一夜のキリトリセン

いいの すけこ

パステルピンクの境界線

「この線から入ってこないでよね!」

 昨日の夜、私が仁王立ちで宣言すると、弟の一弥かずやは大声で泣き出した。


「一弥のやつ、すぐ泣くんだから」

 私の手の中には、ぐちゃぐちゃに丸まったマスキングテープがある。


 昨夜、一弥と大喧嘩した。

 二歳年下の、小学二年生の一弥はすぐに泣く。ちょっと強く言っただけで……いや、昨日は言いながら頭をひっぱたいたけど。

 でも、それだって一弥が「境界線」を越えようとしたからだ。


 私と一弥は二人で一つの子供部屋だから、あいつに近寄って欲しくない!と思っても境目がない。

 なので、ベットとベットの間、部屋の真ん中のフローリング床にマスキングテープを貼って境界線にしたのだ。


 途端に……正しくは、頭を叩いたら一弥は泣き叫んだ。それを聞いて駆けつけたお母さんは、マスキングテープを容赦なく剥がす。

 お母さんは、自分のお腹の辺りにしがみついてぎゃあぎゃあ泣く一弥の頭を撫でた。


 悪いのは一弥なのに!と私は弟に何をされたか訴えた。お母さんは、「それはお姉ちゃんも怒るよ」とは言ってくれたものの、「でも、お姉ちゃんも悪い」と私のことも叱った。

 だってだってとお互いに主張をしたら、「いい加減にしなさい!」と雷を落とされた。ついでに、「これ以上喧嘩するなら、お父さんに言うからね!」の一言で、完全に黙らされる。


「一弥のばか。ばかばか、ばかずや」

 学校から帰ると、一弥は家にいなかった。遊びにいっているらしい。顔を合わせずに済んだことに、せいせいしながら子供部屋に直行する。

 ランドセルを置いた学習机の上に、昨日のぐちゃぐちゃマスキングテープが、転がったままになっていた。

「このマステだって気に入ってたのに」

 パステルカラーのピンク地に、星が散りばめられた可愛いデザイン。

 確かに使ったのは自分だけど、それもこれも一弥のせいだ。


 テープを無駄にしたのも、怒られたのも、みんなみんな一弥のせい!


「一弥なんかいらない!」


 ベットに飛び込んで、ふてくされながらぬいぐるみを抱き締める。もちもちしたアザラシのだきごこちに癒されていたら、そのままうとうととした眠気に誘われていった。



「なにをそんなに怒ってるの?」

 突然の声に、目を覚ます。

「あれ……?」

 私はまばたきを繰り返した。

 

