第2話 カフェ・マグダレーナの驚愕
金曜日の夜というのは、基本的にはどんな街の通りを見ても、一週間の憤懣を発散させたい人々で花めいている。それがデュッセルドルフ一の繁華街
歴史ある石畳の道を往けば、軒を連ねるパブや
午後九時半。俺は玄関扉に掛けてあったサインプレートを、「閉店」側に裏返した。旧市街の玄関口たるこのハインリッヒ・ハイネ通りの他店と比べれば、我らがカフェ・マグダレーナは随分と早くに店仕舞いをする。うちはそもそも飲み屋ではないので、寧ろ遅いぐらいの閉店時間のはずだが。
店内に戻ると、店長である俺の叔父と同僚のヨーニーことヨーナタンが、丁度賄いを配膳し終えたところだった。
「お、ボロネーゼか。旨そうだな」
トマトペーストの爽やかな香気が鼻を抜け、ダイレクトに胃袋を刺激してくる。疲労と空腹を意識した途端、俺の腹は大きな声で自己主張をし始めた。
「遅えぞ、はよ座れ」
調理補助(と言う名の実質コック)のヨーニーが、既に皿の置かれたカウンター席から、呆れたように視線を向けてきた。
このアフリカ系ドイツ人は、弱冠二十歳にしてその実力に絶対の信頼を置かれている。優秀な彼にとって、己の料理が冷めた状態で食されることは侮辱に等しいのだ。口の中で溢れそうな唾液をごくんと飲み込んで、俺はココア色の椅子を引いた。
「
嗚呼、今夜も友人の飯が美味い。
口の中のパスタを一通り咀嚼し飲み込んだところで、最初に口を開いたのは叔父だった。
「次の週替わり定食なんだがな、『
「ヴルスト入りですか?」
ソースとパスタを和えながらヨーニーが尋ねる。叔父は紙ナプキンで口元のソースを拭い、確固たる信念のもとで宣言した。
「ああ、だがレンズ豆は入れない」
「マジかよ、入れた方が美味いと思うんだがなぁ」
「レンズ豆は嫌いなんだよ。俺が嫌いなものは出さん」
まったくもって横暴な理論である。
「もうカボチャが出始めてますから、それを入れても良いですね」
「そうか……じゃあ朝市でカボチャも買っておくかな。
――そうだレネー、お前、明日はここに泊まってけよ」
「は、何で? 帰るけど……」
「昔お前が使っていた四階の部屋、お前の物置と化したあの部屋だがな、今度帰って来る娘が使うんだよ。いい加減片づけにゃあ、埃臭くてかなわん。丁度いいから掃除しろ」
俺の叔父は、この店の上階で生活している。俺が叔父の空き部屋を間借りしていたのは、デュースブルクに移る以前、デュッセルドルフの美術アカデミーに通っていた頃のこと。かれこれ三年近くは前の話だ。
それだけの期間放置してあった部屋の惨状を思うと、自ずと鼻の上に皺が寄ってしまうのを感じた。ここは寧ろ、よく三年もそのままにさせてくれていた、と叔父に感謝すべき場面なのである。
それは、良く理解している……の、だが。
「しゃーねえな……分かったよ」
不承不承頷いて、俺はボロネーゼの最後の一口を平らげた。既に完食している叔父は満足そうに鼻を鳴らすと、俺に食後の珈琲を要求してきた。
「レネー、今日はカフェラテで頼む。久々に何か描いてくれ」
「へーへー、何を御所望ですか、叔父上?」
「ライン川と遊覧船を臨む風景 ~観覧車を添えて~」
「馬鹿野郎そんなもん描けるか」
何故このオヤジは、さも当たり前のようにラテアートで風景画を描かせようとしているのだろうか。食い気味に却下すると同時に、ようやく賄いを食べ上げたヨーニーも注文を寄越してきた。
「レネー、俺はブランデンブルク門が良い」
「できるけど却下。アンタらなんぞ、羊ちゃんで十分だよ」
