午前三時のコーヒーを君と

高槻菫

第一章 汝、隣人を愛せよ

第1話 コーヒーと抹茶チョコレート


 運命的な出会いというのは、はたして、必ずしもドラマティックであるとは限らないのだろう。それは授業の合間に立ち寄る学生食堂メンザの隅で、週末にバカ騒ぎをする居酒屋クナイペで、埃被った古書店の一角で、からっ風吹き荒ぶ通学路の上ですら起こり得る。 

 そして俺の場合、一杯のコーヒーを飲もうとしていた、十月初旬のある昼下がりでのことだった。


******


 その日は、学生寮の自室で政治学のレポートに勤しんでいた。

 課題の提出はその週の金曜日まで――つまりあと二日しかなかったわけだが、窓辺より差し込む秋陽うららかな午後三時に、さしたる興味もない科目の課題が捗るわけもなく。気を抜けば乳白色の靄が抗いがたく脳を覆うために、絶えず両目をしばたたかせねばならなかった。

 いまだ数少ない文章を消しては打ち込み、打ち込んでは消しを繰り返すだけの単純作業には反吐が出る。黒光りするキーボードに配置した両指は、鉛球を括りつけたように鈍かった。しかしディスプレイに表示された単語数はたったの一五三。最低でもあと八〇〇単語以上は書かねばならない。


 ――ああ、神は死んだ! 


 親指と人差し指で目頭を揉むと、 俺はデスクの縁を押して勢いよく立ち上がった。反動からキャスターチェアがフローリングの上を叫びつつ滑る。

 このままでは埒が明かない……そうだ、コーヒーでも淹れて休憩しよう。冷蔵庫の前まで足を運ぶと、俺はコーヒー粉の入った真空パックを取り出した。本当は飲む度ごとに豆を挽く方が良いのだが、手間をかける時間が惜しい。

 パックと電気ケトルを手に持つと、俺はフロアの共同キッチンへ赴いた。


 幸いなことと言えば、、ただそれだけだ。

 赤煉瓦を思わせるタイル張りの床には、割れたビール瓶やその中身がぶちまけられていたし、調理台は小麦粉や油で汚れていた。そのため個人用収納棚から器具一式を取り出す前に、湿らせたキッチンペーパーで台を軽く拭かねばならなかった。

 思わず口元の筋肉が引きつった。誰だ、こんなに汚したのは。そして何故汚しっぱなしに出来るんだ。曲がりなりにも共同スペースだぞ……。


「――はーあ、くそったれ」


 大胆に開け放たれた窓の外からは、通りを歩く子どもたちのお喋りが聞こえてくる。理不尽な清掃をさせられている俺をあざ笑うかのようだ。

 あの子どもたちと同じ年頃だった時の俺は、自分が将来なすべきことを考えていただろうか? 少なくとも、誰かが汚した共同スペースの掃除を毎回させられる羽目になるとは、考えもしていなかった……そろそろ管理人に文句を言うべきかもしれない。


 なんとか調理台を使えるようにした。これぐらいで及第点だろう。

 器具を一通りセットすると、湯の湧いた合図音おとがけたたましく鳴った。真空パックを開くと、若干酢えた臭いが鼻腔に絡まりつく。乱雑に分量を測り、投げつけるようにネルへと落とす。注がれる湯にも焦りが映った。

 粗悪な作り方からは、粗悪なコーヒーしかできない。――だから何だ。自分一人が飲むだけの刹那的娯楽に、高度なクオリティーは必要ない。ただこの瞬間に摂取できさえすれば良い。

 その感覚はきっと、この街中に氾濫している甘ったるい水煙草シーシャにも似ていた。 


******


 ――そのことに気づいたのは、滴り落ちる薄透明の液体がサーバーの三分の一ほどを満たした頃だった。愛用のマグを部屋に置き忘れたままなのだ。がしがしと頭を掻きながら、俺は自室へ戻ろうとキッチンのドアを開けた。

 そこではた、と俺は立ち止まらざるをえなかった。

 自室の前に、誰かが立っている。


「あー……何? 何か用?」


 話しかけた英語の端々に、少々刺があったことは認める。そいつは一瞬体を強張らせ、こちらへと顔を向けた。

 風が吹けば折れてしまいそうな体つきの、色の白いアジア人の青年だった。中華系だろうか。撫で肩で、ずいぶんと姿勢が悪い。少年とも呼べそうな、いたいけな印象を抱かせる面立ちをしている。


「―っ、ah......eh.......」


 その痩せぎすのアジア人は人差し指で頬を掻きつつ、意味をなさない音を発していた。分厚い眼鏡の奥に隠された両目は黒く潤んでおり、絶えず所在無さげに下を向いている。そんなにビクつかなくても良いだろうに。