 子供部屋にいたはずなのに、いつの間にか真っ暗な中にいた。

 恐怖は感じないけれど、あたり一面なにも見えなくて、自分がどこにいるのかわからない。

「ねえってば」

「わっ!」

 後ろから、息のかかる近さで声をかけられて、文字通り飛び上がる。

 振り返ると、女の子が一人。

「何怒ってるの?」

 女の子が首を傾げる。

 年は自分と同じくらいだろうか。結ばないままの長い髪。裾が長い、赤いマントみたいなものを巻いていた。

「ここ、どこ?」

「私の質問に答えるのが先。怒ってるでしょ?」

 女の子は思い切り顔を近づけて言う。私はどきりとしながらも答えた。

「えっと、弟と喧嘩したの」

「喧嘩」

「そう。ムカつくんだ、あいつ。だって一弥のやつ」

 言いながら、だんだんと腹が立ってきた。

 確かに、お母さんに言われた通り、私だって悪かったかもしれない。

 だけど、だけどそれでも。あまりにも。

「私の絵を破ったの」


 二人でお絵かきをして遊んでいた。

 私は漫画やお話のキャラクターを真似して描くのが大好きで、一弥は動物の絵を描くのが好きだった。私はお話の本を、一弥は図鑑を広げながら好きなように絵を描く。


 だけど、ちょっとしたことで言い合いになった。

 さっきまで仲良く絵を描いていたはずなのに、声を張り上げてお互い悪口を言い合って。

 涙目になりながら、一弥は私の手元から紙を取り上げた。

 そのまま真ん中から、私の描いた絵を真っ二つに破ってしまったのだ。


「ひどいね」

 女の子は優しく言ってくれた。

 思い出したら悔しくなって、鼻の奥がつんとしてきた。

「だから私、もう一弥とは話したくないの。近づいてくるのも嫌。だから境界線を引いたんだけど、そのマステもお母さんに剥がされちゃった」

「じゃあ、私が線を引いてあげる」

 女の子はにっこりと笑った。

「え?」

「見てて」

 女の子が手を振って空間を撫でるようにすると、撫でた部分だけ闇が晴れた。まるでスクリーンに映るように、私と一弥の部屋が浮かび上がる。

「ベッドとベッドの間でいい?」

 言いながら、女の子は部屋の景色に指先を当てた。指でなぞりながら、床に真っすぐ線を引く。 

「でーきたっ」

 満足げに笑う女の子。

 子供部屋の中には、昨日私がマスキングテープを貼ったところと同じ場所に、線が引かれていた。パステルカラーのピンクのライン。

「今度こそ、この線は消せないよ」

 その言葉を最後に、子供部屋の景色はかき消える。そのまま暗がりも、女の子の姿も、靄に包まれるように遠のいていった。



「お姉ちゃん?」

 一弥の声がして、目を覚ました。

 遊びから帰ってきたらしく、一弥が部屋に入ってきていた。ベッドからゆっくり体を起こすと、もう夕方になっていた。

「寝てたの?具合悪いの?」

「別に」

 頭がぼーっとして、こっちに来るな、という気力もなかった。

「え?!」

 突然、一弥が声をあげる。

「なに、変な声出して」

「え、だって。そっちにいけないよ」

 一弥が私のベッドに近づこうとする。けれど困った顔でおろおろとして、それ以上近づいてこない。

「なに、ふざけてるの一弥」

「ふざけてないもん、ほんとにそっちに行けないんだもん!」

 一弥の訴えに、私はベッドから降りることにした。足を下ろそうとして、床を見てぎくりとする。

「線が」

 それ以上は言葉にならない。

 

 あれは多分、夢。

 だけど、夢の中で出会った女の子が引いた線が、現実の子供部屋にも引かれていた。お気に入りのマスキングテープみたいなカラフルな線が、「境界線」になっていた。


 夜。

 布団にくるまりながら何が起きたのか考える。

 騒ぎ出した一弥の声に子供部屋にやってきたお母さんは、あっさりと境界線を越えることができた。線が見えてもいないみたいだった。なにを騒いでいるのかと首を傾げながら部屋を出て行った。


 昼寝をしてしまったから眠ることができない。

 それ以上に、なんだかとんでもないことが起きている気がして眠気がとんでしまっていた。

 境界線に、その向こうにいる一弥のベットに背を向けるように転がって朝を待つ。この奇妙な夜を越えることができますようにと、祈りながら。


「お姉ちゃん!!」


 急に、一弥の切羽詰まった声が聞こえて飛び起きた。

「あ、ああ」

 私はシーツを強く握る。

 

 境界線から向こう、床が崩れていた。

 私のベッドが置いてある部屋半分は無事のまま、一弥のベッドがあるもう半分の床が崩れてなくなりかけていた。底なしの暗闇にベッドが飲み込まれていく。


「おねえちゃああん!」

 一弥はまだ残った床にとどまっている学習机によじ登ってこらえていた。けれど床も残りわずかで、学習机ががくんと傾く。

「一弥!」

 私はベッドから身を乗り出した。


「いいじゃない、一弥なんかいらないんでしょう?」

 背後からの冷たい声に、私は勢いよく振り向いた。

「これでお別れだよ」

 昼寝で出会った女の子が立っていた。

 いや、浮いていた。

 まるで幽霊みたいにふわふわ浮きながら、楽しそうに言う。


「私も一弥はきらーい。だって、私を破ったんだもの」


 その言葉に凍り付いた。

 そうだ、あの女の子は。

 

