第8話 ちぐはぐなタンデム
結論からいうと、牛乳は無事だった。間一髪で食中毒の心配から解き放たれた俺達は、優雅に夜のカフェタイムと洒落込むことが許されたのだ。
ぱさり、ぱさりと紙の擦れる音がする。
時たまミルクと砂糖入りコーヒーの入ったマグカップを手に取りつつ、カオルは六・七枚程度のA4用紙に目を落としている。右手で顎の下を触ったり、そうかと思えば赤鉛筆を持って何かを書き込んだり。完全に意識が文字の中へと沈んでいる様子だ。
「やあ……何をしてるんだい?」
「この言葉が適切であれば、タンデム中だよ」
もっとも俺は彼から日本語を習わないし、母語で書かれた文章の添削を、非ネイティブの留学生にしてもらっているのだが――そう付け加えると、食器を洗いにやって来た同じフロアのインド人が肩を竦めた。改めて考えてみると、ちょっと意味が分からない状況である。
独特なインド音楽を口遊んで他人が洗い物を始めても、彼はまったく気が付かない。文字と自身の思考のみで完結された世界に腰掛ける住人を、ブラックコーヒーを啜りながら改めて観察する。
――カオルは美しい男だ。
とうに錆びついてしまった己の審美眼を以てしても、自信を持って言い切ることができた。この男は、とても美しい造形をしている と。
形の良い頭を覆う黒髪は、呼吸をしたり、なにか身じろぎをしたりするたび、遠慮がちに震えている。両目の縁には髪と同じ色の睫毛がびっしりと生え揃っていて、それが頬骨の上の肉に仄かな影を落とす。顔の凹凸は少ないが、それ故にすっと通った鼻筋から
鴇色の唇は触れれば傷でもついてしまいそうな薄さだ。バター色の皮膚に守られた彼の肉は俺達と同じ色なのか。
小さな顎、控えめな喉仏、浮き出た首筋……雪色のカッターシャツの襟に遮られた、その下の身体は?
ふと、あの晩に受けとめたカオルの華奢な肉体と、故郷の霧雨の香りが呼び起される。無意識に息が乱れた。
俺は、なぜ……
「読了です……レネー?」
小さなテノールが耳を通って肺まで響き、俺の呼吸をうち静める。
「ん? ああ、ありがとう。どれどれ……」
随分と不埒な視線を送っていたことに、今更ながら罪悪感がこみ上がる。説明できない焦りをコーヒーで流し込み、添削されたレポート用紙を受け取った。
そして、思いのほか赤文字が多く記されているという事実に、一瞬息が止まった。
「ここ、語尾の綴りが間違っています。……ここ、nurではなくausschließlichの方が適切の可能性。……ここ、また綴り間違い。……この動詞、三格の名詞ではなく、二格の名詞がきます。……」
淡々と指摘する声が、どんどん俺を居たたまれなくさせる。最後の反抗として部屋から持ち出した分厚い
俺は、完全に白旗を振らざるを得なかった。
「いやあ、これは恥ずかしい。一応世に名高き
基礎学校とギムナジウム併せて、かれこれ十三年はドイツ語を学んでいたはずなのだが。
それにしても、今までこんな誤字脱字の多いレポートばかり提出していたのか……。憎さばかりが先立っていたが、だんだんと教授陣への申し訳なさが頭をもたげてきた。
予想外にズタズタにされた自尊心を隠そうと、無意識に口元を掌で覆った。指と指の隙間から、ひっきりなしに乾いた笑いが漏れてくる。
カオルは眉尻を困ったように下げ、こんなことを言った。
「僕は、二十二年間、日本人です。それでも、正しい日本語を使用する自信、文法を正しく解説する自信、正直に言ってありません」
「へえ、お前もそうなのか。どこの国でも、やっぱり母語って、使いこなせているようで実はそうでもないのかもな。
――って、二十二年間? お前、二十二歳なのか?」
「はい。見えませんか?」
「嘘だろ……どう見ても十五、六歳だろ」
思わず零れ出た言葉は、しかし、どうやら失言だったらしい。カオルは柳眉を吊り上げ、心外だと言わんばかりに反論した。
「その年齢では、僕の国では、大学生になれません!」
