ep2-3
僕はよく白昼夢を見る。例えば空を浮いているような感覚を体験したり、教室が急に見知らぬ砂漠になったり。
最初にこれを見た時は幼い頃。親に怒られた時だっただろうか。落ち込んでいたにも関わらず、突然の出来事にすごく興奮したのをよく覚えている。昔から空想が好きだった僕は、普通に過ごしていたら絶対に体験できない事を体験したのだと思うと胸がドキドキしたのだ。
だから週開けのこの日も、僕はてっきり白昼夢なのかなと思った。でもそれは紛う事なき現実だったのだ。
いつも昇る階段を上がっていけば部室がある。
日頃の運動不足が祟って軽く息を切らしつつ昇り切り、部室の前に立った。
鍵をあけ扉を開ければよく見知った部室が広がる――
しかし目の前に広がっていた光景は、すっかり荒れ果てた部室の姿だった。
ヒーターや椅子、本棚は倒され、当然、俯いた本棚からは本が乱雑に散らばり、くじ引き箱も大量の紙を吐き出していた。それだけにとどまらず机に積み重なっていた本も床にばらまかれ、中には破られたようなものもある。明らかに誰かに荒らされた後だった。
きっとこれは悪い夢だろう。そう考えると確かにこれは悪い夢のようだ。
だいたいよく思い返せば部室は元々雑多な所だったじゃないか。凝視していると、うん、確かにいつもと同じ部室。
だがそう見えたのは束の間、後ろから嬉々とした声がかかる。
「先輩、今日は遅れてきませんでしたよ!」
冬華だ。
同時に目の前の部室が現実のものへと回帰する。
ああ、やっぱりいつもと違った。
「え?」
冬華も部室の惨状にもすぐ気づいたらしく、動作が止まる。
「そんな……まさか……」
すっかり驚いた声を上げると、冬華は冷たい廊下にへたり込んでしまう。
その様子だけでこれが現実である事と同時に、誰が原因なのかは想像する事は容易かった。冬華は気付いていないみたいだが、廊下の角から誰かの押し殺した笑い声も聞こえている。
「あー、なんか猫でも入っちゃったのかな?」
直視してしまったものは仕方がない。
わざと適当な事を言い部室に入ろうとすると、冬華が突然立ち上がる。
「先輩、私」
冬華が廊下を走っていこうとするので、咄嗟に僕の手は冬華の腕をつかんでいた。
「先輩……」
「いいよ」
「でもっ!」
「いいんだっ」
思いがけず声を少し張り上げてしまった。ああもう、なんで僕はこうなんだ。
「いいよ。僕たちで片づければいい。先生への連絡はそれからにしよう」
つとめて穏やかに言葉を並べる。
「でもそれだと……」
「大丈夫。こうやって写真を撮れば証拠は残る。ね?」
スマホに部室の惨状を収めると、冬華に画面を見せ今度こそ部室に足を踏み入れる。
それでも冬華は不安なのか、なかなか部室に入ろうとしない。
「けっこう派手に暴れられたみたいだから、手伝ってくれると嬉しんだけど……っと」
本棚を元の位置に戻し冬華に声をかけるが、冬華は俯いたまま動こうとしない。
増援は諦めて自分の方でやるかと片づけに取り掛かろうとすると、冬華がおもむろに口を開いた。
「すみません……」
冬華には珍しくか細い声だった。
「私のせいで、こんな……」
「違うよ」
冬華の元へ歩み寄り、小刻みに震える肩に手を添える。
「冬華は何も悪くない。だから気にしないで、いつもみたいに笑っていてくれればいい」
言ってて、自分自身に反吐が出そうになる。一体どの面下げてこんな事を言っているのだろうか。だいたい笑っててくれればいいってなんだよ。そんなのはただの強要に過ぎない。僕はなんて最低な人間なんだろう。
「そう、ですよね……こんなの私らしくないですよね」
冬華がなんとかして言葉を紡ぎ出そうとしているのがひしひしと伝わる。
健気な姿に罪悪感を覚えていると、冬華の笑顔がこちらに向く。
