峠の小屋

 静かなその空間に、旅人の生きた声が響く。


——誰もいないのだろうか。


 旅人は恐る恐る小屋の中に足を踏み入れた。

 歩くたびに、ギシ、ギシ、と床が鳴る。

 棚に整理された食器や、まだ使えそうな蛇口と流し。

 何をモチーフにしたか分からないアンティークものの女神の持つ時計はその秒針を休めていないことなどから、明らかに少し前までは誰かがそこで生活していたのは間違いないようだった。


——十人くらいは寝泊まり出来そうだ。この小屋はひょっとしたら峠で一休みするために使われていたのかもしれない。


 旅人はすれ違う柱を人差し指で撫でた。

 ぼろっと木屑がこぼれ落ち、一部朽ちているのが見て取れた。


——だいぶ年季が入っている。これで今度の冬は越せるのだろうか?


 そんなことを考えながら、小屋の一番奥に視線を向けると、思わず「あっ」と声が漏れた。


 そこには絵があった。

 いや、よく目を凝らすとそこにあるのは絵ではなく、絵のように動きが失われた光景だった。

 暖炉の横には薪が並び、その前には一つの揺り椅子。

 そこに一人の老人がいた。目を瞑り、口元を白いあごひげで覆われ、腹には茶色のブランケットが乗せられていた。そしてただただその場に置かれていた。


 旅人はゆっくりと老人に近づいた。

 そして、だらり、と垂れた右腕をゆっくり持ち上げて、肘掛けに戻したその時、


「おおっ!」


 老人の目がぱっちりと開き、そのままその場に立ち上がった。そしてきょろきょろしてから、旅人に気づき、驚いたまなこを見せる。


「あ、申し訳有りません、勝手に入ってしまって。私はただ『私たちの未来』を届けようと……」


 そう言いかけた途中、老人はすぐさまにこやかな笑みを浮かべ、こう言った。


「いらっしゃい旅人さん、ここは峠の小屋。思う存分ゆっくりしていくがいい。さて、今度の旅人さんはどんな歌を聴かせてくれるのかい?」


(了)

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峠の小屋と、不思議な老人 木沢 真流 @k1sh

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