第3話 Oh, Alkohol, oh, Alkohol...
群青に沈む夜の冷気が高く突き出た鼻骨に染みて、俺は一つくしゃみをした。
駅の電光掲示板で確認した限りでは、現在の外気温は摂氏八度。ルール地方の十月下旬にしては、まずまずの寒さといったところか。
駅前通りを歩く人びとは、帰り路を急ぐ者や次の居酒屋へと向かう者などがぽつりぽつりといるだけだったが、誰も彼も一様にダウンジャケットを羽織っていた。もちろん例に漏れず、バイト帰りの俺もその一人だ。
我がシェムケスヴェーク寮に帰り着いた時点で、時刻は午後十一時を回ろうとしていた。
今日は電車の遅延が五分で済んだので運が良かった。いつもこうなら良いのだが……とにかく一刻も早くシャワーを浴びたい、が、しかし煙草も吸いたい。玄関先で回らぬ頭を駆使し、コンマ一秒ほど思考した結果、選ばれたのはシャワーだった。
硝子戸の分厚いドアを開けると、暖房の乾いた、温い空気に包まれる。唐突な温度の変化に軽く皮膚が粟立つのを感じて、俺は階段を駆け上がった。
フロアを区切るドアを押し開けると、随分と賑やかな声が聞こえてきた。どうやら喧噪の震源地は共同キッチンらしい。誰がCDを流しているのか、ドイツでは聞いたことのないポップスが、足を動かす度に鼓膜を打つ。この寮の留学生共がパーティーでもやっているのだろう。
これは明日辺り、口喧しい近隣住民から苦情が来るかもしれんな……薄く苦笑いを浮かべ、通りすがりに室内へと目を遣った。見知った顔があれば軽く挨拶でもして、開けっ放しのドアをそれとなく閉めれば良いだろう、と。
その時だった。見知らぬ学生たちに囲まれ、ショットグラスを片手に持つ、覚えのある黒髪が目に止まった。
「カオル……?」
誰にともなく声を零したのと同時に、彼の黒く潤んだ視線とぶつかった。
「レネー!」
ドアの前に立つ俺の姿を認めると、へにゃ、と顔中の筋肉を弛緩させ、カオルは椅子から立ち上がった。何でもないような足取りでこちらまで来たカオルだが、彼が立ち上がる時、一瞬体がふらついていたのを俺は見逃さなかった。
「盛り上がってるな、パーティーでもやってるのか?」
「はい。この学期に来た日本人の留学生と、彼らのバディと一緒に、みんなでパーティーをしています」
「そりゃ良かったな……しかし、随分飲んだんじゃねーのか? お前、顔が真っ赤だぞ」
「そうですか? たしかに、飲み過ぎたかもしれません。みなさん、沢山飲みますから……」
こちらを見上げてくるカオルの、黒縁眼鏡の奥で細められた目元が妙に心許なくて、何故か居たたまれない気持ちになった。一目見て酔っていると分かる様子だが、特にこいつの、いつにも増してのんびりとした発音が、それを明確に決定づけている。
ふと奥の賑わいへと目線を向けると、どうやら他の学生たちもだいぶん出来上がっているようだった。よく見るとちらほら教室で目にする顔ぶれも居たが、仲良く喋った覚えもなし、わざわざ声を掛けなくても良いだろう。
調理台の端には、既に相当数の空になったビール瓶やワインボトルなどが並べられている。しかしそれでもまだ足りぬと言わんばかりに、皆々新たな酒に手を伸ばしていた。対してカオルは、俺の前で遠慮しているのか、いつまで経っても手の内のグラスに口を付けようとしない。
「それ、今飲んでるのは何だ?」
興味本位で尋ねてみると、彼は弱々しく眉根を寄せて、「飲んでみてください」とグラスを差し出してきた。
ありがたくグラスを受け取り、その無色透明な液体を舐める程度に口に含む。瞬間、刺さるような冷気に混じって、鼻腔を突くような薬臭さと癖の強い苦味が舌先に広がった。
「これ……ウーゾか」
薬指程度のショットグラスを半分ほど満たしている、このギリシア生まれの蒸留酒を手にしたまま一人ごちた。
