沖の瀬

@yana1110

第1話

沖の瀬

今日は一学期の終業式。

暑さに蒸せ返る教室で、明日から迎える楽しい夏休みに心を躍らせる子供達の、既に真っ黒に日焼けした顔は、滴る汗と共に噴き零れる嬉しさを隠し切れず、先生の退屈な話の終わりを待ち切れないように、あちらこちらで背中が揺れている。

机の中の物をランドセルに放り込む者、通信簿を小さく開いて覗き込んでは溜め息を付く者、外を眺めながら貧乏揺すりをする者、前後左右同士で内緒話をする者。

「病気するな。悪さするな。親の手伝いをせえ。以上。終わり」

訓話に耳を傾けない子供達の様子に呆れた先生が、苦笑いしながら終礼の挨拶をすると、歓声が教室内に湧き起こり、ほとんど同時に他の教室からも同様の歓声が相次いだ。

先生や同級生達と、口々に別れの言葉を交わしながら、大の仲良しの武、洋二と連れ立って教室を出た健太は、きしむ古い板廊下を小走りで急ぎ、下校する子供達でごった返す玄関を飛び出し、風もほとんど吹かないのに、乾燥して歩く度土煙の舞い上がる校庭を、年季の入った木造の校舎沿いに校門に向かった。

四〇日間の夏休みで、勉強から解放された三人の足並みが、嬉しさのあまり速くなる。

小学生最後の夏休みは、何か特別な楽しさが待っているように想えた。


心を躍らせる三人が校舎の端まで歩いた時、横手の音楽室の開け放たれた窓から、いきなり流れ出た美しいピアノの旋律が、健太の心を甘くときめかせた。

《扶美がピアノを弾いとる》

扶美は合唱部の部長で、小さな頃からピアノを習っており、市内のコンクールで賞を獲った事もある程上手だった。

「健太く―ん、可愛い扶美ちゃんがねー、逢えなくなるけど元気でねって、言うといてってー」

その前を通り過ぎようとした健太の頭上を突然襲った賑やかな合唱に、冷や汗を覚えて見上げると、音楽室の窓辺に悪戯っぽい笑顔を並べた扶美と仲良しの女の子三人組が、手を振りながら健太をからかった。

「い、いやっ、い、言わんといてっ」

三人の背後から聴こえて来る、確かな指遣いで奏でられていた美しい旋律が、扶美の小さな叫びと共に一瞬大きく乱れた。

健太は、音楽室前の廊下を通り過ぎる時、開け放たれた扉の向こうに、何度か見た、扶美のピアノを弾く凛とした美しい姿と、小首を傾げて恥らう清楚な微笑みを想い浮かべ、名も知らぬその旋律につかの間聴きほれながらも、名残惜しさを振り切り、背を向けて歩き出した。

健太は扶美が好きだった。

扶美も健太が好きだったであろうが、互いにその初恋を言葉にした事は一度もなかった。

だが周囲の誰もが二人の気持ちを知っていて、からかったりしても、二人は恥らうだけで否定し

なかったせいか、二人の初恋は本人同士は勿論、同級生達の間でも暗黙の了解事になっていた。

「可愛い扶美ちゃんがねーん、さいならってーん、言うといてってーん」

「いやん、言わんといてーん、好きよーん」

武と洋二が、背後から健太にじゃれ付くようにして抱き付き、はやし立てた。

「しょべかうなや」

恥ずかしそうに彼らを振り切って駆け出し、校門を出た健太を二人が追い掛けて来た。


遠くにかすむ薄く藍色掛かった山並みの上に、のんびり昼寝しているような白い雲が幾つか浮かび、真っ青な空の中央に輝く夏の太陽が、濃淡の茶色と濃淡の緑色に彩られた田園を焦がすように照り付け、焼けた土の匂いと草いきれが息苦しい程立ち込めていた。

通学路の脇の田畑や夏草の生い茂る叢で、夏虫や蛙の大合唱が三人の足音と、教科書や文具の詰まったランドセルの鳴る音を迎えては静まり、後を追い掛けては、再び賑やかに響き渡った。

《夏休み中は、登校日しか会われへんが》

健太は心に充ちる扶美への想いと、甘酸っぱい寂しさをいとおしく抱き締め、陽炎が揺らぐ一本道を、土煙を立てて走り続け、扶美の家や学校がある町と、自分達が住む港町を隔てて流れる川に架かる、古い木の橋の上でやっと止まった。

低学年の頃から毎年一緒に学級委員をしていた扶美を、一年程前から何かの拍子に見つめたり、心に想い描いたりする度に襲われる、胸がときめいて締め付けられるのに自分で制御出来ない不思議な感覚を、健太は戸惑いを覚えながらも決して疎ましく想ってはいなかった。

《海だ。凪いどる》

しかし熱く焼けた橋の欄干に手を置いて、西手の河口の彼方に眺められる、陽光にまぶしくきらめく、真っ青な夏色をした日本海の雄大な存在が、健太の心と身体を弾ませ、扶美の面影を一瞬にして心から消し去っていた。


「昼から魚釣りに行こや」

「何処にや?」

「縦波止」

「良いで。ほんなら、昼飯食ったらな」

健太は追い付いて来た二人と同調して歩き出し、何時ものように通学路から逸れて、海で遊ばない時の子供達の遊び場になる、「はげ山」と呼ばれる小山の麓を巡る山道に入った。

小道の両側の畑ではカボチャ、ナス、サヤエンドウ、トマト、キュウリなどの夏野菜がたわわに穣り、その上をチョウチョ、ハチ、アブ、トンボなどの様々な昆虫が羽音を立てて飛び交っている。

三人の気配を感じたバッタ、コオロギ、カマキリなども飛び立つ。

遠く近く聴こえるヤマバト、カラス、シジュウカラなどの鳴き声をかき消すほどおびただしく降り注ぐせみ時雨と辺り一面の虫の声、絶え間なくきらめく木洩れ日が、嬉しい夏休みを迎えて転がるように、海が臨める山道を駆け下る三人を包み込む。

