第6話 アイントプフの攻防1

 

 時刻は午後五時半を少し回った頃。調理台の上に置かれた食材、つまり今日中に消費せねばならない食材の多さに、俺は言葉もなく目頭を押さえていた。


 デュッセルドルフの部屋を粗方掃除し、体中の筋肉を酷使した俺の次なるミッションは、現在お世話になっている我が城の冷蔵庫の在庫整理だ。

 半分芽の出かかっているジャガイモ、完熟が過ぎて指で突けば窪んだままでありそうなトマト、しなびたズッキーニ、野菜室に放置したなりの玉ネギ、ニンジン、ブロッコリー、瓶詰のボックヴルスト、細切れベーコン、レンズ豆……。

 衝動買いしたまま調理せず、ほったらかしにしていたツケが、よりにもよって今巡って来てしまった。己の計画性の無さに軽く涙が出てくる。 

 彼らの寿命(鮮度)は恐らく今日が限度だ。明日にはカビが生えている可能性だって無きにしも非ず。

 一分間熟考した後、今夜の晩餐をアイントプフにすることが決定された。


 そうだ、アイントプフだ。消費期限間近だろうが、中身がジュクジュクのへにゃへにゃだろうが、全て煮込んでしまえば関係ない。しかも手間いらずとは、嗚呼、素晴らしき哉! 我がゲルマン民族が考え出した英知の結晶・アイントプフが最適解だ、煮込み料理は世界を救う――このような妄言で脳内が満ちる程度には、俺は疲れ切っていた。


 最近はまっているメタルバンドのナンバーを口慰みに、それぞれ野菜の皮を機械的に処理していく。玉ネギを切る際、青臭い刺激臭が鼻腔から目頭へ駆け抜けて、思わず目をしばたたかせた。これがヨーニーだったら、玉ネギを切りながら鼻水を啜ったり、涙目になったりすることもないのだから、つくづく世の中は不公平である。

 材料を全て切り終わったら、大鍋にオリーブオイルを布いて、余り物のベーコンとあわせてざっくりと炒める。どうせ後で煮るのだから、火が通っているか否かを細かく心配せずとも良い。

 お気に入りのナンバーその2を歌い終わったのを合図に、一度火を止め水を入れる。ブロック状のブイヨンと塩コショウを投入すると、そのまま蓋をしてしばらく放置。

 その間にすっかり固くなってしまったフランスパンに切り込みを入れて、バターとガーリックペーストを塗りたくる。そしてそれをオーブンに放り込めば、後はこんがり焼き上がるのを待つのみだ。


 ジーンズの尻ポケットに捩じ込んでいた携帯電話に手を伸ばしつつ、壁の半分ほどを占める大窓の際へ凭れ掛かる。


 分厚いガラス一枚を隔て、外の家々はかすかに夕霧に包まれているようだった。すでに太陽は山の端に沈み、陽光の名残が秋の空にうす青く色をひいている。ガラス窓のこちら側も、天井にこれでもかと設置された白色電球が煌々と目を苛むばかりだ。

 電気コンロの上でグツグツと煮込まれている鍋のスープ、その音が返ってこの静寂に完結された空間を証明付けていた。この淋しさは嫌いじゃない……。


 何か連絡は来ていないかとメールを開いた時、その完璧な静けさは重厚なドアの音によって崩壊した。


「あ……」


 戸惑いを含んだテノールが揺れる。顔を上げると、入り口にはカオルが立っていた。

 俺の姿をみとめた途端、青白い頬に朱が奔る。


「カオルか。二日酔いはもう治ったか?」


「こんばんは。はい、二日酔いは問題ありません。あの……」


 揶揄うように声をかけると、彼は口元を頼りなさげに動かしたのち、しばらく黙したまま俯いてしまった。

 言葉を促すつもりで何も言わずにいると、癖の強い黒髪が怯えるように揺れた。

 そして……、


「本当にすみません、申し訳ございませんでした、沢山迷惑をかけました。あの、どう謝罪をしたら良いのか……」


 ようやく口を開いたかと思ったら、彼が発したのは、俺が口を挿む間もないほどの謝罪の言葉だった。酒が入っていた時の朗らかさは何処へ行ってしまったのか、発音までたどたどしくなってしまったようだ。

