第四章 海から見たら、ちっぽけなことなんだろう
翌日の朝、いつもと同じ時間に一真は魚を届けにきた。トレイを受けとりながら、一真のTシャツの絵柄を見る。水色の生地にサーフィンをする人間が描かれている。
「8月1日に、行くことにしたから」
トレイに並べられた光る魚に目をむけた。8月1日、あと十日あまりで行ってしまう。何か言いたかったけれど、自分の中に言葉がない。
身体を動かし続けた。料理、掃除、テーブルのセッティング。やるべきことはいくらでもある。
昼過ぎに上原のおばぁが姿を見せ、「店を閉めていただろう」と言い、奥の広いテーブル席まで杖をつきながら一歩ずつ進んだ。
「すみません、下の子が高熱を出して」
おばぁにも連絡すべきだったのだろうか。でも、どうやって。家の場所や電話番号も知らないのに。知っているのは名字とお金にうるさいという情報のみだ。
おばぁは座り、私をじっと見た。
「こどもはかまってほしいときに熱を出すさぁ。そういうときは一緒にいてやれぇ」
勝手に店を閉めるなと言われると思っていた。きっとおばぁにもこどもがいるんだ。5、6人いるのかもしれない。ということは結婚していて、昔はおばぁも恋愛していた、ということになる。
「早く水を持ってこい」
おばぁは手の平であっちに行けという仕草をした。
はいはい、と返事をして厨房に戻る。衣料品店のおばぁ、雑貨店のおばぁも大輔は大丈夫かと訊いてくれた。
グラスに冷やした浄水を入れる。次の月曜日には二人を休ませて市場へ連れて来よう。
本日のお客様は7人。それでも16時を過ぎ、まだ明日の分の仕込みが残っている。カウンター席に座理、一時間前にいれた紅茶の残りを飲む。ブラジリアン音楽、軽やかな女性の声が流れている。
9時間、座らずに働いて売り上げは一万と少し。仕入れの分、店の維持費、光熱費を引くと実質7000円あるかないか。口寂しくなり、パンを皿にのせた。頬杖をついて厨房を眺める。
お客が多い日もあれば少ない日もある。
アパートの家賃、光熱費。忘れてはいけない、食費。外食しなければ一ヶ月、3人で四万くらいか。二人の服や靴。沖縄は冬服の厚着を買わなくていいから助かる。フリーマーケットだってあるし。
お前が病気になったり、事故にあったりしたときはどうすんだ。
明の言う通りだ。このままでは保険にも入れない。
パンをちぎらずに口に入れ、よくかむ。ふわふわではなく、もちもちとした生地。バターやオリーブオイルをつけなくてもおいしい。このパンだって芽衣は夜中から仕込みをしていると言っていた。海生くんを寝かしつけて一人、車に乗り、昔は陶器の工房だったというオーブンがある工房へ行く。パンを練って発酵させて家へ戻る。次は海生くんを連れて焼き上げにいく。それでどれだけの売り上げがあるのだろう。海生くんを保育園に預けるまで店はできない、数を作れない、と話していた。でも芽衣には夫がいて生活の心配はしなくていい。
立ち上がってカウンターの内側に入る。皿を拭きながら棚に戻し、フォークやナイフをカラトリーにセットする。今ここで5人のグループ客が来たら。売り上げは倍近くになる。でも、片付けまで入れて2時間弱はかかる。お迎えには間に合わない。誰かに迎えに行ってもらう? 誰に? 雅子さんに頼めたら、夫や自分の両親がいたら……。
突然、入り口のドアが開き、赤ら顔のおじぃが店に入ってきた。
「そば、あるかぁ? ビールはぁ」
「おそばもビールもないです。うちはパンと魚のレストランです」
カウンターを出ておじぃの正面に立った。アルコールと煙草の匂いがする。三角屋根の下の机でゆんたくしているおじぃだろうか。
「そば、あるのかぁ?」
「だから、そばは、ないです」
外を見ると他のおじぃが三人、にやにやしながらこちらを見ていた。
「もう店を閉めますから」
入り口のドアを開け、押さえる。
「なんだ、店じまいか」
仕方ないな、と言いながらもおじぃは店から出ようとしない。首を伸ばして厨房を眺めている。
酔っぱらいは困ります、とはっきり言えばいいのだろうか。でも怒らせたら。おじぃといっても男性だ。
「コウジさん、どうしたのさぁ」
衣料品店のおばぁが空の皿が乗った盆を私に渡してきた。おじぃの肩をたたき、一緒に店を出ていく。
ありがとうございました、と条件反射で声が出た。ドアを閉めて鍵をかける。おじぃ達と衣料品店のおばぁが椅子に座って話している。おばぁが気づいてくれてよかった。それに、他の客がいなくてよかった。
おばぁが使った食器を洗う。でも、毎回、誰かが助けてくれるとは限らない。そこの席に座って珈琲を飲む一真もいなくなる。
皿を洗い終え、シンクの内側をこする。おじぃではなくて、もっと怖い人が来たら。一人ではなくて数人で来たら。新里さんは男で、私は女だ。女一人で店をやるならこんなことで動揺している場合じゃない。
新里さん、どうしてこの店を私に任せることにしたんですか。他にいなかったんですか。本当に、私ができると思ったんですか。
黒ずみはこするだけでは取れない。勢よく水を流し、スポンジでこすり続けた。
エンジンが唸りを上げている。80キロを越えると車体の揺れがひどくなるような気がする。いつも走る田舎道では60キロも出さない。南北に伸びる沖縄の高速道路は一本しかなく、ただ真直ぐ走ればいいのが救いだ。首都高速だったらとても運転できないと思いながら、80キロ以下で走っている車の後ろをついていく。
「春樹、窓を開けないで。高速道路だよ」
「でも暑いよ」
家を出てから一時間が経過している。こども達はただ座っているのに飽きてきたようで、窓の開閉スイッチを押したり上げたりしている。
「冷房を入れると車が壊れちゃいそうだから」
「大丈夫なの? 爆発するの?」
「不吉なことを言わないで。一センチくらいなら窓を開けていいから」
あと30分で高速から降りられる。そしたら辺野古まであと少しだ。新里さんはいるのだろうか。話せるだろうか。
「早くジュゴンに会いたいなぁ」大輔が言い、
「どんなところにいるの? どうしてこんなに遠いの?」春樹が身を乗りだした。
明の家へ遊びに行きたい、と騒ぐこども達に、今日は辺野古へ行くと宣言した。セレナの仲間のジュゴンに会えるかもよ、と伝えたら二人とも乗り気になった。
「ええと、辺野古っていう場所の、すごくきれいな海にジュゴンは住んでいるの。ジュゴンは一種類の海藻しか食べないって、セレナの絵本に書いてあったでしょう。その海藻が辺野古の海には多く生えているの。でも、ジュゴンが住んでいる海を壊そうと言う人がいて」
「なんでジュゴンの海を壊すの?」
「たくさん人が住んでいる町の真中に、アメリカ軍の基地があるから、それを辺野古に移したほうが安全になるって。辺野古のほうが人や家が少ないから」
「なんでアメリカの基地があるの? 日本のじゃなくて?」
「ええと、簡単に言ったら、前の戦争に負けたからアメリカの言うことを聞かないといけなくて、でも、日本がアメリカにいてくださいと頼んでもいて」
バックミラーに映る春樹は納得しかねる顔をしている。
「とにかく、お母さんは新里さんに会いたいの。ジュゴンも見たいけれど」
「なんでくまさんがジュゴンのところにいるの?」
「だから、それを聞きたいの」
中部を抜けて車の数は減り、道路脇は緑に囲まれ、民家やマンションは見えなくなった。窓の隙間から入る風も心なしか冷たい。
高速道路を降りて県道から側道へ入り、地図を頼りに駐車場を目指す。座り込みをしているキャンプシュワブのゲート前の近くにも車を停められるところがあるが、そこは地域住民の邪魔になるから停めないでほしいとネットの記事に書いてあった。
民家が続き、小さな公園があり、その横に辺野古第二駐車場の看板があった。プレハブが建ち、車が10台くらい停められているが人の気配はない。
ここ? 着いたの? と訊いてくるこども達に、たぶん、と返す。
右へむかう矢印にはゲート前(1km)、左へ向かう矢印には、辺野古漁港(300m)と書かれている。大輔を抱くことなったら1キロの距離はきついので漁港方面へむかう。
観光バスが私達を追い抜き、漁港へ入る手前で停まった。揃いの青いキャップを被った男の人達がぞろぞろとバスから降りてくる。二十代から五十代まで年齢層が広い。キャップを被っていない人が先頭に立ち、キャップの人達に話をしながら歩いていく。私達も集団の後をついて右に曲がったら、海が見えてきた。水色というより白に近い色の、浅瀬の海が広がっている。ミネイマンションから見える海よりも、糸満漁港の海よりもきれいだ。180度以上開けているからか、護岸のコンクリートがないからか。
「大きな船だよ、お母さん」
大輔が見ているのは漁船ではなく、海上に浮かんでいる大型の船だった。たぶん客船ではない。米軍のか、日本のか、ここからではわからない。
