一匹狼のユタ

莉菜

一匹狼のユタ

一匹狼のユタ

 一、

 ユタは一匹狼でした。家族も仲間も、何も知りません。広大な荒野の上に、ぽつんとたたずむ、高くてゴツゴツした黒い一本岩の上に棲んでいました。荒野は地平線の向こうまで広がって、終わりは見えませんでした。この荒野の上にはほとんど雨は降っていませんでした。おかげでいつもかんかん照りの太陽が照らし、雲一つありません。夜になれば昼間の熱は何処へやら、厳しい寒さに見舞われるのでした。この荒野には四季はなく、いつも夏のような冬のような、よくわからない気候なのでした。

 ユタの棲むほら穴は岩のてっぺんにありました。真っ黒な石でできたほら穴はユタを包むようにそびえていました。そして、高い、高い、岩の上から見渡す景色は、とても厳しく、寂しいものでした。木も草も花も何もない乾いた黄土色の地面がずっと続いていました。ユタの知る限り、この景色はずっと変わっていないようでした。

 それでもユタは生きていました。何も食べていない、水も飲んでいないのに不思議と、それらを欲することはありませんでした。その代わり、ユタは飢えも乾きも知りませんでした。ユタの心と肉体はいつも満たされていました。

 高い、高い岩の上で、ユタはポツンとしていました。岩に足をかけ、背筋をピンとはり、頭を上げ、目を細めて、いつも遠くを見ているようでした。

 ユタは、精悍で凛とした顔つきをした、大きい狼でした。いつでも口をキュッと結び、笑うことはありませんでした。でも全くもって無表情というわけではなく、たまに口角が上がったり口をとんがらせたりするのでした。ユタの体つきは筋肉質で、引き締まっていました。どこまでも駆け上がれそうなぐらい、足の筋肉がついていました。でも、威風堂々としているようで、どこか、その背中はちっぽけにも見えました。

 満月の晩には、ユタの漆黒の毛は、月の光を受けて、燦然と神々しく輝き、また、砂嵐が吹いた日には毛は輝きを失い、くすんだ灰色になります。風にそよぎ、もまれるその毛は、大地がうねり、踊っているようでした。

 ユタの目は不思議で妖しい輝きを帯びていました。深い青色の何もかも吸い込んでしまいそうなぐらい澄んだ目をしている時もあれば、ほんのりと黄色に輝いている時もありました。その美しい瞳はいつも湿っていて、宝石のようでした。


 時折、風は地平線の向こうの遠くの匂いを運んでくることがあります。他の匂いに邪魔されることなく荒野を這ってくるのです。人の匂いや獣の生臭い匂い、甘い果物の匂い、いろいろな気体が入り混じった、活気に満ちあふれた匂いが漂うとユタはしかめ面をして洞穴にこもります。自分の理解の外にある、得体のしれない暗闇に飲み込まれてしまうようで、もの恐ろしいのでしょう。そして自分の中に他の何かが入ってきて自分が自分ではなくなってしまうのが怖かったのです。

 きっと、ユタは怖かったのです。見知らぬ物に手を出して自分が未知の色に染まっていってしまうのが。地の果てへ行きたいと思ってしまうことが。


 この、欠けたもののない、循環のない、不変な世界にひびが入ることが。


 ユタの世界は、ずっと、この岩と、遥か微かに見える茶色の地平線、それに月と太陽だけでした。

 

 ユタは、本当の一匹狼でした。


  二、

 ユタは洞穴の入り口から差し込む日の出の光とともに目を開けます。日が出て、荒野が明るくなるのにつれてユタの目は薄い灰色から鮮やかな青色にゆっくり、ゆっくり変わっていきます。そして、のっそりと足を立てて、洞窟から出て、黄土色の荒野を見渡すのです。

 しかし、今日ユタを待っていたのはいつも通りの世界ではありませんでした。

 奇妙な匂い、鼻筋の奥をピリピリと刺激して、全身をそわ立たせる赤くて黄色い匂い。ユタの黒い毛はぞわぞわと逆立ち、目はその匂いを睨みつけました。目の色は一瞬で鮮やかな青色になりました。ユタは睨みつけたまま動きませんでした。四つの足で黒い岩を踏みしめて、動きませんでした。ユタの克己の表情はどんどん激しくなります。目の青色はどんどん輝きを増し、まぶたは力を増していきます。

 直立不動のユタは、右足を踏み出しました。そして、先の見えない、荒野の向こうの匂いの元に朗々としたよく響く声で長く吠えました。ユタの精悍さがますますまして、隆々の筋肉はますます輝きを放ちました。

 すると、ピタリとあの匂いは止みました。ユタは弱々しい鳴き声をあげて、どさりと岩の上に崩れ落ちました。

 太陽は崩れ落ちた黒い獣を照らしていました。

  *

 ラモサ村では十年に一回、「狼おくり」が開かれる。村の広場にはクシェの葉の焚き火がたかれ、もうもうと黄色の奇妙な匂いのする煙を上げている。その周りにはたくさんのカラフルな踊り子がいて、大太鼓の音に合わせて踊っている。

 踊り子の輪の中心のピカピカに磨かれた櫓の上にはサラという10歳ぐらいの女の子が伏し目がちに座っていた。

 彼女の周りには彼女の独特の世界が作られていた。長老を除いて何人も彼女を触れることができなかった。彼女の名前はサラといった。彼女だけの、特別な名前だ。

 彼女の元にまっしろで長い髭を伸ばしている長老が歩み寄り、代々受け継がれて渋い艶の出ている革の鞄を恭しく手渡した。村人たちはただそれを見つめていた。火も風も何もそれを邪魔しなかった。サラはカバンを受け取ると何も言わずに肩にかけた。長老は静かに息を吸って、歌い出した。


