第7話 偶像の楽園(3)
「いやあ。助かったよ。この服、気に入っていたんだよね」
モーダルはまた、張り付けたような笑顔を持って男に話しかけた。
打って変わって男は、どこか陰鬱とも言える表情になってから、モーダルを見習うかのように豪快に笑い、「気にするな。人間は助け合いが基本だろう」と言い、すぐにその後思い出したかのように「俺が困ったら助けてくれるよな」と付け加えた。
モーダルは首肯し、まるで彼の考えに賛同したかのように微笑んだ。長年旅を共にしてきたペトラにとって、その考えはモーダルの持つ考えと百八十度違っていることを知っていたので、そのちぐはぐ加減に些細だが確かな恐怖を感じた。
得体の知れない人間である。という再認識を咀嚼し、モーダルにそれを悟られないように飲み込んだ。苦みが蔓延する。
綺麗に洗濯されたコートを無造作に羽織って、モーダルは用意された椅子に腰かける。ペトラもそれに倣い、その隣に用意された豪華な椅子に着席する。丁度男と机を通して向かい合わせになるような形である。
彼らは、三十六番街に存在する男の家に訪れていた。
以前行った都市の繁華街のような道中を抜けた先に、圧倒的な存在感を放って建築されていたのがこの家である。家と形容するよりも、城であると表現した方が正しいのではないだろうか、と錯覚をしてしまう程大きな家に、流石のモーダルも呆気に取られていたのは記憶に新しい。
「ここ、本当に全部君の敷地?」
当然ともいえるその問いをしたのは、意外にもモーダルだった。ペトラは自分の言葉が盗まれたような気がして苛立ったが、その苛立ちは小さく床を蹴ることで解消した。
男は大きく頷いて、肯定を返す。
それにわぁおと大げさに驚いてみせたのはモーダルである。研究者には向いていても、役者には向いていないな、とペトラは静かに思った。
「宜しければお名前を伺っても?」
と問うたのはペトラである。
しかしその問いに男が答えることはなかった。慌ててモーダルがフォローを入れる。
「この子は全てを手記に残さないと苛立ってしまう性質でね。答えたくないならいいんだ。それならそうと書き残すだけだからね。そもそも、名前なんてただの記号だ」
「いや、気を使わなくてもいいさ。名前くらいならいくらでも教えるよ。なにせここは楽園だからな。けど、先に一つ聞いてもいいか?」
何を質問されるのだろうか、という一種の恐怖感はあったが、断る道理もないのでペトラは黙ったまま男を見つめる。
それを許可であると受け取った男は徐に口を開き、彼女に尋ねた。
「ここを来る時、三十五番街も通っただろう。人はいたか?」
ペトラは手記を取り出し、直近二ページを確認する。そして求めていた情報を男に提示する。
「いえ、居ませんでした。手記に記してあるので間違いありません。この手記は正しい事柄しか記しませんので」
「そうか、分かった」と手記を見つめて男は言って、諦観の溜息を吐き出す。
「そして、お名前は?」
ペトラにそう促され、わざとらしい所作で男は頭を下げる。
「名前はないんだ。というよりも、この楽園に来た人間は名前を取られる」
「名前を剥奪されるのか。面白いね、この街は」
「ああ、もっとも、旅人のあんたらは例外だけどな。俺なんかはもう三十六番って呼ばれてる。それが名前みたいなもんだな」
男は衣嚢から一枚の黒いカードを取り出して机に投げて、「これが名刺だ。楽園の住人は全員これを持ってる。身分証明みたいなもんだ」と言った。モーダルはそれを手に取り、興味深そうに凝視した後、自分の求めていた知識とは違ったのか、それとも既に知識としてあるものだったのか、それは定かではないがすぐにカードを手放し、どこか納得したような表情で溜息を吐いた。
「名前を対価に楽園を楽しんでいると?」
「まあ、そうとも言える」
「分かりやすい誤魔化しだ。まあ、僕らには言えない事情があるんだろうね。君か、この街か、その両方に」
男はモーダルから目を逸らし、あからさまに話題転換する。
「飯、食って行けよ。旅にも必要だろうから好きなだけ持っていけ」
「ありがとうございます」とペトラが言い終わる前に、モーダルは椅子からすくりと立ち上がって言った。
「いや、遠慮しておくよ。三十六番さんにも悪いしね。行こう、ペトラ。幸いここから次の街まであまり距離はない」
「でも」
「なに、ここから出て行くときに林檎でもくすねたらいいさ。まあ、くすねると言うか、全部無料だったし買うが正しいかな。倫理的に嫌なら、また空腹を我慢してもらう他ないけれど」
三十六番は立ち上がって、モーダルを制止する。
「いや、ちょっと待てよ。別に急ぎの旅でもないだろう? 休んで行けよ、部屋は何部屋もある。なんなら大浴場だって、酒だって飲める。なんて言ったってここは楽園なんだぜ」
