第三章 悲しいことがあると心は本当に痛むんだ

 動物が唸るような声がする。強くなったり弱くなったり、途切れることがない。

 横になったまま手を伸ばしてカーテンを細く開ける。太陽が海から出ている時間だったが、黒い雲に覆われている空は暗い。風が視界にある木という木をしならせている。アパートは海の目の前にあるから他の場所と比べて風は強い。ここで強風だと感じても春樹の幼稚園がある長い坂を上がると風は弱くなる。今日もそうかもしれないと思いながら身体を起こした。

 朝ごはんのパイナップルを切っているときに雅子さんからメールがきた。台風が近づいているから風呂に水を貯め、冷凍庫に氷を作ってベランダを片付けるように、とあった。

「なんだった? お母さん」

 春樹は畳に座り、魚図鑑のジュゴンのページを開いていた。

「今日の夜に台風が来る予報だって」

「台風が来たらどうなるの?」

「強い風が吹いて雨がたくさん降る。台風がきているときは危ないから外へ出たらいけないの」

「なんで危ないの?」

 春樹がぱっと顔を上げた。

「強い風で何が飛ばされてくるかわからないし、壁が倒れてくることもあるし」

 パイナップルを皿に移しながら、お客様は台風前に来てくれるのだろうか、と考えていた。

「すごい風だよ、お母さん」

 春樹が玄関のドアを開けている。

「お母さん、お母さん、ドアが」

 閉めようとしても春樹の力では閉められないようだ。まったく大げさなんだからと包丁を置き、春樹と一緒にドアの把手を持った。内側から風が押していて最後のひと閉めができない。そんなことがあるのだろうか。

「大ちゃん、そっちの窓を閉めて」

 大輔がベランダ側の窓を閉めようとするが、重たくて一人では閉められない。図鑑のページがめくられ、風は厚い裏表紙をも閉じてしまった。

「お母さんがここを押さえているから、春樹も大ちゃんの方へ行って。早く」

 春樹が部屋を走る。こども二人でなんとか窓を閉め、ようやく玄関のドアを閉めることができた。よかったと振りむいたら、春樹がじっと私の顔を見つめていた。

「僕、今日は幼稚園へ行かない。何があっても行かない」

「春樹」

 息と一緒に声が出ていく。

「だって、台風のときは外に出たらいけないんでしょ」

「台風が来るのは夜だから」

 春樹を連れて店に立ったら、「お母さん、ねえ、お母さんってば」と春樹は言い、「ちょっと待ってて」と私は返す。何度も。お客様の前で。無理だ。

「なら、春樹は一人でお留守番するの?」

 春樹の額に手を伸ばす。少し熱いかもしれない。

「お母さんといる」

 お母さん、わかっているでしょうという春樹の目。三ヶ月前と同じ目だ。

 大輔はさっきまで春樹が見ていた図鑑をめくっている。

 こうなったら春樹を幼稚園に預けるのは無理だ。何があっても私から離れないだろう。

  

 店に着いたらミネイマンションより風は弱かった。雨はまだ降っていない。

 お客様がいるときはお母さんに話しかけないという約束を確認してから、春樹と車を降りる。

 おばぁ達が春樹を見つけたら面倒なので裏の道から店へ入り、奥のテーブル席に春樹を座らせた。キッチンへ入り、水を出し、冷蔵庫を開けて材料を確認する。浄水の蛇口をひねり、葉野菜を洗った。小指の爪くらいの大きさの青虫やカタツムリが葉の裏についていることがある。農薬未使用だからだとわかってはいるが虫付きのまま出せない。一枚一枚、表裏と確認してザルに上げていく。

 水量を変えていないのに、水の流れる音が増したような気がした。

「お母さん、お母さん」

 春樹の大声で顔を上げた。

 水の音は外からだ。文字通り、バケツをひっくり返したような雨になっている。雨どいから大量の水が下へ流れ落ち、みるみるうちに店の左側、コンクリートの広場のへこみに茶色い水が溜まっていく。昼前なのに夕方のような暗さになっている。市場の中は誰一人歩いていないし、全ての店が閉まっていた。窓を板で覆っている店もある。

「お母さん、大丈夫なの? 帰れる?」

 春樹は手を窓に当てている。雨が横むきにガラスをつたっている。

「大丈夫だと思うけれど」

 台風が来るのは真夜中だと言っていた。今は強く降っているけれど止むのではないか。もう、十時を過ぎている。いつもなら一真や芽衣が来ている時間だ。

「お客さんは来ないよ。帰ろう」

 春樹の言う通りかもしれない。でも、勝手に休んで怒られないだろうか。誰に? 上原のおばぁに? 携帯を出して一真の番号を押すが繋がらない。

「そうだね、帰ろう。お母さんは急いで片付けをするから待っていて」

 うなずき、春樹は同じ姿勢で外を見つめた。雨は太い線になっている。私は明日も店で出せるもの、今日持って帰るものと野菜を分けた。

 突然、客席から棚が倒れるような音がした。厨房から出たら、テーブル席の木窓の鍵が外れ、店の中に雨風が吹き込んでいた。

「春樹はそっちの陰に隠れていて。何が飛んでくるかわからないから」

 風を押し返して観音開きの窓を元の位置に戻す。

 一瞬で髪も顔も濡れた。L字型の鍵をかけても同じことだ。木で打ち付けなければいけない。

 でも、どうやって。木は手元にないし、誰かが押さえて誰かが打たなければいけない。危なくて春樹に手伝わせることはできない。市場に人はいない。誰にも頼めない。

 鍵が外れないように手で押さえる。向こう側から大きな風船が扉を押しているような感覚があった。雨水が身体から床に垂れていく。

「お母さん、大丈夫?」

 春樹がカウンターの陰から出てきてこちらを見ている。「ねぇ、大丈夫なの?」

 大丈夫、とうなずいた。全然、大丈夫じゃない。

 春樹の目が怯えている。私は春樹と目をあわせたまま笑みを浮かべ、どうする、どうすればいい? と考えた。

「お母さんはここを押さえていないといけないから、お母さんの鞄から携帯を出して持ってきてくれる?」

 春樹が右、左、後ろと顔だけ動かした。あせると人間はコントみたいな動きを本当にするんだ、と笑みが浮かび、呼吸が楽になる。

「鞄はカウンターの上だよ。携帯はさっき使ったから、鞄の上の方に入っていると思う」

 春樹が飛びつくようにして鞄を取り、携帯を差しだした。

 ありがとう、とできるだけゆっくり言い、窓を押さえていない手で春樹の髪をなぜた。

 春樹は私の目を見つめている。大丈夫なの、という言葉を我慢しているようにも見える。

 片手で窓を押さえたまま、もう片方の手で携帯を操作した。

 お願い、繋がってください。神様、お願いします。

 ごうごうという風の音が携帯の音を消してしまう。何コールしても繋がらない。もう一度。電源がある限りかけよう。

「お前、まさか店にいるんじゃないよな」

 いつもは聞きたくない、不機嫌そうな声が耳に入った。

「店にいる。窓の鍵が風に押されて効かないの。一真さん、打ち付ける木とかある?」

「木とかあるじゃねえよ。今さら」

 電話は切られた。もっと強く罵ることもできるのに。ばか、フラァ、考えなし、あほ。次々に言葉が浮かぶ。こうなる前にやっておかなければいけなかった。木だって用意しようと思えばいつでも用意できたのに。

 携帯を春樹を渡し、ベンチシートに膝を乗せて両手で窓を押さえる。

「大丈夫。ウミンチュの一真さんが来てくれるから」

「本当?」

 春樹の不安そうな顔を自分の背で隠した。

「春樹、流しの下に黄色い雑巾があるから床を拭いてくれる?」

 わかった、と春樹は間を置かずに言った。


  電話から10分も経たずにびしょ濡れの一真が店のドアを開けた。上下長袖の合羽を着て板を何本も抱えている。朝と同じように、私は窓を押さえきれなかった。再び雨と強烈な風が店の中に流れ込んだ。

 どけよ、と一真に言われたが窓を押し返した。お母さん、お母さんと春樹が私の腰に張りついた。

「春樹、そっちにいて」

「僕も手伝うよ」

「そこにいたら一真さんが板を運ぶのに邪魔だから」

「だって」

「お願い」

「だって、だって」

「もう、春樹」

 大きな声をだしたときだった。

「ちーむどんどん、ちむどんどん。お前、ちむどんどんするだろ」

 板を持っている一真が、空いている手で春樹の濡れた髪をぐしゃぐしゃにした。

「台風ってさぁ、わくわくして、じっとしていられないよな。学校も休めるし、何が起こるかわかんないし」

 口の端を上げた一真の顔を春樹は見ている。

「言い返せ。くそばばぁ、お前のせいだって」

 一真が吹き出すように笑い、つられて春樹も笑った。

「すぐに終わるから、あっちの椅子に座って待ってな」

 春樹はうなずき、カウンターに座った。

 一真が板を横に渡して釘を打ち付けていく。大家のおばぁの顔が横切ったけれど、店がぐちゃぐちゃになるよりは釘の十本や二十本、打ち付けたっていいだろう。

 窓の補強が終わり、一真は無言で裏口や入り口側の窓、ドアと見ていき、シャッターを下ろした。

 客席の電気は半分点けてあったが夜の暗さになった。外では途切れることなく風がうなっている。不安を煽っているような音に聞こえた。私は春樹を壁側に座らせ、入り口にいる一真へ礼を言い、頭を下げた。

「今日はこっから帰れないぞ。連絡したのかよ」

 していないだろうな、と一真の目は言っていた。

「小さい車は危なくて乗れない。しかもなんでこんな日にこどもを連れて来てんだよ」

 一真の合羽から床に水が垂れ、店の床に小さな水たまりができている。

「一番、悪いことを考えて行動するんだろ。こどもの顔を見てみろよ」

 どうなるの、お母さん。怖いよ、お母さん。春樹の顔にはそう書いてある。

 夕陽が高層ビル群に沈んでいく。私は春樹と手をつなぎ、大輔を膝にのせて羽田に向かうリムジンバスの一番前の席に座っている。

 どうして学ばないのだろう。どうして先のことが考えられないのだろう。

「悪い状況のときこそ人間性がでるって言うさぁ。お母さん、優しくしてやれよ」

 私は床を見てうなずき、左の親指の爪を引っ掻いた。

「二、三日、魚は無理だから」

 一真が背をむけた。

「行っちゃう、よね」

「ここはお前の店だろ」

 振り返った一真の合羽の水滴が黒く光っている。

「ごめんなさい」

 一真が濡れた髪をかきあげた。

「あのさぁ、ちゃんと頼めよ。人に頼むときはどうするんだって。こどもに言ってんだろ」

 一真と目をあわせる。

 春樹の不安そうな目を見てからもう一度、一真の目を見た。私は唇を閉じたまま口の両端を持ち上げた。

「不安なので一緒にいてください」

 涙がこぼれないように目を逸らす。

 ふっと息を吐き、一真は笑った。

「今の顔、お前に見せたかった。まじでブス顔。あーあ、他に行くところがあんのになぁ。台風こわーいって言う可愛い子が何人も待っているのに」

 一真は合羽を脱いだ。

 昨晩から一睡もしていないから、と奥のベンチシートに横になった。

 春樹は私の太ももを枕にし、ベンチシートに足を投げだして目を閉じた。春樹の額をゆっくりとなぜる。太ももは春樹の頭の熱さで温かくなっていく。春樹の伏せられた睫毛。赤ちゃんのときと同じ寝顔だ。母親である自分がしっかり守って安心で満たさなければいけないのに。いつもいつも私はそれができない。

 涙が落ちないように顔を上げた。入り口の脇に置いてあるブイヤベースの看板も雨に濡れていた。


「いやだ。お母さんといる」

「できるだけ早くに迎えに来るから。今日は休めないの。春樹、わかるでしょ」

 春樹が産まれてから、同じようなやり取りを何回しただろう。友人が事故で亡くなったとき、大輔を妊娠中に転んだとき、二人を連れて夜中に家を出た日。

 私に何か起きるとき、春樹は私と離れたくないと騒いだ。春樹にはそういうことがわかる能力があると思い、母や雅子さん、こどもがいる友人に話してみたが皆、真剣には受け合ってくれなかった。どんなこどもにも敏感なところがあるから。あんまり特別だと思わないほうがいいよ。そう言われた。

 2011年3月11日。

 優しく言ったり、脅しに近い言い方をしたりして、私は春樹を引きずるように保育園へ連れていった。クラスの先生に預けても、春樹は先生の手を振り切って私を追いかけてきた。いっそのこと、もっと熱が上がってくれれば休めるのに、と思った。

「最後に十だけ、ぎゅうをしようね」

 膝をついて春樹を胸の中に入れる。離されたくないと、私の背中にある春樹の手が言っていた。

 どれほど大事な会議なのだろう。私が必ず出席しなければいけないのか。

 でも、今日は預けると決めたんだし、騒げば休めると春樹が思ってしまうのも良くない。

 春樹は園長先生に抱かれて涙目で私を見送っていた。

 わかっていないのは、どちらだったのか。

 揺れた。四階にいた私は立っていられなかった。壁に身体を押し付けてしゃがむ。揺れは、永遠に続くように思えた。

 自分が歩いて迎えに行くしかない。頼める人はいない。電車は止まっていて、タクシーはつかまらなかった。たとえタクシーに乗れたとしても道は動いていなかった。

 消えた信号、進まない車の列を横目に私は歩いた。

 春樹、大輔。怪我はしていないだろうか。

 地震はお昼寝から起きるくらいの時間だった。園内にいたなら大丈夫かもしれない。

 入園時に用意した、黄色い防災頭巾。ぞうさんの絵が描かれているかわいい頭巾。あれを被って私が来るのを待っているのだろう。何が起こったかよくわかっていないだろう。不安でいっぱいだろう。