山道を辿って通学路に戻った三人は、生まれて以来慣れ親しんだ、磯の香りと魚の匂いが一年中絶える事のない町並に入り、手を振ってそれぞれの道に別れた。


健太の家は町の南部にあり、この町の防波堤兼用で造られた海岸通りに裏木戸が面していた。

武の家は健太の家のある路地の一本山側にあり、父と武の兄三人が底曳き船に乗り組んで生計を立てており、祖父母と母、高校生の姉の、九人家族だった。

洋二は町の北部の、漁業組合や市場のある町の中心部に住み、分家した父母と二人の兄と妹一人の六人家族で、父と二人の兄、叔父が底曳き船に乗り組んでいた。

武と洋二、また町の他の男の子達も皆、中学を出て漁師になると常日頃から語っていたが、健太は将来について、友達の漁師になる夢を聴かされるのも、自分の話をするのも嫌だった。


山陰の海岸線は地図で見る程滑らかではなく、実は細かな屈曲に富んでいて美しい。

健太の生まれ育った町は、山陰地方の石見部の海岸で、中国山脈の分岐が日本海に迫り出した岬と岬に挟まれた入江にあり、町の東側に位置するはげ山の頂上から見降ろすと、家々の軒に隠れて見えない程狭い路地を隔て、各々の家が軒を連ね、互いに寄り添い、支え合って暮らしているようにも見える、人口八〇〇人、二〇〇世帯にも満たない小さな町だった。

明け方出漁して夕方帰港する零細な沿岸底曳漁が中心だったが、複雑な地形や、リマン海流と対馬海流がぶつかり合う潮の流れにも恵まれたお陰で、その季節季節で魚は良く獲れ、活気があった。

町の住人の大半が漁業を生業とし、それ以外でも、仲買業や魚の行商、かまぼこ、てんぷらなどの魚を原料とした練り製品の製造業、干し魚や海草の加工業など、漁業に関連した商売を営む家がほとんどだった。

各々の家の貧富差はほとんどなく、またそれ程裕福でもなかったが、戦後の復興期に当たって贅沢で楽な暮らしや遊びを望む事もなく、若い者も年寄りも、男も女も、誰もが懸命に働いた。

加えて、勤勉であるが故犯罪もなく、いがみ合う人も家も、漁場や漁獲を競う以外の事で争う船もなかった。

またほとんどの家が三世代同居であり、代々培われた家長を中心とする家族制度の暗黙の規律と調和を乱す者はいなかった。

そして全体が共生するような町であるが故に大人達は皆、子供達の誰に対しても我が子、我が孫に接するように、悪い事をした時は厳しく叱り、良い事をした時は心から褒めた。

またどんなに忙しく働いていても、あるいは酒を呑んで酔っ払っていても、大人達は常に子供達の生活や成長を見つめた。

それは子供達が大人を畏れ、敬意を表する所以でもあった。

ほとんどの男の子達は大人の漁師に憧れ、故意にその風采を真似て、大人用の下駄や雪駄を履いて外股で歩いたり、毛糸の腹巻をして、その中に両手を伸ばして突っ込んで歩いたり、お守りを首に下げたりし、また何かに付けて漁師言葉を遣った。

それはある種の滑稽さを伴ってはいたが、早く大人になりたいという男の子達の願望の顕われであったのだ。


健太も何時頃からか、他の男の子達同様、勇壮な漁師に憧れ、中学を出て漁師になろうと心に決めていた。

健太は勉強が嫌いだった。

問題を解いたり本を読んだりするのが嫌いなのではなかったが、勉強を強いられる自分を意識するのが嫌だったのだ。

二六歳の兄は成績が優秀で、親や教師の薦めもあって大阪の大学に入り、卒業後大阪の製薬会社に勤めた。

兄より四歳年上の姉も大学を出て県庁に就職、幸せな結婚をして二児を設けた。

母は事ある毎に姉と兄の優秀さを持ち出して、健太に勉強を強いた。

それが健太の勉強嫌いの最も大きな要因だったのだ。


健太の父は幼い頃、夫を亡くした後、「じいちゃん」と再婚した母親さえも交通事故で失い、「じいちゃん」と、じいちゃんの妹である「ばあちゃん」に育てられて尋常小学校を出て銀行に就職、結婚して姉兄を設けた後、鉄道工事会社の知人に、経理事務の仕事があるからと誘われて満州に渡り、日本人町に住まってさらに三人の子供に恵まれた。

慎ましやかながらも幸せな生活を営んでいたが、やがて太平洋戦争が勃発する。

日本は領土を東南アジアにまで拡大して行ったが、アメリカを中心とした連合軍の物量作戦に圧倒され始め、中国大陸でも敗戦濃厚になってしまう。

父は民兵として駆り出された為、終戦を迎えてすぐシベリアに捕虜として収容され、厳しく絶望的な収容所生活を送ったが、それに耐え抜いて昭和二四年に復員し、再び銀行で働き始めた。

異国の地で夫と生き別れた母は悲しむ暇もなく、満州から子供五人を連れて命懸けで引き揚げたが、途中満州で生まれた幼い三人を病気と栄養失調で亡くしていた。

健太は父が復員してから生まれた子供だったので、姉兄とは随分年が離れていた。

父母の敗戦直後の苦労は日頃から聴かされて知っており、その苦労を克服した両親を尊敬していた。

日々の生活も勿論、ひたすら勤勉で実直な父母だった。

それが健太に口応えさえはばからせた。

また時折健太が父に連れられて市内に出掛けた際、街の人達が父を見掛けて「お世話になっとります」と頭を下げるのが、子供心に誇らしくもあった。

しかしそんな父でさえ健太の眼には、港の威勢の良い漁師達と比較すると、どうしても地味に映ったのである。


家の玄関には父母と姉兄、健太の名前の入った表札とは別に、姓の違うじいちゃんとばあちゃんの表札があった。

健太の祖母が若くして夫を亡くし、幼い健太の父を連れて再婚した相手が、健太にとって「じいちゃん」であり、「ばあちゃん」はじいちゃんの妹だった。

じいちゃんはこの町の船元の長男で、若い頃は九州の遠洋漁船に乗っていたが、十数年後身体を壊して町に戻った。

しかし家は既に次男が跡を継いでおり、病弱なばあちゃんを引き取って面倒を看るという条件で、お金をもらってこの家を建て、健太の祖母と結婚したが、すぐ交通事故で失う。

その後病弱な妹と幼い健太の父を養いながら、一〇年程本家の底曳船に乗ってお金を蓄え、幼馴染みのさかいのおじいさんと共同で漁船を買い、季節に応じてタイやハマチの延縄、イカの一本釣りなどをしていた。

