第二章 夢を隠した街

第9話 木曜十時のリフレイン

 未だ上りきらない乳白色の陽光が、重たげに空を覆う雲の切れ目から、オールドブルーの薄暗さを残した教室へと気だるげに差し込んでいる。

 ここ、デュースブルクキャンパスのLB棟三階八号室では、毎週木曜日の二限目に韓国語の授業が行われる。白塗りの長机が並べられた室内は照明を点けないためにぼんやりとしていて、受講者数を考えるとやけに広く感じた。木目の目立たない明るいブラウンの教壇の奥、消しきれなかったチョーク跡の残る黒板が、日々怠惰に時間を使い潰している学生どもを不満そうに見つめている。


 俺はというと、後ろから二列目の窓際の特等席を占拠して、右腕で頬杖をつきながら、日曜日のカオルの発言を思い出していた。


『僕の初恋の人が、ドイツ文学者だったからです』


 どこか恥じらいを含んだそのか細い言葉は、しかし、確実に、俺の脳天に激しい一撃を喰らわせたのだった。

 何か激しい感情が一気に脊髄を駆け抜ける。二十三年の人生で終ぞ経験した事のない衝撃を受け、俺は言葉を奪われてしまった。


『レネー……?』


『ああ、いや、悪い。ちょっとびっくりしてな。そうかそうか、初恋の人が……ね。随分ロマンチックなきっかけじゃねーか。まさかお前がね……』


 なんとか言葉をふり絞ってそう茶化すと、カオルは気弱そうに眉を下げ、うっすらとはにかんだ。俺は何か言ってやりたかった、が、何を言えるというのだろう? 思考は未だ突然の事故により回路が切断されたままで、復旧にはしばらく時間がかかりそうだった。

 俺が無様にも黙り込んでいる内に、カオルはコーヒーを飲み上げてしまったらしい。両手を合わせ、ゴチ……マ……シタ? とか何とかいう、あのお馴染みとなった祈りの言葉を発した。

 

『マグカップを僕に下さい、僕が洗います、それらを、一緒に』


『え、ああ、じゃあ頼むわ。ありがとうな』


 カオルにマグを渡し、俺は布巾を手に取り立ち上がる。冷たく濡れたマグやらサーバーやらを彼から受け取って拭く、その間も俺達二人は無言のままだった。まったく、これではベルトコンベアーの前で淡々と流れ作業を行う労働者達の方がまだ雄弁ってもんだ。

 俺は二、三度カオルの横顔をちらりと覗き見た。黒縁眼鏡の蔓の奥、長い睫毛に隠された伏し目がちの美しい眼はどこか羞恥心に耐えるようで、先ほどの話題を後悔しているようにも見えて。そのなんとも言えずいじらしい表情は、会話を再開させようとした俺が再び唇を閉ざしてしまうのには十分だった。


 洗い物が終わり、カオルは彼のマグと約束した古代ギリシア歴史学のノートを受け取った。とうとう暇乞いをしてしまうのだ。


『それでは、僕はこれで……美味しいご飯に、コーヒーに、ノートまで、本当にありがとうございます』


『こちらこそ、添削ありがとな……良い夜を』


『良い夜を』


 ぺこり と頭を上下させ、キッチンの分厚いドアがゆっくりと閉まる。

 不快にならない程度の音を立て、白いドアがカオルの姿を完全に遮った後、ようやく俺は腹の底から息を吐き出した。


******


 一連の遣り取りを思い出し、罪悪感やら自己嫌悪やらでずるずると机に突っ伏した。 

 ……ないない、あれはないだろ俺は人間初心者か? 何であそこから会話を盛り上げられなかったんだよコミュニケーション下手くそすぎるだろ!


 あの夜から四日、カオルとはまた「ただの隣人」に戻ってしまった。キッチンや廊下でばったり出会った時に、二言三言挨拶を交わすだけ。魔法はすっかり解けてしまったのだ。


 カオル、気を悪くしちまったかな。酷いことしたな。せっかく、少し仲良くなれたと思ったのに……。


 ぺちゃくちゃとお喋りに興じているクラスメイト達の雑音が、良いBGMになってくれている。俺は机の表面にべったりとくっつけた右頬から心地よい冷たさを感じ取り、そのまま軽く目蓋を閉じた。


『僕の初恋の人が、ドイツ文学者だったからです』


 薄ぼんやりとした闇に、色とりどりの光の線が淡く浮かび上がる。その中にカオルの言葉が、面差しが、遠くから寄せ来る夜の波のようにリフレインする。

 あの時の彼の瞳はどこか夢想的で、それでいてひどく哀し気だった。平常は病的なまでに色の抜けたあの頬に、ぱっと紅が差したにもかかわらず、だ。その黒い硝子玉のような両の目は、今現在の事象ではなく、まるで失われた宝物を懐かしむような、そしてそれを手に入れることを諦めたような。そんな、細やかな感情で青く静かに輝いていて。