 携帯を開き、明や母の番号を押す。繋がらない。時刻を確認する度に保育園はこんなに遠かっただろうかと感じた。車だったら気づかない坂、登り下りが多かった。早く、早く、暗くなる前に。

 二時間歩き続け、19時過ぎに保育園に着いた。

 園庭に敷かれたブルーシートにいるこどもは春樹と大輔だけだった。黄色い頭巾を被った二人は先生方に囲まれ、身を寄せるように座っていた。

 お母さん、と平常時のお迎えのときと変わらない笑顔で大輔は飛びついてきた。抱いたら大輔は自分で頭巾を外した。

 春樹は泣いていた。声を出さずに。膝を抱えて座り、頭巾に顔を埋めて。涙がシートに落ちていく。

 怖かったね。遅くなってごめんね。春樹は私の手を払い、縮こまった。頭巾の中に身体ごと入ってしまいたいと思っているようだった。

 担任の先生が春樹を抱き上げ、泣き止むまで、私の声に反応するようになるまでずっと抱いていてくれた。

 地震の直後から絶え間なく余震があった。早春とはいえ、まだ寒く、三人でぴったりと身体を寄せて眠っていた。

 夜中に揺れを感じる。右手で春樹と、左手で大輔と手をつなぐ。二人は揺れに気づかず眠っている。天井が落ちてきたら逃げられるだろうか。どれくらいの大きさの地震がきたら外に出ればいいのか。貴重品や懐中電灯、コンタクトや眼鏡、水や乾パンが入ったバッグ。寝ている二人とあのバッグを持って外へ出るのは無理だ。この揺れは危ないと判断したら、何を置いてでも二人と逃げなければいけない。考えているうちに余震がおさまる。その繰り返しだった。

 地震の翌日から職場まで通う方法がなかった。電車は動かず、道路は渋滞して歩いたほうが速いくらいで、ガソリンスタンドは開いていなかった。

 もう一度、職場にいるときに地震があったら。もっと大きな地震だったら。

 頼れる人は近くにいない。母親は再婚し、長野に一軒家を建てて暮らしていた。心配して電話がきたけれど、東京なら大丈夫でしょうと声が言っていた。祖父母は他界していた。元夫とは地震の翌日に一回、メールで安否を確認しただけだった。

 原子力発電所の爆発が起こった。

 ネットで情報を得ていたが、検索すればする程、どれが真実なのかわからなくなった。

 原子力発電所の建屋から上がる白い煙。

 ヘリコプターから落とされた水。

 チェーンメールが次々とくる。良くないことが起きている。それはわかった。

 けれど、放射能は目に見えず、どこにどれだけ含まれているのかわからず、恐怖だけが増していく。

 地震後の週末は外へ出られなかった。洗濯物を外に干すこともできないし窓も開けられない。買い物にも行けない。二人は公園に行きたいと騒いだが家の中で遊ばせた。暗くなったらいつの間にか二人とも畳で寝ていた。布団まで一人ずつ抱いて運んだ。地震が起こる前となんら変わらない、幼いこども特有の、天使のような寝顔。晴れた日は外で遊びたいよね。食べ物だってあれは危ない、これはだめって言われることなく、おいしく食べたいよね。水、空気……。寝息をたてる二人の間に座り、私は暗闇に目をむけていた。


 一歳を過ぎた春樹がベビーチェアに座っている。白米を柔らかく炊き、火を通した白身魚を混ぜた。米の甘さ、魚から出る出汁の味を感じてほしくて、調味料は塩一粒も使わなかった。自分が選び、料理したものを一歳の我が子に食べさせる。食べてくれるだろうか。どんな表情をするのだろうか。喜びの瞬間、のはずだった。

 一口食べたあと、春樹の唇の周りが赤みを帯びた。よだれか汁がついたのだろう。ガーゼで軽く拭き、もう一口あげた。気づいたときには、赤みは首の方まで広がり、蚊が刺した痕のような膨らみが幾つも浮かんでいた。春樹の呼吸が荒くなっていく。夫は職場にいて電話が繋がらなかった。明に電話をかけ、すぐに救急車を呼んだ。『食物アレルギー』『アナフィラキシー』という言葉。知ってはいたけれど、まさかこの子に、こんな形で現れるなんて。春樹を抱いてうつむき、医者の前で泣くのを堪えた。

「魚や卵が食べれなくても肉がありますから。日本人なのに米がアレルゲンの人だっているんですよ」

 大学の研究生のようにも見える若い医者は言った。アレルゲンの食品だけでなく、身体に悪いといわれている食品添加物や遺伝子組み換えのもの、過度の油や白砂糖を避けるようにと指示された。

 アレルゲンの食物を食べると春樹の身体はすぐに反応した。それは避けるべきものであり、ある意味わかりやすかった。

 すぐに反応が出ないもの。それらのほうが怖かった。どう悪いのか目に見えない。アレルギーをひどくするかもしれない。痒みを産むかもしれない。ガンになるかもしれない。市販の弁当だって多くの添加物の名前が表記されているけれど、実際の弁当を手にしても添加物の姿は見えない。でも、食べたら身体に悪いものが蓄積される、かもしれない。それは小さい子ほど影響を受ける、らしい。


 寝室を出て台所の電気を点け、テーブルにむかう。ノートと鉛筆を用意する。

 最も悪い状況を想定しよう。予想より安全だったらそれはそれでいい。けれど安全だと考えて予想より悪かったら。小さな春樹の顔や首にまで、たちまち赤い膨らみが広がった。あれを繰り返したくない。

 まずは口に入れるものから。

 ノートに水、と書く。買い置きしてあった災害用の海外の水を使い、なくなったらスーパーへ行って買う。店はどこも行列ができているらしい。でもネットで頼んだら、いつ来るかわからない。顔を洗うときは。風呂の水は。そこまでは考えられない。

 米はまだある。鳥取県の農家から取り寄せているからなくなっても大丈夫だろう。

 野菜は生協の物から安全だと思われる産地のものを選ぼう。でも、どこまで離れたら安全なのだろう。関西? 九州? いっそ海外の物のほうがいいかもしれない。

 息を吐きだす。今まで地産地消、国産と選んできたのに外国産のほうがいいかもしれないなんて。 

 月曜日の朝、春樹は保育園に行きたくないと言うだろうと覚悟していた。

「お母さんは家にいるんだよね。家で仕事をするんだよね」

 玄関で靴を履きながら春樹が言った。

「そうだよ。具合が悪くなったら先生に言ってね。いつでも迎えに行くから」

 春樹は私に背中をむけたままうなずいた。

 自転車の前に大輔、後ろに春樹を乗せてペダルを漕ぐ。家々の間を流れる爽やかな朝の風。外の空気は久しぶりだ。でも、マスクをせずに空気を吸っても大丈夫なのだろうか。何も見えない。見えないから大丈夫、ではない。園までの5分間、私達は言葉を交わさなかった。 

 開店時刻にスーパーへ行った。災害用コーナーの棚には単四電池が数個、ぽつんと残っていた。他のサイズの電池、懐中電灯、非常用食料、ペットボトルの水は一つもない。他の売り場も保存が効くものから売り切れている。

 せっかく来たのだから何も買わずに帰りたくないと思い、けれど何を買うべきかわからず、全ての棚を見て歩く。

 野菜、肉、魚、品物が載っていない白い天板。

 停電するかもしれないから買い置きはできない。

 結局、外国産のドライフルーツを買った。

 家に帰った後も、プラスチックの天板の白さが頭に残っていた。

 昼過ぎに、明から電話がかかってきた。

 今すぐ荷物をまとめてこっちへ来い。大学のときの友人から連絡があった。関東に知り合いがいたら避難させろ、と。できるだけ急げ。今日中に飛行機に乗れと明は言った。

 何が起きているの? どうしたの? 私は質問しなかった。

 よかった、という思いが先にあった。沖縄へこどもを連れて行ける、安全な食べ物を用意できるし外で遊ばせられる。

 押し入れの奥から大きなスーツケースを出す。こどもの服を何枚か入れて手が止まる。

 何が必要なのだろう。いつ戻ってこられるのだろう。その時は再びここで暮らせるのだろうか。

 あっちの部屋へ行き、こっちの押し入れを開ける。スーツケースは埋まらない。

 明に電話をしたら雅子と話せと言われた。

「とりあえず、高価なものから入れていって。パソコン、デジカメ、ビデオ。写真は全部入らないだろうから外付けハードディスクとか。こっちで保育園に通うことになるかもしれないから保育園グッズ。でも、うちのを貸せるし。二人のお気に入りの人形とかは? 紗里ちゃんの思い出の品とか。あと通帳とか貴重品は入れた?」

 雅子さんが言う通りに詰めていく。

「冷蔵庫のものは?」

 冷蔵庫は空に近かった。発酵バターとドライフルーツを保冷剤と共にビニール袋に入れてスーツケースに詰める。

 笑ってしまった。これがどんなことをしてでも持っていかなければいけない大切な物なのだろうか。一度笑いだすと止まらなかった。自分のしていることが滑稽だった。

 ほら、訓練になっただろ? 明にそう言われるような気がした。

 シンクの上の扉を開け、包丁とまな板を見て口元を引き締めた。まな板をタオルにくるんでスーツケースに詰める。包丁をケースにしまっているとき、これを持って飛行機には乗れない、と思った。検査で没収されたら。元通りにこどもの手が届かない棚に包丁を置き直す。でも、戻って来られない可能性もある。後から必要なものは誰かに送ってもらうとしても確実に私の手元へ届くかわからない。空港から宅急便で送ろう。この包丁は絶対に手離せない。手荷物の鞄に包丁を入れたケースを押しこんだ。

 時間がどんどん経っていく。けれどスーツケースは半分以上空いている。何で埋めればいいのか。他に入れるべき物は。 

「落ち着いて、紗里ちゃん。いつまた爆発が起こるかわからないし、最悪、関東の人は外へ出られなくなってしまうことだって有り得るんだよ。なるべく早く飛行機に乗って。何時になっても空港に迎えに行くから」

 空気が濃くなり、時が流れだす。

 最優先事項は飛行機に乗ること。

 三人の洋服をスーツケースに押しこんで物が動かないようにする。

 雨戸を閉めて電気を消すと家の中が暗闇に包まれた。

 再びここへ戻って来られるのだろうか。

 今は考えない。

 スーツケースを持って外に出たのは保育園でのお昼寝が終わった時間だった。園までスーツケースを引いて歩く。走りたかったけれどスーツケースが重くて走れない。

「お母さん、はやーい」

 喜ぶ春樹や大輔に嘘の笑顔を返す。

 二人が荷物を準備し終え、先生方にいつもと同じ挨拶をする。

 母子で暮らすようになったとき、親身になって話を聞いてくれ、毎日のように励ましてくれた先生方。自分だけ逃げていいのだろうか。それはこの人達を裏切ることではないのだろうか。

 今、大変なことが起こりつつあるんです。ここで今まで通りに過ごしている場合ではないかもしれないんです。

 お迎えが早くて嬉しいね、と、こども達に笑顔で声をかけている担任の先生に伝えることができない。どうして言えないのだろう。ただの情報の一つなのに。判断は任せればいいのに。

 ありがとうございます、と深く頭を下げた。今日一日、預かっていただき、それから、今まで育ててくださってありがとうございます。口を開けたら涙が出そうだった。

 園の通用門の脇に置いておいたスーツケースを見て、これなぁに? と春樹が訊いてきた。

「今から沖縄に行こうと思って。なるべく早く」

「やったあ。優美と遊べる?」

「たくさん遊べるよ」

 春樹と一緒にスーツケースを引く。もう片方の手で大輔の手を握って速足で歩く。保育園の前でタクシーに乗りたくない。先生方や迎えにくる知り合いのママ達にスーツケースを持つ姿を見られたくない。

 大輔が立ち止まり、抱っこしてぇと手を出してきた。左腕だけで大輔を抱き、右手でスーツケースを引いた。5歩、10歩。両腕が痺れてくる。

「ごめん、大ちゃん。重くて抱っこできないよ」

 おんぶ、と大輔が私の後ろにまわった。

「ねえ、お母さん、どうして今から沖縄へ行くの? 今日はおうちに帰らないの? お母さん聞いている?」

 春樹は大輔の保育園のリュックも持っている。私は大輔を背負って片手でスーツケースを引く。抱っこよりは進めたが、大通りに着く前に腕が痺れて限界がきた。

 手荷物用の鞄を探る。ここでいいからタクシー会社へ電話をしよう。

「お母さん、聞いている? ねえ、お母さん」

 春樹が上着の裾を引張り、身体に重みが加わる。

「春樹、ちょっと待って。引張らないで」

 大輔を下ろすために道路の端に屈んだ。

「大ちゃん、おんりして」

 大輔が背中から離れない。鞄にあるはずの携帯が見つからない。

「大ちゃん、離れて。お母さん、鞄の中を」

「ねえ、お母さん、お母さん、てば」

 春樹の叫ぶ声。大輔は離れない。

「うるさい。黙りなさい」

 春樹は身体を震わせ、立ち止まった。早く駅まで行かないと。そうしないと16時発のリムジンバスに乗れなくなってしまうから。私は車道へ目をむけた。

「僕に怖く言わないって約束したのに」

 泣いている? 言い方が悪かった? 