じいちゃんと父の姓が違う事が、健太には不思議だったが、当時再婚自体が余り歓迎すべきものではなく、まして幼い子供を抱えた未亡人と、妹を連れた男が再婚するのは異例で、表立って出来なかったようだ。

勿論この町の誰もが知る処ではあったが、尋常小学校の生徒であった健太の父の姓が、父親を失って父親の姓から母方の姓に変り、またじいちゃん方の姓に変る事への配慮もあっただろう。

健太は幼い頃から耳にしていた大人達の会話の断片をつなぎ合わせ、家の複雑な事情を健太なりに解釈してはいたが、それを明確な形として捉えるには未だ幼過ぎて理解し難く、また重荷でもあった。


「戻ったき」

「おお、明日から夏休みで良いの」

じいちゃんが指定席である玄関の上がり口で煙管を咥えたままイカ釣りの道具を修理しながら、顔を上げずに健太を迎えた。

修理に修理を重ねたランドセルを上がり口に投げ出し、じいちゃんの傍に擦り寄った健太は、長年陽光と潮に焼けて赤黒くひび割れたじいちゃんの大きな手が、細かい仕掛けを器用に修理して仕上げて行くのを見つめた。

健太が日常で家にいる時、最も好ましいと感じられるひと時だった。

誰よりも憧れ、尊敬するじいちゃんの傍にいると、身体や洋服に染み付いた潮と魚の匂い、機械油の匂い、じいちゃんの好きな酒と煙草の匂いなどが混じった、大人の匂いがした。

この匂いに包まれる時は何時も、漁師になりたいという願望が膨らむのだった。

「通信簿、もろたかの?」

じいちゃんがやっと手を休め、何時ものような優しい微笑みを健太に向けた。

「じいさんはおぞかろがい」と、健太が憧れる威勢の良い漁師達でさえもが、日頃口を揃えて言うのが不思議に感じる程、じいちゃんは健太には何時も変わらず優しかった。

大人は恐らく、生きて行く上で、誰もが何に対しても、誰に対しても厳しいのだろうという事は、子供の健太でさえ日頃から漠然とでも感じていた。

そして厳しく怖いからこそ尚更、優しい時は限りなく優しく感じられて、それが健太を嬉しがらせたのだ。

健太は照れ臭くなって俯いた。

「うん、もろたでな」

「五、なんぼあったかの?」

「図工が三で、あと全部五だったがな」

健太はぶっきらぼうに応えたが、内心はじいちゃんの褒め言葉を期待していた。

「ほう。健太も頭が良いで。わも大学に行くだか?」

じいちゃんは静かに微笑んで尋ね、煙管に刻み煙草を詰めてマッチで火を点け、深く喫い込んだ。

じいちゃんの口から洩れた白い煙と煙管から立ち昇る薄紫色の煙が絡み合うようにして、すすけた天井の明かり窓に向かって、拡がりながらゆらゆら舞い上がった。

健太はその模様を眺めながら投げやりに応えた。

「わし、大学なんか行かへんでな。中学卒業して漁師になるきな」

「そがなか?漁師になんかなっても、しわいだけで儲からへんが」

「なしてな?このじげの漁師の家は皆、だいぶん前からテレビがあるし、冷蔵庫も揃とるが。うちねはおとさんのボーナスで、こないだやっと買うたばっかりだがな」

昭和三〇年代半ばになって、家庭電化製品が普及し始めていた。

「そいでもの、テレビだの冷蔵庫だの買うとの、他の余分なもんまで欲しなって、あれやこれや買うよになるき、つまらんてや。そいに、漁師の家はの、冬場で時化たら何日も漁に出られへんで、おおごとするがの。ま、四年先の話だき、ゆっくり考えや」

じいちゃんは修理した漁具を竹網籠に収めながらそう言うと、陶器の火鉢の縁で小気味良い音を立てて煙管をたたいて煙管から煙草のかすを落とし、もう一度刻み煙草を煙管に詰め、マッチで火を点けて美味しそうに深く喫いながら、健太に微笑んだ。


裏木戸が開いて、ばあちゃんと一緒に畑から戻って来た母が、裏木戸の納屋に農具を片付ける音がした。

「健太、戻っとるか?おじいさん、おっちゃるかな?すぐ昼飯にするきな」

「わし、は、決めとるで。漁師になるきな」

健太は、じいちゃんと自分に声を掛けた母に聴こえるよう、わざと大きな声で主張した。

しかし自分の声が母の耳に届いたかどうかは、問題ではなかった。

母に向かってその想いを言葉にする事で、自分の意識を高めようとしていたのだ。

健太はランドセルを抱えて居間に入った。

「昼飯、何かな?」

「夕べのひかやきのの残りと朝飯の味噌汁の残り」

シュミーズ姿の母が炊事場で手を洗いながら、ぶっきらぼうに応えた。

ひかやきとは、いわゆる「すきやき」の肉の替わりに、タイやアマダイ、カレイ、ノドグロ、カナガシラ、バトウなどの、小振り過ぎて市場に出せない魚を使った物で、殊に冬期の、獲れ過ぎて市場に出しても安値しか付かないアンコウのちりと並ぶ、この地方の名物の鍋料理であり、様々な種類の魚から多様の出汁が出るので、大層美味しい物だった。

