるのだが……あそこの食事は俺の舌に合わない。否、俺だけではなく、かなりの数の学生の舌に合わない。なので多少値段が張ったとしても、学生の多くはLA棟の大学喫茶にたむろするのだ。


 大学喫茶内はいつも通りの大繁盛で、ぱっと見渡す限り空席はなさそうだった。外のテラス席も人でいっぱいだ。

 俺は開いている席を探して、一番奥のスペースへと向かった。その一角だけ硝子戸で仕切られたそこでは、何故か日本人留学生の一群とそのお仲間たちが集まっていることが多い。俺が運良く右側の一番手前のテーブルを取った時にも、既に日本人と思われるアジア系の面立ちがちらちらと見えた。


 学生証を片手に注文カウンターに行くと、顔馴染みの調理師のおっさんが慌ただしそうに客をさばいていた。奥のグリルでは五〇〇ミリペットボトルほどの長さはありそうな白い腸詰ヴルストがじゅうじゅう焼かれていて、カレー粉の強い匂いが鼻を衝いた。


「注文は?」


 ぶっきらぼうに尋ねてきたおっさんの、黒い豊かな髭の合間から黄色っぽい歯がちらりと覗く。

 俺がカリーヴルストのポメス(フライドポテト)添えをひとつ頼むと、丁度今新しいのを焼いているから少し待つように と言われた。


「最近カリーヴルストがよくはけるんだよ……ほら、新しく日本の留学生が来たろう? 一昨日も集団で来たと思ったら、みーんな同じカリーヴルストのポメス添え、マヨネーズ掛けを頼むもんだから……全員が全員だぜ? なんかおかしくって」


「へえ。向こうじゃあポメスにマヨネーズをかけないと、友人から聞いたんだが」

 

 勿論これはヨーニー情報である。グリル前に立ち込める熱気に顔をしかめつつ、おっさんは再度口を開いた。


「そうかい。マヨやケチャップなしで、味がすんのかねえ? 

 ――そうそう。その中の日本人の、最後に来たのがな、どうもぼーっとしとる奴でさ。支払いの時に学生証を出したは良いんだが、そのまま置き忘れちまってね。レジのエーファが慌ててそいつを呼び止めてたよ……危なっかしい奴もいるもんだな」


「……そいつ、黒髪で眼鏡をかけた、猫背の男じゃなかったか?」


「あー、どうだったかねえ? 言われればそうかもしらん。男ってことは確かだ……辛くするかい?……了解、チリは無しね。ほら、お待ちどーさん」


 ありがとう と言ってカリーヴルストと山のように盛られたポメスの皿を受け取る。カトラリーにマヨネーズの小袋も忘れずに。コーヒーは……まァ今日は良いだろう、水筒に入れてきたし。


 会計を済ませて席に戻る。他に空いていなかったからとはいえ、四人席のテーブルを一人で占領するのはどことなく居たたまれない。

 特性カレーソースのかかったヴルストを一口大に切り分けて口に運んでいると、ふと、二時間前に想いを馳せていた静かなテノールが俺を呼び止めた。


「レネー、こんにちは……ここ、座っても、よろしいですか」

 

 視線を上げると、眉尻を下げて困ったような表情をしたカオルが、俺のすぐ側に立っていた。こいつも昼食をとりに来たらしい。両手で持ったトレイの上には、俺と同じカリーヴルストの皿が載っていた。


「あ、ああ。どうぞ」


 思いがけない遭遇に、心臓が若干早く脈を打つ。柄にもなくどもってしまった。

 カオルは上品な紺のダッフルコートを羽織っており、まだ十月下旬だというのにもう厚手のマフラーを巻いていた。それらを脱ぐと、登山用かと見紛うばかりの大きさのリュックと共に隣の椅子に置き、俺の真正面に座る。一番上のボタンを外したカッターシャツから覗く生白い首筋が眩しくて、一瞬目が離せなくなった。

 知らずと首をもたげた不埒な感情を悟られまいと、揶揄い半分で話しかける。


「……お前さ、一昨日、学生証をレジに忘れたろ」


「え? 何故、あなたがそれを、知っていますか?」


「カリーヴルスト売ってたおっさんが言ってたぞ」 


 分厚い眼鏡のレンズが室内の暖房に耐え切れず白く曇って、彼の三日月に細められた両目を隠している。中々切れないカリーヴルストの皮と格闘していたカオルはフォークを置き、はにかみながら首を竦めた。