 けれど、今は一刻を争うときだし、春樹がしつこく話しかけるから。

 後ろで、春樹は声をあげて泣き始めた。

 ああ、もう。泣き止みなさい、と叫びたい。

 でも、そしたらもっと激しく泣くだけだ。

 お母さんの言い方が怖かったね、ごめんね。謝り、抱きしめてあげればいい。

 できない。振り向き、春樹の顔を見ることもできない。自分の非を認めたくない。悪いことをしたら何て言うの? こどもによく言うくせに。

「お母さん、おんぶ。おんぶしてぇ」

 大輔はまだ背中にくっついている。振り払いたい。歩け、と叫びたい。

 目を閉じる。大輔にまで怒ったら、大輔も泣くだろう。そしたら自分も泣きたくなる。物事は何も進まない。私は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。

「大ちゃん、お母さんは今すっごく急いでいるから、ちょっとだけ待ってね」

 自分の中に残っている優しさを総動員して優しい声と表情をつくり、大輔を背中からゆっくりと離した。機嫌を感じとってか、すんなりと大輔は離れた。

 携帯を探そうとしたら、大通りからタクシーが入ってきた。空車とあり、私は勢よく手を挙げた。

「駅までお願いします。この荷物も」

 眼鏡をかけた細身の運転手が出てきてトランクを開け、スーツケースを持ち上げた。

「これ、重いね」

「そうなんです。すみません」一緒に持とうとしたら、「いいよ、いいよ。先にこどもと乗ってな」運転手はこども達の方を目でさした。

 お礼を言い、大輔を抱いて後部座席へ乗りこむ。

 春樹、と声をかける。春樹は立ち尽くしている。運転手が席に乗り込んだ。

「春樹、早く来て。行くよ」

 春樹は動こうとしない。すみません、と運転手に伝え、大輔を座らせてタクシーを降りた。

「春樹、お母さんはできるだけ早く沖縄へ行きたいの」

 春樹を抱きあげた。抵抗しない。そのままタクシーに乗り込むと春樹は私の胸にぴたりと身体を寄せてきた。

「なるべく早く駅まで行きたいんです。20分後に出発する羽田空港行きのリムジンバスに乗りたくて。この時間は混んでいますか?」

「この時間というより、地震のあとはこれが普通だね。空いてそうな道を通ってみるよ」

 運転手はきびきびした動作でタクシーを出発させた。

 保育園や公園、家々が遠ざかっていく。

「お母さん、ごめんなさい」

 胸に、春樹の涙声が響いた。

「違う、春樹が悪いんじゃない。お母さんは一刻も早く沖縄へ行きたくて」

「お母さん、ごめんなさい」

「違うの。悪いのはお母さんなの。ごめんね」

 ごめんね、と声にしたら途端に楽になった。ほら、自分がいらいらしていただけじゃん、心の中で誰かが言う。

「もう、怖く言わない?」

 私を見上げた春樹の目、目の周りも赤い。

 ごめんね、ともう一度言ったら春樹は二度、三度うなずいた。

 ああ、またやってしまった。三人での生活に慣れてきて春樹に怒りをぶつけるのが少なくなっていたのに。春樹も自分の思いを私に伝えられるようになってきたのに。

「どこか行くの?」

 運転手がバックミラーへ視線をむけた。

「沖縄へ行きます。兄夫婦が住んでいるんです」

「沖縄か。羨ましいね」

 脇道は車が少ない。どうかこのまま駅まで行けますように。間に合いますように。

「こども達、地震は大丈夫だった?」

「物は壊れなかったのですが余震が怖くて。その後の物不足も。なんだか、いろいろ気にして疲れてしまって」

「わかるよ。うちはマンションの五階だから買ったばかりの液晶テレビが落ちてきてさ」

「それは大変でしたね」

「猫が怖がって押し入れから出てこなくなってさ」

 運転手は猫の様子を話していた。大通りに出て速度が遅くなったけれど進んではいる。もう少しで駅に着く。

「間に合いますよね」

「お客さん、運がいいよ」

「ありがとうございます」

 大輔は身動きしない。春樹は抱っこされたまま黙っている。普段だったら話に入ってきたり、わからない言葉を質問したりするのに。

 私達が後部座席から降りたときには、運転手はトランクからスーツケースを下ろしてくれていた。

「この重いの持って歩道橋は渡れないだろうだから、そこの道を横切るといい」

 運転手は言い、私達が渡れるように車の流れを止めようとしている。

 保育園を出るときと同じ思いだった。自分達だけ情報を得て沖縄へ行く。情報が正しいか正しくないかではなくて、そうできることがずるいのではないか。運転手は仕事が終わったら猫が待っているマンションの五階へ帰る。余震があったら大事な猫はまた押し入れから出てこないかもしれない。次にガソリンを入れるときには数時間待ちのスタンドにいく。乾電池や水を買いたいと思ったら、いつスーパーに入荷するかをチェックし、行列に並ばなければいけない。それでも日常は過ぎていく。

 これ以上、ひどいことが起こりませんように。皆に良い事が起こりますように。

 羽田に向かうリムジンバスの車内は空いていた。空港へ向かう道も流れている。

 タクシーが来て一時間に一本のバスに乗れた。道は思ったより混んでいない。どれも自分達が沖縄へ行くことを後押ししているような気がした。

「お母さん、お腹が空いた」

 窓の外を見ていた春樹が振り返った。

「そうだよね。空港に着いたら何か食べようね」

 どうか空港まで無事に着きますように。飛行機に乗れますように。沖縄に着いたら隔離されませんように。

 沖縄。

 海と空、湿度の高いむわっとした空気、濃い緑。

 アメリカの自由な雰囲気と沖縄独特の文化が入り混じった街並み。

 そこは白い光に包まれて、まるで夢の世界のように思えた。明の家族がいることだけが理由ではなく、長い間、沖縄に惹かれていた。

 乗る予定の飛行機の時間を明にメールしようと携帯を開いた。西日が当たり、画面がよく見えない。リムジンバスの背の高い座席から、淡い夕焼け色に染まっている駅近郊の建物が見えた。ビル街を過ぎるとマンションが立ち並んでいる。あそこに住んでいる人達、全員が飛行機に乗ろうとしたら。電車は動いていないし、バスに全員は乗れない。自分の車で空港に向かう。車が多くて渋滞する。歩くしかない。全員が飛行機に乗りたいと思う状況だったら、きっとここから移動することは許されない。どちらにしても逃げられない。

 東京に住むということ。

 強く打つ自分の心臓に、春樹の頬を合わせるように抱きしめる。

 便利で、仕事や娯楽が多く、不自由のない暮らし。メリットがあればデメリットがある。私は東京に産まれて育った。何の疑問も持たずに住んでいた。地方で育っていたら進学や就職のときに、その土地に住み続けるか違う土地に住むかを選んでいたかもしれない。有事が合った際にどうなるか、子育てをする上でどこに住みたいのか、そこまでは考えなかったにしても住む場所を一度は選んでいたはずだ。私は選びもせずに考えもせずに東京に住んでいた。

 もう少しで空港に着く。他の車や人の様子に変わったところはない。大丈夫、きっと大丈夫。沖縄へ、明のところへ行ける。自分に言い聞かせ、春樹を抱きしめたまま大輔の手を強く掴んだ。


 夜になり、雨と風はいっそう強くなった。

 携帯は電波が入らなくなり、店の電話で雅子さんと話をした。大輔は迎えに来た雅子さんと手をつなぎ、今は優美と楽しく遊んでいるらしい。夕飯もお代わりしていたから安心して、と雅子さんは言った。明に替わってほしいとは言えず、雅子さんも言わなかった。

 風雨の音を消すために、音楽のボリュームを上げた。水が出なくる可能性を考えて鍋に水を汲み、ガスが使えるうちに茶や珈琲を保温ポットに入れ、冷蔵庫にある大量の材料を片端から料理した。春樹は胡瓜やトマトを切ったり、ニンニクや玉葱を剥いたりしていた。日常とは違う特別な感じ、遠足前夜の高揚感にも似ていた。

 ちーむどんどん、ちむどんどん

 泣いたカラスがもう笑った。春樹くらいの頃、明によく言われた。私は春樹よりもずっと泣き虫だった。うまくいかなくて、失敗して、嘘がばれて、すぐに泣いた。一緒に謝りにいったり、言い訳を考えたり、元に戻すのを手伝ったりしてくれたのは明だった。でも同じ失敗を繰り返して、また泣いた。変わっていない。笑ってしまうほど。

「人間って、成長しないね」

 カウンターでニンニクをみじん切りにしながら、奥のテーブル席にいる一真が聞こえるように声をだした。

「いいじゃん、この曲。『I'm going to get you』ねぇ。忘れる、追いだすっていう意味だろ。女性の渋い声で歌われるとたまんない」

「一真さんって耳がいいよね。前も歌詞を聴いていたし」

「音痴だけどな」

『I'm going to get you』が繰り返されている。

「いくら努力しても苦手なことは苦手なんだよな」雑誌を見ながら一真は言った。「無理してもボロが出るし」

「そうだね。でも」

 いつまでもできなかったら、どうすればいいのだろう。先のことを考えられなかったら一人で子育てなんて無理だ。

 一真の視線を感じ、包丁を止めて目をあわせる。わかんないのかよ、というような目。からかうような口元の笑み。

「助けてもらえば、いいのかな?」

 一真は右手で額を押さえた。

「デージフラァっぷりもそこまでいくと貴重だよ。簡単に助けてもらえるかよ。人はどんなときに他人を助けたいと思うのかを考えてみろって」

 包丁をまな板の上に置き、横にいる春樹の顔を見た。自分より小さい子や弱い子は助けてあげなければと思う。明や雅子さんが困っていたら、もちろん助けたい。

「仲が良い人をまずは助けたいと思う、かな」

 先生に答える生徒のような口調になった。

「なんのために市場のレストランで働いているんだ? 誰かと仲良くなったのか?」

 春樹の視線を頬に受けながら、ゆっくりと首を横に振る。

「努力しないやつに成功はないって。ま、俺も努力はしないけどな」

 一真は笑い、雑誌に視線を戻した。 

 食べないと悪くなってしまうものを全てテーブルに並べる。豪華な夕飯をがっつくように三人で食べた。食後、洗い物をしていたら、春樹は一人、塗り絵をし始めた。一日、店で静かにしていること。お客様の前でお母さんに話しかけないこと。約束はどこかへ行ってしまった。

 一真は奥の広い席を使い、テーブルの上に店の雑誌を全て乗せ、次々にページをめくっている。珈琲の入ったカップを手渡したら、座れよ、と一真が顎を動かした。

「自分が死んだときに、葬式でどんな母親だったって言われたい?」

「どういうこと?」

「ここに書いてある。目の前のことに囚われず、人生の目標を意識しましょう、だってさ。暇なときしか、こんなのできないしな。自分の葬式で友達や彼女にどう言われたいか、ねえ」

「一真さんは彼女がいるんだ」

 一真はベンチシートの上で正座をし、板が打ちつけられた窓に向かって手を二回打った。

「彼は海の男でした。好きなことばっかりして幸せそうでした。金はたいしてなかったようだけど出し惜しみはしていませんでした」

 笑ってしまった。

「いいからいいから。人とはつかず離れず。一人で暮らすのを心底、愛していました」

「それ、彼女が言うの? 一真さんのお葬式で?」

 そう、と一真は元のように足を組んだ。

「人とはつかず離れず?」

「不即不離。程よい距離って感じ」

「よくそんな言葉を知っているね」

「今、知った。ここに書いてある」

 一真は雑誌のページを指さしてにやっと笑った。

「不即不離……」

「なんか不満そうな顔をしてるなぁ」

「私はもっと近づきたいかも」

「なに? 俺と? どさくさにまぎれて告白? 助けてもらったら惚れるよな」

 春樹が私達を見ていた。

「違う、こどもとか。いいなと思った人と」

「それが俺ってことだろ。紗里ちゃんは近づきたい、俺は程よい距離を望む。うまくいかないなぁ」

 一真はにやにや笑いながら珈琲を飲んだ。

「こどもは、あと10年もしないうちに親から離れるけどな。ばばあ、話しかけるな、ってさ」

「そうなんだよね。今は子グマのように可愛い大ちゃんも、あと10年したら彼女とエッチすることしか考えなくなるんだよね」

 そうだな、と一真は笑っている。

「そう思えるなら大丈夫だよ」

 一真は雑誌に視線を戻し、私は打ちつけられた板を見た。時折聞こえる、動物の唸り声のような風の音や何かが飛ばされる音で台風はまだそこにいるのがわかった。

「それで? 紗里ちゃんはこどもになんて言われたいんだよ」

 忘れた頃に一真が言い、私は青のクーピーを持っている春樹の横顔を眺めた。

「抱っこといえば抱っこしてくれました。食べ物へのこだわりが強く、身体に悪いものは食べさせてくれませんでした」

「違うよ。あの子達から見えている紗里ちゃん、だよ。しかも現実どうかじゃなくて、この先なんて言われたいか」

「難しいね」

 春樹が顔を上げたので手を振ると、春樹は怪訝そうな顔で手を振り返してきた。

「母は楽しそうに暮らしていました。僕達のことが大好きで、僕達のことをよく見て話を聞いてくれました」

「いいんじゃん。紗里ちゃんらしいんじゃん」

「一真さんがいうと、じゃんがなんだか違うんだよね」

「横浜育ちにしか、じゃんは使わせない気だな」

 じゃんじゃかじゃん、じゃんじゃかじゃんと一真は変な歌を口ずさんだ。

 春樹がベンチシート沿いにこちらに近寄り、眠いと目をこする。歯ブラシは持ってきていない。シャワーは天然の雨風があるけれど着替えがない。そこでそのまま寝るしかない。

「台風って眠くなるんだよ。気圧かな。家に閉じ込められて寝るしかないから、沖縄は出生率がずば抜けて高いって言われるくらいさぁ」

 一真はクッションを春樹に渡し、固い木のベンチシートに横になった。

「カウンターに懐中電灯とろうそくとチャッカマンを出してあるから。電気を一番小さくするね」

「寝ちゃえば朝だから。おやすみ」

 光が間接照明だけになると、今までのブイヤベースとは違う店のように思えた。お洒落なジャズバーのようにも、つぶれてしまったレストランのようにも見える。

 テーブルに両腕を敷いて頭をのせる。太ももの上には春樹の頭がある。

 目をつぶると、風の音が強くなったように感じた。大輔は眠れているだろうか。きっと夜中に起きるだろう。泣いたり騒いだりしませんように。

 もし、明の家が近くになかったらどうしていただろう。ここに一真がいなかったら。芽衣やダルマおばぁがいなかったらブイヤベースは開けられない。

「母は行き当たりばったり、その時の感情で行動するので、小さかった僕達はとても困りました。もっと考えてくれれば父親と僕達が離れることもなかったかもしれません」

 暗闇の舞台で話しているのは五十代の大輔だった。背が高く、がっしりしていて元夫によく似ている。

「母の兄をはじめ、皆が助けてくれたからやってこれたようなものです」

 目を閉じたまま笑ってしまった。

「恋人には、どう言われたい?」

 変な声が出て、太ももで春樹の頭がびくっと震えた。

「出た、紗里ちゃんの蛙叫び。新ちゃんのスープを初めて飲んだときもそんな声を出していたよな」

「そんな声だった?」

「叫びというか蛙が踏まれたときの声。あのときさ、新ちゃんが足りましたか? って聞いたら底なしだから全然足りませんって答えていたよな。笑ったぁ。いつ思いだしても笑える」