三人分の食器を纏めると、俺は席を離れ、調理場の流しまで持って行った。そして再び戻ってみると、カウンターを挟んで、二人はまったりと煙草の煙を燻らせているではないか。いつものを切らしていた俺は一本貰おうかと思ったが、そういえば二人とは煙草の好みが合わなかったのだ。帰りに買うまで我慢するしかない。
早く帰ってニコチンが欲しい、とぼやきつつ豆を電動ミルに入れる。三人分のカフェラテを準備している間、叔父はヨーニーに大学の様子を尋ねていた。
「ヨーニー、お前、主専攻はレネーと同じ経済学だったか。どうだ、新学期が始まった感想は?」
「悪くはないですよ、勉強もそれなりってところです」
「秀才ヨーナタンの『それなり』は、一般学生の『最高』だぜ?」
すかさず茶々を入れると、ヨーニーは分かり易く口元を歪めた。
「お前はもう少し真面目に授業を受けたらどうだ」と、ビターチョコレート色の彼の眉間に皺が寄る。
「いやあ、ぶっちゃけ興味ねーんだよ、経済学」
「副専攻の社会学は?」
「どうでもいいね」
「第一外国語の韓国語は?」
「希望者少なかったから、逆に楽かと思ってたんだよなあ」
「お前、何で大学に居るんだ……」
「はてさて、何でだろうな――おら、出来たぞ」
湯気の立ち上るカップを二つ、二人の前に差し出した。
白く輝くカップの中、温かなカフェラテの表面には、セピア色の狼が覗き込む者らを眼光鋭くねめつけている。
「結局羊じゃねーじゃねえか!」
「誰も羊を描くとは言ってねえ」
方々から上がる抗議の声を無視して、自分のカップに口を付けた。うむ、我ながら旨い。
ヨーニーは口をへの字に曲げて狼と睨み合っている。 立ち直りは叔父の方が早かった。伊達に俺との腐れ縁は長くない。呵呵と一笑し、そういえば と、話題を変える。
「あれ、ヨーニーも専攻の外国語は韓国語だったか?」
「いえ、俺は日本語の方です。――そういえば留学生の一団が新しく来ましてね。日本語の授業のアシスタントもしてくれてるんですよ。良いやつらばかりで……俺も先週から、一人とタンデム組んでるんすよ」
「へえ、どんな奴なんだ?」
「優秀ですよ。ドイツ語の読み書きは、正味
「そりゃ凄いのが来たもんだなあ……レネー、お前、紹介してもらえよ。レポートの添削をしてもらえるかもしれんぞ?」
わざとらしく口角を上げて、叔父が揶揄ってきた。
俺は一瞬苛だったが、毎回の最高評価が「4.3」である身としては何も言い返せない。今まですべての科目で「1.7」以上を叩きだしているヨーニーに、半ば流しながら尋ねた。
「良いな、それ。その日本人、何て言うんだ?」
「教えたくないね。お前みたいなのを彼に知られたら、我らが
「俺の馬鹿さは国辱だってか? 良いじゃねえか、名前くらい」
「――カオル・ウリュー」
瞬間、少し温くなってきたカフェラテを盛大に誤嚥した。
可哀そうなものでも見るような視線が、頭上でちかちか点滅している照明のオレンジ色の光と共に、噎せるこの身に突き刺さる。
……今、こいつは誰の名前を言った?
呼吸を整えつつ、自分よりも幾分年若いこの学友を、まじまじと見つめ返した。
「……は? え、カオル? カオル・ウリュー? 日本人の?」
「なんだなんだ、まるで生き別れの兄弟を見つけでもしたような顔をして」
飲み干したカップを置いて、叔父が怪訝そうに腕を組む。
俺は線の細く儚げで、いたって何の問題もない善良な青年の微笑みを思い出した。自ずと脈打つ鼓動が早まる。
「いや……同姓同名の別人でなければなんだが、」
――そいつ、二週間前から俺の隣人だわ。
恐る恐るそう言葉を発すると、叔父は鼓膜が破れんばかりの大音量で笑い出し、ヨーニーは静かに頭を抱えた。
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