 光よ光 又の名をサラ

 決して触れられぬ 黒さに

 喜びの光を 慈しみの雨を

 荒野にまっすぐな花を

 光よ光 又の名をサラ

 進むのだ 救え我らを

 

 村人たちは広場の端から端まで並んで、村の出口への道を作った。そして金属のような高い音、大地のような低い音、一人一人がバラバラな、しかし調和のとれた音を出した。倍音が広場に満ちた。サラは口を結んだままその道を通って村を出て行った。サラが見えなくなるまで倍音はやまなかった。


 サラは知っていた。全てを知っていた。自らの未来もこの世界の未来も全てが見えていた。

 サラは何を救うのか、どうやって救うのか、このカバンはなんなのか。しかし、彼女は言葉を発せなかった。それどころか表情もなかった。生まれる前に知の神に意思を表現する能力を奪われてしまったのである。でもそれは彼女が「サラ」たる証であった。それに、サラは彼女の名前ではない。彼女は自分に別の名前があることを知っている。神から与えられた名だ。だれもそれを知ることはできない。サラができるのは、この神から与えられた試練をまっすぐに終えることだけだった。



   三、

 村から離れて荒野地帯にサラが足を踏み入れたのは夜だった。サラはすでに裸足の足から血が滲んでいたが、まったく足を休めなかった。今日は月明かりがあったが、いくら進んでも荒野の景色は変わらないから大して意味はなかった。荒野には風が吹き始めていた。冷たい風。太陽の冷淡さ、月の無力さ、そう行ったものが風を余計虚しいものにしていた。サラは進んだ。歩調は村を出た時と全く変わらず、機械のように単調に進んでいた。

 その時、始まった。狼の遠吠えが。

 サラには、黒い一本石の上で月に向かって遠吠えをしているユタが見えていた。それは彼女の目的地だった。遠吠えはサラに居場所を教えた。サラはさらに歩調を早めた。

 遠吠えは一定の間隔でずっと鳴り響いていた。大地や月や太陽の静けさをつんざき破ろうとするような、ただただ大きい遠吠えだった。

 さらに暗闇の中をサラが歩いてゆくと、月明かりの下に漆黒の一本石が見えた。途端、サラは走った。いや、使命に走らされた。サラが一歩踏み出すごとに彼女の体は発光して行った。光はどんどん強くなって、あたり一面をてらせるほどになった。そして、大地は彼女の足から溢れ出る血液を貪り吸った。


   *

 ユタは、光を感じて、遠吠えをやめました。遠くから近づいてくる見たこともない光に目を背けそうになりながら、一本石の上でしゃんと立っていようとしました。でも光が近づくにつれて、段々それが難しくなりました。まず、何かをどうしても食べたくなりました。腹が一気にどうしようもなく減ったのです。そして、あの光が欲しくて欲しくてしようがなくなりました。なぜ、という思考の入る余地もなく、ただ欲しさだけが全身を満たしました。ユタは光の中に、かつて嗅いだ、得体の知れない匂いが混ざっているのがわかりました。でも光が欲しくて欲しくて、もう怖いともなんとも思いませんでした。ユタは今や欲望と化していました。


 狼の眼光はまっすぐに近づいてくる光を射ていました。光はどんどん大きくなって、いまにも飛びつけそうなほどになりました。他のことなど何も考えず、狼は生まれてから今まで降りたことのない、全長の何倍もある一本石を蹴って宙に舞いました。


   *

 サラは一本石の麓にちょうどついたところだった。彼女は立ち止まった。神からの使命は達成され、彼女は使命から自由になった。彼女にはもう未来が見えていた。ユタが一本石から飛び降りるのも知っていた。実際にユタが一本石から飛び降りるのを見て、初めて彼女の目から涙がこぼれた。しかし、彼女は逃れることはできなかった。そこに立ち止まったまま、目をつぶったまま、ただ光っていた。


   *

 ユタは着地して、今にもさらに飛びかかろうとしましたが、できませんでした。しばらくして目を開けたサラは、ハッとした顔をして、一度瞬きをしてから、ユタの口に自分の口を重ねました。ユタは、体が満たされるのを感じました。ユタはゆっくりと欲望の塊ではなくなっていきました。同時に、大地が潤され、強く暖かな風が毛皮を撫でるのを感じました。



   *

 ユタとサラは並んで大地に座りました。


 サラはカバンの中からパンを取り出して、二つに分けて片方をユタに渡した。ユタはひと噛みひと噛みをゆっくりと行った。サラは自分がいきてパンを食べていることに驚きながら咀嚼していた。サラはパンを食べながら呟いた。

「あなたの名前はユタね。私の名前もユタなの。」

 ユタはサラの目が自分と同じ妖艶さを放っていることに気づいた。

「私の使命はあなたと一つになることだったの。だからその使命を達成した時、私はあなたに食べられてしまうと思ったの。」

「でもよかった。あなたが食べないでいてくれて。」

 ユタは頷くとそっとサラの血塗れの足を舐めた。

「ありがとう。でももう村に帰らなくちゃ。おばあさまが心配なさる。」

 ユタは静かにこっくりと頷いた。


 もう朝になっていた。サラは日の出とともに旅立った。


   四、

 ユタはまた一匹狼になりました。でももう一本石の上に上がることはできませんでした。何も知らない過去に戻ることはできませんでした。もう一人のユタが去った今、ユタの中にはぽっかりと穴が空いていました。穴を埋めるために何かを探さなければなりません。でもユタはそれがどこかにあると信じることができました。豊かになった大地を旅していけばいつか必ず出会えるという確信がありました。

 ユタは柔らかな毛皮を暖かな風になびかせて、一歩、足を踏み出しました。

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