「言ってないと思うけれど」

「おれもたまに使っているし。値段が高くて量が少ない店のときに、俺は底なしだから足りませんって」

「嘘でしょう」

「ていうか普通に寝ていただろ。けっこう図太いんだな」

 薄暗い店の中に彼の声だけが浮かびあがって聞こえてくる。

「寝ていなかったけれど、突然声をかけられたからびっくりした」

「飲まない?」

「アルコール? 冷蔵庫に地ビールがあるよ。ワインはカウンターの向こう側。私は飲まないけれど話だけならつき合うよ」

「飲めないのかよ」

「飲めるけれど、この先何が起きるかわからないし。あと」

 口を閉じた途端に風の音が響く。

「あと、なんだよ」

「外へトイレに行くのが怖い。あそこのトイレは夜に一人で行く場所じゃないと思う」

 彼が笑った気配がした。

「お前でも怖いものがあるんだな」

「あるよ。まずは電話のときの一真さんの声。それから一真さんの冷めた目とかぶっきらぼうな言い方。お前、とか、なんとかじゃねえ、とか。すごく怖い」

「出た。すごいすごい、すごく怖いー」

 女っぽく言いながら、一真は冷蔵庫を開けてビールを二本取り、春樹が足を伸ばしていない方に座った。何に乾杯するのかわからないけれどビールとコップを合わせる。

「このビールは、がーって飲むものじゃないな。俺が普段飲んでいるビールと違う種類。フルーティな感じ」

「新里さんが探してきたニヘデビールっていう名前の地ビールだよ。初めて?」

 一真は既に一本を飲み干している。

「ここから車で20分くらいのところに酒造所があって、働いている人達はこのビールに誇りを持っているの。麦芽、ホップ、地下水だけで造っているんだよ。余計な添加物なし。酵母が生きています」

「こだわり紗里ちゃんはそういうのが好きだよな。で、さっきの答えは?」

「さっきの?」

「だから死んだ後に恋人にどう言われたいかっていう」

 一真は頬杖をついて私を見ていた。彼の顔色は暗くてわからない。沖縄の人はアルコールに強いと聞いたことがある。酔ってはいないのだろう。

「そんな見つめんなよ」

「別に見つめていたわけじゃ」

「こんな風に言うんだよ。出会った時から彼女の考えていることが手に取るようにわかりました。からかうとむきになるし、負けず嫌いだし、見ていて飽きませんでした」

「飽きないって彼女に言うかな」

「俺に珈琲を入れているときの彼女は幸せそうでした。誰かに料理したものを食べてもらうのが好きでした。こんな感じ?」

「後半はその通りかも」

「その通りじゃなくて、紗里ちゃんが恋人からこう言われたい、ていう話」

 一真が席を立った。新しいビールを取りに行ったのだろう。味わって飲むビールだと言っていたのに。

 私は春樹の頭を乗せ変えた。今まで乗っていた太ももが汗で湿っている。目が慣れて闇は薄くなっていた。けれど、空気が滲んでいる。夢の中にいるようだ。一真との会話がそう感じさせるのかもしれない。恋人になるかもしれない男女がする会話。いつ以来だろう。結婚する前だから6年、いや、7年ぶりかもしれない。

 両手で頬杖をつき、白い花に囲まれた自分の笑顔の写真、その写真の前に立つ男性を思い浮かべた。

「彼女と一緒にいて、話していて楽しかったです。自分に正直で、最後の瞬間まで俺のことを想ってくれていました、かな」

「紗里ちゃんらしいわ」

 すぐそこで一真が言った。彼の息、気配だけが現実のもののような気がした。頬を支えていた手をおろし、一真さん、と小さく呼ぶ。そこにいるよね、と。

 目があった。言葉がでない。ほんの少し手を伸ばせば彼にふれることができる。

 さわりたい。もっと近くで声を聞きたい。彼の存在を感じたい。

 たぶん、彼もそう思っている。

 心臓があるところから感情が盛りあがり一気に全身を巡る。

 一真さん、と再び声がでかかったとき、春樹が太ももの上で頭を動かした。空気がくっきりとし、私は春樹の額をなぜて髪を梳いた。

「ダメだ。急激に眠気が襲ってきた。俺も寝るわ」

 一真が立ち、奥の座席へ歩いていく。身体に満ちた彼への想いは波が引くように消えていった。


 机に乗せていた腕から顔をあげた。頬と右腕に水滴がついている。

 板の隙間から光が射していた。

 風の音に耳を澄ませる。聞こえない。手の甲で口の周りを拭き、クッションに頭を乗せて眠っている春樹を起さないように入り口へむかった。

 シャッターと地面の間に隙間ができると、待ちわびていたかのように強い光が室内に入ってきた。くぐれるくらいまでゆっくりとシャッターを上げる。白い光に包まれて目を開けていられない。

「完璧に抜けたな。今日は暑くなるぞ」

 一真は真後ろに立っていた。

「ひどいことになっているなぁ」

 小さな赤い実をつけていた背の高い木が真中から折れている。きれいに植えられていた花々は全て枯れ、葉の緑色さえも見えない。植物は全て茶色になっている。

「風と、海の塩にやられるんだよなぁ」

 静止している。風もない。猫もいない。動くものは何もない。強い光で建物がぼやけて見えた。市場の時も止まっている。昭和三十年にタイムスリップしましたと言われたら信じてしまう。いつも以上にそう感じる。市場は開かれないだろう。それぞれの家の台風の後片付けもあるし、と思ったとき、杖をついて道を横切るおばぁが視界に入った。

「上原のおばぁかな?」

「そうみたいだな」

 上原のおばぁがこちらへ歩いてきたので、私は一真の一歩前に出た。

「何しとる」

「おはようございます。店が心配で、というか帰れなくなって店に泊まりました」

 ふん、とおばぁは鼻で笑い、店内を覗き込んだ。ちょうど春樹が出てこようとしていた。

「私の長男です。春樹、挨拶して」

 春樹の背を押すと、おはよう、と焦点の定まらない目で春樹が言った。

「こどもがいたのか。何人さぁ」

 おばぁが振り返った。

「この子と二つ違いの弟がいます。夫はいないので3人で暮らしています」

 そうねぇ、とおばぁは腰を曲げたまま春樹をじろじろと見た。店内に木を打ち付けたことを話そうとしたらお尻を蹴られた。つんのめらないように足を踏ん張り、横目で一真を睨む。一真はおばぁを顎でさした。

「あの、こどもが二人いて、いろいろと迷惑かけることもあると思いますが、これからもよろしくお願いします」

 頭を下げ、春樹の頭も手で下げた。心で一、二、三と数えてから顔をあげた。

「建物は大丈夫だったみたいだな」

 そう言ったあと、おばぁは来た道を戻っていった。

「俺も帰って港の様子を見てくる。二、三日は船が出ないから」

「ありがとうございました。一真さんがいてすごく」

「そこまででいいや。広い道を通って帰れよ。裏道は冠水している可能性もあるから。車が動きませーんって電話されても助けに行かないからな」

 一真は言い、上原のおばぁに追いついて横で話し始めた。


 遠回りして県道を通って帰った。坂道の途中にある春樹の幼稚園の前では、山に溜まった水が滝のように測道を流れていた。パワーショベルが動いていて、周りに作業服を着た大人が数人いた。腕を組み、難しい顔をしているのは明だ。ブレーキペダルに足を乗せたが、踏まずに通り過ぎた。明は市民のために働いている。私は自分のこどもを不安にさせ、準備不足で、一人では店も守れなかった。

「大ちゃんは夜中に目を覚まして少し泣いたけどいい子だったわよ。褒めてあげてね。紗里ちゃんは遠慮し過ぎ。事前に相談してもらったほうがうちとしても楽なんだよ」

 私は、ごめんなさいとありがとうを繰り返した。

 午後は真夏のような台風一過の陽気になり、雅子さんはテラスに大きなビニールプールを出した。こども達は初めは服のままで、途中から裸になって水のかけ合いをしたり、プールに寝っころがって水族館ごっこをしたりして遊んでいた。

「紗里ちゃん、いい人できた?」

 私はテラスの日陰に座ってこども達を眺めていた。二人分の冷たい飲み物を持って雅子さんが隣りに座った。

「いないよ。そんな余裕もないし」

 不即不離と言った一真の顔が浮かび、口の端が上がる。

「いるんだ?」

「いない。今はそんな時間はないし」

 そう? と雅子さんはきれいにカールした髪をはらってお茶を飲んだ。お母さーん、と春樹がプールに腹這いになって手を振っている。昨日ブイヤベースにいるときとは正反対の楽しそうな顔だ。一緒に遊べる友達、安心できる居場所。こどもはそれだけあればいい。それが難しいのだけれど。

「お母さん、見てー」

 再び春樹が叫んだ。

「何しているの?」

「イルカごっこ。優美が先生」

「完全に調教されているわね」

 雅子さんが言い、二人で笑った。


 店の周りに飛び散った空き缶や木を片づけていたら、雑貨店のおばぁが近づいてきた。

「大丈夫だったねぇ?」

 おばぁは目尻に皺を寄せて笑っている。

「帰れなくなって店に泊まりました。しかも私、台風の怖さが全然わかっていなくて、よりによって店に長男を連れてきていたんです」

「なんでさぁ」

 話していたら、微かに白粉の匂いがしてきた。隣の衣料品店の白塗りおばぁが近づいてくる。おばぁを味方につけろという一真からの指令が頭に響く。白塗りおばぁの目を見ながらきちんと挨拶をし、台風のときのことを話した。白塗りおばぁは「だっからさぁ」「だっからよぉ」と笑いながら言った。

「台風のときは無理しちゃだめさぁ」

「お客さんも台風の準備や片付けで来ないから店は閉めた方がいいよぉ」

「昔はすぐに停電したさぁ」

 おばぁ達の方向が定まらない話が続く。どの話にも相槌を打ってはいたが、この時間に仕事をしたいという思いと、おばぁの話につきあうことが今後の店の経営にとっては一番大事だから、という思いを心の内で戦わせていた。

 衣料品店に別のおばぁが買い物に来て、やっと話は終わった。おばぁ達は外回りを掃除するためのほうきやバケツを貸してくれ、雑貨店のおばぁはこども達にあげてねぇと、袋ごと飴をくれた。

 バケツで水をかけ、店の外壁に付いている葉や木屑、塩を落とす。通り会会長でもある豆屋の孝さんが「これ、使えぇ」とホースを投げてきた。ホースで勢よく水を流し、デッキブラシでタイルをこすった。白と茶の太った猫が近づいてきたから水をむけると、嫌そうな顔をして机の下に隠れた。

 外から見たブイヤベース。

 強い太陽の光が水滴に当たり、きらきらと光っている。私に任されているレストラン。週に何回も来てくれるお客様がいる。一時間以上かけて来てくれるお客様もいる。南部の田舎、辺鄙な場所なのに。古くて汚くて半分以上シャッターが閉まった市場なのに。新里さんの熊に似た顔がよぎった。台風で壊れなくて、というか壊さなくて本当によかった。

 外周りの片付けを終え、衣料品店へ顔を出した。

「マコトさんが勝つように選挙運動を手伝わせてください。何か私にできることがあったら……」

「急になんねぇ」

 白塗りおばぁはテレビを見ながら言った。

「休みの間に調べたのですが、現市長は原発稼働に積極的賛成を表明しているんです。沖縄に避難してきている家族も多いから、もしその人達に働きかけることができれば」

「あんたは糸満市民じゃないのよねぇ」

 振り返ったおばぁと目があう。

「そうですが、でも、手伝うことがあればなんでも言ってください」

「通り会の会議に出てぇ。今度は書記でもやってもらうねぇ」

 わかりました、と真面目な顔でうなずいた。おばぁは鼻で笑い、テレビ画面に顔を戻した。


 カウンター席に座り、メニューブックを開く。ブイヤベースの次のページに『パイ包み焼きセット』の説明を載せた。

『さくっとしたパイを開くと新鮮な近海魚と旬の県産野菜の香りが立ちのぼり、一口食べるとパイの中で濃縮された旨味が広がります。パイには自家製トマトソースとホワイトソースを添えています。ぜひパイやパンにつけてお召し上がりください』

