第3話 雨の日のアンブレラ
都会では 自殺する若者が増えている
今朝来た 新聞の片隅に書いていた
だけども 問題は今日の傘がない
いかなくちゃ
君に逢いに行かなくちゃ
雨はさほどでもなく、しかし、木々を揺らす風が吹き付けるそんな日のことでした。
土佐沖で台風三号が発生し、それに伴う雨風が関東に流れてきたその日のことでした。
書斎の窓から外を伺っていた私の耳元に、井上陽水の歌声がほのかに聞こえてきたのです。
登校する中学生たちが、透明のレインコートを着て、自転車に乗って歩道を進んでいきます。
その中に、レインコートのない少年がうつむき加減にして、雨の中を、こいでいきます。
傘ならともかく、レインコートでは、貸しようもないと、雨に濡れていく少年に心の中で励ましの言葉をかけます。
私も、そんな時があったのだと。
今のように、安くて、軽いレインコートなどありませんでした。
友人たちは色とりどりのレインコートに、これまた色とりどりの長靴をはいて、登校の列に加わります。
しかし、私には、レインコートはありませんでした。
親が買ってくれなかったのではないのです。私が、その蒸し暑そうなビニールかなにかでできたレインコートを着ることを拒んだのです。
だから、私は、いつも、雨の日、いつもの姿格好で登校の列に入っていたのです。
アンブレラをさして。
でも、あの自転車の中学生、学校のルールで傘さし運転は禁止ですから、結局、雨に濡れていくほかないのです。親が車で送ってくれないには何か事情があるのでしょう、傘をさして歩いていくには中学校は遠いのでしょう。
そんな事情を憶測しながら、私は彼を見送っていたのです。
中学生たちが過ぎ去ったその後、小学生たちの登校の列が見えました。
傘をさすもの、レインコートを着て、長靴を履くもの、そうでないもの、さまざまです。
一番最後に、傘もなく、レインコートも着ていない一人の男の子が、ちょっとグループから離れて歩いています。
いつもの子だって、相変わらずへそまがりだって、そんなことを思いながら、私は、その行列を窓辺から目で追っていたのです。
一人の女の子が、傘を差し出します。
男の子は、いいよって、言っているようです。きっと、ずっと、そのようなことをしながら、この二人は歩いてきたに違いありません。
女の子のそぶりでそれがわかります。
我が宅の前に来て、根負けしたのか、男の子は、そのアンブレラの下に入りました。
よかったと、私、安堵したのです。
だって、あれだけの子供たちがいて、誰も、傘のない子に傘をさしだす事もなく登校の列が続いていたら、それは怖い話だと思ったからです。
それはあまりに冷たすぎます。雨の冷たさに加え、人の心の冷たさに、ぞっとしてしまいます。
昔、竹ノ塚という街に暮らしていた時のことです。
取手の学校から仕事を終えて、戻ってきますと、雨が、それも土砂降りの雨が降ってきて、駅に着いた私たちはその雨の勢いに躊躇して、階上にある改札あたりで、雨が弱まるのを待たなくてはなりませんでした。
こんな雨は、おっつけ止むか、小降りになるからです。
そんな折、見ず知らずの方と、よく降りますねぇとか、いやはやすごい雨ですねぇと一言二言言葉を交わしたものでした。
それが礼儀であるかのように。
オッ、迎えがきました、失敬などと言って、そして、お気をつけてぇなどと言葉を返して、私たちは、別れていったものです。
だから、いつだったか、新聞で、最近の子供たちは、雨降る中、傘を相手にかざしてやらないとそんな文章を読んだ時に、愕然としたのです。
確かに、その通りだと、私も、学校の教師として、その事実を把握していたからです。
もっと、人間らしく、君たちやれよって、檄を飛ばしたことがありました。
それが今、子供たちの中にそうではない流れとしてあることに、私は安堵したのでした。
階上の改札口あたりは、雨宿りする帰宅客で溢れかえってしまいました。
おまけに、雨は一向に収まりそうもありません。
さて、そうとなればと、懐から文庫本を取り出し、私は、立ち読みと洒落込んだのです。
文庫本に目をやって、司馬遼太郎の歯切れのいい文章を読んでいますと、私の袖を引くものがいます。
まだ、小学生にもなっていない幼い娘たちです。
私用の大きな黒い傘を持って、レインコートを着て、お気に入りの長靴を履いて、迎えにきてくれたのです。
いつ帰るともしれない父親を迎えに、二人して、ニコッと微笑みを返して、傘を私に手渡すのです。
その時から、雨の日のアンブレラは、きっと、人の心を結びつける小道具ではないかって思っているんです。
雨の日のアンブレラ 中川 弘 @nkgwhiro
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