第5話 ハインリッヒ・ハイネ通りの追憶


「叔父さん、やっぱ無理だ。イルゼには別の部屋をあてがってやってくれ」


 大雑把に髪を結わえていたゴムを一気に引き下ろす。自分でも身勝手だと分かっている泣き言を乗せ、腹の底から息を吐き出した。


 ここはデュッセルドルフ、ハインリッヒ・ハイネ通り。この通りの片隅で、北向きの窓から向かいの三角屋根を臨むこの部屋は、最早空気すら凝結したまま化石と成り果てていた。

 約三年ぶりにドアノブを捻り、封印を解いたその時の俺の心情を、誰が理解できようか? 部屋中に散乱している資料用の雑誌や本、幾つかの空のワインボトル、ギムナジウム時代の恩師から譲り受けた古代ギリシャ風の石膏像、埃被ったキャンバス、絵具、色鉛筆、木炭エトセトラ……。

 当時俺が使用していたそのままの形で、博物館のミニチュアよろしく保存……もとい放置されていた。所有者である叔父の厚意に甘え放置していたのは、他でもない俺自身だ。


 安息日にも関わらず重労働を強いられている俺は、すっかり固まってしまった腰をゆっくりと仰け反らせながら呻いた。

 朝の九時前から片付けをしているはずだが、いっこうに終わりが見えてこない。ごみ袋は既に四つ目に突入している。頭が痛くなってきた。


「無理じゃねえ。今まで何もしてこなかったツケだ、観念しろ」 


 冷たい声でそう突き放しながらも、様子を見に来た叔父の手には二人分のマグカップがあった。

 片方を受け取って、作業机の縁に浅く腰掛ける。マグに顔を近づけると、香ばしいコーヒーの温い香りが蒸気に乗って肺を満たした。琥珀を溶かして濃縮したような液体が、俺の呼吸でゆらりゆらりと揺れている。

 その様を飽きることなく眺めていると、叔父はくすんだ白い壁に凭れかかりながら、何かをおもいみるように口を開いた。


「……お前、本当に全部捨てるんか」


 叔父の視線は、部屋の隅に寄せられたごみ袋の方に向けられていた。

 透明なビニール袋の中でひしめき合う、ナニモノにもなれなかった俺のかつての作品たち。完成した絵もあれば、下描きだけで終わったものもある。

 この部屋の片づけを始めるとなった時、一番最初にごみ袋に突っ込んだ名もない作品群。それを叔父はじっと見つめていた。


 正直想定内の反応ではあったが、やはり少しだけ癪に障る。


「片付けろっつたのはそっちじゃねえか」


 不平を漏らすように低く呟くと、叔父はため息交じりに言葉を返した。まるで聞き分けの無い子どもでも諭しているような調子だ。


「俺が言ったのはなあ、レネー、もう使いもんにならん画材だの、よく分からん小汚い空き缶だの、空き瓶だののことだよ。あと埃が溜まってるから掃除しろってこった。作品まで捨てろっつった覚えはねえぞ」


「……ここにあっちゃ邪魔だし、いつまでも置いとけねえだろ」


「他の所で保管しときゃあいいじゃねえか。ケーニヒスヴィンターの空き部屋でも……」


「叔父さん、」


 ほんの少しだけ強く、話を遮った。俺は他の何物にも目を遣らず、ただ濃密なブラウンの水面だけに視線を落とす。

 揺らめく水面は鏡とはならず、俺の表情を写さない。それはきっと救いなんだろう。


 晩秋の昼下がり。開け放たれた窓の外からは日増しに強くなる川風の唸り声と、昼間から酒盛りをしているのであろう人々のざわめきが、歪なシンフォニーを奏でている。

 柔らかな日差しが照らしている街並みとは対照的に、白い壁ひとつ隔てたこの部屋の中は薄暗く、冷気にも似た諦観がまだ掃かれていない床埃を浸していた。


 俺はおもむろに目蓋を下ろした。


 叔父はじっと黙っている。多少は感じてくれたのだろうか、彼は俺が何か喋るのを待っているようだ。

 何を言うべきなのだろう、閉じた目蓋の奥に言葉を探す。


「――もう要らないんだ」


 本当は、これらの残骸を見ることが耐えがたかった。この部屋に来るのがこんなに遅くなってしまったのは、このナニモノでもないガラクタたちが原因だ。それを叔父は、きっと察してくれていた。

 それでいて彼はなお、俺に絵を描く機会を残そうとした。だからこそ三年もこの部屋をそのままにしておいてくれたのだ。いつか再び、俺が筆を執るその日のために。


 しかし、もう俺がキャンバスを前にすることはない。俺は、画家になれなかった。パレットを持つことも、もう……。

 それならば進むべきなのだ。過去のものは、過去の手へと渡さなければいけない。

 

 俺は一人、舞台に上るような心持で目を開ける。


「もう、いい加減に捨てないと」


 アンコールを呼ぶ喝采はない。ハインリッヒ・ハイネ通りを往く陽気な音楽が遠くに聞こえて、本当に一人芝居でもしているような感覚に陥った。


 そろそろ断ち切らなくてはいけないのだ。これからの生活に、芸術への未練は必要ない。


 俺の独白を聞いて、叔父が何を思ったのかは分からない。「そうかよ」とザラザラした嗄れ声が存外近くで聞こえた、と思った時には既に、叔父は俺の頭を荒々しく掻き乱していた。