一段高くなっているところに白い集会用テントが張られていた。横断幕には『勝つ方法は、あきらめないこと』と書いてある。
テントの横の細い砂利道を通り、辺野古の海岸線に面しているテント前へ出た。青いキャップのグループが説明を受けている。こども達はコンクリートの階段を降りて砂浜へ走っていった。
「見学ですか?」
私の母くらいの年齢の女性が、パイプ椅子から立ち上がった。
「前から、来ようと思っていて」
新里さんがいないか、テントに座っている人の顔を確認していく。青いキャップの人達がテント内に掲示している資料について説明を受けている。
「署名を書いていただけますか? これは現沖縄県知事を応援する署名、こっちは宜野湾市と沖縄市が自衛隊へ、住民台帳から自衛官適齢者の名簿を作成して提出していたことに反対する署名です」
それぞれの名簿についている説明文に目を通した。
「本人の了解もなく個人情報を抜き出して名簿を作るなんて役所はできないはずですが。個人情報保護法に抵触しないのですか?」
「詳しいのね」
女性が微笑んだ。横に並ぶと、私より20センチくらい背が低い。
「以前、東京の市役所で働いていたんです」
「宜野湾市と沖縄市は保護法より自衛隊法のほうを優先しているの。他市は名簿提出を断っているのだけれど。お子さん?」
春樹は砂浜を歩き、時々屈んで貝を拾っているようだ。大輔は島ぞうりを脱ぎ、足首まで海に浸かっている。
「こども達を戦争に行かせたくないわよね」
はい、と署名用紙に住所、名前を書く。
「私は篠田真理子。暖かいところで暮らしたくて滋賀県から移住してもう10年よ。滋賀にいる頃はノンポリだったのに、8年前に辺野古のことを偶然に知って、それからずっとここ。でも、早く解放されたいのよね」
彼女はアウトドアブランドのTシャツにパンツという洒落た服装をし、話し方も気さくだ。こういうところにいる人はA棟のボスのような押しの強い人が多いのかと思っていた。
「辺野古について説明しましょうか。どれくらい時間があるの?」
「お話を聞きたいのですがこどももいるし、あと、人を探しに来ていて」
説明が終わったのか、青いキャップのグループの円が解かれ、ぞろぞろとテントから出ていった。
「お母さーん」
大輔が叫びながら、こちらへ走ってくる。
「お母さーん、くまさーん」
くまさん? 大輔が見ているのはテントの端だ。そこに、顔中髭に覆われた新里さんがいた。
「新里さん」
目があい、次の瞬間、新里さんはテントから走り出た。
「待って。ちょっと待ってください」
振りむかずに新里さんは一目散に逃げていく。
「お母さーん、抱っこしてぇ」
大輔が砂浜で転んだ。春樹は大輔を助けるべきか、私の方へ来るべきか迷っている。新里さんを追いかけたい。けれど、こども達を置いていくわけにはいかない。
「新里さん、ちょっと」
もう、新里さんの影も形も見えなかった。どうして、なんで逃げるのか。
「お母さん、くまさんがいたの?」春樹の膝から下は砂だらけだ。「くまさんはどこへ行ったの?」
「わからない」
「どうして行っちゃったの?」
「たぶん、お母さんに会いたくなかったのかも」
「なんで?」
私は肩をすくめ、早く抱っこしてぇ、と大声で叫んでいる大輔の元へ走った。
篠田さんから温かい珈琲の入った紙コップを受けとる。こども達は飴をもらい、パイプ椅子に座って機嫌よく舐めている。
「恩納村にある珈琲屋さんが差し入れをしてくれているの。おいしいわよ。この珈琲を楽しみにテントに来てくれる人もいるくらい」
ブイヤベースのよりも薄目だが飲みやすい。焙煎した珈琲の、甘い香りがする。
「新里くんとはどういう?」
篠田さんは柔らかな笑みを浮かべていた。ええと、恋人ではなく、この子達は彼のこどもというわけではなく、私はただの客で……、どの順番で話せばいいのか。
「彼はね、ここが地元なの。彼が産まれた場所は」
篠田さんはテントに張ってある辺野古湾の地図を指差した。
「国はここからここまで埋め立てをして、軍船が入れる港を作りたいの。オスプレイや軍用機が発着できる大型空母が入港できるような港は沖縄にはなくて、一番近いのは佐世保港なのね。ここに辺野古弾薬庫があるでしょう。もし辺野古が軍港になったらどうなるかわかるわよね」
「一番に、狙われるということですか?」
「これ以上、米軍の専有基地を沖縄に作るべき正当な理由はないわ」
オスプレイのことを幼稚園で聞いたよ、狙われるってどういうこと? 横で春樹が尋ねてくる。その都度、篠田さんに待ってもらい、私はなるべくわかりやすく説明した。
「新里くんはね、テントや駐車場にあるプレハブに寝泊まりして24時間、動きがないか見張ってくれている。座り込みに参加したり、ボートに乗ったり。地元の若い人が来てくれて私達も助かっているのよ。辺野古は国からお金を引き出すためにプロが反対運動をしているんだとよく言われるから」
「そう聞いたことがあります」
篠田さんは微笑み、辺野古の海岸線へ目をむけた。
「新里くんは産まれ育ったここの海が好きなのよ。軍港になったら、安心して住めなくなるから」
「全く知りませんでした。自衛隊への名簿提出も」
数枚のちらしが渡された。沖縄全島集会と書かれたもの、手書きのちらしのタイトルは『NO BASE』で、No.874、辺野古テント村発行(篠田真理子)とあり、日付の横には辺野古で起こったこと、辺野古に関わる県や政府の動きについて書かれている。
「毎日、書いているんですか?」
「私も8年前は知らなかったの。今はみんなに知ってほしい。ちゃんと知った上で選挙に行ってほしいの」
「お母さん、ジュゴンはいるって? あ、ニモの写真だ。ニモもいるの?」
篠田さんは屈み、春樹と視線を合わせた。
「ここにはね、日本にいるクマノミ類6種が全ているのよ。ニモのお城っていわれているの。ジュゴンもいるし、大型の珊瑚も残っているの」
「ジュゴンを見に来たんだよね、お母さん」
「県道を北上したら、途中にジュゴンの見える丘があるわよ。運が良ければそこからジュゴンが見えるわ」
行こう行こう、と騒ぐこども達を促してテントから出た。
「あの、勝つ方法はあきらめないことって書いてあるのを見ました。新里さんに最後までがんばってと伝えてください」
「何があったか知らないけれど、逃げることはないのにね」
テントの裏まで送ってくれた篠田さんは、苦笑いを浮かべていた。
車に戻り、エンジンをかける。キャンプシュワブ前の座り込みに参加するかどうか、迷っていた。こども達は今すぐにジュゴンを見に行きたいだろう。一方的な価値観をこどもに押しつけるのはよくない、と雅子さんは言っていた。でも、それらは言い訳なのかもしれない。デモには一度参加したが、予想していたよりやりがいはあったが、それでも積極的にしたいことではない。
徐行してください、と書かれた看板通りに時速10キロでキャンプシュワブのゲート前を通過した。ゲートの前には、ぱりっとした制服を着た警備員が十名程立っている。彼らにむかって、おじぃやおばぁが三線を弾きながら歌っていた。彼らの周りに座っている人達も年配の方が多い。手拍子を取ったり、隣りの人と談笑したりしている。
「楽しそう。あの人達は何をしているの?」
春樹は大輔を乗り越えてゲート前の様子を見ている。
「説明するからちゃんと座って。シートベルトはしているでしょうね」
「しているし」
「しているよ、でしょ。ええと、歌っているおじぃ達はジュゴンがいる海を守ろうと言っていて、怖い顔して立っている人達は何か起きないようにしているの」
「何かって何? 闘い?」
バックミラーに、興味津々といった顔をしている春樹が映っている。
「闘いが起こらないように、というか」
「なんでアメリカの人達はいないの?」
それは、と口ごもった。
「ジュゴンが見える丘への曲がり道はわかりづらいって言っていたから、二人ともちゃんと見ていて」
はーい、と二人は返事をして左右の窓の外へ顔をむけた。
好きなこと、やりたいことだけやればいい。
一真はそう言った。座り込みをしている人達はどうなのだろう。春樹の言う通り、彼らの表情や雰囲気は悪くなかった。彼らのやりたいことをしているのかもしれない。むしろ警備員の人達のほうが怖い表情をしていた。そして、アメリカの人達はあの場にいない。
「お母さん、ジュゴンの絵」
大輔が言い、私は小さな看板がさす矢印の通りに右折する。舗装されていない道路、狭い上り坂が続いている。篠田さんは早く解放されたいと言っていた。新里さんは地元の海を守るために私にブイヤベースを任せた。一真もそこに加わる。
「ここであっているの?」
車が揺れ、春樹は不安そうな顔をしている。
「篠田さんは工事現場みたいなところって言っていたから、あっているよ。鉄塔の下に車を停めるんだって。曲がってから結構進んだよね。北海道だったら熊が出そうな感じだね」