 大げさかな。いや、これくらい書かないとお客様はブイヤベース以外のメニューを頼んでくれないだろう。メニューブックを閉じ、椅子から立ち上がった。

 台風が去り、最初のお客様は誰だろう。

 たぶん、と思ったときに上原のおばぁが雑貨店から歩いてくるのが見えた。ドアを開けて押さえる。

「今日から店を開けています。新しい魚料理を始めたので食べていきませんか」

 おばぁは杖を止めてじろりと私の顔を見た。

「お前が考えたのか?」

「はい。魚と野菜をパイに包んでおいしさを濃縮しました」

「なんのことかわからんが、それでいい」

 おばぁは奥の席に座って杖をたてかけた。お客様に自分が考えたメニューを食べてもらえる。生まれて初めてのことだ。

「こどもは? 台風のあとはどうしたさぁ」

「上の子も下の子も元気いっぱいに遊んでいました」

 おばぁはうなずき、さっさと行けというように手を払った。

 厨房に戻り、仕込んでおいたパイの具を包む。きっと上原のおばぁもこどもが好きなんだ。周りの店のおばぁ達も夫と別れて一人で子育てをしていると言った途端に、応援する、がんばれというムードになった。

 パイをオーブンに入れてサラダを白い皿に盛る。

 一真さん、沖縄の出生率が高いのは台風だけが理由じゃないと思うよ。

 10分後、店中にパイが焼ける香ばしい匂いがたちこめた。バターたっぷりのクロワッサンが焼けるときの匂いに似ている。焼けたパイを真白な皿の中央に盛りつけ、トマトとクリームのソースを半円になるようにあしらえた。大丈夫。きっとおいしいと感じてもらえる。これが第一号だ。

 おばぁの正面にパイの皿を置き、厨房から様子を窺った。まるで隠れて家族の様子を窺う家政婦のようだ。本当は、おばぁの目の前に座って一口ごとに感想を聞きたい。

 おばぁが大きなスプーンでパイを割った。湯気が立ちのぼる。おばぁは赤いソースと白いソースをパイの上にかけて口に入れた。

 

「結局、紗里ちゃんの替わりに店をやってくれる人はいないんでしょう」

 店を閉めている間、雅子さんと二人でパイ包み焼きを試食してどのソースが合うかを試した。代わりは見つかっていない、と答え、明の家の大きな机に種々のソースをかけたパイ包み焼きを並べた。

「そうなると思った。ちゃんと勉強もしなよ。店も市場もいつ無くなるかわからないんだから」

「雅子さん、このパイはホワイトソースも合うけど甘ったるくならないかな?」

「二種類にすれば? 見た目もお洒落だし、食べるときも楽しめるし」

「すごくいいかも」私は赤と白のソースをパイにつけて口へ運んだ。「ずっとやりたかったレストランの仕事をやっているのに、こなしてしまうときがある。気づいたら一日が終わっていて」

「主婦の仕事なんて、それの最たるものだよ。社会的にも家族にも、やるのが当たり前と思われているし。毎日同じことの繰り返しだから。これ、いいじゃない。両方のソースをつけると酸味と甘みが引き立って」

「でも、明兄は雅子さんのおいしい料理や手際の良さを褒めてくれるから」

「あんなの、人がいるときだけよ。女は先のことを考えるのが苦手だからなって、明はよく言うでしょう。確かにそうかもしれないけれど、その分、今を楽しみたいのよね。女、男というより性格もあるけれど」雅子さんはナイフでパイを大きく切り分けた。「私も夏美が大きくなって手が離れたら働こうかな。ソースを考えるの、楽しかったし」

「いいと思う。また手伝ってほしい」

「紗里ちゃんのとこでは働きたくない。やるなら実入りがよくないと」

 そうだよね、と私は苦笑いを返した。


「ごちそうさん」

 おばぁが言った。パイ包み焼きが盛られていた皿は使う前と同じように真白で、ソースの跡もなかった。

「きれいに食べてくれてありがとう。おいしかった?」

「早く珈琲、持ってこい」

 おばぁはいつもと同じようにお金を押しだした。

 上原のおばぁ以外にパイ包み焼きを注文したのは女性一人だけだったが、彼女も残さずに食べ、ホワイトソースがおいしかったと言ってくれた。気候のせいか、沖縄の人は濃い味付けのものを好むらしい。特に塩気、甘みを求める、と。二種類のソースにして成功かもしれない。

 16時。今日もお客の数は二桁に届かなかった。

 I'm going to get you.I'm going to get you.

 台風のときの曲を歌いながら洗い物をする。好きな音楽を聴きながら洗い物や片付けをすると、毎日のことでも少しだけ楽しくなる。実家を出てから気づいたことの一つだ。

 流しを磨き終え、皿をしまってから勢いにのって一真に電話をかけた。

「なんだよ」

「もしもしでいいから、普通に言って」

「はい、もしもし」

 低い声。刑事が情報を集めるときのような感じだ。メモ帳に太陽の絵を描きながら、新メニューを出したことを伝えた。おばぁが初めて残さず食べてくれたことを話したときは声が大きくなった。

「そっか、よかったな。じゃ」

「ちょっと待って。もう少し話さない?」

「なにを?」

「今日あったことを」

「珈琲を飲める時間、あるの?」

 今、一真が来て珈琲をいれる。ゆっくり話してから店を閉める。お迎えが遅くなる。

「ゆっくりは、できないかも」

「早く帰ってこどもとの時間を大事にしな」

 電話は切られた。半分塗りつぶされた太陽を最後までボールペンで黒く塗った。ゆっくり話せなくても会いたい。今日の仕事が終わり、嬉しいことがあって、ただ一真に会いたい。

 でも、同じようには一真は感じていない。

 紙を丸めてシンクのゴミ箱に捨てた。


 朝、市場へ着いてブイヤベースに風を通したら、まずダルマおばぁのところへ行って野菜を買うようにした。隣りの菓子売りのおばぁの台に油味噌や素麺チャンプルー、にらが入ったちんぴんなど、おばぁの作ったものがあれば一つは買う。味が濃い、油が多いと感じたら、もう少し調味料を減らしてくれたら嬉しいと伝える。

 店へ戻る途中に雑貨店、豆屋、乾物屋をのぞき、挨拶をした。おじぃもおばぁも笑顔を返してくれた。しかしA棟のボスだけは私がどんなに大きな声で挨拶しても三白眼を向けてはくれなかった。

 衣料品店の白塗りおばぁは店を開けるのが遅く、だいたい私が看板を外に出すときに店のシャッターを上げる。

「大家が毎日あんたのところへ行くでしょう」

 白塗りおばぁはここだけの話、というように片手を口の横に添えて話しだした。

「毎日は来ないですよ」

「お金にうるさくてさぁ。私なんか一回支払いが遅れただけで散々言われたから、あの人と話すのは嫌なのさぁ」

 これからどれくらい話が続くのだろう。もうすぐ開店時間だし、上原のおばぁ本人が来てしまう。

「でもね、髭の人がレストランを始めてから、この市場に活気が戻ったっていうか。賑やかになったのよ。遠くからも客が来るようになってねぇ。あんたもたまには中を見ていって。ちょうど似合う服があるから」

 腕を引張られ、初めて衣料品店の奥へと入った。真青なロングスカートと薄紫のタイトスカートが壁に吊るされている。

「青いスカート、かわいいですね」

「私の娘が仕入れてくんのよ。2000円だけれど1800円でいいわ」

 レジの横には足踏みミシンが置いてあった。

「服を直す仕事もしているんですか?」

「仕立て直しで家賃を稼いでいる感じねぇ。じゃあ、1500円でいいわ」

 背の低いおばぁはフックのようなものでスカートを外し、私に当てた。

「似合う似合う。若い人は背が高くていいわねぇ」

 姿見に映った自分を見る。海の色のスカート。新しい服というだけで欲しくなる。1500円。以前なら簡単に払うことができた。でも、今の私にとっては大金だ。春樹や大輔の物ならまだしも、自分の服。

「特別に1000円でいいわよ」

「1000円? 本当に?」

「いいって言っているんだから、いいの」

 おばぁはビニール袋にスカートを入れて手を差しだした。私はエプロンのポケットから財布を取った。

「あんたのとこは汁でしょう。魚汁はちょっとねぇ」

 お金を渡したときにおばぁが言った。

「他のメニューも、あとパイ包み焼きもありますよ」

「パイってあの、パンみたいなの?」

 曖昧にうなずき、さくっとしていて美味しいですよ、と伝えた。

「なら、それ出前して。二時くらいでいいから。お店の裏から持ってきてね。他の人にばれるから。白いシャツも一緒にどう? 色違いのこっちのスカートは?」

 おばぁは次々に服を広げていく。

「これだけでいいです」

「そうそう、次の通り会の集まりは今度の水曜日、十時からよ」

「通り会……」

「あんたが書記をやってくれるんでしょ。役所に対抗するために一人でも参加者を増やしたいのよ」

「通り会って、会報みたいなのはないんですか? 次がいつかもわからなかったら他の人達も出席しづらいかも」

「誰が作るのさぁ。あんたやってくれるの?」

 おばぁは三足500円の厚手の靴下、キッチン用タオルセットまで持ってきた。

「お店を開ける時間だから帰りますね。二時にパイ包み焼きを持っていきます」

「パンは柔らかいのを大盛りで珈琲はあちこーこーでねぇ」

 店を出たら、おばぁの声が追いかけてきた。


 上原のおばぁは一日置きにパイ包み焼きを食べにきた。毎回、皿は真白だった。そこの昭和食堂ではチャンプルー定食を珈琲つきで500円で食べられる。おばぁは八十歳は過ぎているのに魚とバターがたっぷり入ったパイ包み焼きセット1500円を完食する。

「パイ、気に入った?」

 珈琲をテーブルに置くとおばぁはお金を押しだしてきた。支払い方法は変わらないらしい。お礼を言ってお金を受け取ったときにおばぁが早口で話した。外国の言葉のようで聞きとれなかった。

「もう一度、ゆっくり言ってください」

 おばぁは珈琲に砂糖とミルクをたっぷり入れ、スプーンでかき混ぜて一口飲んだ。

「ここを続けてもいい」

「続けてもいい? この店を私が続けてやってもいいっていうこと? 一ヶ月が経ったから? あっ、家賃も払わないと」

「大城一真に礼を言っとけ」

 おあばは手を払った。むこうへ行けということらしい。私はカウンターの内側に屈んで家賃分のお金を封筒に入れた。

 

 ランチのピークが過ぎ、店内には誰もいなくなった。隣りの衣料品店への出前も終わり、自分のご飯を食べようとスープを温め始めたときに入り口のドアが開いた。昭和の雰囲気に現代風の香り、くすんだ市場に鮮やかな色、そこだけ異空間のようだ。生成り色のワンピースを着た雅子さんとハワイのムームーのようなドレスを着た優美が立っていた。

「来るなら、連絡してくれれば」

「びっくりさせたくて」

 雅子さんは窓際の席に座り、優美を隣りに座らせた。私は机を移動して4人が座れるようにした。

「どうしてこの時間に? 明兄は?」

「内緒で来たのよ。時々、下の子なしで優美と二人でデートしてるの。紗里ちゃんも春くんと二人で出かけてみれば? なんだかんだで上の子は我慢しているでしょ。ね、優美?」

 優美は困ったように笑う。

「今日はブイヤベースにしますか? それともパイ包み焼きにする?」

「私はブイヤベース。優美は?」

「優美はスープよりパイがいいな」

「人前では自分のことを私って言いなさい」

 わかりました、と優美がつぶやく。

「サラダやパンが足りなかったら声をかけてね」

 厨房で小魚のえらを取っているとき、入り口に気配を感じた。一真がドアを開けたところだった。

 よりによって、どうして今、この時間に。

 彼は雅子さん達を見てからカウンターに座った。

「知り合い? 珈琲と甘い物、ちょうだい」

 一真は今日もTシャツに短パン、島ぞうりだ。

「兄の奥さんと娘。だから義理の」

「ほら、魚が待ってる。早くやってきな」

 一真は顎でまな板をさし、雑誌を広げた。

 ブイヤベースとパイ包み焼きをテーブルに並べたとき、「パンの小麦粉はどこのを使っているの?」とライ麦パンを手にした雅子さんから尋ねられた。優美はレーズンパンのレーズンをむしって先に食べ、雅子さんに注意された。

「小麦粉はカナダ産」

「全部? ライ麦も? 全粒粉も?」

 たぶん、とは言えない雰囲気だった。

「明日、もう一度訊いてみるね」

「魚介類は近海のものを使っているのよね? 自然栽培の野菜が入らないときはどうしているの?」

 雅子さんの真剣な目。私も、雅子さんの隣りで同じ目をして店員に詰問したことがある。沖縄に遊びに来ていて、小さな優美を連れて気楽にカフェ巡りをしているときに。

「化学調味料は使っていないわよね?」

 うん、と顔を縦に動かす。ううん、と横に振ったら雅子さんとの関係が終わるかもしれない。冗談ではなくて。

「よかった。人が作ったのものを安心して食べられるのって幸せ。優美、おいしいでしょう」

 木のスプーンでスープをすくっていた優美が、うん、とうなずく。

「外で魚料理って久しぶり。近海のだったら海流の関係でむこうのよりましだもんね」

 一真に聞こえていませんようにと思いながら、そうだよね、と小声で返した。

「ブイヤベースってハード系のパンと合うわよね。これで飲み物がついて1500円って安くない? ランチタイムだけの営業でしょ。そんなんでやっていけるの?」

 曖昧にうなずく。エプロンに押しつけて親指の爪を引っ掻く。

「珈琲、まだ?」

 一真が言い、雅子さんと優美がカウンターへ顔をむけた。

 私はカウンターに戻り、二人分の豆をミルに移して挽いた。香りを飲むくらい、濃い珈琲が飲みたい。

「濃いめにいれて」

「また?」

「またってなんだよ」

「私もとてつもなく濃い珈琲が飲みたいと思っていたの」

 一真は唇を歪めるように笑った。

「こだわりが強いって大変だよな」

 一真のむこうにいる雅子さんはフォークとナイフで貝から中身を取り出している。

「こどもがいるからね。あの子が小さいときに喘息がひどかったの。ベジタリアンの店、マクロビの店、ローフードの店とか、いろいろ行ったな」

「強そう、には聞こえないか。何が旨いの?」

 焦茶色の粉が盛り上がり、旨味をためている。円を描くように湯をおとしていくと褐色の液体がガラスに溜まる。

「かぼちゃと芋。玄米」

 一真が声をだして笑った。

「ここで働けてよかったな。かぼちゃと芋は食べ放題だろ」

「ローフードの店はナッツのクリームで作ったケーキがおいしかった。あれなら一真さんも文句はないと思う。食べ物は駄目かも。前菜は終わりだ。肉か魚を持って来いって言う姿が浮かぶ」