「あはは、お恥ずかしい……先ほど、そのことで、あのおじさんから声をかけられました」 


「気ィつけろよ。金入れてるカードなんだから、盗られたら悪用されるかもしれんのだし、再発行は面倒くさいし……最近お前、ちゃんと飯食ってんのか」


「はい。お昼はここで食べます。夜も……食事、します」


 これまでそれなりにテンポよく喋っていたカオルの発音が、夕食に関しては途端におぼつかなくなる。

 ――はいダウト。俺は思わず彼の顔を胡乱に見つめた。


「ふーん? またトマトのスライスだけ……とかじゃねぇだろうな?」


「えっと……キャベツ、茹でます」


「はァ、それだけ? ……お前なァ! 何でまともな飯を食おうとしないのかね。身体壊すだろうが」


 思わず荒げてしまった調子を無理やり押さえつけ、ヴルストとポメスを頬張る。

 カオルもポメスを咀嚼しつつ、視線を巡回させた。嚥下の際には、控えめな喉仏が面白いくらいに上下する。やがて彼は何かを誤魔化すように薄く笑った。


「えっと、その、自分のためだけ、料理、は……作る気ないです。それは僕にとって、億劫です。それに……」


「それに?」


「一人でご飯を食べる、それは味がしません。美味しくない。美味しくないもの、作る気がしません。それは、時間が無駄……と思います」


 そんな時間があるなら、その分沢山本を読んで自分の研究を進めたい そう淡々と言ってのける。その決して褒められたものではない、けれど理解はできる発言に、俺はカオルが酔い潰れた夜のことを思い出した。

 彼をベッドに寝かせるために初めて訪れたその部屋は、まだこちらに来て間もないにも関わらず、既に足の踏み場もないほど散らかっていた……主に、数え切れないほど積み上げられた本によって。日本から持ち込んだのか、それともこちらで買ったのか分からない大量の本は彼のベッドをも浸蝕していて、カオルを寝かせるのにも一苦労だったっけか。

 生活が困難なほど本の散乱した部屋からは、研究のためなら寝食をなおざりにしてしまうカオルの姿が容易に連想できる。そんな不摂生さえな と、俺は喉元で低く笑った。

 

 背後で誰かが出入りをし、暖房の効いた淀んだ空気がゆったりと動き出す。何も言わず小さく笑った俺の態度をどう捉えたのか知らないが、カオルは慌てたように言葉を付け足した。


「あ、えっと、でもその……この前、レネーと二人で食べました。あの時は、本当に美味しかったです」


 恥ずかしがり屋のカオルにしては珍しく真っ直ぐに俺と目を合わせ、ふんわりと微笑む。遠慮がちな、それでいて確かな喜びをまなじりに滲ませて、平常は青白い肌が柔らかな薔薇色に上気していて。

 いっそ暴力的なまでの衝撃に、俺は言葉を奪われてしまった。


 どうして、今。よりによって、そんなに美しく微笑むんだ。


 苛立ちにも似た気恥ずかしさと息苦しさで脳内が掻き乱される。何故こいつを前にすると平常でいられないのか。こんな不摂生で軟弱なただの男一人に、どうしてか目が離せない、離したくない。


 ……一人じゃなきゃ良いのか。

 例えば、俺と二人、とか。

 

 これは、きっとチャンスだ。そこまで思い至ると、俺は堪らず口を開いた。


「じゃあ、さ。一緒に食えば良いじゃねえか」


 え? とカオルが硝子玉のような両目を丸くした。彼が言葉に詰まったのを良いことに、ここぞとばかりに言い募る。


「お前、一人だけだとまともな食事とる気しねえんだろ? それじゃあ、今度から晩飯一緒に食おうぜ」


「え、でも……ご迷惑じゃ……」


「迷惑だったら、初めから誘ってねえって。どうせ俺も買いこんだ食材使いきれなくて駄目にしちまったりするんだ。だったら二人で分けようぜ。そしたら俺は食費も抑えられるし、お前はまともに食事ができるし。な、良いことづくめだろ?」

 

 ――なんて、まるでカオルのためのような口ぶりだ。恩着せがましいにもほどがある と、俺は自分自身を鼻で笑ってしまった。カオルはきっと、今までもあのように生きてきたのだ。俺なんかが何かしなくても、彼には何も問題がないのに。

 だから、これは俺の我儘だ。できるだけこの危うげで美しい青年と時間を共にしたい、彼から目を離したくない……そう望む、俺のエゴだ。それが純粋な友情に起因する望みなのか、それともまた別の感情によるものなのか、俺にはまだ分からないけれど。


 捲し立てる声は緊張と興奮で若干震えていたかも知れない。それでも、一度溢れだした言葉は俺の理性を越えて止まることを知らなかった。

 

 カオルは暫く視線を巡回させたのち、ようやく小さく肯いた。


「それでは、次に、共に食事をする日時を決めましょう」


「明日はバイトで遅くなるからな……お前さえよければ、今晩にでも」


 目の前の細い首が縦に動いたのを確認して、俺は深く息を吐き出した。どうやらもう一度魔法はかかってくれるらしい。

 どことなく気恥ずかしさが込み上がってきて、俺は残ったポメスを急いで掻き込んだ。


「じゃあ、また夜に、共同キッチンで」


「はい、また夜に」


 未だ半分しか食べ上げていないカオルを残し、席を立つ。出口のドアを開けた途端、容赦なく晩秋の風が吹き付けた。その空気の冷たさに、俺は自分の顔や掌がいやに熱を持っていたことを初めて知った。

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