ep3
冬華の家へと向かう朝。不意にどこからかサイレンの音が微かに聞こえた。
曇り空を見上げれば、少し先で灰の雲よりも黒い雲が立ち上っている。
嫌な予感がする。
朝から走るのは運動不足の身には辛いが、そんな悠長な事は言ってられない。
焦燥感に後押しされるがまま走ると、警鐘が脳内で反芻する。
錆びたゲートの前に立つと、商店街の一角はいつもより賑わっていた。人々はいずれも一点の場所を見つめ、その先では黒い煙が立ち昇っている。
ああ最悪だ。あの場所は冬華の家じゃないか。
思考が回らなくなるが、身体は勝手に動いた。
人だかりに突っ込むと、誰かに進行を阻止させられる。
「おい危ないぞ! 消防車ももうすぐ来る!」
「離してください! たぶん中に人がいるんです!」
周りに冬華の姿は無かった。晴子さんの姿も無い。仕入れに行ったのか。あるいは冬華を救い出そうとしているのか。
しかしそうこう考えている間にも火の勢いはますます強くなる。このままでは本当に冬華が戻ってこなくなってしまう。
消防車なんて待っている余裕は無かった。
「こらっ!」
誰かの腕を振りほどくと、呼ばれるのを無視して煙の中へと身を投じる。
既に火は至る所に移っていた。火の粉を振り払い、できるだけ低姿勢を保ちながら階段まで突っ切る。
階段の下までたどり着いた。背後では乾いた衝突音。早く連れ戻さないと本格的にまずい。
段差を駆け登り、見慣れた扉の前に。
勢いよく開けばそこにはやはり冬華がいた。
「あ、先輩、そんなに急いでどうしたんですか?」
「冬華……!」
カーテンの閉まり切った、仄暗い八畳間の部屋には冬華が独りで佇んでいた。
かつてぱっちりして輝いていた瞳は、光が失われ虚ろだ。しかしその反面、口元には笑みを浮かべるという矛盾が並立している。
「しかし流石グマグ火山、尋常じゃない暑さですねぇ。ひょっとして息を切らしているのもそのせいなんですか先輩?」
霞んだ眼の冬華は明るいトーンで尋ねてくる。
ああ、この矛盾は僕が作ってしまったのだ。
後悔と罪悪感がとめどなく溢れ出し、立っているのも辛くなる。
転瞬、仄暗かった部屋の中に紅い光が走る。地面は岩肌へと変化し、周りには厳かな火山岩が出現し始める。前に目をやれば、冬華の瞳は輝きを取り戻していた。その背後では巨大な火山が煙を――
ああ駄目だ。違う、これじゃない。僕達がいていいのはこんな場所じゃない。
自らの親指を思い切り噛む。
凄まじい痛みと共に、岩々や火山は木っ端みじんに吹き飛んだ。
決めたはずだ。僕はもう逃げないと。
「冬華、この部屋から出よう」
冬華の細い腕をつかみ、引っ張るが冬華は動こうとしない。
「ちょっと先輩? 何言ってるんですか。出るってここは外ですよ? だいたい部屋って……」
「ここはグマグ火山じゃないんだ冬華」
肩に手を添え、まっすぐと冬華の眼を見る。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。ましてやファンタジーの世界でも無ければ竜もデュラハーンもいやしない」
「ほんとに先輩、どうかしましたか? ファンタジーってなんですか? 竜もデュラハーンもいたじゃないですか? まぁ、そのデュラハーンは勝手に先輩が」
「ここはね、冬華の部屋だよ。今冬華が見ているのは全部虚構に過ぎない」
「意味が、解りませんよ……」
冬華の視線が下に落ちる。肩越しから冬華の力が抜けるのが伝わって来た。
「僕たちは日本に住んでて、高校に入ってる学生。英雄でも無ければ呪術師でもない」
「違います」
「いいや、僕は間違ってない」
「違う……」
「あってる」
「違う。違う違う違う! 違う! 私たちは、私はッ!」
「現実を見るんだ冬華……っ」
添える手についつい力が入ってしまう。慌てて緩めるるも、冬華は腕をだらんとさせ、立ったまま動かなくなってしまう。
訪れるのは静寂。唯一聞こえるのは背後でバチバチと近づいてくる炎の音だけだった。