健太もひかやきは大好物で、煮詰まり掛けた魚や野菜、豆腐などを、焦げ付いて鍋の底にへばり付いた欠片さえつつき、何処まで食べるのかと自分自身でも呆れるほどだったが、その煮詰まって崩れた魚の骨が野菜や豆腐、こんにゃくなどにくっついたりしていて、歯茎や舌に刺さるのと、毎晩のように続くのが嫌だった。

「またかな。いっつもおんなじもんばっかりだが。何ぞ違うもんないかな?」

健太がランドセルを乱暴に投げ捨て、口を尖らせて不満を言うと、母がそれをとがめた。

「ぜいたく言いなはんな。引き揚げ船の中で死んだお前の兄姉の三人は、何にも食べさせてやれんまんま、《おうどん食べたい》《おだんご食べたい》言うて、泣きながら死んでしもうたきな。そいに、ランドセルも、は、卒業まで買われへんき、大事にしなはれよ。そいより通信簿見してみなはいや」

母が炊事場から上がり、居間のちゃぶ台の前に座って差し出した手にランドセルから取り出した通信簿を無造作に手渡した。

引き揚げ船で死んだ兄姉の話をされると、彼等のつらさ、母の無念さを想って、何時もは大抵一言も返せない健太であったが、時には反抗した。

「五、いっと取った時ぐらい、何か買うたもん食わしとくれやな」

「買うたもんは、めがらに悪いもんが、ずの入っとるき、食わん方が良いでな」

通信簿を開いた母の手は節くれだっていて、洗ったばかりでせっけんの匂いはしたが、何ヶ所か付いた傷に汚れが染み、爪の先もひび割れて、汚れていた。

健太は、音楽の時間に一度だけじっくり見た事がある、ピアノの鍵盤の上を流れる扶美の白いしなやかな指を想い浮かべた。

《扶美も大人になら、こがな指になるだろか?》

大人達の手指は、男でも女でもしわが刻まれ、傷付き、汚れが染み付いていた。

それは大人達の誰もが、なりふり構わず一生懸命働いている証だったのだ。

「そいに、五、いっと取るのは当たり前だがな。ねえちゃんもあんちゃんも、五。いっと取っとったし、高校も大学も一番の成績で出たきな。周りの皆にいっつもすごい、すごい、言われてな」

《またねえちゃんやあんちゃんの話かな。あれらはあれら。わしはわしだき。わし、別に他人に「すごい」も「えらい」も言われとないきな》

母が姉兄を引き合いに出して健太を説教するせいで、二人の存在がうとましく思えた。

お盆と正月にだけ帰省して来るので滅多には会えないが、大好きな姉兄に対してそんな感情を抱く事は後ろめたかったが、しかしその感情は抑えられるものではなかった。

通信簿を開いて眺め回しただけで閉じ、無言で炊事場に立った母に、褒め言葉を期待していた健太は裏切られたような気がした。


「おじいさん、今度の時化の時で良いき、一緒に山の畑に行っとくれやな。雑草がずの伸びて、私とおばあさんだけだ、やれんでな」

昼食の最中、母がじいちゃんに頼んだ。

「ほんにや?良いで。明日の朝バッテリーの充電が済んだら、早目に昼飯してごせや。わしが行って、刈ったらい」

じいちゃんが冷酒をあおって応えた。

じいちゃんは食事の時、必ず冷酒を湯呑みに二杯程呑んだ。

健太は小さな頃から父母の眼を盗んでは、はしをじいちゃんの冷酒に浸けてなめた。

美味しいとは思わなかったが、「じいさんやちゃ、こいが一番だが」と何時も言う、大好きなじいちゃんの一番大好きな酒をなめてみたかったのだ。

じいちゃんは健太のそんな悪戯を怒った事はなく、何時も微笑むだけだった。

「ほんなら、すまんが頼むでな」

健太は食事をしながら、向かいに座っているばあちゃんを見ていた。

ばあちゃんは何時ものように小さな白髪頭と小さな顔をほとんど動かさず、無表情で黙々と口と手だけを動かしていた。

ばあちゃんは、健太が毎日一緒に暮らしているのに、一度も会話する事がない日があると感じる程無口だった。

《ばあちゃんは何を楽しみに生きとるだろか?年とったら誰でもおかさんみたげになって、ばあちゃんみたげになるだろか?》

健太は扶美の顔を、母とばあちゃんとに脳裏で重ね、その不気味さに慌てて打ち消した。

「ごっつおさん。縦波止で魚釣っとるき」

「夏休みだき言うて、遊んでばっかりおらんこに、宿題も書き取りも毎日しなはれよ」

立ち上がった健太の背に母の言葉が飛んだ。

「夏休みも書き取りするだかな?」

「当たり前だがな」

健太は今年の新学期から毎日、宿題以外に漢字の書き取りをさせられた。

「なしてな?」

「大人になったら判る」

普段から友達が誘いに来ても、書き取り問題のその日の分が終わらないと遊びに行かせてもらえず、悔しがる健太が聴かされる母の言葉は、何時も同じだった。

《大人になったら判る、言うて、大人になったら何が判るだろか?大人と子供と違うだろか?わし、何時になったら大人になるだろか?》

漁師になるつもりの健太には、自分に漢字が必要だとは想えず、不満ばかり募った。

「ねえちゃんもあんちゃんも、ほんに一生懸命勉強して、知らん字なんかなかったきな」

《ねえちゃんやあんちゃんの話は、は、良いがな》

健太は何時もの母の説教を聴かされるのが堪らず、母の言葉を遮った。

「じいちゃん、えさ、何ぞないかな?」

「イカの漬けたの持って行けや。一番手前の樽から取れ。タイ縄に使うやつだき、良う食うで」

「うん、おおきに」

「丁寧にりんと書きなはれよ。汚かったらやり直しだきな」

「判っとるわいな」

追い打ちを掛ける母から逃れるようにランドセルを拾い上げ、表の間で情けなさを堪えて書き取りを済ませた健太は、裏木戸の納屋に入り、周囲に塩がこびり付くほど年季の入った、古ぼけた桶の中の刻みイカの塩漬けを一掴み取って新聞紙に包み、釣り道具を手にした。