「熊がいるの?」
「沖縄に熊はいないよ。草叢にハブはいるだろうけれど」
木の枝なのか、伸びた雑草なのか、尖った葉が道路に覆いかぶさるように伸びていて薄暗い。スモールライトを付けて進む。
鉄塔の下に一台か二台、車を停められるスペースがあり、県道沿いにあったのと同じような、ジュゴンと矢印が描かれた看板を見つけた。
車を停め、私が真中になって三人で手をつないで歩く。最初のうちは土が見えていたが、少し進むと雑草がはびこり、獣道だ。
「草叢にはハブがいるんでしょ。もう帰ろうよ」
春樹が立ち止まる。
「音を出していれば大丈夫だって。ジュゴンを見たいんでしょう」
ジュゴン、ジュゴン、と大輔が言い、私の手を引張る。
「三人で手を叩きながら行こうか」
必死で手を叩きながら、春樹が後ろをついてくる。
道は狭くなり、草は生い茂る。大輔はずんずん進んで行くが、帰りの道のりを考え、私も引き返したくなってきた。しかし、ここで私が帰りたいと言えば春樹はもう歩かなくなるだろうし、大輔はジュゴンが見たいと泣くだろう。まだ? を繰り返す春樹に、もうちょっと、と答えながら手を叩く。
雑草は減り、両脇が開けて遠くに海が見えた。手を叩かなくてもよくなったが、今度は柵などない、大人が二人すれ違えるかどうかの細い道。こども達が足を滑らせないように気をつけなければいけない。
「夜には来られないね」
つい口に出したら、なんでなんで? と春樹が訊いてきた。うまい言い訳を考えていると、突然、大輔が走り出した。
「大ちゃん、待って。走らないで」
春樹と共に叫び、走っていってしまう人を見るのは本日二度目だ、と思いながら追いかける。
行き止まりで追いつき、大輔と手をつないだ。そこは円形の広場のように開けていた。右手、前方、左手、来た道以外、崖の下は全て海だ。
「遠足に来ていたら、ここでお弁当だね」
私の言葉に二人とも反応しなかった。
ジュゴンは? と大輔は突端へ進んでいく。篠田さんにもらった地図と見比べながら、辺野古湾が見渡せるところに立った。
「あそこがさっきいたテントだから、いるとしたらあの辺かな」
「大ちゃん、もっとこっちへ来て。どうせジュゴンは見えないよ」
春樹がしきりに大輔を崖から離そうとしている。
「いたら見えると思うよ。あの岩に登って休んだりするんじゃない?」
「お母さん、ちゃんと大ちゃんを掴んでいて」
大輔は草の上に座り、私と春樹も腰をおろした。
「でも大ちゃん、ジュゴンが見えるのはたまになの。今日は見えないかもしれないよ」
大輔の腰に手を回しながら伝えたが、大輔は無言で首を振った。私は春樹に肩をすくめて見せた。
崖の下に広がる、穏やかで美しい海。テントから見たら大きかった船も、ここからだと手の平より小さく、おもちゃの船のように見える。人間同士の争いなんか、海から見たら、ちっぽけなことなんだろう。空から見たら。宇宙から見たら。小さい小さい、もっと小さい私達。でも大輔の身体は温かいし、春樹の手は汗ばんでいる。大ちゃん、もう帰ろうよ。春樹が言い、大輔は答えない。そうだよね、軍港よりジュゴンやニモがいいよね。弾薬庫もいらないし、それを言ったら原子力発電所もいらない。
「お母さん、あっちの海はどうして青がこゆいの?」
春樹は沖の方を見ている。
「あそこまでは珊瑚があって、こゆい方は海が深くなっていて」
「ジュゴンだぁ」
大輔が立ち上がり、崖ぎりぎりまで走った。落ちるよぉ、と春樹が高い声をあげ、私は慌てて大輔のTシャツを掴む。
「大ちゃん、何か見えたの?」
「白い大きなお魚さんが泳いでいた」
「どこ?」
あっち、と辺野古湾よりも手前の海を大輔は指差した。
「大きかった?」
うん、と大輔はえくぼを見せた。
「お母さんも見たかったなぁ」
大輔の手を引いて、少しずつ後ろへ下がる。早く帰ろう早く帰ろう、と呪文のように春樹はつぶやいていた。
もう歩けないと途中で言いだした大輔をおんぶして車まで戻った。大輔の身体が反るたびに、大ちゃん、と声をかけた。眠ってしまったら余計に重くなるし、この細い道で背中からずり落ちるのも怖い。春樹は手を叩きながら、行きの二倍の速度で先頭を歩いている。
無事に車まで辿り着き、二人をチャイルドシートに乗せてキーを回す。弱々しい蒸気機関車のような音が響いた。慌ててキーを戻し、もう一度回した。今度は音がしない。再びキーを回したとき、バッテリーランプが点灯しているのに気づいた。室内灯は点いていない。スモールライトだ。点けっ放しになっている。
「出発しないの? お母さん」シートベルトをしたまま、春樹が身を乗りだした。「どうしたの? 車が壊れちゃったの?」
春樹の声に大輔も目を開いた。
バックミラーに他の車は映っていない。私達がここにいた一時間強、一台も来ていない。
鞄から携帯を出す。JAFの番号を出してコールボタンを押すがツーツーという機械音が響いている。圏外だ。
「また電話が通じないの?」
春樹が言った、また、とはいつのことを指すのだろう。そんなことを考えている場合ではないのに、目の前の問題とは関係ないことを頭が考えたがっている。今まで携帯がつながらなかったこと。地震のとき。春樹は近くにいなかった。台風のとき、ブイヤベースに新里さんがいなかったとき……。
「お母さん、しっこしたい」
大輔がシートベルトを外した。
「どっかその辺でしてきて。春樹、ついていって」
「やだ。ハブがいるかもしれないんだから、お母さんが行って」
私はため息より強く息を吐き、車から降りた。
大輔はずぼんを下ろして腰を草むらに突き出した。しっこが放出される音を聞きながら、またやってしまったなぁ、と現実にむきあう。県道から右折したときに携帯が通じるのかを確認すべきだった。普段だったらドアを開けたときの警告音でライトが点いているのに気づくのに、今日はどうして気づかなかったのか。ジュゴンジュゴンと騒ぐ大輔にかまけていたからか。いや、大輔のせいにしてはいけない。
頬に水滴が当たった。大輔のがまさか、と顔をあげる。フロントガラスに雨粒が落ちていた。泣きっ面に蜂とはまさにこのことだと思いながら、大輔と車に乗り込んだ。
「どうするの、どうするの、お母さん」
春樹の声を流し、選択肢は、と頭を巡らせる。車内で雨を避け、他の車が来るのを待つ。いや、このまま車は来ないかもしれない。なら、二人をここに置いて携帯が繋がるところまで私だけ走っていく。春樹の心配性を考えたら無理だろう。それなら、傘をさして三人で県道まで歩くしかない。どれくらい距離があっただろう。車で5分。こどもの足で歩いて一時間くらいだろうか。もしかしたら途中で他の車に出会うかもしれないし。
「ここにこのままいてもしょうがないから、歩こう」
ええーっ、と春樹が言った。
「じゃ、お母さんだけ走って携帯が通じるところまで行ってきてもいい?」
「僕と大ちゃんで待っているの? ハブが出たらどうするの?」
「車の中にいれば安全だよ」
「変な人が来たら?」
「誰も来ないと思うけれど。人がいたらむしろ助かるし」
涙目の春樹が一番先に車から降りた。
強い雨ではない。春樹にこども用の傘を持たせ、自分のは、と考える。眠い大輔はすぐに抱っこになるだろう。そしたら傘は邪魔になる。雨が強くならないことを祈りつつ、進むしかない。
予想通り、大輔は十歩しか歩かなかった。大輔をおんぶして舗装されていない道路を下っていく。
「大ちゃんばっかりいんちき」
春樹は後ろで文句を言っている。
「ぶつぶつ言うなら車で待っていればよかったのに」
だってぇ、と言った途端に春樹は足を滑らせて尻餅をついた。私は大輔をおんぶしたまま、後方に飛んでいった春樹の傘を拾い、春樹へ渡した。春樹は何も言わず、私の手から奪うように傘を取った。確実に、かちっと頭で音がした。
「なに、その取り方。お母さんは大ちゃんをおんぶしているんだよ。さっきから文句ばかりだし」
開いている傘をささずに春樹は俯いている。霧雨のような雨が春樹の柔らかな髪、服を濡らしていく。いけない。これではいつもの悪いパターンだ。謝らなければ。でも、春樹が……。
悪い状況のときこそ、人間性がでるんだよ
自信満々の一真の顔が浮かび、唇をかむ。
春樹がすすり泣きを始めた。
ちーむどんどん、ちむどんどん
息を吐き、ちーむどんどん、とつぶやいた。春樹が不思議そうな顔で私を見る。
「ちーむどんどんちむどんどん。車が停まった、ちむどんどん。みんなで歩くよ、ちむどんどん。大輔寝ている、ちむどんどん」
調子が出てくる。
「春樹、お母さんの言い方が悪かった。ごめんね。強く言わないって言ったのにごめんね。ごめんねごめんね、ちむどんどん」
おんぶしたまま屈み、春樹と目をあわせる。