 ――そうだ、諦観だ。俺は、ハッと胸を衝かれるような思いがした。彼の眼差しの根本には秋の日の湖面を思わせる美しい諦観があった。そしてそれは、俺もよく知る温度の水ではなかったか……。


「……レネー、なあレネー」

 

 唐突に後ろから肩を叩かれ、俺の思索は一瞬だけ霧散した。顔を上げて振り返ると、濃いブロンドの髪を爆発させた同じ学部のマルティンが、教科書片手に身を乗り出している。


「今日の宿題って、三十四ページで良かったんだっけ?」


「ああ? 多分そうなんじゃねーの。つーか、何だって俺に聞くんだ」


「俺、この間ちょっくら用事で休んでたからさァ……その様子だと、お前もやってきてねーな?」


 マルティンは唇を歪め、へつらうように雀斑そばかす塗れの頬の肉を持ち上げる。

 ちょっくら用事、ね……思わず鼻で笑いそうになって、慌てて咳払いをした。一体どんな用事を移動遊園地キルメスでこなしてきたというのか、ぜひとも拝聴いたしたいもんだ……まあ、俺も決して他人ヒトのことは言えないのだが。


 俺はマルティンの酒焼けした耳障りな声を聞き流し、もう一度カオルの面差しを思い浮かべた。

 彼の気恥ずかし気な、優しい瞳の輝きは、誰を想ったものなのだろう。カオルの想い人は、彼と同じ日本人だろうか、ドイツ人だろうか、それとも別の国の人だろうか。そいつとの出逢いは何時なのか。どうしてその恋は叶わなかったのか、そして未だに忘れられないのか……いや、そもそも忘れられる恋なら、きっとあんな胸の塞がれるような眼差しはしないはずだ。

 カオルの答えを聞いた瞬間、俺の脊髄を駆け抜けた感情……あれは衝撃、興奮という以上に、失望によく似ていなかったか。それ故に、俺はあの後上手いこと二の句を告げられなかったのではなかろうか。

 あれはカオルへの失望だったのか。だとしたら、何故。


 ――どうして俺は、こんなにも、カオルのことで頭がいっぱいなんだろう。


「あ、ヤベ、先生が来る」


 今まで遠くにあったマルティンの声が急に近くなり、俺の意識を教室へと引き戻す。

 すると教室のドアが内開きに開いて、韓国語教師のキム・スウォン先生が控えめな靴音をさせて入って来た。本日も着ている三つ揃えのスーツは明色のグレーで、それがキム先生の柔和な面立ちに良く似合う。


「さて、皆さん、おはようございます」


 教壇に立つキム先生の声は決して大きくはなく、思索的な人間特有の穏やかな低音である。それなのに不思議と、先生の喋る韓国語は教室内によく響く。この愛すべき先生がゆったりと微笑を浮かべ、多くない学生たちの顔一つひとつに視線を投げかけると、ざわめきの波はすうっと退いていった。


「皆さん、明日で一週間も終わりですね。私は昨日の夜、ラーメンを食べにデュッセルドルフへ行ったのですが、その時に……ローザさん、丁度あなたにバッタリお会いしましたね? あなたもラーメンを?」


「いいえ、先生。私、友人とケルンまで行ってたんです。昨日は授業がなかったので。その帰りにデュッセルドルフに寄って、先生に会って……あの後はイマーマン通りのバーに行きました」


「ああ、もしかして『チェ・ゲバラ』?」


「はい、美味しかったですよ」


「それは良い、今度私も行ってみるとしましょう」


 キム先生は授業開始の十分間、必ず受講生と易しい韓国語の会話を行っている。今日はクラスで一番デキるローザに当たって、受講生たちの間に安堵の念が広がった。特別厳しいわけではないが指導熱心なキム先生は、例えどれだけ学生が根を上げようとしても自分からは答えを与えず、学生が自分の韓国語を話すまでじっと待っている人なのだ。

 至極面倒くさい性質タチではあるが、それでも何故か、俺はキム先生のことが嫌いではない。


「――それでは、本日から新しい文法に入りましょう……その前に、先週出した宿題ですね。どうぞ、こちらの台にノートを提出してください」


 教壇横の背の低いサイドテーブルを目指し、受講生たちが各々立ち上がる。ガタガタと椅子を引く音と若干数の私語で教室内は騒がしくなった。俺もその流れに乗って立ち上がると、後方から「えっ」と驚いたような、非難交じりの嗄れ声が聞こえてきた。


 ……別に、やって来てねーとは誰も言ってねーし。


 勝手に同朋認定していたであろうマルティンを内心鼻で笑うと、俺はノートを片手に教壇の方へと歩き始めた。

 

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