 白いカップを渡すと、一真は目をつぶって香りをかいだ。

「お金を遣うことが経済をまわすことだと思っていたから。納得できる人や店にお金を遣おうと決めていたし」

 珈琲を飲み、彼は上目遣いでこちらを見た。

「でもよかったじゃん。こだわり姉ちゃんに新メニューも協力してもらったんだろ」

「どうして知っているの?」

「市場のおばぁ達ともうまくやっているようだし。それより珈琲が冷める前に、ただ単純にうまいケーキもください」

「すっかり忘れていた」

 棚からケーキ皿を取ろうとしたら手が滑り、丸皿が落ちた。

 が、膝で挟み、一真や雅子さんの前で皿を割るという失態を避けることができた。

 なんか不吉、とつぶやいたとき、厨房の棚に置いてあった携帯が鳴った。大輔の保育園の名前を確認し、裏口から外に出る。

「大輔くん、今日はおやつのお代わりをしなかったんですよ。おかしいなと思って熱を測ったら七度八分あって。八度以上でお迎えなんですけど、これから上がる可能性もあるのでなるべく早くお迎えにきてくださいね」

 明るい友子先生の声を聞きながら、これから片付けに30分、運転して一時間以内に着けるだろうか、と考えていた。


「誰? どんな関係なの?」

 一真が帰り、雅子さんはカウンターに座っていた。優美は奥の広いベンチシートに座り、『沖縄の魚の顔図鑑』という、店にある中で唯一こどもが楽しめる本を広げている。

「常連さん。私がやる前から店に魚を卸してもらっているウミンチュでもある」

「だから、あの格好」

 私はカウンターの中で洗い物をしていた。

「くつろいだ顔をしてたよ。あの人と話しているときの紗里ちゃん」

「かぼちゃが好きとか、そんな話だよ」

「このハーブも無農薬でしょ? どこの?」

「かりゆし市場で売っている具志堅さんの」

「ああ、知っている」雅子さんは透明なティーカップに口をつけた。「この前、森谷さんの玉葱は買えた?」

「あの時はありがとう。こっちで買えないときはむこうへ行くようにしている」

「お母さん、これ可愛いくない?」

 優美が図鑑を開いて見せた。

「その前に紗里ちゃんにお礼は?」 

「ごちそうさま、とても美味しかったです」優美がにっこりと微笑む。「ケーキもごちそうさまです。頬っぺたが落ちるかと思った」

「可愛い。女子と男子は全然違う。優美ちゃんの分は私がご馳走するよ」

「今日は何人来たの?」

 雅子さんから目を逸らし、スポンジの泡を皿にこすりつける。思いだしながら数えているふりをする。数えなくてもわかっているのに。

「9人、かな」

「一人分でも今の紗里ちゃんには大事でしょ。店はボランティアでやっているんじゃないんだから採算が取れるようにしないと」

 雅子さんの言う通りだ。このまま店を続けていきたいのだったら、この仕事だけで暮らせるようにならないといけない。それには、あとどれくらいお客様に来てもらえばいいのだろう。

「大ちゃんが待っているんでしょ。洗い物、手伝うわよ」

 雅子さんは席を立ち、ティーセットを流しに運んだ。

「あと少しだから大丈夫」

「いいのいいの。私が洗い物をしている間にできることをやったほうがいいじゃない。こういうときに遠慮しないのってこの前も言ったでしょう」

 20分で片付けを終え、二人と一緒に店から出てシャッターを下ろした。隣りの衣料品店は既に店を閉めている。雑貨店のおばぁへ先に帰りますと声をかけたら、「誰ねえ誰ねぇ」とおばあは店から出てきた。

「私の姪の優美ちゃん。可愛いでしょう」

「いくつねぇ」

 優美は雅子さんの顔を見たあとに「八歳です」と答えた。

「これも、これも持っていってぇ」

 おばぁは紫の蒸しパンが六つ入っているパックと中華菓子の月桃のような見た目の厚みがあるクッキーが8枚入っているパックを優美に差しだした。雅子さんが優美の前に立ち、「いいですから」と断った。

「紗里ちゃん、早く帰らないと行けないんでしょう」

「おばぁ、ありがとう。一つだけもらっていこうかな。いくら?」

「いいからいいから」

 おばぁは蒸しパンのパックを私に持たせた。

「払います。いくらですか?」

 雅子さんが鞄から財布を出したが、おあばは優美に近寄り、飴を渡している。優美が雅子さんの顔を見上げる。雅子さんは横に首を振った。

「私がもらっておくね。後で食べる。いつもありがとう」

 おばぁは目を細めて優美を見ていた。

「毎回ああいう調子なの?」

 白のハイブリッドカーが私の軽自動車の横に停まっていた。

「おばぁはこどもが大好きだから」

「紗里ちゃんはそういうのを食べているの?」

 雅子さんは蒸しパンのパックを目でさした。

「もらえば、食べるかも」

 ふうん、と雅子さんは言ってリモコンキーのボタンを押し、私は軽自動車に鍵を差し込んだ。

 

 普段だったら起きるなり、ご飯はなあに? と言うのに、今朝は、抱っこして、と大輔がくっついてきた。

 大輔を抱いて朝食の準備をする。

 包丁を使うからね、と下ろそうとしたら大輔は泣きだした。

 椅子に座り、大輔を膝に乗せて向かい合う。大輔の目がとろんとしている。首の後ろをさわったら私の手の平よりも熱い。昨晩は早く寝かしたのに。

「春樹、体温を測るのを持ってきて」

「大ちゃん、お熱?」

 春樹は絵本から顔を上げない。

「たぶんそう。早く持ってきて」

 はーい、とゆるい返事をして春樹が立ち上がった。

 体温を測るための一分が長い。

 39.1という数字が目に入る。大輔が39度を越すのは初めてだ。膝の上に大輔をのせたまま頬杖をつく。

 まず、春樹を幼稚園に送ろう。明には迷惑をかけるなと言われている。芽衣のところは海生くんがいるし。ファミリーサポートの人にこどもの病気が理由で預けるならば病院で感染症の類いではないという証明書が必要だ。病院に行かなくてはいけない。そしたら、今日は店を開けられない。

 大輔が私の胸に頬をつけた。大輔とふれている部分から熱さが伝わってくる。大輔は小さい身体でこの熱に耐えている。

「春樹、お母さんの鞄から携帯を取って」

 春樹の反応がない。

「大ちゃんにお熱があるから早くして」

 はいはい、と春樹は絵本を閉じた。

「魚、準備しちゃったよね。ごめんなさい」

「無理すんなよ」

 電話で聞き慣れた、素っ気ない一真の声だった。

「俺も話があるからさ。次、店を閉めた後にでも時間つくって」

 わかった、と言い終わらないうちに電話は切られた。

「ねえ、お母さん。今日はお店に行かないの? 僕も幼稚園を休んでいい?」

 春樹の目がきらきらしている。

「これから大ちゃんを病院に連れていくの。病院は病気の人が行くところだから春樹は行けない。もし春樹まで病気になっちゃったらどうするの」

「わかったけど、なら早く迎えに来てね」

「できるだけね」

 大輔は私の胸の中で短い呼吸を繰り返していた。

 病院で用紙に記入し、二時間待たされた。待っている間、大輔は私の太ももの上に頭をのせて大画面に映っているアンパンマンを眺めていた。

 名前を呼ばれ、診察室に入る。医者が大輔の喉や耳を診た時間は5分だった。

「感染症などではなさそうですね。解熱剤はお持ちですか?」

 年配の男性の医者が言った。会計を待つ間に大輔は眠ってしまった。

 病院からブイヤベースへ行き、臨時休業の紙をシャッターに貼る。厨房に入るといつものようにサラダ用の野菜を洗ったり、芋や南瓜の下拵えをしたりしたくなった。

 でも、大輔は私の腕の中で目を閉じ、熱い息を吐いている。店を開けられるわけがない。

 痛んでしまう食材を持って店を出ると、隣りの衣料品店のシャッターが上がっていた。まだ十時過ぎなのに……。

 そうか、今日は水曜日、通り会の会議の日だ。店を覗いたが、白塗りおばぁの姿は見えない。手伝わせてくださいと自分から言ったのに。三角屋根の下にある古びた机でメモを書いた。斜め前に座っている赤ら顔のおじぃからアルコールの匂いが漂ってくる。大輔は私の膝の上でぐったりとしている。通り会の会報も作ろうと思っていたのに、結局、口だけになってしまった。今日はこどもの調子が悪く通り会の会議に出られないこと、次回は必ず手伝うと書き、衣料品店の棚へ置いていった。

 後部座席のチャイルドシートに大輔を座らせたら、すぐに目をつぶった。本当はこうやって連れ出すのもよくない。家で安静にして寝かせなければいけない。

 雲一つない晴天がフロントガラスのむこうに広がっていた。今日、初めて空を見た気がする。大輔が元気だったら海へ遊びに行きたくなるような青空だ。

 港にあるコンビニの看板が視界に入った。

 信号で止まる。

 奥には船が並んでいる。近くに、一真がいるかもしれない。釣り糸を垂らしているかもしれない。

 顔を見たい。話がしたい。台風の夜と同じように、身体の中心から思いが溢れてくる。

 でも、とアクセルを力なく踏む。実際に会っても一番したいことはできず、話したいことは話せない。

 熱があるこどもを連れてうろうろすんなよ、と彼は言う。

 明日は大丈夫だから魚をお願いします。そんなふうに普通の顔で言い、別れる。それだったら会わないほうがいい。

 マンションの駐車場に着いて車のエンジンを切ったら大輔が目を覚ました。車に乗せたときよりも目に力が戻ってきたようだ。大輔を抱いて階段を上がる。踊り場では白に近い水色の海が見えた。

「大ちゃん、海がきれいだよ。元気になって入りたいねえ」

 うん、きれいだねぇ、と大輔は大人のような笑みを浮かべた。

 昼はうどんを茹で、膝で食べたいと言うので膝の上に大輔を座らせてうどんをすすった。

 大輔は一口食べては顔をあげ、「おいしいねぇ、お母さん」と私の顔を見て言った。

 おいしいね、と言葉を返す。次の一口も次の一口も。

 おいしいね、と言いながら、ごめんねと思う。普段からこうしていたいよね。具のない素うどんを食べただけで大輔はこんな表情を見せてくれる。大輔ともっと一緒にいたい。大輔の笑顔が見たい。でも店をしている限り、それは叶わない。

 私が一番に望んだことはなんだったのだろう。夫と暮らしていれば主婦として家にいられた。こども達と長い時間を過ごせた。臨時職員でもいいから定額の給料が貰える仕事をしていたならば、もっと時間に余裕があった。有給の休みも取れた。  

 お母さん、と大輔が私を見ている。私は両方の口の端を上げた。私のつくった笑顔を見て大輔もえくぼを浮かばせた。

 布団に横になって絵本を読む。何冊か読んだ後、大輔の頬を突ついたり、ももをなぜたりしているうちに大輔は再び眠りに落ちた。静かだった。時折、遠くでこどもが話しているような声がしたけれど、それも完全な音にはなっていなかった。海からの柔らかな風が身体にあたり、白いレースのカーテンがなびいている。風は大輔に良くないだろうか。もう少し窓を閉めたほうがいいだろうか……。

 私が先に目を覚ました。腹部にのっている大輔の足が熱く、小さな湯たんぽのようだった。頬を赤くした大輔の顔が私の顔から10センチも離れていないところにある。一緒にお昼寝をするなんて、それこそ大輔が赤ちゃんのとき、産休中で家にいたとき以来だ。大輔の肌はつるつるしていて頬に弾力がある。つきたての餅のようだ。ぶつぶつも、しみもそばかすも、当たり前だけれど皺もない。大輔には春樹のような食物アレルギーはなかった。血液検査をしたら蕎麦に高い値が出たが、卵、牛乳にもアレルギーはなかった。口の周りから首へと広がっていく斑点を恐がらなくていい。結果が書いてある紙を見てどれほど安堵したことか。一番始めに産まれた子がお母さんの悪いものを全部持っていってくれるんですよと医者は言っていた。

 大輔が寝返りを打ち、私の方へ身体を寄せてきた。三年前はお腹の中にいて何をするのも一緒だった。私が食べた物が大輔へいく。同じ音を聴き、同じ景色を目にした。感情さえも、あの時の大輔にはわかっていたのかもしれない。今の大輔の身体は大きすぎて自分のお腹から出てきたことをうまく信じられない。すぐに大きくなっちゃうなと思いながら大輔の熱い頬を指でなぜた。

 夜、大輔は一時間おきに眠りから覚め、また眠るというのを繰り返した。布団の上に座って壁をじっと見たり横になったまま叫んだりした。急に立ち上がり、台所と布団がある部屋とを行ったり来たりもした。

「大ちゃん、お母さんはここだよ。ここにいるよ」

 繰り返し、大輔を抱いて布団に連れてくる。寝かされても大輔はすぐに立ち上がり、同じ行動をした。歩くのを止めさせようとしたら手を振り払われた。大輔の身体はどこもかしこも熱かった。