「春樹のおかげでお母さんは本当に助かっている。これで春樹が大ちゃんみたいに抱っこ、おんぶってなったらお母さんは何もできなくなるから。ありがとう。帰ったらおでこをたっぷりやってあげるから、今は歩いてほしい」
「おでこ、たくさんやってくれる?」
いつ帰れるかは定かではないけれど、と心でつぶやきながら、大きくうなずいて見せる。
「歌でも歌いながら楽しく歩こうか?」
なんの歌? と弱々しい声で春樹が聞いてくる。
「ちーむどんどん、ちむどんどん」
「知らないからやだ」
「知らないに決まっているじゃん。お母さんが作ったんだもん。なら、雨、雨、降れ降れ、母さんがー」
「それも知らない」
「そっか、雨が強く降っても困るしね。やっぱり『さんぽ』かな。歩こう、歩こう、私は元気、歩くの大好き、どんどん行こう、ちむどんどん」
途中から春樹の声が重なった。私よりも正確に歌詞を覚えているようだ。腰と太ももに大輔の重さを感じつつ、携帯を開く。まだ圏外だ。徐々に雨は大粒になってきている。どれくらい歩けばいいのだろう。車は動くようになるだろうか。動いたらこども達に何か食べさせて、高速を運転して帰る。この時間だったら下道のほうがいいだろうか。
「……探検しよう、林の奥まで、友達たくさん、うれし、い、な。僕、ちょっとだけ楽しくなってきた」
「よかった。もう一回歌おうか?」
二人で歌を口ずさみながら歩く。春樹、毎回ごめんね。一真さん、フラァ過ぎて自分でも呆れるよ。
一真の足に白と茶の太った猫がじゃれている。彼が魚を持っているのを知っているのだろう。
「俺も脱兎のごとく新ちゃんが逃げていくのを見たかったさぁ」
「一生忘れないと思う。三人で濡れながら歩いたことも。大輔は全然歩かず、ずっとおんぶしていたけれど」
一真は鼻で笑い、「これが最後の魚」とトレイを差しだした。彼の言葉に、言葉以上の感情は入っていないように感じた。No music,No lifeという船と同じ字が書かれている一真のTシャツ。この店はNo fish,No Bouillabaisse(ブイヤベース)だ。いや、No Kazuma,No……。
「聞いている?」
「ごめん、聞いていなかった」
目があい、先に一真が逸らして店の中を覗いた。
「明日、見送りはいいから。泣かれるの嫌だし」
「わかってる。日曜日はこどもと遊ぶ日だから」
「最後まで、負けず嫌いは、おさまらず。五、七、五だな」
「変な俳句」
「魚は市場で買うのか?」
「まだわからない。店のことも」
一真は小さくうなずき、じゃ、な、と背をむけた。簡単過ぎる。これが最後でいいのだろうか。
「一真さん」
「別れの挨拶はいいからさぁ」
「ちょっと待って」
「余計なことを言って、爽やかな別れのシーンを台無しにするなよ」
一真が身体ごと向き直る。茶と白の太った猫が一真の足の間を行ったり来たりしている。一真は屈んで猫の背をなぜた。
「最後だから、ご飯を食べていくのはどう?」
「その言い方よぉ。食べていってほしいならそう言えば?」
私は息を吸った。
「渾身の魚料理を作る。珈琲もじっくりといれる。最後だし。だから、18時くらいに来て」
猫を抱きながら、一真は声をだして笑った。
「お前、毎回、渾身の魚料理を作れよ。客を選ぶな」
「そういう意味じゃないんだけれど」
「わかってる。楽しみにしてる」
一真は猫を離し、ぱんぱんと手をはらった。
「Tシャツに短パンでいいから。正装してこないでね」
「当たり前じゃん。じゃんはやっぱりいいじゃん」
じゃんじゃかじゃん、と歌いながら彼は帰っていった。
法則通りに店は混んだ。15時を過ぎて一息つき、春樹と大輔の迎えを雅子さんに頼んだ。雅子さんは二つ返事で引き受けてくれた。デート? と訊かれ、常連さんの予約が入ったから、と嘘にはならない理由を伝えた。
一真は18時ちょうどに来た。藍染めののTシャツに短パン、島ぞうりだった。
「なんだなんだ。土曜日なのに誰も客がいないのか?」
わざとらしく言い、いつものベンチシートに座った。
「なに食べる?」
「なんでもいいよ。珈琲とケーキは紗里ちゃんの奢り?」
「一応、餞別がわりに今日はご馳走しようと思っていたけれど」
「嘘だよ。ちゃんとディナー料金をとっていいから。こどもだって預けたんだろ」
うなずき、少々お待ちくださいと笑顔をつくる。ブイヤベースにしようと決めていた。パイ包み焼きのほうが自信はあるけれど、今日はブイヤベースだ。音楽は台風の夜にも流していた、女性ボーカルのジャズにした。外は夕暮れが始まったばかりだけれど、一日が終わってしまう時間帯にはジャズがぴったりだ。
サラダに島人参のドレッシングをかけ、山盛りにしたパンと一緒にテーブルに運んだ。ピルスナータイプの地ビールもつけた。照明を落とし、入り口のドアと窓を開ける。市場は昼間以上に人がいなかった。もしかしたら半径30メートル以内にいるのは私と彼だけかもしれない。特別な、今しかない時間だ。
「のんびりしていないで料理をしろよ」
「小説にね、美しい景色を見たあとに料理をするとおいしくなるって書いてあったから」
「さびれた市場でも?」
「いいじゃん。さびれているのがいいんでしょう」
「出た、負けず嫌い。そうこなくちゃ」
一真はおいしそうにビールを飲み、すぐに一本開けてしまった。
朝にとったスープを温め、下拵えしておいたアオダイとイラブチャー、シーラを入れる。蓋をして軽く煮込み、貝、タコ、イカを足す。魚とトマトの香ばしい匂いが店内に漂う。
好きな人のために、好きな空間で料理を作っている。
家に帰れば可愛いこども達がいる。
明の家族も近くに住んでいる。
家のベランダから、店の近く、どこへ行っても美しい海を見ることができる。
他に、何かいるだろうか。たとえ彼のために料理をするのが最後だとしても、今は充分に満ち足りている。
「こっちに来いよ。やることないんだろう。陰から見てないでさぁ」
「食後の珈琲やケーキの準備をしなきゃいけないし」
「堅苦しいのは今日はいいさぁ。他に誰もいないんだから」
「そうだけど」
腰に巻いていたエプロンを外してカウンター席に座った。
「こういうときは横に来るだろう。照れるにもほどがあるさぁ。こどもを二人も産んでいるくせに」
「かちんと来た。それとこれとは話が別だと思う」
「かちんとって今時、言わないんじゃん」
「わかったけれど、まずはブイヤベースを食べて。渾身の作だから」
にやにや笑いながら一真はスープをすくった。フォークに持ち替えて魚を食べる。パンを口に入れてビールを飲む。
「うまいよ。紗里ちゃんの味がする」
「嬉しいような、嬉しくないような」
私は一真の隣りの席に座った。
「いいさぁ。何を作っても、紗里ちゃんの料理は紗里ちゃんの味がする。同じレシピでも新ちゃんとは全然違う。だからいいんだろ」
一真は薄い橙色のスープをすくい、「食べてみれば?」とスプーンを差しだした。彼と目をあわせ、口を開ける。深い海の味、トマトの味。混ざり合い、こくがある。
「すごくすごくおいしいだろ?」
からかうような言い方だった。
「夕陽色というより、海に映る朝焼けの色、かな」
「なんでもいいけど、うまいだろ」
「私が作ったんだけれど。それだと一真さんが作ったような感じがする」
「だから俺の魚だって。本当、負けず嫌いなんだから」
彼がブイヤベースために捕った魚、ダルマおばぁや森谷さんの野菜。味わい深い芽衣のパン。店を貸してくれている上原のおばぁ。ブイヤベースを見守ってくれている市場の人達。自分を支えてくれる明達。いろんな人の想いがこのスープに入っている。
「混ざり合うとおいしくなるんだね」
「フィーリングさぁ。あんまり真面目に考えるなって」
一真はスープ、パン、ビールと順に食べていく。横で彼が食べるのを見るのは初めてだ。私が料理したものが、彼の身体に入っていく。腐った材料を使っているかもしれない。毒が入っているかもしれない。だけど、そんなことは微塵も考えずに彼は次々と食べていく。
「食べづらいから、そんな見つめんなよ。紗里ちゃんが俺のことを好きなのはわかったから」
「そんなこと一言も言ってないし」
「女のそういうのはわかるんだって」
「一真さんのお姉さんってどこにいるの?」
「島。俺が生まれたところ。こどもがごろごろいる。俺は、とっくに、おじさんだ。お、なんかラップみたいじゃん? 俺は、とっくに、おじさんだ」
彼は歌いながら皿に残ったスープをパンにふくませて食べた。
「ああ、うまかった。まじで。ごちそうさま」
「ねえ、一真さん」
「なんだよ」
至近距離に彼の顔があった。台風の日の夜と同じだ。
「こんな開けっぴろげなところでべたべたできないぞ」
「そうじゃなくて」
「なんだよって」
「私も一真さんみたいに生きたい。でも、できない。なんでかな」
彼は息を吐いて笑った。
「そんなの知るかよ。面倒な話はいいから、店員さん、そろそろ食後の珈琲とケーキを持ってきて」
