第7話 アイントプフの攻防2
「本当に、僕は、それを、許可されていますか?」
「ああ、一緒に食おう。トマトだけじゃ腹減るだろ」
「ありがとう、ございます」
――勝った。脳内で高らかに凱歌が響き渡る。何と勝負していたのかは不明だが、今日は戦勝記念日だ。
それぞれ深皿とスプーンを用意して、鍋の中身を均等に注ぎ分ける。
最後にボックヴルストの瓶を開けた時、カオルが不思議そうにガラス瓶の中身を覗いて来た。大きさの割に重量のある透明なガラスの中には、保存液に浸された薄い狐色の
「レネー、このヴ、ルストは、茹でませんか? 焼きませんか?」
彼の発音は
「ああ、これはそのまま食べられる
「初めて知りました……ヴ、ルストは、ひとつの良い文化です」
しみじみと発せられた言葉に吹き出さずにはいられない。しかし、そうか、文化か。大仰な物言いだと一笑してしまったが、確かに
オーブンを開けると、火傷でもしそうな熱気の奥で、フランスパンのバターを塗った表面がじゅうじゅう音を立てている。少々焼き過ぎたようだが、まあ良かろう。
熱々のガーリックブレッドを切り分け、それぞれの品をテーブルに載せれば、楽しい晩餐の幕開けだ。
「
ありがとう、と微笑んだ後、カオルが両手を合わせ何かを呟く。
切り揃えられた丸い指先がスプーンの柄を持ち、薄い唇の中にすくわれたアイントプフが吸い込まれ、咀嚼し、飲み込むまでの一連の様子をじっと見守る。
いつも分厚い眼鏡に守られている硝子細工のような目に、一瞬、ほうき星のような光が宿った。
「おいしい、おいしいです!」
「そりゃ良かった」
俺もすくい上げた具沢山スープをふーふーと冷まし、口に運んだ。
うん、旨い。ブイヨンと炒めた野菜の絡まり合った柔らかなスープの味を、ベーコンの旨味が引き締めている。消費期限の迫った食材ばかりで作った割には中々イケるぞ。
意外と柔らかなボックヴルストをスプーンの背で一口大に押し切り、アイントプフと一緒に食す。
目線を上げ、カオルが食事をしている様を覗き見る。すると、ガーリックブレッドと格闘していた彼と目が合った。
「えっと……こっちでの生活には慣れてきたか?」
「はい、少しだけ」
脳内のあちこちに散らばった単語を、カオルは必死に探し求めているようだった。右に、左に、視線が縦横無尽に駆け回っている。
「僕、喋るの下手です。だから、お店の人が何度も聞く」
「そうか? まあお前声小せえから、店員が聞こえねえだけだろ。発音の問題じゃねえから気にすんな。
あ、授業はどうだ? もう始まってんだろ」
「木曜日、最初の授業、ありました。それは難しかった。文法、筆記、分かります。読み物、分かります。しかし会話できません」
「今喋れてんだろ? 問題ねえよ」
「……すみません、もう一度言ってください」
「今、お前は、ちゃんと、会話が出来ている。なので、問題ない。
――語学コース、どのクラスに入ってんだ?」
「B2です」
「は? まじかよ、やっぱり優秀じゃねえか」
B2といえば、ギムナジウム高学年くらいのドイツ語力ということになる。語学留学にやってくる大抵の日本人留学生は基礎学校レベルのA2からという話なので(これはヨーニー情報だ。俺が仕入れるアジア関連の知識は基本ヨーニーからのものである)、やはりこいつは出来る奴なのだ。
素直に関心しつつ、ようやく冷めてきたガーリックブレッドを一切れ頂く。濃厚なバターの風味とガーリックペーストの独特な味わいが、サクサクとしたパンにこれまたよく合う。
「語学コースの他には、何か授業受けてんのか?」
「ドイツ文学の授業、日本語の授業のアシスタント。あとは、歴史の授業です」
授業アシスタントか、そう言えばヨーニーがそんなことを言っていた気がする。