「おい、何すんだ!」


 いつの間に傍に来ていたのだろう。叔父は俺の抗議に対して何の反応も返さない。ただ息を呑むほどに静謐なブルーグレーの眼差しを、こちらに向けるだけだった。


「……まあ、お前がそれで良いなら、俺は何も言わないさ。好きにすれば良かろう」


 そう告げる声は明るく、一切の湿っぽい感情を振り払ったような物言いだった。


 腰掛けた傍に飲みかけのコーヒーを置いて、髪を整える。もともと絡まりやすい髪質故に、手櫛で梳くとすぐに絡まるのだ。

 うんざりしながら指を通し、そしてあまりの指通りの悪さに諦めて、左手でマグの取っ手を持ち直した。


「叔父さんの末っ子、ギムナジウム生だよな。選択教科が美術なら、まだ使えそうな絵具とかをやりたいんだが」


「ハンノのことか? そりゃあ助かる」


「オーケー、仕分け次第渡すよ。あとあの石膏像どうすっかな……」


「それこそ家に置かせてもらえば良いじゃねえか」


「アテナの胸像を抱えて電車に乗れと?」


「だいぶ面白えな、ビデオ回してやるよ」


「まじで止めてくれ……」


 義姉さんが喜びそうなインテリアになるさ、と口を大きく開けて少年のように破顔する叔父。灰色の口髭から覗く大きな金歯が過ぎ去った夏の星のように光る。汚えアンタレスだ……そう内心毒づいた俺の無礼を見通したのか、叔父は片眉をピクリと跳ね上げた。


「ところでお前、そもそもいつケーニヒスヴィンターに帰るんだ?」


「えーっと……」


「まさかとは思うが、今年も帰らねえつもりじゃねえだろうな?」


 まさかも何も、もともと帰省する予定は入れてない。そう口を開こうとしたところで、叔父が大げさに溜め息を吐いた。


「お前なあ、いい加減に帰ってやれ。兄貴も義姉さんも寂しがって泣いてるぞ」


「母さんはまだしも、親父が泣くガラかよ」


「こら、ああ見えてもな、兄貴は繊細なんだぞ。三年も帰らず、電話も碌に入れず……親を心配させるんじゃない。せめてクリスマスくらいは……」


 説教の途中で、カーペンターズの「雨の日と月曜日は」のメロディが、俄かに部屋の空気を揺らした。口を開けたまま叔父が固まる。音の発生源は、彼のジーンズの尻ポケットだ。

 電話に出るよう視線で促すと、叔父はゆっくりとした動作で俺の横にマグを置いた。


「もしもし? ――ああ、イルゼか。どうした? ……」


 携帯電話を取り出して、叔父は部屋から出て行った。

 木製のドアが音を立てず閉まり、彼の声が完全に聞こえなくなったところで、俺はようやくコーヒーに口を付けた。若干冷めたそれは、しかし元の豆が良いためかそこそこ美味い。

 まったりと広がる苦味とチョコレートに似た風味を舌先で転がしながら、先ほどの叔父の言葉を頭の中で反復してみた。


 ――三年も帰らず、電話も碌に入れず……親を心配させるんじゃない。


 まったくその通りである。それが分かっていながら帰らなかった、いや帰れなかったのは、あの故郷に思い出があり過ぎるからだった。


 決して嫌いなわけではない。嫌いでないから帰れなかった。両親のことも、嫌いでなかったから会えなかったのだ。


 ケーニヒスヴィンターの家々、朝霧に包まれた針葉樹の森、小路の木漏れ日、そこに住まう人々。

 それらの中にはいつも何か、こちらを恥じ入らせるような美が存在していた。

 ひたむきに打ち込む何かを諦めた俺には耐えられないほどの健全さと素朴さ。それは深い森で目覚めを待つ、春先の湖面にも似た透明な美。


 故郷の美しさは、いつだって芸術への情熱を沸き上がらせる泉だった。

 その熱を失った今、それは暴力のように俺を打ちのめすだろう。


 俺は今でも、水鏡みかがみのような故郷と向き合うことが怖いのだ。


 窓の外から突如吹き込んだ風が室内の埃を巻き上げて、粉雪のようにキラキラと輝く。

 十月が終われば、長い長い冬が始まる。冬が始まると、ドイツ中の町々でクリスマスマーケットが賑わいを増すだろう。そうこうして聖夜を過ごしたなら、また一年が何事もなく終わっていくのだ。

 もはや朧げな故郷のマーケットをコーヒーに思い浮かべる。滲んだ温かな光の色と部屋の寒さの温度差に、俺は一人くしゃみをした。


 帰省するかどうかは、冬休み前に考えれば良い。とにかく今は、何とかしてこの部屋を人の住める空間にすることが先だ。とっととこいつを飲み上げて、もうひと踏ん張りしなければ。


「もうひと踏ん張りで終わってくれよ……」

  

 ごみと画材、本が散乱するベッド周りの混沌から視線を逸らし、祈りにも似た切実さでマグを一気に傾ける。そして乱れ髪をぐしゃぐしゃのままゴムで結い上げ、いざ参らんと腹を括った。

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