「一真さんって」
「なんだよ」
「なんでもない。珈琲、お持ちします」
皿を重ね、カウンターの中に入ろうとしたとき、
「やろうと思うか、じゃないの。なんでも」
一真が言った。いつもの自信満々な笑みを浮かべている。
最後だ、きっと。
まぶたの近くに涙の膜がかかった。意識をむけないようにして珈琲豆を挽く。チョコレートにも似た甘い香りを吸い込み、おいしく珈琲をいれることだけを考える。人がいれた味。思いをこめて。ティーアンダー。彼はきっとこどものように無邪気な顔をして喜ぶ。味わうと言いつつ、すぐに飲み干してしまう。船に乗った。海へ投げられ、服が身体にまとわりついた。台風の日には本気で怒鳴られた。大輔が病気になったときのお刺身。こんなふうに思いだしたくない。別れではなく、今、一緒にいるから楽しい。それだけでいいのに。
一緒に珈琲を飲んで、紅芋モンブランを食べているときには、自分が何を話しているのかよくわからなかった。
今日こそニコニコバイバイをしなくてはいけない。泣いても好きな人を困らせるだけだから。三歳の大輔だってできたんだから、できないはずがない。
一真が席を立つ。
「元気でな」
うなずき、不自然にならない程度に距離をとった。
「新里さんによろしく伝えてね。ありがとうって」
「出た。ありがとう」
「なに? 出た、って」
「こどもに言わせていたさぁ。無理やり」
「無理やりというか、お礼を言ったり、謝ったりするのは大事なことでしょう」
「ま、ほどほどにな」
彼は笑った。心から楽しんでいるように見えた。
「じゃあ、俺も。紗里ちゃん、ありがとうな」
「なにがありがとう、なの?」
目だけで笑ってみせる。
「今までの珈琲と今日の料理さぁ。じゃあな」
彼は背をむけ、片手をあげた。私はすぐに身を翻した。市場を去って行く彼の後ろ姿を記憶に残したくなかい。
空の珈琲カップとケーキ皿がテーブルに残っている。目を閉じる。音楽が耳に入ってくる。
I'm going to get you.I'm going to get you.I'm going to get you out of my head.Get out.
出て行って。私の頭から。
そんな、あまりのタイミングだ。笑えばいいのか、泣くべきなのか、わからなかった。
真夜中に目を覚ました。考えるのは止めようと思うけれど、一真のことが浮かび、寝つけない。一日中、しかも今日は夜まで店に立っていたのだから疲れているはずなのに。右側にいる春樹は私の枕を抱えて眠っている。左側にいる大輔は布団から外れ、わずかな畳のスペースへ転がっている。
水でも飲もうか。でも、身体を起こせない。
コンクリートの地面にボールをつくときのような音、くぐもった音が海からの風に乗って低く響いている。仰向けのまま、聞くともなく聞いていた。等間隔に響いている。この音を子守唄がわりにしたら眠れるかもしれない。
ワイヤーが勢いよく引張られ、同じ速さでそれが戻った。エンジンが唸りをあげ、船が走りだす。転びそうになり、鉄柱につかまったときのことを思いだした。
彼女と一緒にいて、話していて楽しかったです。自分に正直で、最後の瞬間まで俺のことを想ってくれていました。
台風の夜。あのとき、頭に浮かんでいた人は一真だった。私は、正直に想いを伝えたのだろうか。
勢よく布団を蹴とばした。隣りで春樹がびくっと身体を震わせる。
電気を点けてコンタクトを入れる。パジャマだとまずいと思い、服が入っているクリアケースの引き出しをひいた。
車をアパートの階段の下に寄せ、大輔を抱きかかえて乗せた。起きる気配はない。
部屋に戻り、パジャマ姿の春樹を抱き上げた。抱きついてくる気配がない。私は背をそらして20キロをゆうに越える体重を身体で受けとめて歩いた。片手で鍵をかける。重い。無理だ。春樹は全てを私に任せている。今だけじゃなく、常に、どんな時でも。
やめよう。行ってもどうにもならない。三人で眠ってしまえば新しい朝がくる。彼のいない日々が始まる。
春樹が目を開け、ぼんやりとした顔を左右にゆっくりと動かした。
「どうしたの? お外?」
笑みを返した。もう玄関の外にいるのだから。大輔は車で眠っているのだから。
「お出かけしようか」
春樹は口を半開きにしている。目の焦点が合っていない。
春樹を抱き直し、速足で階段を降りた。腕が限界だ。後部座席のドアを開けて春樹を放り投げるようにシートに座らせた。
「どこ行くの? もう帰ってこないの?」
春樹のシートベルトの金具を差し込む。
「大丈夫。明るくなったら帰ってくるから」
「本当?」
「お母さんだけ出かけて、起きたらお母さんが側にいない方が嫌でしょう」
春樹はゆっくりとうなずいた。
「暗いから眠っていていいよ。ごめんね、起こして」
運転席に座ってエンジンをかける。午前4時。やっぱり止めようか。こんなことをして何になるだろう。春樹の心配性を助長させるだけだ。しかも会えないかもしれないのに。
デージフラァだな
一真の声が聞こえてくる。
ハンドブレーキをおろし、アクセルを踏んだ。
デージフラァだから、いいか。
バックミラーに映る大輔は眠り、春樹は暗い窓の外を見ている。春樹にとってはあの時と同じだ。パジャマで家から連れ出された夜。それ以降、四人で住んでいた家に戻ることはなかった。こんなお母さんで春樹もたいへんだ。思い立ったら後先を考えないで動き、こどもをふりまわす。明のところに産まれたらこんなことはなかったのに。広い家、雅子さんが作ってくれる手の込んだおいしいご飯、安心に満ちた場所。全然、違う。
黄や赤の信号が点滅している。すれ違う車の数も極端に少ない。窓から入ってくる空気が澄んでいて、深夜ではなく早朝だとわかる。後ろの座席から春樹の規則的な寝息がきこえてきた。
警官がいない交番。均等に植えられたパンジーが信号の光に照らされている。わかりづらいロータリー。だけど、もう迷うことはない。コンビニの駐車場を徐行しながら進み、港まで車で入っていった。
まだ、あった。
白い船に、no music,no lifeの文字。
船の横に車を停め、ライトが点いていないことを確認してから車を降り、船に近寄る。船は呼吸をしていない。ゆるく波に合わせて浮かんでいるだけだ。
一真はいない。そうだよね、と声にだし、空の最も明るいところを眺めた。グレーに、朱色をほんの少し混ぜたような空だ。
ここまで来たんだから、と車の窓から手を伸ばし、鞄に入っている携帯を取った。車から離れて電話をかけたらワンコールで繋がった。
「なんだよ」
今までで一番、不機嫌そうな声だ。
「起きていた?」
「どっから?」
「船のすぐ側」
「こどもは?」
「車で寝ている」
むこう側で、彼は短く息を吐いた。
「デージフラァだな」
電話が切られた。急に、空が明るくなったような気がした。
自転車に乗っているおじぃが一段高くなっている歩道をゆっくりと通っていく。荷台に釣り竿とクーラーボックスが乗っている。
車が通り過ぎる。
近づいてくる赤く光る二つの目、と思ったら猫だった。その猫に誘導されるたかのように、一真が現れた。大股で脚を交互に早く動かしているから、ロボットのように見える。
「なんで笑ってんだよ」
「面白い歩き方だなと思って」
乗ろう、と紙袋を持った一真は躊躇なく船へ飛んだ。車内の二人はよく眠っているようだ。窓が開いているから起きたら声が聞こえるだろう。
彼はこちらへ手を出していた。その手をつかみ、飛び乗る。
彼は舳先へは行かずに途中で止まり、船体に背をつけた。
これ、と紙袋を渡された。中には赤、青、白のTシャツが一枚ずつ入っている。
「いっつもさぁ、じろじろ俺のTシャツ見てたから。欲しかったんだろ。わざわざ段ボール開けて持ってきた」
「ありがとう。びっくりした」
口元が緩み、空気が軽くなる。
「見送り? そんなに俺が好きだった?」
一真は私から視線を外し、薄暗い青色の海を見た。彼の後ろに車が見える。こども達が見えるように、ここに立ってくれたんだ。
「一真さん。私も、一真さんと行く。こどもも連れて」
長い睫毛のある一真の目が閉じられ、再び開けられた。
「いつ?」
「すぐ、かな」
「行ってどうすんの?」
「一真さん達の近くにいて、できることをする。どこかのレストランで雇ってもらったり」
「また俺から魚を買って?」
私はうなずき、できたら、と言った。簡単に未来が浮かぶ。一真が客席にいる。カウンターの内側にエプロンをつけて私は立っている。窓の外には沖縄らしい赤瓦の屋根が続いている。白い砂浜、ここよりも澄んだ透明の海、流れる風。
そっか、と一真は軽く笑った。
「本気かと思った。そんなわけはないよな」
笑みを浮かべる。
「会いたかったの。もう一度ここで。会ってどうするとか、こどもへの影響とか、全部なくしたら」
彼は独特の、彼にしかできない笑い方をした。