「分かってる、こっちでもそうだ。だからそれを加味しても、てっきり十九くらいかと思ってたんだよ」
まったく、どうしてこうもショッキングな事実というのは連続するのか。心臓に悪いから止めてほしい。
いったん気を落ち着かせようとマグを傾けて、既に中身を飲み干していることに気が付いた。苦し紛れに咳払いをする。
「俺が二十三だから、丁度一つ違いだな。」
「あなたは、もう少し、年上に見えます」
「うるせえよ、老けてるってか? まあ、よく言われるけどな」
小さく舌打ちをすると、カオルがゆるゆると首を横に振った。
「いいえ。何故なら、あなたはとてもしっかりしています。僕は、他の日本の学生より、少し年齢が上です。同じ学年でも。ですが、僕は頼りないそうです。……」
話を聞くに、カオルは元々体が弱く、大学への入学が一年遅れたらしい。入学後もしばしば体調を崩すので、授業に出られないことも多いそうだ。
……こいつよく海外留学なんてやれたもんだな。
呆れ半分、驚嘆半分の内心が顔に出ていたのか、カオルはふっと複雑そうに唇を歪めた。
「ここに来ることができた理由は、テストに合格したことと、あとはコネです」
彼に自嘲交じりの、らしくない言葉を言わせてしまった。そんな罪悪感が、またもやらしくない言葉を俺にも喋らせる。
「……俺達、ちょっと似てるな。俺も少し遅れてこの大学に入ったんだ。つっても、こっちじゃあそう珍しくもないがな」
――しまった。
言葉を発して、俺はすぐさま後悔した。口を滑らせて、余計なことを喋ってしまった。
「本当ですか? もしよければ、その理由を、お聞きしても良いですか?」
カオルは遠慮がちに、しかし無邪気な好奇心に溢れた瞳で俺を見ている。
この夜空を溶かしたような両目に見つめられると、適当に誤魔化すことが酷い悪徳のように思えてしまうから不思議だ。
気が付けばあのインド人はキッチンを去っていた。ただ俺の息遣いだけが、コーヒーの数滴こびり付いたカップの底に消えていった。
「ちょっとな、別の学校に居たんだよ」
「どんな学校ですか?」
「……美術アカデミーに、二年ほどな」
「すごい、あなたは美術を学んでいたのですか!」
「凄かねえよ。才能無くて、結局やめちまった」
そうですか……と、どこか申し訳なさそうな表情でカオルが押し黙る。どうやらこれ以上の詮索はしないでくれるようだ。その気遣いが心苦しくもあり、同時にありがたかった。
しかし参ったな。せっかくのカフェタイムが、これでは台無しである。何とかしてこの気まずい雰囲気を払拭しなければ。
言い知れない焦燥感から上擦りそうになる声を抑えつつ、俺は話題を変えようと頭を捻った。
「そういえば、なんでお前はここに留学しようと思ったんだ?」
……頭を捻った割には月並みな質問だが、雰囲気を変える役目は十分に果たしてくれた。カオルは今までで一番訓練された発音でさらりと返答する。
「ドイツ語と、ドイツ文学を勉強するためです」
「なんでドイツ文学を勉強してるんだ?」
「それは……」
意外なところで言葉に詰まる彼の様子に、思わず釘付けになる。これはどうしたことだろう。
見た目が文学青年然としているカオルのことだ。勝手な偏見だが、きっとゲーテやシラーやカフカなど、名高い文豪たちの本を幼少期から読んでいて興味をもったとかいう理由だとばかり思っていたが……違うのだろうか。
彼は何か決定的なものを求めているように、ぱくぱくと唇の小さな開閉を繰り返していた。滑らかな肌がうっすら薔薇色に染まったのが不可思議で、思わずごくりと唾を呑み込む。
やがて何かをとらえたらしいカオルが、ゆっくりと声を発した。
「僕の、初恋の人が、ドイツ文学の研究者だったからです」
どこか恥じらいを含んだそのか細い言葉は、しかし、確実に、俺の脳天に激しい一撃を喰らわせたのだった。
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