しかしそれが満面の笑みに似せた儚い笑みだとすぐに悟った。でも僕は見て見ぬふりをする。
「それじゃ、ちゃっちゃとやっちゃおうか」
言って、本を拾い上げる。
黙々と部室の片づけをする事どれくらい経ったか、完全に元通りといかずともようやく活動できるくらいまでには片付いた。
時計を見れば六時を少し回っている。
「ふう、全部片づけっていうのも味気ないし、とりあえずいつものする?」
「あ、い、いいですね! やりましょう!」
突然言ったせいかどこか戸惑い気味だ。
とは言え同意は得たので、くじ引きの箱を本棚から下ろし、机に置く。
冬華はひきますよ~といつも以上に元気よく中をがさがさとする。
「これです!」
冬華が取り出した紙には『ファンタジー』と書かれていた。なるほどこれが来たか……。
「さ、やりま……」
冬華は言いかけるが、突然言葉を区切る。
僕はくじ引きから冬華の方へ向けると、刹那、頭が真っ白になる。
そのせいで冬華の頬を伝っている、一筋の雫が涙なのだと気づくのに数秒かかってしまった。
「冬華……?」
「あ、あれ……おかしいですね。一体どうしたんでしょう?」
自分でもその涙の意味が理解できていないらしく、どこか戸惑った様子だ。
でも僕は気付いていた。その涙の意味を。
「違います、それはいいんです……。ただ、こうやって、先輩と話して、楽しくて……そしたら……」
冬華の目から堰を切ったように涙があふれだす。
「あ、ああ……ううっ」
涙の底に沈みそうな冬華を、僕はただ見続ける事しかできなかった。
「すみません、私、今日は早く、帰ります。ごめんなさい……っ」
冬華はそそくさと荷物を肩にかけると、部室から出ていく。
まだ、引き留める事はできた。でも僕はしなかった。
これ以上冬華の悲しむ姿を見たくなかった、というのは建前だ。
ただ僕は罪の意識から逃れたかっただけ。
結論から言えば冬華はいじめを受けていたのだ。いつからかは分からないが、けっこう長い間だと思う。
だがそれを知ってもなお、僕はずっとここまで傍観してきたのだ。関わるのが怖いから。
彼女は実は追い詰められてるのだろう。そう気づきながら、黙って部室にいる明るい冬華だけを見ていた。現実から目を逸らしていた。
僕は好きな人からさえ逃げる、臆病で最低な人間なのだ。
茫然と、僕は開けっ放しなった部室の扉を見る。
冬華が学校に来なくなったのは、この日からだった。
部屋に閉じこもった冬華は、さもその場所にファンタジー世界が広がってるかのように振る舞うようになっていた。まるで”いつもの”をやっている時の様に口で物語が進むのだ。
初めて部屋を訪ねてから、僕は何度もそんな世界は無いと諭した。また冬華と一緒に部活を……いや、罪悪感から逃れるためだったのだろう。
でも、何度諭せど当然聞いてくれるはずもなく、それでもしつこく言ったある時には僕は激怒され、追い出された事もある。
それからも時々遠回しに聞いてみたりはしたが、聞いてくれたら幸い。それくらいの程度で実質諦めていた。
説得しても彼女を元に戻すことができない。
けどこれは全て僕のせいなのだ。
そう思い至った時、常日頃から僕の周りで起きている白昼夢が、あの部屋にふらりと現れたのだ。
冬華の空想と僕の白昼夢。この二つが交わり剣と魔法のファンタジー世界を創り上げた。あるいはそう錯覚しただけかもしれないけど、確かにあの扉の向こうには世界が広がっている。虚構の世界とは言え確かな一つの世界だ。
でもその世界はもう終わりだ。夢からはいつか覚めないといけない。
今度こそ僕はあの世界から冬華を連れ戻す。
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