第4話 酔っぱらいと霧雨の馨り
――どのくらいの時間、二人でバスルームに籠っていたのか。
しばらく彼の背中を擦ってやっていると、もう出す物もなくなったのか、次第にカオルの嘔吐きは落ち着いていった。便器の縁に顔を突っ伏して、静かに呼吸を整えている。心なしか顔色も良くなってきたように見えた。
俺は一度彼の身体を起こし、トイレの水を流してやった。ふと腕時計に目を落とすと、時刻は深夜三時になろうとしていた。
「おう、マジか……」
明日のシフトが昼からで良かった、とここでも一週間前の己の慧眼に賞賛を送りたくなった。俺は天才ではなかろうかと自画自賛していた、丁度その時だ。
トイレ横のドアを隔てた向こうから、微かにノックの音が聞こえてきた。位置からして、音の出所はカオルの部屋のドアらしかった。
「……俺が出てこようか?」
苦笑しつつ提案をすると、カオルは再び便器とよろしくしつつ片手を上げた。うめき声と判別のつかない、可哀想なほど酒焼けで喉の潰れた声が発せられる。
「すみません、おねがいします」
もう声が出るくらいには回復したのかと、密かに胸を撫で下ろした。そしてバスルームからカオルの部屋にお邪魔して、玄関のドアを開けた。
そこには講義で見かけた顔のドイツ人学生と、見知らぬ顔の日本人の男女が三人立っていた。先ほどのパーティーの参加者だろうか。想定外の人間が現れたことに驚いているようだった。
「すみません、カオル・ウリューはこちらに?」
男子学生の一人が虚を突かれたような面持ちで尋ねてきた。日本人にしては(カオル基準だ)中々発音の良い
親指で背後のバスルームを示し、「カオルならトイレで死んでる」と伝えると、ドイツ人学生の方が肩を竦ませ、言った。
「やっぱり飲ませすぎたんだな。可哀そうに」
「……アイツ、そんなに飲んでたのか?」
恐る恐る尋ねると、彼はとんでもない真実を暴露してくれた。
「俺が知ってる限りでは、ビール瓶五本、ワイン十二杯、ショット十杯ってところだな」
「馬鹿かな?」
そんな無茶をすれば、あれだけ悪酔いするのも当たり前だ。思わず口角を引きつらせていると、皿やカップを手に持った女学生の一人が、俺の身体越しに部屋の中を気遣わしそうに覗き込んだ。
「とりあえず、カオルの食器類を洗っておいたのだけど……彼は大丈夫なの?」
「さっき吐いて、今は落ち着いてる。声かけていくか?」
そう聞くと皆一様に頷いたので、カオルに一言断りを入れて、彼らを招き入れた。
各々が彼に語りかけていたが、俺には何を言っているのかよく分からなかった。会話が全て日本語だったせいだ。しかし雰囲気から察するに、せいぜい「大丈夫?」とか、「ゆっくり休めよ」、「気をつけろよ」などというようなことを言っていたのだと思う。
カオルは相変わらず潰れた声のまま、なんとか言葉を絞り出して返事をしていた。その様子を見て、彼らも少し安心したようだった。
去り際に、カオルの食器を持っていなかった方の女学生が、軽く挨拶をしてきた。
「今日はありがとね。うちらのが世話をかけました……ところで、あなたは?」
「俺は二〇七号室に住んでる、カオルの隣人」
「そうだったの。良い隣人を持って、カオルは幸せね。彼、結構抜けてるから……これに懲りずに、今後もよろしく頼みます」
「……良いけど。アンタらも、飲みの席では気をつけろよ」
苦笑を浮かべた最後の一人を見送って、俺は玄関の内鍵を閉めた。
カオルは便器の縁に額を押しあてたまま、うつらうつらと微睡んでいる。まったく、とんだ人騒がせなお坊ちゃんだ。
「おーい、飲めるなら口濯いで水飲んどけ」
自室の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、未だ上体を危うげに前後させるカオルに手渡した。
彼がしっかり水分補給をしたのを見届けたなら、俺の次なるミッションは彼をベッドに寝かせることだ。まだ力が入らないのか、立ち上がろうとするとカオルは何度もふらついた。その度に俺に寄りかかるようにして、膝立ちのままじっと耐えなければいけなかった。
その際、ふと、カオルの柔らかな黒髪が頬を掠める。
――途端、静かな雨の馨りが、俺の鼻腔をくすぐった。
彼の痩躯を受け止めた時、室内に残る酸えた臭いの陰に隠れた、胸が軋むほどの懐かしさを。悲しいほどに静かなそれを、俺の鼻は嗅ぎ分けたのだ。
遠い故郷の村、ケーニヒスヴィンターの森にけぶる、
嗚呼、何故、今。
何故、俺は、縁もゆかりもないこの青年の体臭に、忘れていたはずの郷愁を見出したのだろう。
煌々と照らす蛍光灯の光が、やけに眼球を刺激した。思考を根こそぎ奪われるような、一瞬の陶酔。
――それを破ったのは、いつもの穏やかなテノールとは程遠い、消え入りそうな声音のカオルの謝罪だった。
「すみません、レネー。こんな、つもりじゃ……」
彼の声によって、今まで堰き止められていた血液が一気に循環しだしたような、そんな衝撃を受けた。脈打つ心臓の音が煩い。
少し視線を落とせば真下に見える彼のつむじに、声が上ずりそうになるのを何とかして押さえつけねばならなかった。
「……もう良いって。それより、ほら、寝るならベッド行くぞ」
まだ酔いが抜けきっていないのだろう、うわ言めいて「ごめんなさい」を繰り返すカオルは、まるでいたいけな子どものようで。既に夢の彼方へ片足を突っ込んだような彼の様子は、俺の強張った神経を脱力させるのに十分だった。
――もし仮に、このお坊ちゃんがヨーニーの言う「優秀なカオル」だとしたら、今後少なくとも三回は俺のレポートに付き合わせても許されるはずだ……それだけの世話を焼いている自信が俺にはあった。
最後のミッションを果たすべく、その華奢な身体を抱え直す。そして彼の自室へと、今一度足を踏み入れた。
結局この日、俺が煙草を吸うことはなかった。
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