 私が描いた女の子だ。


 長い髪に赤いマント。


「絵を破っちゃうなんてひどいものね」

 そうだ。

 一弥は私の描いた絵を破った。

 せっかく描いたのに、下手でも、一生懸命書いたのに。


 だけど。


「でも、私だって悪かったの!」

 私は叫んだ。

「私が最初に一弥の絵を馬鹿にしたんだもの!」


 あの時、私はライオンが描きたかったのだ。

 ライオンと子供たちが冒険する物語が好きで、女の子とライオンを一緒に描きたかった。

 だけど私は女の子しか描けなくて、動物はうまく描けなくて。

 まるで、テーブルみたいな不格好な体と、迫力のない顔の動物になってしまって、そのまま消しゴムで消してしまった。

 

 がっかりする私の隣で、一弥は立派なライオンを描き上げていた。

 すらすら描けていたわけじゃない。

 でも図鑑をじっくり眺めながら、丁寧に丁寧に描いていた。ライオンの足の不思議な曲がり方とか、草原を見渡す鋭い目とか。本当にかっこいいライオンだった。


「一弥のライオンを見たら、凄くうまくて。上手に描けるのが羨ましくて。悔しくって羨ましくって、それで、つい」


 ――一弥って、絵が下手だよね。動物しか描けないんだもん!


 負け惜しみのように言ってしまった。

 一弥は怒って、私の描いた絵を破いてしまった。


「絵を破かれて、すっごくムカついて。だから一弥なんて大嫌いって。でも、私が、私が先に」

「ごめんなさい、おねえちゃんごめんなさいいいい!」

 一弥が泣きながら叫ぶ。助けを求めるように謝った。

「ごめんね、ごめんね一弥!」


 ごめんね、でよかったのに。

 お母さんに怒られて、しぶしぶでも謝って、それでもまた一緒にお絵かきでもできれば、それでよかったのに。


「もう遅いけどね」

 冷たく女の子が言った。

 最後の床が崩れて、学習机ごと一弥の体が落下していく。


 私と一弥の叫び声が重なった、瞬間。


 闇の底から光が飛びだした。


 光の塊が一弥の体を受け止める。

 光は少しづつ形を作って、四つ足の動物になっていく。


「ライオン……」


 それは美しいライオンだった。

 金色の光を放って堂々と空中に立つ。


「邪魔な」


 女の子が顔を歪めた。ひどく悪い顔。

 けれどライオンは堂々としたまま、女の子に向かって一つ咆哮を上げた。


「仕方ないから、諦めてあげる」

 悔しそうに言うと、女の子は溶けるように消えて行った。途端に、部屋が元通りの姿を取り戻していく。

 最後に、平に戻った床から境界線が消えた。


「お姉ちゃん!!」

「一弥!」

 境界線のなくなった床に座り込んで、私たちは抱き合った。

 その隣で、光のライオンが笑う。動物が笑った顔をするなんてありえないのかもしれないけれど、確かにその金色の瞳が笑ったように見えた。

 

「ありがとう、助けてくれて」

「ライオンさんは、僕の描いたやつ?」

 一弥が問いかけると、答えもなくライオンは消えていった。

 いつもの、静かな夜が戻ってくる。


「なんだったのかなあ。でも、夢じゃないよね」

「夢なんかじゃないよ!」

 一弥は訴えるように言った。

 

 体の芯に残る恐怖は、確かに夢とは思えないし。

 あの美しいライオンも、夢ではないと素敵だなと思った。


「また一緒にお絵かきしようか、一弥」

「うん!」


 私は女の子と、私たち自身を。一弥はライオンを描いて。 

 不思議な一夜の出来事を、二人で絵にするのも悪くないな、と思った。

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