「毎日、少しでもいいから会いたい。話したい。電話じゃなくて、メールじゃなくて。だからいつでもここに戻ってきてもいいし、会いにきてもいいよ」
「その言い方さぁ。負けず嫌いにも程があるんじゃん」
「じゃんは、すっかり一真さんの口癖になっているね」
「キスぐらい、する?」
一真の言葉が耳に入り、理解したときには唇がふれていた。両肩に一真の手があった。このまま身体を前に出せば彼は海に落ちる。想像したら口の端が上がり、キスが深いものになった。
視線を感じ、目だけを左の方へ動かす。春樹が車から降りて立っている。
あっと思ったときには、一真が海へ落ちていた。
「まじで? なんで落とすわけ? 今いいところだったさぁ」
一真は立ち泳ぎをしながら、右手をだしてきた。
「待って。脱ぐから。実は水着を着てきたの。引張って私も海に落とすつもりでしょう」
「入りたいなら自分で飛び込めって」
暗い海、陽に焼けた彼の顔、彼の白い歯だけがくっきりとしていた。出会ってから一番だ。一番、素敵な笑顔だ。
服を脱ぎ、足から藍色の海へ飛び込んだ。しぶきが一真にかかり、冷たい水が身体をとりまいた。前髪をかきあげたとき彼の手が腰にふれた。
全てがここにあった。あのときのように、一瞬で新しい自分になった。
ミラーの中の大輔は同じ体勢で眠り続けている。
「お母さん、どうしてウミンチュの人とキスしていたの? 夜中に泳いでいたの?」
この質問に答えるのは三度目だ。前の車についてロータリーを回る。
「一真さんが遠いところへ行ってしまうから、さよならの挨拶。春樹だって学童から帰るときに先生とするでしょう」
「でも、手を叩くだけだよ。キスしないよ。海にも入らないし」
「一真さんはウミンチュだから、特別な儀式があるの」
「ふーん」
納得していない春樹の声。今日は絶対に明の家へは行けないと思いながらアクセルを踏んだ。
魚市場、通称アンマー市場に魚店は四店舗入っている。店舗といっても働いている人は一店舗一人ずつが基本だ。衣料品店のおばぁは、アンマー市場の店同士は仲が悪いから気をつけるようにと言っていた。気をつけるとは、何をだろう。毎回、同じ店に頼んだほうがいいのか、それともどの店からも均等に買ったほうがいいのか。
「あれぇ、めずらしいねぇ。家用ね?」
アンマー市場へ一歩入ったら、正面の店のおばぁが声をかけてきた。この前、春樹や大輔と来たときに袋ごとお菓子をくれたおばぁだ。しけり気味のバニラウエハースの味がよみがえる。
「お店で使う魚を探しているの。ここにあるより種類がほしくて。頼めば仕入れてきてくれるかな」
髪を短くしているおばぁは数回うなずき、「たかにい、なんか言ってるよぉ」と奥で包丁を握っている男性の方を振り返った。若く、一真より一回り体のサイズが大きい彼が、なんすか? と言った。魚の血で汚れた白のビニールのエプロンに黒の長靴を履いている。魚の種類と数、値段を書いた紙を彼に見せた。一真から買っていたときより種類と量を増やしたものだ。
「これぐらいでお願いしたいんです。明日から」
「毎日?」
彼は紙から顔を上げ、向かいの店をちらっと見た。肉づきのいいおばぁが三白眼でこちらを見ている。A棟のボスと姉妹のような鋭い目だ。
「毎日、とりあえず今週の土曜日までお願いしたいんです。九時には取りにきたいんですが」
「いいっすよ」
彼は作業台へ戻った。
おばぁは二人組の女性の接客をしていた。慣れた手つきでマグロの刺身を業務用ラップでくるみ、釣りと一緒にさんぴん茶の缶を渡している。
「なんくるないさぁ、てぇげぇぐわぁね」
私にむけて言い、さんぴん茶の缶をくれた。前に一真も同じことを言っていた。業務用冷蔵庫の上には『大城鮮魚店』と看板がかかっている。重要おばぁリストに、大城鮮魚店のおばぁも加わる気がする、と思いながら店へ戻った。
料理を出したら次のお客が来て、出し終わったら次、というようにお客が来た。こういう日は一気にお客が来る日よりも疲労感が強い。客足が途切れ、やっと座れると思った15時過ぎ、みち子さんと与那嶺さんが姿を見せた。
「ご一緒に? 初めてですね」
「大城一真がさ。引っ越しの挨拶に来て、来てというより奢らされたんだけど、ブイヤベースに新メニューがあるから食べに行ってくださいと言うから」
「私はカズにホームセンターで偶然会ったの。金曜日に与那嶺さんが行くと聞いたから、ご一緒させてもらうことにしたってわけ。新メニューってなあに?」
「パイ包み焼きです。魚と野菜の旨味がパイの中で凝縮されておいしいですよ」
二人ともパイ包み焼きを注文してくれた。
厨房に入り、皿を並べる。新里さんのこと、上原のおばぁのこと、今回と、一真は陰で動くタイプだったんだ。冷蔵庫を開け、ありがとうとつぶやく。今頃、新里さんと何をしているのだろう。行政と喧嘩、座り込み、二人並んで釣り糸を垂らしている可能性もある。魚との闘いだ、とかなんとか言って笑いながら。
料理を出して、カウンターの内側で洗い物をしていた。ナイフでパイを切って口に運ぶ与那嶺さんと魚にトマトソースを絡めているみち子さん。斜めの位置に座った二人は食べては話し、笑い声をたて、また料理を口に運んでいる。私も加わりたい。このパイはここがおいしい、この魚は、と一緒に話をしたい。
ミルで二人分の豆を挽き、ハンドドリップで食後の珈琲をおとし始めた。
「いい匂い。珈琲の香りは特別よね。今日はどこの?」
「マチュピチュの豆です」
「楽しみね。このお料理、とてもおいしいわよ。気にいったわ」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです」
「僕は、正直にいうと、新里くんが作ったブイヤベースが恋しいなぁ」
「与那嶺さん、ブイヤベースも日々進化しておいしくなっています。ぜひまたいらっしゃって食べてみてください」
与那嶺さんが次に来るのはいつだろう。そのときに店はあるのだろうか。自分はここにいるのだろうか。
温めるためにカップに入れておいた湯をシンクに流す。今なら、新里さんの気持ちがわかる。なかなか閉められないんだ。一人でも喜ぶお客様がいたら。
二人に珈琲を運び、マンゴーのブランマンジェをみち子さんの前に置いた。
「美しいでしょう。ケーキとソースのあしらい方」
「僕は、甘いのはちょっと」
「新里くんが紗里ちゃんに店を任したくなる気持ち、わかる気がする。ちゃんとやってくれそうだもの」
「いや、彼の去り方はよくなかったよ。まだまだ彼も若いなぁ」
与那嶺さんは珈琲を飲み、うまい、と言った。
「みち子さん、この店に私のこどもがいたら落ち着けないですか? 二日とか三日間、休んだら来なくなってしまうこともありますよね?」
みち子さんはスプーンを皿に置き、私の顔を見つめた。
「紗里ちゃんのこども? 騒々しくなかったらいいんじゃない? 雰囲気は多少はかわるかもしれないけれど、紗里ちゃんのお店だし。おばぁとかは逆に喜ぶかもね。あと、店まで来てやっていないのはがっかりするから、リアルタイムで情報を流せばいいんじゃない。休みが多いとお客は減るかもしれないけれど、でもおいしい店は潰れないわよ」
みち子さんはにっこりと笑った。私が20年早く産まれていたら、今の笑顔で恋に落ちていただろう。
「昔から商売はあきないというからね。良い店は続けてほしいもんだ。それ、一口ちょうだい」
みち子さんはケーキ皿を与那嶺さんの方へ動かした。与那嶺さんは右側、左側からブランマンジェを見て、ティースプーンに半分くらいのせた。口に運び、目を閉じ、数度うなずいた。
あの、お、おいしかったです
女の子の顔が浮かんだ。
ありがとう、ごちそうさま、おいしかった。
今までたくさんの人が言ってくれた。
「与那嶺さん、私、この店を続けたいです。お二人にも、他のお客様にも、もっと来てもらいたです」
二人は同時に顔を上げた。
「私にできることってありますか? 市場を残すために」
与那嶺さんはコーヒーカップを持ち、一口飲んでソーサーに戻した。
「通り会をまとめることだよ。何十年もできてないけどね。あと、君は表に立たないで、できるだけ地元の人が役所と交渉するようにしたほうがいい」
「さっきこどもがって言っていたのに、そんな時間はあるの?」
みち子さんはケーキ皿を自分の方へ引き寄せた。
「彼女もこの市場を好きになったんだよ。年月を経ることで魅力を増していくものがあるからねぇ。僕も新たな気持ちでがんばるよ」
与那嶺さんが右手を出してきた。私はエプロンで手を拭いてから両手でその手を握り返した。
二人が帰り、一人になる。音量を大きくして洗い物をする。
I'm going to get you.I'm going to get you.I'm going to get you out of my head.Get out.