友達は皆、雑貨店で売っている釣竿や漁具を使っていて健太をうらやましくさせたが、健太の釣竿は自分ではげ山の竹薮から採って来た竹で、じいちゃんの指導を仰ぎながら時間を掛けて一生懸命丁寧に仕上げた物だったし、漁具はじいちゃんが漁に使っているのを分けてくれた物で、さび付いたりしているのも多少あったが、それはそれで健太の宝物であった。


裏木戸を潜るとすぐ、真っ白な砂浜が拡がり、真っ青な日本海が強烈な夏の陽光を浴びて輝き、処々で陽炎が立つ砂浜を撫でてそよぐ熱い風が、磯の焼けた匂いを運んで来る。

カモメの群れが遠くの波打ち際に遊び、孤独なトンビが健太の頭上で鳴きながら、ゆっくり弧を描いた。

この町の砂浜は、ハマナスの最南端生息地として、知る人ぞ知る砂浜だった。

砂浜を南へ一キロ程行った辺りに、中国山脈に水源を持ち、市の中心部を縦断して過ぎる川が流れ出し、河口を越えてさらに五〇〇メートル程砂浜が続く。

そしてその東側の麓に小学校がある小高い岬の上の、潮風を受けてさやかに揺れる松林の木陰の中に、中学校の白い校舎が見え隠れしていた。

《来年からあすこに三年通て》

北に向くと一〇〇メートル程で港があり、その先に漁業組合と市場のある町の中心が、今は人影もほとんどなく、熱い陽光を浴びて穏やかな佇まいを見せていた。

夕方になって底曳き船が戻ると、漁師の家は戸締りもろくにしないで、主婦や年寄り達が子供を連れ、赤ん坊を背負って男達を迎えに出て、獲れた魚の水揚げや、翌日の出漁の準備をするのだ。

健太は、海水が暖かく感じられる程寒い真冬でもほとんど欠かさず、毎日のようにじいちゃんの本家の船の手伝いに出た。

じいちゃんの船は二人乗りの小さい船で水揚げも少なく、母とさかいのおばあさんだけで充分だったし、底曳船が早朝出漁して夕方帰港するのに対して、じいちゃんの延縄船は夕方出漁して明け方帰港するのだ。

船の手伝いの報酬にもらって帰る魚を、家族が美味しいと言って食べてくれ、時々多くもらい過ぎて食べ切れない分を干物にして姉の家族や独り住まいの兄に送り、返信に認められた健太への礼の言葉を母が見せてくれるのも誇らしかったし、また自分の労働が家の生計の一部を支えているという自負もあった。

 そして何より、魚の入った重い箱を一度に何枚も抱えて運んだり、重い製氷を船に積み上げたりする自分を見て、本家の人達が「健太も力が付いて、は、一人前だてや」などと褒めてくれるのが嬉しかった。


武と洋二が、釣竿と道具箱を抱えて海岸通りから縦波止に向かうのが見えた。

健太は二人を追って波止場に走った。

縦波止の先端から岡を見返ると、遠くかすむ中国山脈の山並みを背景に、中央にはげ山を置いて、北は港と町並み、南は長い砂浜を一望出来る。

釣り糸を垂らすと、えさ取りのフグ、カワハギ、ベラ、クロダイなどの当年子が、海底も見えなくなる程群がり集まって来る。

その底にいるガシラやアイナメ、クロダイを狙うのだ。

強烈な陽射しに焼かれるうえ、海中は涼しそうに澄み切っていて、まるで飛び込んで来いと誘っているようで、三人は明日からでないと泳げない学校の規則をうらめしく感じた。


太陽が西の海上に傾き掛かる頃、漁業組合の拡声器から《ソーラン節》に乗せて、無線で確認した各々の底曳船のおおよその帰港時間を、町中に知らせる声が流れた。

夕方から出漁するじいちゃん達の船が港を出て行くのが見え、大声でじいちゃんを呼んで手を振ると、船のともに立ったじいちゃんが健太を認め、手を振り返した。

三人は釣り具を納め、釣った数匹の磯魚を持って家に帰った。

裏木戸では母が洗濯物を取り込んでいた。

納屋に釣具を置いて炊事場に入ると、今日に始まった事ではない、もうもうと起こった煙と湯気が家中にこもり、海側の窓から差し込む夕陽に照らされて家の中が真っ赤に映え、まるで火事が起こったように見える。

その煙と湯気の出処では、ばあちゃんが小さな身体をさらに小さくして、ふろの炊き口と、炊事場の釜戸の前とに、交互に忙しなくしゃがみ込み、煙にむせながら必死で火吹き竹を吹いていた。

「ばあちゃん、何ぞ食うもんないかな?」

「戸棚に麦粉が入っとるで」

《やった!麦粉だ》

健太は麦粉がなめられるのと、久しぶりにばあちゃんの声を聴いたような気がして嬉しくなり、釣った魚を炊事場に放り出して手を洗い、勢い良く戸棚を開いた。

冷水で溶いて食べる麦粉は美味しかった。

挽いた麦粉に砂糖と塩を適量混ぜた物で、粉のままなめたり、水に溶いて食べたりするだけの粗末な物だったが、おやつなどほとんどない子供達にとって結構なごちそうだった。

また、先日まで冷蔵庫代わりだった井戸の水も冷たく美味しかったが、冷蔵庫のお陰で、氷が何時でも口に出来るようになったのも嬉しかった。

「食べ過ぎなはんなよ。明日のも取って置かな、いけんで。何もないき」             母に見つからないうちに二杯目を狙っていた健太は、母の制止でしぶしぶ湯飲みの底をなめるように食べ、袋に入った麦粉を指に塗して一なめしてから、名残惜しそうに戸棚に戻した。