「40度を越えても元気があるようだったら薬を飲ませないほうがいい。どう見てもつらそうになったら坐薬を入れなね。身体は高熱を出して戦っているんだから薬で無理に下げないように」

 春樹の発熱のときに雅子さんが教えてくれた。

「大ちゃん、大丈夫? 大ちゃん」

 大輔はぼうっと台所に立っている。

 これでも薬は使わないほうがいいのだろうか。

 わからない。誰かいれば。相談できる誰かがいれば。

「大ちゃん、ごろんしようか」

 声をかけたら大輔は私の手を握った。布団の上で横になる。呼吸は落ち着いている。まだ大丈夫だろう。次に同じ状態になったら薬を使うことも考えよう。

 春樹は布団から転がり、窓際の畳の上で寝ていた。真暗だったけれど清らかな空気が春樹のまわりを包んでいる気がした。風が流れるように、大輔の熱が外へ部屋から出るように布団部屋のドアを広く開けた。

 朝を迎え、大輔の熱は38度7分だった。

 昨日頼んでおいたファミリーサポートの国仲さんの家へむかう。バックミラーに映る大輔は窓の外を眺めていた。大輔の顔はのっぺりとしていて感情が浮かんでいない。

 国仲宅の前で車を停めて大輔のリュックを背負い、シートに座る大輔に手を伸ばした。大輔はすんなりと身体を預けてきた。

 玄関から国仲さんが出てきたので挨拶をする。雑貨店のにこにこおばぁを少し若くしたような、優しそうな女性だ。

「今日はおばちゃんと遊ぼうねぇ」

 国仲さんが大輔に手を伸ばしたら、大輔は私にしがみついた。

「あっち、車、あっち」

 大輔は国仲さんに背をむけて車を指さしている。

「大ちゃん、今日はこのおうちで遊んでね」

 なるべく明るい声をだし、玄関へ抱いたまま連れていく。大ちゃん、と呼びかけ、身体から大輔の上半身を離した。

「お母さん、店を開けなくてはいけないから、どうしても大ちゃんを連れていけないの」

 大輔は首をふっていやいやをしている。

「楽しく遊んで待っていてほしい。おいしいものも食べられるから」

 泣き声が響き、私が話すことは大輔の耳に入っていかない。大輔は私にべったりとくっついた。泣き続ける大輔の身体は顔から足まで火のように熱い。

「大輔くん、お母さんが帰ってくるまでおばちゃんと遊ぼうか。飴やクッキーもあるよ」

 国仲さんは飴玉を持ってきたが、大輔は彼女を見ようともしない。

「大ちゃん、お願い。なるべく早く迎えに来るから」

 国仲さんの方へ大輔をいかせようと身体を離した。大輔は余計にしがみついてくる。私は国仲さんと目をあわせ、困りましたという顔をつくった。

「車、あっち。お母さん、車、あっち」

 大輔は泣きじゃくっている。

 大ちゃん、ともう一度、声をかける。

 目に涙が浮かんでくる。こどもを大切にしたくてこっちに来たのに。大輔は病気でつらくて一緒にいたいと泣いているのに。なのに、他人に、今日初めて会った人に預けようとしている。

 本末転倒じゃないか。

 大輔は私から離れまいと、できることならもう一度私の中へ入ってしまいたい、そう思っているかのように身体を押しつけ、しがみついてくる。

 大輔の悲しさが私の身体にも流れてくる。苦しい。お母さん、離れないで。一緒にいて。

「申し訳ないです。今日は仕事を休んで一緒にいることにします」

 国仲さんは微笑み、数度うなずいた。目から涙が溢れ、私は指で払った。

 大輔を抱いて車に戻った。大輔はおとなしくシートに座り、シートベルトを閉めるときも嫌がらなかった。

 見送っている国仲さんに会釈してからエンジンをかけた。

 連絡をしないと。市場にも行かないといけない。連絡すべき時間はとっくに過ぎている。

 国仲さんの姿が見えなくなるまで走り、ハザードをつけて車を停め、バックミラーに映る大輔を見た。泣き疲れたのか、熱のせいか、大輔はぐったりとしていた。

 大輔を連れて店に出ようか。騒ぐ元気もないだろうし、寝かせておけるかもしれない。

 そんなわけにはいかない。大輔に負担がかかるし、料理中や接客中に抱っこと言われたらどうしようもできない。

 仕入れをキャンセルせず、通常通りに仕入れるということもできる。魚もパンも家で食べればいい。

 でも、明日も休むかもしれない。そしたらまた迷惑をかけてしまう。雅子さんも売り上げを大事にすべきだと言っていた。正直に話して、20%のキャンセル料をとってもらうのが一番いい。

 一真は昨日より淡々としていた。芽衣の優しい声を聞いたらまた涙が溢れそうになった。

 電話を切り、緩やかな長い坂道を低速で登る。

 雑誌で見るような空、沖縄らしい真青な色。なにもなかったら、晴れ晴れとする、沖縄に来て本当によかったと感じるような空の色だ。

 でも、疲れるような青、密度が濃過ぎる青い色だと感じた。海を眺めたい。家のベランダからではなく、もっと離れたところから海が眺めたい。

 遠回りをして春樹の幼稚園より高台にある城址公園へ向かう。公園の広い駐車場には車が一台も停まっていなかった。

 大輔を抱き、日陰にあるベンチに座る。遠くに薄い色をした海があった。目に海を映しているだけの時間が流れていく。大輔が熱く、私の身体も熱くなっていく。このまま私へ熱が移ればいい。

 公園の遊具、ブランコやローラー滑り台、蜘蛛の巣と呼ばれているロープタワーにこどもの姿は見えない。ただ、そこに取り残されている。沖縄の子達は保育園か幼稚園、学校にいる時間だ。

 どうして病気の大輔を預けられる人がいないのだろう。両親、夫、夫の両親。こどもが熱を出したときには専業主婦の友人に預かってもらっている人もいた。私には誰もいない。大輔の背を上から下へとさする。大輔がゆっくりと目を閉じた。

 全部、自分が招いたことだ。大丈夫といってきたのは自分だし、最も頼りになる明が反対していることをやり始めたのも自分だ。前の仕事だったら預けられる人がいなくても、もっと楽に休めた。仕事は他の人がやってくれた。子育て中の人も多かったから持ちつ持たれつだった。

 涙はすぐ近くにあったが泣きたくなかった。明が言うように、この子達が小さいうちは店をやるのは無理ではないか。大輔の熱が出てから、何回も打ち消してきた考えが再び浮かぶ。誰かを雇いたくても臨時で働いてくれる人がいるのかどうか。そもそもブイヤベースやパイ包み焼きをその人が作れるのか。給料が払えるのか。

「ねえ、大ちゃん。一緒にいたいよね」

 熱がこもった小さな身体を後ろから抱きしめた。

 家に帰ったら玄関のドアにビニール袋がかかっていた。中を見ると保冷剤の上に刺身が五人前くらいパックに入れられている。

 一真が来てくれたんだ。家にいなかったら電話してほしかった。電話でのぶっきらぼうな一真の声。彼は電話をかけたりなんかしないだろうと思い直し、少し笑った。ビニールの中にはちらしの切れ端が入っていた。うまいぞ、と書いてある。

 大輔を抱いて家へ入り、冷蔵庫にパックを入れた。一言なのが一真らしいと思ったら、瞼に涙がたまってきた。

 一度泣いた日はすぐに涙がたまる。

 冷蔵庫をそっと閉めて大輔と一緒に椅子に座った。テーブルの上には体温計が置かれている。

 会いたい、一真さんに会いたい。自信満々な笑顔が見たい。おいしい珈琲をいれて一緒に飲みたい。

 目をつぶり、大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。

    

 春樹が寝返りをうったときに腕が私の顔に当たり、目を覚ました。大輔の頭をさわったら昨晩より熱くない。大輔の背中や首の後ろもさわる。下がっている。今日は大丈夫かもしれない。

 二人を起こさないように静かに台所へ行き、湯を沸かした。ベランダから居間の畳へ光が射し込んでいる。紅茶を冷ましている間、ベランダに出て海を眺めた。まだ日の出前なのに明るい。白い空、海の真上だけ朱が混じり、海風がかすかに流れている。

 あんなに大輔と一緒にいたいと思ったのに、大輔が保育園に行けると思うと嬉しい。父親のいない二人の子の母として、これでいいのだろうか。私の母親も同じような思いを感じながら子育をしていたのだろうか。

 いつも通りの朝だった。二人とも島バナナを2本、おにぎりを2個ずつ食べて水を飲み、着替えをした。春樹を送り、長い坂を登った。バックミラーに映っている大輔は窓の外を眺めている。保育園に行きたいと思っているのか行きたくないと思っているのか、表情からはわからない。昨日のように泣かれたら、私は大輔を預けて店へ行けるのだろうか。

 駐車場から玄関への道のりは手をつないで歩いた。

「大輔くん、大丈夫ですか?」

 女性の副園長が声をかけてきた。

「昨日の夕方頃から熱が下がってきて昨晩はぐっすり眠れました」

「ニコニコバイバイ、するんだもんね」

 大輔はつぶやき、玄関に座って自分で靴を脱いでいる。

「大ちゃん、楽しく遊んでね」

 バイバイ、と手を振ると大輔は目をあわせてにこっと笑い、えくぼを見せながら手を振った。昨日、国仲さんに預けようとしたときが嘘のような別れ方だ。

 車へ歩きだし、振りむくと大輔は私を見てバイバイをしていた。

 私は一回目よりも大きく手を振った。

 ここを曲がったらもう大輔の顔は見えないというところで、もう一度振りむいた。まだ大輔は私を見てバイバイをしていた。副園長が大輔に声をかけ、大輔が立ち上がった。私は両手で手を振った。大輔が両方の人差し指を頬につけた。笑っている。ここからでもえくぼが見える。バイバイと大輔は手を振った。大輔の真似をして人差し指を頬につけた。涙を堪えながら手を振り、すぐに背をむけた。

 大輔はお母さんといたいと言っている。まだ完全に治ったわけではないのに我慢して笑顔を見せている。誰のために? 私のために。私が店へ行きたいのを知っているから。生まれてからたった三年しか経っていないのに。

 車に乗り、エンジンをかけた。ゆっくりとバックして車を駐車場から出す。

 母は楽しそうに暮らしていました。僕達のことが大好きで、僕達のことをよく見て話を聞いてくれました。

 全然、そんな母親じゃない。

 大ちゃん、二日間、朝から眠るときまでずっと一緒にいられて幸せだったね。そう、お母さんが大ちゃんといられて幸せだった。

 大輔は泣かなかったのに。

 ニコニコバイバイをしている大輔の顔が頭から離れない。保育園の玄関へ戻って大輔と家に帰りたい。何もしないで布団の上で海からの風を感じながら一緒に横になりたい。

 なら、戻ればいいじゃないか。仕入れをキャンセルして。お客だってたいして来ないのだから。

 右ウインカーを出して車が途切れるのを待つ。

 なぜ戻らないのか、なぜ行くのか、自分でもわからなかった。


 ダルマおばぁが野菜を持ってくるのを待つ間、隣りの菓子売りのおばぁに大輔の熱のことを話した。

「みんな、そうだからねぇ」

 おばぁは言い、油味噌のパックを全てビニール袋に入れた。

「これをうどんや素麺にからめて食べさせなぁ。お金はいいから」

 えっ、と声をだしてしまった。菓子売りのおばぁの口からお金はいいからという言葉が聞けるとは思わなかった。野菜を持ってきたダルマおばぁは、菓子売りのおばぁに沖縄の言葉で話した。

「あんたが買わないとだめになっちゃうからたくさん入れておいた、だってさぁ。がんばりなぁ。あとマンゴーも入っているって。それは別料金、500円だってさぁ」

「本当?」

 ダルマおばぁはにこにこと笑っている。

「ダルマおばぁはくれるって言っているような気がするけれど」

「このマンゴーよぉ」

 菓子売りのおばぁが袋から取り出したマンゴーは私の拳よりも大きく、赤く熟していた。

「内地だったら幾らするね。それが3個で500円ならいいさぁ」

 笑ってしまった。確かにそうだと思いながら500円を払い、二人にお礼を伝えて店へ戻った。

「連れてきて、ここでテレビを見せておけばいいさぁ」

 前回の通り会に参加できなかったことを謝ったら、衣料品店の白塗りおばぁはなんくるないさぁと言ってくれた。

「時々、甥っ子や姪っ子を預かるのよ。市場の子はそうやって育つのさぁ」

 大輔が白塗りおばぁとここに二人でいる。想像できないけれど、テレビは喜ぶかもしれない。

「次はそうします。ありがとうございます」

「今日も出前をお願いねぇ。この前のパイのやつとあちこーこーの珈琲ねぇ。パンは多めでねぇ。あと新しい服も入っているからねぇ」

 おばぁはいかにも昭和っぽい幾何学模様のワンピースを広げていた。店の外に、赤いTシャツに白の短パンをはいた一真が見えた。「二時に持ってきますね」とおばぁに伝え、ブイヤベースの前で一真に追いついた。

「お刺身、ありがとう。嬉しかったしおいしかった。ちょっと泣いた」

「疲れると泣きっぽくなるんだよ」

「そうかもしれない」

 一真から魚のトレイを受けとる。

「泣きっぽくなるし惚れっぽくもなる。チャンスだな」

 一真は彼しかできない独特の笑みを浮かべた。

「今日は早めに店を閉めて船に乗るか」

「でも大輔の熱が上がったらお迎えだから」

「そうなったら連絡しろよ」

 電話のときとは別人のような言い方だ。がんばれよ、なんくるないさぁ。そういう類の言葉は言わないところが一真らしい。

 厨房に戻り、蒸した芋を切っていく。早く夕方になってほしい。早く海の上に浮かびたい。

 用事があるときや早く帰りたいときに限って客はたくさん来る。しかも遅い時間帯に来店する。どうしてだろう。グループ客は同じタイミングで来るという、飲食店特有の法則もある。