あなたを忘れるわ、私の頭から出ていって。言葉とは裏腹の愛情がこもった歌詞を口ずさむ。
声を消すように外で強い雨の音がし始めた。空が黒い雲に覆われている。さっきまで赤い実やコンクリートに強い陽射しが注がれていたのに。まるで熱帯地方のスコールのような雨だ。
あの女の子、茜さん、また来てほしい。一口ずつ大切に食べて、一生懸命お礼を伝えようとしてくれた。あのときはまだ、一真もカウンターに座っていて、店内が温かくなった。
きっと洗い物が終わった頃に雨は止み、嘘のように晴れるだろう。虹が出るかもしれない。そしたら、漁港の海を見てから帰ろう。釣っても釣れなくてもどちらでもいい空気を吸いに。
雨音を、音楽のように聴きながらグラスを洗った。
網戸が引かれた玄関の向こうから、こども達の声が聞こえてくる。
「春くん、そこはバナナ。こっちがりんご」
優美の指示に、はーい、と春樹が返事をする。こども達は色とりどりのチョークで道路に絵を描いている。
またここだ、と思いながら大きな机にむかって座っていた。キッチンの前に雅子さんが、私の斜め前に明が座っている。
雅子さんがグラスに赤茶色のルイボスティーをいれた。
「この茶葉はアフリカで有機栽培されているもので、カフェインが含まれていないからこどもでも飲めるし、抗酸化作用があって現地では薬草としても使われているの」
「飲みやすいな」明が言い、
「森谷さんの紹介で購入したのよ」雅子さんは私に視線を送った。
グラスの表面は濡れ、雅子さんが手作りしたコースターは色が変わっている。お茶を一口飲む。言うなら今だ。もう一口、お茶を飲んだら話そう。下の高台にできた豪邸は著名な芸能人のものらしいと二人は話している。明の機嫌は悪くないようだ。私は息を吸った。
「明兄、あのね。私、ブイヤベースのレストランをやりたいの。ちゃんと」
雅子さんが明の顔を確認するように見て、先に口を開いた。
「ちゃんとって? いつまで?」
「いつまでとかではなくて。自分の店としてやりたいの」
「市場はいつまであるかわからなくて、公務員試験は今年しか受けられないんだよ。紗里ちゃん、わかってる?」
雅子、と明が話を止めた。
「明兄、ごめんなさい。本当に」
「ブイヤベースの関係者で、誰かいい人がいるの?」
雅子さんは眉間を寄せている。私は水滴のついたグラスを見ながらゆっくりと首を振った。
「本当に? あの漁師さんは?」
「もういない。彼も辺野古に行ったの。店の関係者はおばぁ達しかいない」
みんなの顔が浮かんだ。杖をついて店の外を気にする上原のおばぁ。飴を手に持ち、こどもにさわりたがる雑貨店のおばぁ。服に囲まれて韓国ドラマを見るのが好きな白塗りおばぁ。ダルマおばぁと菓子売りのおばぁ。他にも市場で働くおばぁ達、おじぃもたくさんいる。
「漁師と結婚するために、金かけて大学までいったわけじゃないことくらい、紗里にもわかっているだろ」
「そんな言い方」
「今年の試験は受けないんだな」
明が低い声をだした。正面のグラスにむけてうなずく。
「どうしてそういう結論になったんだ」
明が声に優しさを混ぜているのがわかった。涙が浮かぶ。まだ何も言っていないのに。
「お店を、あの市場にあるブイヤベースのレストランをこのままやっていきたいの。ただ、それだけ」
明が大きくため息をついた。どれだけ失望したか、その息が語っている気がした。
「紗里ちゃん、今は初めたばかりで楽しい気持ちはわかるけれど、それが毎日、毎年のことになるんだよ。お客が来ないことだってあるだろうし。稼げなかったらどうやって暮らしていくの? ボーナスだってないんだよ。何の保証もないし」
「それも考えた。でもやりたい。それだけじゃ、だめなのかな」
「だから、だめとかじゃなくて」
「雅子は少し黙ってろ」
明は席を立ち、冷蔵庫からビール瓶を出した。
「まだ朝の十時だけど」
雅子さんは栓抜きを明に渡した。明は無言で受け取って栓を開けた。
「紗里、おどおどした話し方をやめて普通に話せよ。苛つく」
「普通に話してる」
明が瓶を持った。グラスが近くにない。雅子さんが弾かれたように立ち、棚からビールグラスを取って机の上に置いた。
「じゃあ、泣くなよ。泣いたら余計に腹が立つ」
「泣こうと思って泣いてるんじゃない。前から言っているじゃん。止められないんだって」
バッグからハンカチを取って目を押さえる。なんでこうなるんだろう。泣かないで話したかったのに。悪いことをしているわけでもないのに。何歳になっても自分は全然成長しない。
「よく考えろよ。お前が決めた道が一番、頭が悪い。先が見えてない」
「仕方ないじゃん。これが私だよ。私だってわかってる。明兄みたいに暮らせたらどんなにいいだろうって思う。でもできないんだから、私はあの子達と三人で暮らしていくしかないんだから」
ハンカチで目を押さえた。見えないけれど、明が一気にビールを飲み干したのはわかった。
「三人で暮らしていくからこそ安定した職業が必要なんだろ。冷静になれって。店なんか、年とったあとでもできるじゃないか」
「違う。今やりたいの」
「満足に金も稼げないし、いつなくなるかわからない市場なんだろ。先がない。こどもはどうすんだよ。こどもが一番大事って言ったのは誰だよ」
「明兄の言う通りだと思う。でもそのときそのときで自分にできることはやってきたし、それに私、今は幸せだから」
「人に迷惑をかけてもか」
反射的に立ち上がった。これ以上、話しても無駄だ。でも、ここで帰ったら。春樹はまた優美と遊べなくなり、私は明と距離をとらなければいけなくなる。
「もういいんじゃない? 本人がやりたいことをやらせれば」
雅子さんが両手で頬杖をついた。
「俺がこっちに呼んだんだから、俺には責任がある」
「責任ねえ。紗里ちゃんは紗里ちゃんの人生だよ。近くにいるから口出しをしたくなるんだろうけど。さっきの年とったらって、あの地震を経験した紗里ちゃんには使えないでしょう。いつどうなるかわからないって感じてこっちに来たんだから」
「だからさ、紗里は自分で選んで来たんじゃない。俺が情報を得て、俺が呼んだんだ。雅子は口を挟むな。俺達の話だ」
「私と紗里ちゃんは義理だけれど姉妹でしょう」雅子さんは両手を頬からおろして胸の前で組んだ。「そういう、自分が必ず正しいって態度でいるから、紗里ちゃんだって自分の考えを言いづらいんじゃない? 余計に陰でこそこそやるようになると思うけど」
「明兄、がっかりさせてごめんなさい。虫がいい話だけれど、これからも明兄と仲良くしたいの」
明は誰も座っていない壁を睨んでいる。二人とも口を開かない。ケッケッケッと鳴くヤモリの声でもいいから聞きたい。
ふいに明が椅子から立ち、私の横を通り過ぎた。玄関の棚から車のキーを取り、扉を開けて出ていく。
お父さん見てぇ、という明るいこども達の声が聞こえる。数秒後、エンジンがかかった。雅子さんが外に出てこども達を道の端に寄せる。私はハンカチで涙を拭き、玄関から明の車が走り去るのを見ていた。
「お母さん、フルーツ屋さんだよ。買いに来てぇ」
うん、と春樹へ微笑み、涙を意識しないようにする。
「お母さんが買うのはマンゴーでしょ。わかってるよ。あとは?」
「バナナと、これは?」
「わかんない。優美、これは?」
優美は隣りにもう一軒、広い家を描いていた。
「紗里ちゃんち。お隣だとすぐに遊びに来られるでしょう」
軒の下に立っている雅子さんと目があった。
「素敵な家だね。優美ちゃん、ありがとう」
「僕は馬を飼いたい」