 いや、それとも……。


「ドイツ語か英語、どっちか喋れる?」


 ドイツ語(German)という単語を口にした瞬間、青年は弾かれたように顔を上げ、「ぼく、ドイツ語(Deutsch)を、喋ります」と少し上ずった声でドイツ語を話した。低いとも高いとも言えない、神秘的な声だ。


「ぼく、僕の名前はカオルです。カオル・。お隣の二〇六に、引っ越してきました……あの、一昨日から。始めまして」


「カオル、ね。こちらこそ初めまして。俺はレネー、レネー・エッティンガー……どおりでここ最近、隣の部屋から物音がすると思っていたんだが、あんただったのか。あんた、出身は中国?」


「いいえ、日本からきました」


「そうか……この辺りは中国人が多いから、てっきり……」


「いいえ、よくあります、だから、気にしないでください」


 まだドイツ語の会話に慣れていないのか、カオルの話し方はやけにゆっくりで、丁寧だ。母音の強調も激しかった。

 だが、耳触りの良い染み入るような声音が、なんだか妙に心地好い。彼の声は、故郷の家々にそぼ降る明け方の霧雨を思わせた。


 そうだこれ と、カオルが手に持っていた小さなナイロン袋を、遠慮がちに差し出してきた。


「これ、ご挨拶に、と思いまして。日本のお菓子です。甘いものはお好き、ですか?」

 

「おお、ありがとう。甘いものはよく食べるんだ。中身は……チョコレートか」


「はい、日本の、抹茶味です。食べられますか?」


「勿論。マッチャもチョコも大好きだ」


「それは良かった」 


 三日月のように目を細めて、はにかむカオル。彼の、猫の毛のように柔らかそうな黒髪が、声に合わせて微かに揺れた。

 どうやら彼が部屋の前に立っていたのは、お近づきの品を渡したかったからのようだ。知らず知らずのうちに強張っていた両肩がほぐれていくのが分かる。

 カオルは目的の品を渡せて満足したのか、「それでは、僕、部屋に戻ります」と頭を下げた。


「ああ、何か困ったことがあったら、いつでも言ってくれて構わないからな」


「ありがとうございます。それでは、失礼します。」


 カオルが自室へ戻るのを見届けると、俺も部屋のドアを開けた。

 カオル・ウルー……不思議な響きの名前だ。少々頼りなさげな節はあるが、物静かで上品そうな青年だった。先学期までバスルームを汚してばかりだった元隣人に頭を抱えていたが、そんな問題とはおさらばできると考えて良いかもしれない。


 今学期は幸先が良い、と少しばかり胸の弾む思いでマグカップを手に取った。コーヒーは温くなっただろうか……しかし甘味と一緒なら飲めなくもないはずだ。

 ナイロン袋からチョコレートの包みを取り出そうとした、丁度その時。俺は別の紙も入っているのを見つけた。それは正方形のメモ用紙で、中に何かメッセージが書かれてあった。

 「お隣の方へ」という言葉で始まるメッセージは、次のようなものだった。


私は一昨日から隣の二〇六号室に越してきました、カオル・ウリューという者です。この度デュースブルク・エッセン大学の交換留学生として日本から参りました。本来ならば直接手渡すべきところでしたが、お部屋にいらっしゃらないようでしたので、こうしてドアノブにかける形となりました。どうぞご容赦頂ければ幸いです。こちらの袋には、お近づきのしるしにと思いまして、日本のお菓子をお入れしております。お口に合えばよろしいのですが。 

                     心を込めて カオル・ウリューより


「――いやいや、どこの貴族出身だよ」


 俺に会えなかった時のために用意されたであろうそのメッセージは、あまりにも完璧な……同年代相手には、いささか堅苦し過ぎるほど完璧な文法が用いられていた。しかもその文章は読みやすく、かつ流れるような筆記体によって書かれている。カリグラフィーの教科書に手本として載っているような字だ。ここまで丁寧で美しい文章の書ける同年代の若者を――ネイティブの人間でさえ今まで見たことがない。

 喋りのたどたどしさと、流暢な文章とのギャップが激し過ぎないか? ――誰にともなく、内心でそう問いかけてしまうほどには衝撃的だった。

 それはそうと、カオルの苗字はではなくだったのか……どちらにせよ、聞き慣れないことには変わりないが。

 暫くの間、俺はこの掌サイズのメモ用紙をしげしげと眺めてしまった。


 ――そして何の為に自室へ戻ったのかを思い出し、マグを片手に慌ててキッチンへ駆け込んだ時には、コーヒーは既に冷めていた。

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