納屋に入って汚れたシャツとズボンに着替え、長靴を履く。

汚れたと言っても魚の汁やイカのスミ、機械油などが付着して取れなくなっているだけで、母が毎日洗濯してくれていた。

健太はこの格好をする時は何時も、大人になった気分になり、誇らしく想うのだった。

「本家のてごに行って来るが」

健太は無意識に大人びた声で言い、手伝いの報酬にもらう魚を入れて持ち帰る、竹で編んだ手かごを持って、裏木戸を出た。


海岸通りを歩いていると、ちんばさんがこれからイカ釣りに出るのだろう、酒の入った水筒とイカ釣りの仕掛けを積んで、ペダルを漕ぐ度にキーキーと鳴る古い自転車に乗ってやって来た。

「どがなかな?」

「おお、健太、いっつも元気だの」

「てごしよかな?」

「おお、頼むで」

健太はぎこちなく挨拶し、周囲にちんばさんの出漁を手伝う人がいないのを知って、恐る恐る船を降ろす手伝いを申し出た。

ちんばさんが厳しい顔をほころばせて、健太に微笑んだ。

じいちゃんもだが、老人の漁師達の顔は皆、手足同様、永年潮風に晒され、陽光に焼けて赤黒く、しわだらけで、笑わない時は怖い程鋭かった。

健太は手かごを砂浜の上に置き、ろくろ式巻き上げ機の腕に当たる丸木を固定した縄を解き、急に回らないよう体重を掛けて、ゆっくり逆戻しにして行った。

ちんばさんは片脚が不自由なのに、片脚跳びで動き回り、器用に据え木ところを移動させ、船を波打ち際まで降ろしてとも綱を外し、船に乗り移ってエンジンを掛け、手を挙げて健太に合図した。

健太は波打ち際に急いで走り、波打ち際に漂う据え木ところを抱えて砂浜まで運び揚げ、とも綱を手繰って据え木ところの上に置いて一息付き、夕陽に映える港からちんばさんの船がディーゼルエンジンの音を立てて出て行くのを見送った。


ちんばさんはじいちゃんのまたいとこで、若い頃からずっと底曳船に乗り組んでいたそうだ。

ある日の操業中、ちんばさんが網に片脚を取られて船腹に宙吊りになったので、船長が網を切るように言って、急いで包丁を渡すと、ちんばさんはちゅうちょもせず、自分の片脚の膝下の部分を切り落とし始めた。

慌てて制止する船長に、ちんばさんは「船と網は漁師の命だが。捨ててどがするだか。ぼやけとったわしが悪いき。そいに、は、膝から下は使いもんにならんが」と言って、結局自分の片脚を切り落としたのだそうだ。

そして底曳船を降りて、補償金で小さな船を買い、一人でイカ釣りやタイ縄、メノハ刈りなどをして生計を立てていた。

それは当時の船や網が、いかに貴重で、高価な物であるかの証でもあった。

漁師の鏡のような伝説の人であり、町の誰もが尊敬し、畏怖の存在であるちんばさんが、健太は憧れながらも苦手であった。

《わしがちんばさんみたいになら、自分の脚なんか良う切らんが》

漁師への願望は強かったが、自分や仕事に対して、それ程厳しくなれる自信はなかった。

ちんばさんに会う度、そんな自分の甘ったれた気持ちを見透かされるような気がするのだった。


「どがなかな?」

「毎日暑いなあ」

「ねえちゃんやあんちゃんは元気にしとるかいな?」

「さい。元気だでな」

健太と同様、やがて帰港する船の手伝いに向かう何人もの人と挨拶を交わしながら、本家の船を据える処まで行く。

狭い町で誰もが顔見知りだった。

本家のおばあさんとおばさん、分家のおばさんが座って海を眺めていた。

本家のおばあさんが歩み寄った健太に気付いて声を掛けた。

「は、夏休みだげなの?」

「さい、今日、終業式だったきな」

「いっと遊べて良かろが?」

分家のおばさんが、布のおむつをしただけの裸の赤ん坊をあやしながら微笑んだ。

「何が。おかさんが勉強せ、勉強せ、言うてやかましいがな」

「わら、何、いなげな事言うとるかの。子供が勉強するんは当たり前だで。学校が休みだき、家でよけ勉強せな。そいに、わら、ねえちゃんやあんちゃんみたげに、大学行くだろがや。ちゃんと勉強せな。そら、お前、ねえちゃんやあんちゃんはようけ勉強したき、成績が一番だっただが。おばさんやちは、遊んでばっかりだったがな」

本家のおばさんが笑みを浮かべながらも健太を叱り、冗談を言って首をすくめた。

本家のおばさんの手指も母同様、指が太くて爪の先や手に付いた引っかき傷、ひび割れの黒い染みが幾つもあった。

分家のおばさんも同様だった。

本家のおばさんも分家のおばさんも、健太の姉、兄と同い年ぐらいで、未だ若いはずだが、それでも、健太の母やばあちゃんと同じように、荒れた手をしていた。

健太はそれを一瞬見つめてすぐに眼を逸らし、三人が並んでいる傍へ勢い良くはすに座り、ぶっきらぼうに応えた。

「わし、大学なんか行かへんでな。中学出たら漁師になるき」

「健太、漁師なんかなってもつまらんが。止めとけてや」

分家のおばさんが健太を諭すように言うと、いきなり胸元をはだけ、むずがり出した赤ん坊をあやしながら乳首を含ませ、乳を飲ませ始めた。

夕陽に照らされてみかん色に染まった分家のおばさんのふくよかな乳房を見て、慌てて眼を逸らした健太に気付いた本家のおばあさんが、豪快に笑い飛ばした。

「わはは。健太!わら、未だ、おかさんとばあちゃんのおっぱいしか見た事なかったかいな?」

「し、知らんがなっ!」

からかわれてうろたえた健太は、身体ごと三人に背を向け、むきになって否定した。

「健太も、は、良い若いしだてや」

「良い男だき、彼女ぐらいおろが。触らせてもらえや」

分家のおばさんが健太に乳房を見られた事を恥らいもせず、乳房を隠す訳でもなく、屈託なく笑いながら健太をからかった。

それが健太を一層恥ずかしくさせた。

「か、彼女なんかっ、お、おらへんてやっ!」

健太は冷や汗をかいて吐き捨て、やっと視線を定めた横波止の彼方で、視界にある物全てを真っ赤に染め、水平線の上空で燃える夕陽の中心に、扶美が健太を見つめる時に何時もする、小首を傾げて微笑む表情を描いた。