「また難しそうな授業取ったんだな。ちなみに歴史って、何の?」
「古代ギリシャの歴史の授業です。マイヤー教授の」
「マイヤーって、テオドール・マイヤー教授か? 俺も去年、それ受けてたぞ」
「本当ですか? 彼の授業は、聴くのが難しい、僕にとって」
「あのジジイ声ちっせえからなあ……ノート有るけど、良かったら要るか?」
「僕は、それを貰うことが、許されていますか?」
「良いよ、どうせもう要らんから……あ、でも字が汚えかも」
ミミズののたくったような己の悪筆を思い出し、口内に苦い唾液が広がる。あの優美な筆記体の持ち主に直筆のノートを見せるのは、なんだか酷い失礼を働いているみたいで躊躇われた。
カオルは相変わらず控えめな笑みを見せ、「もし、可能ならば」と言った。
俺は喉元を圧迫する小さな違和感を呑み込むように、アイントプフを食べ上げた。
食事が終わると、カオルが両手を合わせて何かを呟いた。食前も行っていたが、アジア圏特有の食後のお祈りだろうか。
頬杖をつきつつ眺めていると、彼は改まったように視線をこちらに向け、薄い口を開いた。
「本当に、ありがとうございます。僕、あなたにお礼、したい」
「礼? 別に要らねえよ」
「でも……」
「どうしてもっつうんなら、そうだな……お前、この後時間あるか?」
ふんわりと黒髪を揺らしてカオルが小首を傾げる。
「はい、僕は時間を持っています」
「よしきた。お前、俺のレポート添削してくれよ」
「え、だめです、僕のドイツ語は下手です!」
「ヨーニー……えっと、お前のタンデムのヨーナタンから聞いたぜ? あいつの文法ミスを指摘出来るくらい、読み書きが得意らしいじゃねえか」
子犬のような慌てぶりが微笑ましい。最早用済みのはずのスプーンを手にしたり、皿の縁に置いたりを繰り返していた彼だったが、やがて上手い言い訳を思いついた子供のように口を切った。
「それは……ひとつの誤解がある。彼は形容詞の格変化、その綴りを間違えた。僕はそれを指摘しただけです」
「なるほどね。つまりお前は、そんな細かな綴り間違いも指摘できるほど正確な文法を操れるってわけだ」
再び黙り込むカオル。これではまるで、彼をいじめているようではないか……いや、多分、実際にいじめてしまっているのだろう。だって俺はこの時確かに、「こいつの実力がどんなもんか、お手並み拝見だ」という心根で喋っていたのだから。
率直に言うと、俺の言葉一つで彼の酷く慌てる様が面白かった。実に愉快だ。
その嫌味な雰囲気が伝わったのか、カオルはあからさまに話題を逸らそうと、俺の深皿に手を伸ばした。
「食器、ください。僕がそれらを洗います」
「ありがとな。じゃあ俺、部屋からレポート取ってくるわ。ついでに歴史学のノートも持ってくる」
柳のようにしなやかな両眉が恨めしそうに寄せられる。
慌てて、「食後のコーヒーもつけてやるから」と心ばかりの猫撫で声で宥めると、カオルは観念したように目を伏せ、袖を捲った。
「コーヒー、一杯、ミルクと砂糖付きを所望します」
仰せのままに と、お道化て一礼し、席を立つ。カオルの食事と食後の時間を独占しているのだという現状に、いつになく胸の内が浮足立った。
まるで常飲しているソーダ水のように、感情が泡立つ、はじける。それは認めたくないような、目蓋を閉じたままでいたいような、それでいて身を委ねておきたいような感覚だった。
そぞろな心地のまま廊下を歩き、はた、とあることに気づいた。
――牛乳の消費期限、いつまでだったっけ?
さあっと全身の血が足元へ落ちていく感覚に、口角が引きつる。俺は急いで部屋の鍵を開けた。
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