「……ください」
しばらくした時、不意に冬華が口を開く。しかし小さくて聞き取れなかった。
冬華もそれは理解したのか、再度口を開く。
「帰ってください……!」
はっきりと告げられるのは拒絶の言葉。
前もこんな感じだった。今みたいにここは現実だとしつこく説いた結果、そう言われてしまったのだ。
あの時の僕は死刑宣告でも受けた気分だった。三日間謝り倒してようやく入れてもらった時だ。この部屋で白昼夢を見たのは、その時が最初だ。
でも今は。
「帰らないよ」
言うが、冬華は淡々と告げる。
「帰って」
「帰らない」
それでも言い切ると、急激な力が僕にかかる。
「帰れッ!」
冬華が思い切り僕の肩を押したからだった。
急な出来事に倒れそうになるが、なんとか踏みとどまる。
「ごめん冬華。でも、僕は君を部屋から出すまで帰らないと決めたんだ」
「なんでッ!」
こちらに目を向ける冬華の眼は紅く燃え上がっていた。あるいは背後まで迫る炎が映っているだけなのかもしれない。
「なんで、か。そうだな……」
まだ僕は罪の意識から冬華を連れ戻しに来たというのだろうか。今一度考える。
いや、考えるまでも無くもう答えは決まっていた。僕という最低な人間を肯定してくれた時、全ての答えは自分の中で完全に決定されたのだ。
「冬華が好きだから。今度は空想じゃなくて、色々な現実の景色を君と見たい。そう思ったからだよ」
今更そんな事を言う資格が無いのは分かっている。分かってるけど、本当の事を伝えたかった。”いつもの”延長線では無く、まったく新しい先が見たい。
冬華がふらふらと数歩後ずさる。
「そんなの、無理ですよ……」
今冬華に火山は見えていない。直感的にそう思った。
「無理じゃないよ」
言うと、冬華がすがるような視線をこちらに向けてくる。
「無理です。無理ですよ……っ! 現実の世界なんて、苦しくて辛い事しかないんです! ここから一歩出ればもう地獄なんです! 私はそんなところに戻りたくない。これ以上あんなに辛い思いをするのは嫌ッ!」
黒い瞳の像が揺れ、頬に大量の涙が流れ落ちると、冬華はそれを覆い隠すかのようにまた俯いてしまった。
そりゃそうだよね。どんな事をされていたのかは分からないけど、きっとその中には死ぬよりも辛い事もあったんじゃないだろうか。それならいっそ空想の世界に 浸ったままでいたい。そうなるのはうなずける。
でも、生きて進んでいればきっと何かいい事がある。僕がそうだったように、冬華にもいつか訪れるはずなんだ。
だから少なくともその時までは。
「僕が冬華を守るから」
炎が空気の塊でも取り込んだか、激しく燃え滾るのを背後に感じる。
この言葉に偽りはない。冬華が学校にまた行くようになれば一年留まってでも傍に寄り添おう。勿論、嫌だと言われたらちゃんと退く。
バチバチと炎の燃える音に耳を傾けていると、冬華がゆっくりと口を開く。
「……信じられませんよ、そんなの」
今までの僕の立ち位置じゃ、そう言われるのも無理ないか。
ただ、これは僕の嘘偽りない本心だ。それだけは分かって欲しい。
「どうしたら、信じてもらえるかな」
聞くと、冬華がそうですね……と少し考える素振りを見せる。
やがて何か思いついたか、冬華はどこか上目がちに視線を合わせてくる。
「キス……とか」
キス、か。キスか……。
でもいや、僕は逃げないと決めたんだ。それは自分の思いからでも同じだ。
「分かった」
頷き、冬華の元へ歩み寄ると、僅かに冬華は頬を紅くして視線を泳がす。
「い、言っときますけど、私は呪術師です。一度キスをすればきっと一生解けない呪いにかかっちゃいますから、それは覚悟してください!」
一生解けない呪いか。それくらい幾らでも受ける。
まだ何か言いたげな冬華だったが、それ以上何も言わせないよう口を封じた。
八畳間の異世界 じんむ @syoumu111
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