《大人の女子のおっぱい、あがなんか?扶美のおっぱいは?》

本家のおばあさんの指摘通り、健太が母とばあちゃん以外の女性の乳房を見たのは、これが初めてだったし、大人の女性の乳房を意識したのも初めてだった。

《扶美も大人になら、あがな大きなおっぱいになって、赤ん坊産んだらおっぱい隠さんよになるだろか?》

健太は、垣間見た、乳房をはだけた分家のおばさんの顔を、扶美の顔に挿げ替えてみたが、妙な違和感しか覚えなかった。

扶美の未だ幼いであろう乳房を、勿論洋服の上からではあっても、今まで意識して見た事はなかった。

本家の三人の子供達が走ってやって来て、健太を見付けると勢い良くじゃれ付いて来た。

「おいおい船が戻るで、空箱降ろしとこか」

「おかさん、赤ん坊抱いとっとくれやな」

「わしもやるき。わいちゃ、は、止めるで。そこに座っとけや」 

子供達のじゃれ合いの相手をしていた健太は、本家のおばさんと分家のおばさんが立ち上がったのを見て、子供達をたしなめて座らせ、二人と一緒に魚箱を降ろし始めた。


少し身体を動かしただけで、もうシャツに滲み上がる程汗が出る。

海岸通りの傍に積み上げてある、船から水揚げした魚を選り分けて入れる空の木箱を、一度に抱えられる限り抱えて、船を据える波打ち際まで何度も運ぶ。

《分家のおばさんは、漁師の嫁じょのくせに、なして漁師なんかつまらん、言うだろか?》

健太は分家のおばさんとすれ違う度に、さっき垣間見たおばさんの美しい豊かな乳房を想い出して照れ臭い思いで視線を逸らしながらも、分家のおばさんの言葉に疑問を抱いていた。

そして健太は本家のおばさんとすれ違った時、思い切って尋ねてみた。

「なあ、おばさん、わしが中学卒業したら、本家の船に乗せてもらえんだろかな?」

本家のおばさんは一瞬立ち止まり、戸惑った表情で健太を見たが、少し間を置いてから低い声で応えた。

「中学の間に気が変わらな、本家のじいさんに頼んでみや。おとさんもおかさんも反対すろが。ま、先の話だき、そがに慌てんこに、ゆっくり考えたら良いがな」

おばさんの応えは、じいちゃんのそれと同じだった。


太陽が水平線に掛かり始める頃、底引き網の漁船が一隻、二隻と夕日に映える真っ赤な波頭を砕いて帰港し始めた。

これから約二時間、海岸通りと市場は大声が飛び交い、大勢の人が忙しなく行き来する戦場となる。

戻った船が半回転し、舳先を海に向けて波打ち際に後進すると、とも綱を掛け、海岸通りの巻き上げ機を皆で押し回してワイヤーを巻き上げ、据え木ところを順送りにして、船を波打ち際から海岸通りへの砂地の傾斜に引き揚げる。

身内の船が未だ戻らない時は、他所の船を手伝い合う。

巻き上げ機を回す皆の会話が、何時もの大漁を期待して弾んだ。

翌日が凪の日は他船と漁場を争う為に、船をすぐ出せる波打ち際に据え、時化が予想される時は、海岸通り近くまで引き上げて据えた。

この町のような小さな港は、大時化になると外海の荒波が防波堤の横波止を乗り越え、船が直接被害を受けるからだ。

船を据えると、船底の水槽から獲れた魚を大きな手網ですくって、砂浜に拡げたむしろの上に降ろし、魚の種類と大きさに従い、それぞれ木箱に素早く仕分けして行く。

冬場はともかく、気温が高い夏場は、折角船底で氷を入れた海水に活けて置いた魚の鮮度が落ちるので、速さが要求された。

かつては良く間違えて注意されていた健太も、最近は自分の判断で正しく魚を仕分け出来るようになっていた。

仕分けしながら、くらがいの魚をもらって皆で食べる。

くらがいとは、漁師がご飯を入れて漁に持って出る木製のおひつの事で、午前の操業で獲れた雑魚を海水で炊いて昼食のおかずにし、余りをくらがいに入れて持ち帰るのだが、この単純な煮魚が格別美味しいのだった。

仕分けした魚を箱ごと海水ですすいで砂を落とし、独りで抱えたり、何枚も重ねた魚箱にロープを二箇所に掛けて通した天秤棒を二人で担いだりして、海岸通りに停めたリヤカーや大八車に載せて市場まで運び、競りに掛ける順番の所定場所に積み上げ、帰りに組合の製氷庫に寄って翌日の出漁の為の角氷を運び、船底の水槽に入れる。

それを何往復か繰り返すのだ。

そして本家のおじさん達と、バケツリレーで汲み上げた海水を何十杯も流しながら、甲板をデッキブラシで洗い磨き、機関士はエンジンを整備点検し、燃料を補給する。

健太は燃料や機械油の匂いの立ち込める機関室に入って、動かしたりは勿論出来なかったが、エンジンや計器類に触れたり、見たりするのも好きだった。

時には網や船に緊急の修理を要する事もあったが、そんな時はどんなに遅くなっても年寄りや女達も含め、全員で作業した。

漁師の仕事はそこまでで、獲れ過ぎて市場に出しても安値しか付かない魚や、操業中に傷付いたりした魚を、漁師と手伝いに出た者の家の数で適量ずつ分配し、労働の報酬として手かごに入れて持ち帰る。