カオルは頬を掻きながら、俺の独白に「そうです」と答えてくれた。
「どうやら皆さん、そのお酒が大好きなようです。日本人は、みんな、美味しくないと文句を言っていましたが」
「ああ……リコリスが苦手な奴は駄目だろうよ」
「レネーは、このお酒は好きですか?」
「別に嫌いじゃねーな……何なら飲んでやろうか?」
揶揄うようにそう笑いかけると、カオルは存外にも真面目腐った声で、「お願いします……」と頼んできた。成程、こいつは別に遠慮していたのではなく、単にこの酒を飲みたくなかったのだな……俺は一気にグラスを傾けると、空になったそれを彼の手元へ戻した。
その際に触れたカオルの手は、丁寧に切り揃えられた丸い爪先にまで熱を孕んでいて。
何故だろう、僅かに胸の奥がさざ波立つような心地がした。
「ありがとうございます。助かりました」
よっぽど飲めずに弱っていたのか、ため息交じりの感謝の言葉には、あからさまな安堵の念が滲んでいた。おおよそ気の強い野郎共に無理矢理注がれて、断りきれなかったのだろう。こんな線の細い、ようやくハイティーンに踏み込んだような見た目のお坊ちゃんなのだ。少しは周りが気を遣ってやっても良さそうなものだが……まあ、あの酔っぱらい共に気配りを強要する方が、土台無理な話というものか。
小さく溜め息を吐き、カオルの気を削がない程度に忠告した。
「構わねえよ……けどお前、無理して飲まなくて良いんだぞ」
「はい、ありがとうございます……あの、もしよろしければ、一緒にいかがですか?」
カオルは室内をちらっと見やって俺を誘う。
こいつをあの呑兵衛共の群れに一人返すのは、確かに気がかりではある……が、俺と彼は一つのバスルームを共用し、会えば挨拶を交わすだけの、唯の隣人同士なのである。流石にそこまで付き合う義理も元気もない。それに他の日本人も多いのだ、心配は無用だろう。
「いや、俺はやめとく……じゃあ、楽しんで」
「ありがとうございます、それでは」
カオルはいつも通りの気弱そうな微笑を湛え、小さく頭を下げた。
折角の華やかな席に「飲みすぎんなよ」という言葉は無粋に思えて、軽く会釈を返してドアを閉めた。途端、あれだけ騒がしかったBGMがぱったりと止む。つくづくこの寮の防音設備には感服するばかりだ。これでもし奴らが窓を全開にさえしていなければ、何人たりとも今夜のパーティーに苦情を入れられないだろうに。
週明け辺りに張り出されるであろう、「共同フロアにおけるパーティー禁止!」の張り紙を思い浮かべて、自室の鍵を開けた。
******
やたら温度調整の難しいシャワーを浴びた後、ヨーニーに借りたまま終ぞ見ないでいたDVDをパソコンに取り込んだ。一度も見ずに返すのは流石に癪なので、眺めるくらいはしてやろうかという気持ちからだったが……結論から言えば、俺と彼の映画の趣味は合わないらしかった。
時間から考えて、恐らく物語が佳境に入ったのであろうというところで、思い出したように煙草が吸いたくなった。このつまらんアクション映画の見せ場と、俺の愛しのニコチンとでは天秤にかけるまでもない。即座に停止ボタンをクリックすると、買ったばかりの煙草とライターを尻ポケットに突っ込んだ。
ニコチン摂取の為には、まず廊下を渡って、フロアを幾つか通り過ぎて、外階段に出なければいけない。外は言うまでもなく寒いので、愛用するモスグリーンの厚手のストールを肩から羽織り、部屋のドアを開けた。
――思えば、よく分からん三流映画など観ずに、シャワーを浴びた直後に煙草をふかしに行けば良かったのか。はたまた今日は吸うべきではないという、碌に信じてもいない神の思し召し故か。
外階段へと向かう最初のステップの時点で、俺は既にニコチンを諦めなければならなかった。
ドアを開け、ふと右手に目を遣ると、そこには床に倒れ込むようにして蹲るカオルの姿があった。