春樹が道路に白いチョークで馬を描き始め、私は日陰にいる雅子さんの隣りに立った。
「男ってなんでああいう怒り方をするの。言い返せないときは怒鳴ったり出て行ったり」
「ごめんね。雅子さん」
「紗里ちゃんが私に謝らないで。紗里ちゃんは決めただけ。悪いのは明でしょう」
「私のせいで二人が喧嘩していると申し訳ない」
「お母さん、上手でしょ」
春樹がこちらへ顔をむけた。優美が描いた家から馬の横顔がはみ出している。
「あんなの喧嘩のうちに入らないから。ただ明がむかついているだけ。喧嘩は二人が怒んないと。明なんておいしいビールと二、三品手の込んだ料理を作ってあげれば、すぐに機嫌を直すから。」
雅子さんの頬にはしっかりとファンデーションが塗られていて、カールした髪は今日も美しい。
「弟が二人もいたからさ」雅子さんは軽く舌打ちした。「紗里ちゃんみたいな妹をしょいこむ運命かなのかも。がんばってみれば? なんだかんだいって明は助けると思うよ。紗里ちゃんがきちんと状況を話したり、顔を見せたりすれば。二人きりの兄と妹なんだし」
こども達の様子を見ながらうなずく。
「大丈夫。私、確信していることがあるの。春くんか大ちゃんか、どっちかが紗里ちゃんみたいになる。それで紗里ちゃんが私達の立場になる。今からそれが楽しみで」
亮太がうわーっと声をあげた。両手を握りしめて泣いている。亮太の隣りに立っている大輔は道路に視線を落としている。どうしたの、と雅子さんが二人に近寄った。
時間が経ち、もしかしたら雅子さんの言う通りになるのかもしれない。ならないかもしれない。
見て見て、と言う春樹の顔は紅潮している。遊んでいる今が一番楽しいと、誰が見てもわかる。すごいね、と春樹に声をかけ、目を真赤にさせている大輔の隣りに屈んだ。
上原のおばぁが歩いてくるのが見えた。まだ16時。春樹にドアを開けて押さえていて、と伝える。
「おばぁ、来てくれてありがとう。一時間後に始まる予定なんだけれど座って待つ?」
おばぁは店の中には入らず、春樹に白のビニール袋を渡した。中を覗いた春樹がムーチーだ、と声をあげた。おばぁは店に背をむけて市場を見渡している。
「帰っちゃうの? おいしい料理をたくさん作るよ」
「いやぁな人がいんねぇ」
「嫌な人?」
おばぁは駐車場の方へ杖をついて行ってしまった。
「ムーチーがたくさん入っているよ」
春樹が近くに来ただけで草餅のような香りが漂った。防菌効果もある月桃の葉でくるまれた、もち粉から作ったムーチー。健康や長寿の縁起物として配られる。おばぁはわざわざ持ってきてくれたのだから。
「ムーチー、僕がお皿に並べていい?」
春樹に大皿を渡す。大輔は並べなくていいと言ったのにナフキンにフォークを乗せ、各テーブルに置いている。
厨房に戻り、私はメカジキの切り身にパン粉をはたいた。上原のおばぁが会いたくないというのは衣料品店の白塗りおばぁだろうか。雑貨店のにこにこおばぁは二人と仲が良い。乾物屋のおばぁはどちらについているのだろう。おばぁの付き合いにも派閥があるのか。おばぁになっても誰とでも仲良く、闘いをせず、楽しく暮らしていくのは理想なのか。
午前中、三角屋根の下に長机とパイプ椅子を並べた。30人近い店主が会議に参加してくれた。私達の正面に座ったコウイチ現市長。元建設会社の社長らしく、筋肉のついた身体、大きな鼻と歪んだ口。A棟のボスと同じような空気を発している。たぶん、自分が最も偉い、いつも正しいと思っているのだろう。
「現在、満足な集客ができていないのだから、存続する価値はない」
市場の存在意義を説明した通り会会長の孝さんは、市長の細い目に睨まれて小さくなっている。私は横にいる白塗りおばぁを突ついた。
「清潔な市場、魅力ある市場、誰でも気軽に来られる市場を作り、半年後の四月までに客数を三倍にします。具体的には……」
淀みなくおばぁは説明しているが、市長は両腕を組み、踏ん反り返っている。さびれた市場など彼にとってはどうでもいいのだろう。今日だって地元の名士である与那嶺さんが頼んでくれたから特別に会議に参加しているだけで、市長自身が重要だと捉えているわけではない。市長に市場存続を認めさせるには、市場に価値を置く人を一人でも増やさないといけない。一ヶ月後の市長選までに、何を大切に暮らしていきたいのかを、市場存続問題を通して、皆に、市場へ来たことがある人やない人にも考えてもらいたい。現市長やマコトさんがどんな人物なのか知ってほしい。何より、選挙に来てほしい。
負けず嫌いに火が点いた感じ?
そう。一真さん、新里さん、市場での闘いも辺野古とつながっているよね。
「来るんだよね?」
「春樹、もっと大きい声で言って」
「優美達も来るんだよね?」
「来るよ。少し早目に来るって言っていたから、もうすぐかもね」
鍋に油を入れながら、明は来ないけれど、とつぶやく。好きなことをして、それをみんなに認めてもらいたい、応援してもらいたい。そんなに簡単なことではない。
「ムーチー、一つだけ食べていい?」
「甘いものはご飯を食べた後でしょう。我慢しよう」
「やだ。僕、お手伝いがんばったじゃん」
パン粉をはらう手に力が入る。だから、手伝いは物を貰えるからやるんじゃない、と言いたい。
「いいでしょ、いいでしょ」春樹の声が大きくなっていく。
ちーむどんどん、ちむどんどん。今日はパーティー、ちむどんどん
ゆっくりと息を吐いた。
「味見ならいいよ。みんなで一枚を少しずつ食べて」
「やったー。何味を食べよう。ねえ、お母さん、あとは誰が来るの? 大ちゃんがいっぱいフォークを並べているよ」
慌てて厨房を出る。一つの机に4人分、計20人分のフォークが出されていた。
「芽衣ちゃんの家族でしょ。おばぁが5人、いや10人くらい。もっと来るかも。常連さんが10人くらい。家族や友達も連れてきてくれたら、20人は越すかも」
春樹は月桃の葉を横からめく理、味を確認している。黒っぽいのは黒糖。紫なのは紅芋。鮮やかな黄色は島南瓜。白と赤のまだら模様はウズラ豆だろうか。強そうな、赤色何号とかが使われていないのは確かだ。
「大丈夫? たくさん人が来たらブイヤベースが潰れちゃわない?」
春樹の手には紅芋のムーチーがあった。
「なんでさぁ。記念すべきパーティーの日に潰れるとは不吉な。大丈夫だよ。このお店だって嬉しいはず。人がたくさんいて、おいしいものがあって、みんなが笑ったり話したりしている場所が嬉しくないわけがない、でしょう」
春樹は首をかしげた。少し難しかったかもしれない。
山のようなアーダギーを持った雑貨店のおばぁが店へ歩いてくる。あれがここに登場したら。こども達の食べたい攻撃をかわせなくなってしまう。
私は店から出た。皿を一度預かろう。後からデザートとして、どんと出そう。
柔らかいものにつまずく。足元に白と茶色の物体が寝そべっていた。太った猫が不満そうに私を見上げている。私は屈み、猫の目を見つめた。あとで、何か持ってこようね。今日はお祝いだから特別だよ。
甘い香りが風に乗ってきた。あのときのようにお腹がなる。私はアーダギーの匂いに弱いのかもしれない。
ちーむどんどん、ちむどんどん
一つ、味見をしよう。自分が満たされていないのに人を満たすなんてできない。そうだよね、一真さん。
ま、ほどほどにな
笑いをふくんだ声が聞こえたような気がした。
(終)
糸満ブイヤベースにちむどんどん 大城ゆうみ @yusotok
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