モーダルは扉に掛けていた手をゆっくりと下ろし、後ろを振り向き、いつになく鋭い眼光で三十六番を突き刺しながら、吐き捨てるように言った。
「やだよ。だってお前、死刑囚だろう」
男は諦めたかのように大きく溜息を吐き、椅子ではなく床にどしんと音を立てて座った。というよりも、足が崩れたと言ったほうが正しいかもしれない。
モーダルはその瞬間、ペトラに危害が及ばないようにさっと彼女の手を引き、自身に手繰り寄せる。必死でこの状況を書き残さんと走らせていたペン先がぶれ、象形文字のようになるが、ペトラがそれを咎めることはしない。
「ばれねえと思ったのによ。旅人ってのはどうしてこうも頭がいいのかね」
「頭が良いのは僕だけだよ。現にペトラはお前のことを疑ってすらいなかった」
初めは警戒していましたよ! と強く言いたくなるのをぐっと堪え、彼女はモーダルの言葉の行く末を見守っていた。全てを手記に記す為。
「ペトラってのはその女か? 女はどうでもいいんだよ。俺は、俺の身代わりが欲しかった。この三十六のカードをお前に渡して、俺は旅人の振りをしてここから出るつもりでいたんだ。予定狂ったぜ、これで俺は、明日の死刑を受けなくちゃならねえ。ほぼ殺人みたいなもんだぜ、お前。コート洗ってやった恩返せよ。助け合いだろう」
「詭弁も甚だしいね。犯罪者っていうのは全員こうなのかい? 僕の知識として蓄えておくよ」
モーダルは小さく「食糧を分けてくれたのは感謝している」とだけ告げて、扉にもう一度手をかけ、外に出た。
「コート洗ってやったのも感謝しろよな」
三十六番の声は、二人の耳に入る事は無く、空虚に室内に響くだけだった。
二人に振舞おうとしていた夕飯だけが、そこにはあった。
まるで、最後の晩餐のようで、乾ききった眼から涙が出たが、三十六番がそれに気付くことはなかった。
気づかないふりを、していた。
○
歩いていた。
二人は楽園を出て、次の街へ赴かんと歩を進めていた。
綺麗になったコートがモーダルを包み込み、寒さから守ってくれる。
「どこで気が付いたんですか?」
「なにが?」
大きく口を開き、間抜けに欠伸をするモーダルを軽く睨み付けた後、足元に転がっていた小さな石を蹴とばして「死刑囚のことですよ」と言った。
蹴り飛ばした石は、なかなかの速度を持って前方まで飛んでいく。飛距離が彼女の疑問の大きさを表しているようだった。
「初めからおかしかっただろう」
「初めからとは?」
ペトラは手記を取り出し、モーダルの口から答えが飛び出してくるのをじっと待つ。彼女はこの時間が好きだった。彼が街の真相を暴き、それを手記に残す。この一連の行為が名状しがたい程好きで、彼女は気難しいモーダルと距離を置くことなく旅を続けているのだ。
「林檎とかね」
さして興味もなさげにモーダルは呟く。既に彼の知識欲は次の街へと照準を合わせているのを知って、ペトラは驚愕した。
砂を踏む。
今回は食糧――と言っても林檎と水のみだが――難に陥ることは無い為、二人は無駄話とも言えるそれに大きな花を咲かせる。
「林檎ですか。確かに対価なしで受け取れるのはおかしいですもんね。でも一体何故無料だったのでしょうか」
「分からないのかい。あの場所は楽園とは名ばかりの収容施設だろう。そしておそらく、あの場所で暮らしているのは死刑囚だけだ。死刑囚を外に出さないよう快適に、という理由と最後の晩餐という二つの理由があるんだろうね」
全部僕の憶測だけれど。と彼は視線をペトラに合わせることなく呟いた。
「後はそうだな。三十五番街に人はいたかと尋ねてきただろう。あの番号は多分死刑執行の順番さ。三十五番に人がいないということは、次に執行されるのは三十六番。だから彼は僕を引き留めて身代わりをつくるのに必死だったんだろう」
「なるほど」
「まあ灰色から黒になったのは名前がないってことを知ったときかな。死刑囚に名前なんていらないしね。名前で呼んで情なんて湧いたらたまったものじゃない。家畜に名を付けない理由と同じさ」
「そうですね」
ペトラは楽園へ入る前の門番とのやり取りを思い出していた。
あの時あの門番が言った言葉。
「ところであんた、なにをしてきたんだ」
あの時彼は、「なにをしにきた」ではなく、「なにをしてきた」と問うた。つまりあの門番が気になっていたことは、旅をしている理由でもなんでもなく、どんな罪を犯して死刑囚になったんだ? ということなのだろう。
ペトラの脳内で全てのピースが埋まる。
なるほど確かにここは楽園だ。
偶像の、楽園だ。
砂上で踊る石像を見たことはあるだろうか。 如月凪月 @nlockrockn
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