「おい、どうしたカオル! 大丈夫か?」
冷や水を浴びせられたような心地でカオルの傍まで駆け寄ると、彼は可哀そうなくらい真っ白になった顔を一瞬だけこちらに向けた。そして直ぐに、何かを堪えるようにして口を覆った。
「吐きそうか? 気持ち悪いのか?」
俺の問いかけに、彼は力なく頭を振る。頷いているのか、横に振っているのか、それさえ判別の付かないような有り様だ。
背後のキッチンからは、酒盛りに夢中な酔っぱらい共の、実に呑気な笑い声が聞こえてくる。またドアを開けっぱなしているらしい。
思わず舌打ちをして、小刻みに震えている彼の身体に羽織っていたストールを掛けると、そのまま抱き起した。
「頼む、もう少し我慢してくれよ」と、我ながら情けない声音で言葉をかけつつ、急いでカオルを自室に入れる。こんな状態になってまで、尚も律義に靴を脱ごうとする彼を制し、半ば抱えるようにバスルームに連れ込んだ。
シャワーを浴びるついでにトイレ掃除をしておいて、本当に良かった。約一時間前の己の英断に拍手を送りたい。
「ほら、トイレ。分かるか、もう大丈夫だ」
背中を擦ると、カオルはその痩躯を大きくビクつかせて、一 二度苦しそうに嘔吐いた。しかし青ざめた唇から出てくるのは透明な唾液ばかり。彼は便器に顔を近づけたまま、低く呻き続けている。
「もしかして、吐けないのか?」
最早声を発する事さえできないほど衰弱しきったカオルが頷く。
俺は額に掌を当て、思わず無機質な天井を仰いだ。嗚呼、ジーザス! こんなことならもう少し釘を刺しておくべきだった。もっとも、刺したところで結果は変わらなかったかもしれないが……。
しかしながら、吐き気がいつまでも腹や胸の辺りで留まるのは、かなり苦しいはずだ。この回らぬ頭では、無理矢理吐かせる以外に手立てがどうしても思いつかない。
カオルは嫌かもしれないが……致し方あるまい、治療の為だ。
「カオル、一瞬我慢してくれ」
申し訳程度に断りを入れると、俺はカオルの眼鏡を外し、後ろから彼の顎を掴む。
カオルの身体が反射的に強張ったのを感じながら、右手の人差し指を彼の口内に無遠慮に突っ込んだ。驚いたように彼は身を捩るが、構わず指を押し入れ、喉奥を突く。
可哀そうに、一瞬覗き見た彼の頬は、まるで逆上せでもしたかのように朱を散らしている。苦し気に歪んだ目尻からは、涙が一筋伝っていた。苦しいのだろう、恥ずかしいのだろう。数回会っただけの男から喉に指を突っ込まれるなんて。嗚呼、可哀そうに、かわいそうに、可愛そうに……。
――可愛い?
この手の内で羞恥と混乱に波打つ、骨張った身体。そこに、純粋な同情心とは別の、どこか倒錯した感情が己の背筋に奔ったのを感じた。
可愛いってなんだ、可愛いって。華奢とは言えど、あろうことか男が嘔吐いて苦しんでいる様を見て、可愛いって……なんだ!
一瞬首をもたげた不可解な感情に、頭の中が真っ白になった、と同時に、カオルの喉の筋肉がきゅっと収縮したのが分かった。慌てて指を抜き、そのまま抱き着く形で彼の
肩を上下させて激しく咳き込む彼の背を、俺はひたすらに擦る。掌全体から感じられる彼の背骨の凹凸が、不健康なまでの華奢さを鮮烈に伝えてきた。それはある種の暴力的な色気さえ孕んでいて……いや、だから色気ってなんだ、色気って!
先程から脳裏を過る不可思議な邪念を振り払うように、せめてもとカオルを労った。
「よしよし、よく頑張ったな」
俺の声が聞こえているのかいないのか、カオルは白い便器が恋人だとでも言わんばかりにげーげーと吐き続けている。どうやら本当に吐くのが下手らしい、嘔吐く度に体が大きく上下に揺れていた。
ともすれば頭を打ちはしないかと、内心気が気ではなかった。
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