 時計を見る暇がなかった。お客様に笑顔を見せ、おいしいものを作る。考えるより先に身体が動く。

 最後の二人組が帰った直後、十五時半に一真が店に入ってきた。洗い場は使った皿が山積みになり、テーブルにも下げていない皿が残っていた。

「今日はたくさん来たな」

 朝と同じ、赤のTシャツに白い短パンの紅白服で一真はベンチシートに座った。

「珈琲いれる?」

「お前、珈琲をいれる余裕があるのか?」

「ないけど」

「なら言うなよ」

 一真は雑誌を読み始めた。音楽のボリュームを上げ、洗剤をスポンジにふくませて皿を洗う。高速で。でも割らないように。

 あっ、と顔を上げたら、なに? と一真がすぐに反応した。

「看板を入れないとお客様が来てしまうかも」

「いいよ。やってやるよ」

 一真が席を立った。

「本当に?」

「何が?」

「一真さんが店の仕事を手伝ってくれるとは」

「たまにはな。俺は病み上がりには優しいんだ」

「病気だったのは私じゃなくて大輔なんだけれど」

 看板を持って戻ってきた一真はカウンターに座った。

「ディジフラァさぁ」

「また? 私は何回一真さんからフラァと言われるのか」

「熱を出しているこどもはつらいけれど看病してくれる親がいる。けど看病して疲れている親には誰もいない。親はこどもの世話をして当たり前ってさぁ」

 泡のついた皿を流し、水切り籠に置いていく。

「大輔、今朝、私と離れるときがんばっていた」

 保育園の玄関に座ってニコニコバイバイをしていた大輔。また涙が近づいてくる。

「朝は店を辞めたいと思った。こどもに無理させるなら」

 一真は何も言わなかった。彼がどんな顔をしているか、見ることができない。

「でも一日、普通に働けたし」

「先、船に行ってるかな」

「話さなくていいから座っていて。やる気になるから」

 立ち上がりかけた一真の目は笑っていた。

「やっぱり負けず嫌いだな」

「ちょっと違うと思うけれど」

 一真は座り、雑誌のページをめくった。そこに写っている青い海が呼んでいる気がして、私は水を勢よく出した。

 店のシャッターを下ろす。もう閉めるの? と衣料品店の白塗りおばぁが声をかけてきた。

「ここ何日か閉めてどうしたねぇ」

 雑貨店のおばぁも出てきた。一真は古びた机の上にいる白と茶の猫をひとなぜしてから先に行ってしまった。

「下の子が熱を出して」

「お店にお客さん、来てたよぉ」

「明日、ゆっくり話すね」

 港へ走る。一真のがっしりとした肩が見えた。赤いTシャツは遠くからでも目立つ。

 一真さん、と声をかけたら、何? と彼は電話のときのような声を出した。二人で歩いているのを見られたくないのかもしれない。

 一真さん、手をつなぎたい。

 言ったらどうなるだろう。きっと、つないではくれない。

「一真さん、夕方じゃないみたいだね」

 昼間と変わらない太陽が照りつけ、コンクリートから熱気が昇っている。

「もう少ししたら海で遊ぶのにいい時間だな。俺は早朝の海が好きだけど」

「わかる。今朝の海と空、澄んでいたね」

 一真は船に飛び乗った。

 一歩、二歩と進み、振り返って片方の唇の端を上げ、手をさし出した。

 躊躇した。一瞬。

 けれど、彼の手を掴んでから船に飛び乗った。歩きだして自然と手が離れた。

 彼の後ろ姿を見ながら舳先へと歩く。毎朝、太陽が昇る前に一緒に海が見れたらいいのに。横で手をつなぎながら。そしたら……、風のように想いが流れていく。

「船は出せないな。本当は急いで帰らないといけないんだろ」

 一真は舵にもたれるように立った。逆光で彼の顔がよく見えない。

「そう。早く迎えに行って家で休ませないと」

 結局、こどもを大事になんてしていない。この状況を知ったら明は怒るどころではない。呆れて東京へ帰れと言うかもしれない。

「話したいことがあるって言ったの、覚えてた?」

「忘れてた。電話で言っていたね」

「そう。大事な話」

「悪いこと、でしょう」

 尋ねても心の準備なんてできないのにどうして尋ねるのだろう。

 一真は息を吸い、一呼吸置いてから口を開いた。

「新ちゃんのところへ、行こうと思っている」

 言葉が出ず、影になっている彼の目の辺りを見ていた。

「俺も行くのは決まっていたんだ。けど新ちゃん、店のことを心配してさ。準備もあるし、先に新ちゃんだけ行くことになった」

「どこにいるの?」

「辺野古」

「どうして。面倒なのは嫌いって」

「祭りと同じさぁ。毎日、海を守る闘いがあってさ。なんかちむどんどんするじゃん」

「そんな気楽に。そしたら魚は、店は。あまりにも、二人とも」

 束縛するようなことは言ってはいけない。言ってもどうにもならない。もう彼は決めたのだから。元々、決まっていたのだから。私は一真の横に立った。彼の顔をはっきり見たかった。

「店を続けるならさ、魚はちゃんとしたやつに頼んでいくから」

 なんでもないとは一真も思っていないのだろう。寂しそうとも違う。悪いな、というのが近いかもしれない。

「無理に続けなくていいさぁ」

 睫毛が長い一真の目。店や新里さんのことよりも、一真がいなくなるという実感がわかない。心臓がある部分に痛みを感じる。悲しいことがあると心は本当に痛むんだ、と冷えていく頭に浮かんでいた。私は、期待していた。けれど彼にとって私との関係は卸と仕入れ、もしくは店員と客の関係。良い雰囲気のときもあったけれど、それはそのときだけのもの。

 下を見て、涙がこぼれたら嫌だった。前をむき、広がる海を視界の全てにいれた。波はなく藍色の海だ。泣きたくない。決して。こんなときに泣くのは卑怯な気がする。

「辞めても大丈夫だから。お前に店の責任はないから」

 一真がやっと私の顔を見た。彼の手が僅かに動き、でも舵の上に留まった。

「昔、高校の頃とかさ、手をつなぐのって進展だったよな。今の若者は違うだろうけど」

「若者って言い方、年を取った感じがするね」

 感情をのせないようしながら軽い声をだす。

「クラスメイト、顔見知りから手をつないだら一歩、進んだ気にならない?」

「そうかもしれない」

「けっこうもてただろ。高校はどんな制服だった?」

「制服? なんか一真さんが言うといやらしいような」

「なんでだよ。いやらしいって言うほうがいやらしいんだよ。こどもにバカって言うほうがバカって教えるだろ」

「なるほど。うちの学校は、すっごく可愛いセーラー服だった。セーラー服目指して勉強したかも」

「すごく、か。その頃とか会いたかったな」

「なんで?」

 フリムンさぁ、と彼はいつもの薄目を私へむけた。

「気楽につきあえるさぁ。軽く別れられるし」

「一真さんは女たらしっぽいもんね」

「今時、女たらしって言うか? 昭和な女だな。最初からそうだよな。負けず嫌いで変なこだわりがあってフラァで」

「ひどくない?」

 彼は鼻で笑った。

 波がないから音もなかった。全ての音を、もしかしたら全ての言葉も海が吸いとっていくのかもしれない。

 音楽があればいいのに。たぶん彼も同じことを思っている。

 私は強く目を閉じて海を消した。

 彼はいなくなる。新里さんのところへ行く。それが彼らの一番したいこと。

 大輔は、春樹も、今か今かと私の迎えを待っている。私が一番大事にしなければいけないこと。

 私はゆっくりと目を開けた。

「店は」

「無理すんなよ」

 彼が私の言葉を消してしまい、怒りを感じた。こどもへ怒鳴ってしまうときのような瞬間的な怒りだった。でも、怒りもすぐに藍色の海に飲み込まれていった。

 ニコニコバイバイをしないといけない。薄い微笑みを口元に浮かべる。

 今までありがとう。いい経験ができた。

 そう言うべきなのかもしれない。でも、言ったら涙が出てしまう。

 大ちゃんのようには、お母さんはできないよ。

 何も言わずに船から降りた。歩いていたら振りむいてしまう。振りむいて一真さんと目があったら。どうしようもない。だから、車まで走った。港の階段に座って釣りをしているこども達の横を走り抜けた。

 大輔があの日、釣りをしている人を近くで見たいと言ったから一真と出会い、ブイヤベースへ行くことができた。あの時、ロータリーで迷わなかったら、ブイヤベースで働くことも一真と言葉を交わすこともなかった。

 どちらが、よかったのだろう。


 どうやって運転して大輔の保育園に着いたのか覚えていなかった。いつもより一時間、早かった。

「藤丘大輔くん、お迎えでーす」

 友子先生が大きな声で言った。大輔がこちらへ顔をむける。勢いよく走り、体当たりするように抱きついてきた。

「大輔くん、今日は早くてよかったねぇ」

 友子先生へ大輔はえくぼをみせた。

「お熱は大丈夫だった? 楽しく遊んだ?」

 大輔はうなずき、強く身体を押しつけてきた。柔らかい、けれど熱い身体。

 駐車場まで大輔を抱いて歩いた。道の両脇にはプランターが置かれ、小さな紫の花が咲いていた。

「きれいなお花だね。お母さんの好きな色なんだよ」

「取っていい?」

「取ったらダメ。枯れちゃうし。先生方が大事に育てているから」

 大輔が私の腕の中で身体を伸ばした。私は屈んで大輔を下ろした。

「これはいい?」

 大輔は落ちている花を手に取った。咲いていたときと変わらない紫の花びらだ。同じように落ちた花がプランターの陰にあった。一つ、二つ、と一緒に拾う。良かったね、と大輔が言い、きれいだねと言葉を返した。

 春樹は学童の部屋から車を見つけて手を振った。玄関へ迎えに行ったら準備をして待っていた。

 家に入り、野菜や魚が入った保冷バッグを放り投げるように置いて紫の花をコップに浮かべる。こども達に洗濯物を出させ、明日の準備をするように声をかける。これからすること。夕飯を作っている間にシャワーを浴びさせ、食べさせ、片付けをする。洗濯物を畳んで。大輔はシャワーじゃなくて風呂を溜めたほうがいいのか。春樹のしらみシャンプーもしなければいけない。

 布団部屋に入り、横になる。枕を抱えて窓際まで転がりベランダのむこうの海を見た。夕焼けの前、太陽は強く光り、水面の波がそれを反射している。海は橙色だ。春樹の言う通り、海は空を映している。こんな絵葉書のような景色が毎日見られる。贅沢だ、贅沢過ぎる。

 気づいたら、こども達が身体の上にのっていた。

「どいて、二人とも」

 身体を揺すって二人を布団に落とした。二人は歓声をあげ、また上にのってくる。

「十でどかないとお母さん、すごく怒るよ。出て行くかもしれない」

「どこへ出て行くの? いつ戻って来るの?」

 春樹の心配そうな顔を久しぶりに見た。

「出て行かないけれど、今日はもう何もしないことに決めた。二人とも好きに遊んでいいよ」

 やったーと大輔は言い、ご飯は? と春樹が私の顔を見た。

「ないよ。包丁なんて見たくもない」

「優美んちに行ってもいい?」

 ダメと言われるのがわかっているような弱気な声だ。

「ダメ。夕飯を食べさせてって雅子さんに言っていない。春樹、一人で行けるの? 夜になったら道は真暗だよ」

 春樹はうつむいた。大輔はジュゴンの絵本を広げている。

 私は二人に背をむけて海を眺めた。春樹のすすり泣きが聞こえてくる。

「だから一食くらい抜いても大丈夫だよ。大輔なんかデトックスになるからちょうどいいし」

 自分で言いながら笑ってしまう。

 春樹くんは、毎日、お母さんにおいしい料理を作ってもらっていいねぇ。

 この前、学童の先生が言っていた。

 おいしいどころか、作りもしません。今すぐ学童へ行って真実を言いたい。でも、ここから立ち上がれる気がしない。

「お母さん、ごめんなさい。お願いだからご飯を作ってください」

 枕を持ったまま転がり、春樹と目をあわせる。

「だから、お母さんは春樹達に怒っているのではなくて、ただ疲れているの。春樹、前に幼稚園でカレー作ったっていっていたじゃん。材料あるから作ればいいじゃん」

「お母さん、手伝ってくれないんでしょう」

「手伝える元気があるんだったら最初から作っているよ。春樹はお母さんのこどもだから大丈夫。一人でおいしく作れる。カレーなんて、切って煮てルゥを入れるだけだよ。うちにルゥはないけど」

 大輔の歌声が聞こえてきた。じゃがいもぉ、にんじーん、たまねぎぃ、ぶたにくぅ、じゃがいもぉ、聞いていないようで話を聞いている。さすが次男。

「橋を渡ったところにある港ストアでルゥは売っているよ。ひとっ走り、行ってきなよ」

 春樹は首を横に振った。

「大丈夫だよ。お母さんがここから安全を念じているから。信号もないし危ない道でもないし。カレーが食べたいんでしょう」

 春樹は黒目を左右に動かした。大好きなカレーを我慢するか、勇気をだして一人で買い物に行くか悩んでいるようだ。大輔のカレーの歌は続いている。我が子が他愛もないことで真剣に悩んでいる姿は興味深い。

「行ってくる」

 正義を胸に行動する人、のような春樹の表情だった。

「かっこいい。そこのお母さんの鞄を取って」

 春樹に500円玉をにぎらせた。行ってらっしゃーいと言い、一緒に行くという大輔を羽交い締めにした。

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