 猫背に拍車をかけるかたちで、カオルは小さく体を丸めている。謝罪のあいだじゅう頭を下げていたので、触り心地の良さそうな彼の黒髪から覗く、赤く熟れた耳しか見えない。それが返って少し不愉快だった。


 謝るなら相手の目を見るモンだろ、と柄にもなく文句を言いそうになる口を一度閉じ、出来るだけ落ち着いた声音がないかと脳内を探った。


「良いって別に。そんな深刻そうに謝らんでも、怒ってねえよ」


「しかし……沢山、ご迷惑……」


「あの程度、誰にだって起こり得るんだ。そんな気にしてねえ……まあ、でも、今後はほどほどにな」


 存外威圧感の無いように喋ることができたようだ。カオルは安心したのか、ようやく顔を上げ、恥ずかしそうに俺の方を覗き見ながらはにかむ。

 丸みを帯びた眼鏡の奥で潤むつぶらな両目をみとめた時、何とも言い難い奇妙な充足感を覚えた。


「……しばらく、禁酒します」


「ははっ、良い子だ」


 床の上を滑るような靴音の立たない不思議な歩き方で、カオルはキッチンへと入ってきた。その手には赤く熟れたトマトが一つ……え、トマト? しかも一つだけ? 


 瞬きを繰り返すだけの俺を余所に、カオルは収納棚からまな板と包丁、底の浅い皿を取り出した。そして水洗いしたトマトをザクザク切って――無造作に皿の上に盛り付けると、それをテーブルの上に置いた。


 ……待て、待て、ちょっと待て。


「なあ……あれ、お前の晩飯か?」


 棚からフォークを取り出そうとしたカオルの肩を叩いて、机の上にちょこんと乗ってあるトマトのスライスを指さす。

 彼は小さく首を縦に振った。


「あれだけなのか? 他には?」


「あれだけです」


 おいおい坊や、冗談だろ?


 口周りの筋肉が引き攣るのを感じつつ、更に問いただした。


「お前、ビーガンだったりする? それか、体質的にトマトしか食えなかったり? ……まさか、ダイエットでもしてんのか?」


「いえ……冷蔵庫、中、トマトだけ、存在します……だから」


「はあ? 他の食いもん、マジで何もなかったのか?」


「今日、日曜日。ドイツ独自の法律ゆえ、スーパーが閉まります。僕は忘れていました」


 まるで尋問を受ける容疑者のように若干の怯えを見せつつ、カオルが弁明する。俺は思わず頭を抱えた。


 そうか、閉店法か。日曜日にはどの店もスーパーも閉まってしまうこの国独自の法律は、慣れない人間にはショックだろう。確かに食いっぱぐれてしまうこともあるかもしれん。

 ……いやいやいや、それでもだ。どの通りの角にも必ずトルコ料理屋があるんだし、駅のパン屋だって開いているのだ。マクドナルドも開いてるし。外国由来の食堂が少なかった昔ならともかく、閉店法は今、理由にはならないはずだ。


 食べ盛りの世代の男が、この飽食の時代に、トマト一個だけなんて……いかん、悲し過ぎる。


「お前さあ、流石にそれは体に悪いぞ。食えるんなら、ちゃんと肉とか、パンとか、他のエネルギーになりそうなもんも食っとけ」


「す、すみません」


「いや、すみませんじゃなくて……」


 また委縮して頭を下げるカオルを見て、ガシガシと頭を掻く。

 別にこいつが何を食していようと関係ない。関係ないのだが……やっぱり見てられん。


「――なあ、その、これ……一緒に食わねえか?」


 鍋の中でぐつぐつと煮えているアイントプフを指し示す。

 両肩が弾かれたように跳ね、カオルは右手を顔の前でぶんぶん振った。


「それは、申し訳ない!」


「いや、申し訳ないじゃなくてさ。ほら……こんなに沢山、一人じゃ食い切れねえから」


 良いから食え、食うんだ。頼む、食ってくれ……。


 まるで呪いをかけるかのように、顔面に張り付けた笑顔の裏で念じる。すると色の濃いセーターに隠れた彼の薄い腹から、ぎゅるぎゅるっと、何かを主張するような音がした。


 途端に顔をふせる彼に反比例して、口元の笑みが深くなる。


 コンロの火を止め、「な?」と駄目押しで蓋を開けると、控えめな喉仏が上下したのを俺は確かにみとめた。 



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