健太がもっと幼い頃、時々手伝いに出るじいちゃんやばあちゃん、父母に付いて出る事があって、その際に健太の分として、手頃な魚一匹をひもで括って持たせてくれただけだったが、最近は健太だけ出ても一人前に報酬を分けてくれるようになっていた。

また健太がそれなりに手伝える程大きくなって経験も積み、毎日のように手伝いに出るようになったからか、じいちゃんやばあちゃん、父母は手伝いに出なくなっていた。

それは健太にとって、自分が一人前の大人扱いされているようで、誇らしい事だった。


「吉田屋のばあさんが、今朝退院しちゃったき、ハマチ一本届けとくきな」

本家のおばあさんが、船から上がって来たおじいさんに声を掛けた。

「おお、よろしに言うとけや」

おじいさんが汗びっしょりの顔を手ぬぐいで拭きながら、威勢の良い声を挙げた。

「健太。わら、帰りに届けといてごせや」

「はい、良いでな。手かごに入れといとくれやな」

健太は魚箱を担ぎながら応えた。


この町では祝い事、病気見舞い、手土産などの贈答として、普段は市場に出すと良い値が付くヒラメ、タイ、アマダイ、ハマチなどの高級魚を遣うのが一般的な慣習だったし、祭りや正月、めでたい催し物がある時にも、これらの高級魚を必要に応じて分配した。

明日の出漁の準備が出来た漁師達と夕食の準備をする主婦、子供達が帰った後、年寄り達が市場で魚を競りに掛け、それが終わると、汚れた魚箱を持ち帰って海水で洗い、海岸通りの傍に積み上げる。

そしてやっと家に帰り、家人に競りの値を報告して、その日の仕事を終えるのだ。

健太も、夕食の仕度に間に合うよう、分け前の魚を一旦家に持ち帰ってから市場に戻り、進んで最後まで手伝った。

帰る途中、頼まれていたハマチを届けに吉田屋に寄る。

夏の暑さを和らげる為に少しでも外気を入れようと、何処の家も玄関の戸も窓も開けっ放しだ。

土間に入って奥に向って声を掛ける。

「こんばんは。どがなかな?おばさん。おっちゃるかな?」

「はーい。おお、健太か?どがしたか?」

吉田屋のおばさんが割烹着で手を拭きながら土間続きの炊事場から出て来た。

「おばあさんが退院しちゃったげなな?これ、本家から祝いに」

健太は手かごからハマチを差し出した。

「おお、すまんな。気遣てもろて。よろしにな」

「はい。おばあさんに、はよ、良うなるよにな」

健太は自分がお礼を言われたようで、また、大人の使いが出来たようで嬉しくなり、弾んだ声で大人びた言葉を遣い、吉田屋を出た。

分け前の魚を家に持って帰り、走って市場に戻る。

夜の帳に港が包まれ、一斉に点灯された灯の下で、けんかと錯覚する程威勢の良い競りの掛け声が響き渡り、活況を呈する市場の雰囲気も健太は大好きだったし、また大物のタイやヒラメ、巨大なタコなどが揚がっているのを時折見つけては、漁師への夢を増幅させた。


「海浴びて来るき」

手伝いを全て終えて市場から帰宅した健太は、炊事場の母に大人びた声を掛けて裏木戸を潜り、砂浜に降りて波打ち際まで走って、汗と魚の汁で汚れた洋服を着たまま、暗い夜の海に跳び込んだ。

海水を一かきすると、おびただしい夜光虫が光りざわめいて、健太にまとい付く。

優しい海の感触が、厳しい労働の末の、筋肉の痛みを和らげてくれるような気がした。

ただその痛みも健太にとっては、大人の身体に成長する証として、嬉しい痛みだった。

洋服に付いた魚の汚れを擦って落としながら、沖を眺める。

無限数の星々を満天にちりばめた空と、真っ暗な海を隔てる水平線を記して、不規則に並んだイカ釣り漁船、イワシ網漁船の、色とりどりの漁火が無数にきらめいていた。

その一つは勿論じいちゃんの船だった。

《じいちゃん、イカいっと釣っとくれよ》

明日から始まる楽しい夏休みに想いを馳せると、無意識に笑みが零れる。

夢中で身体を動かしたくなる衝動を覚えて、勢い良く海水で顔を洗った。

そんな健太を護り慈しむように、満天の星々の輝きが降り注ぎ、穏やかに寄せ来る無数の波がさらった。


翌日、健太は五時に起きて着替え、納屋に置いてある手網ともり、鉤竿とバケツを手にして縦波止に向かった。

磯探りは天候の悪い日と時化の日を除く、一年を通して健太の日課だった。

他の子供達も時折していたが、健太のように毎日ではなかった。

普段は岩陰に潜むタコやサザエ、アワビがえさを求め、夜の満ち潮に乗って波止場の上からでも見える処に出て来ていて、潮が引き始め、夜が明けて周囲がざわめくようになったりすると、再び岩陰に潜む。

その前に見つけて、手網やもり、鉤竿で獲るのだ。

鉤竿は、三、四メートルの竹竿の先端に、針金の八番線を一〇センチメートル程に切って片方の先端を尖らせ、釣り針状に曲げて数本取り付けたもので、もりが届かない処にいるタコを獲るのに使う。

時によっては、波止場の付け根の岩場に潜むタコの大好物である毛ガニを獲って、鉤竿の先端にひもで括り、タコが潜んでいそうな岩場の陰をつついて、誘き出す事もあった。

アワビやタコは良い値で売れるので、もりや鉤竿が届かない場合には、寒い時期でも洋服が濡れるのもいとわず、飛び込んで獲ったりする事もあった。

磯探りは太陽が昇る前の薄暗い時間は、岩や海草と獲物との識別が難しく、太陽が昇り切って明るくなると、獲物が岩陰に隠れてしまうので、タイミングが非常に重要だった。


小学校の高学年になり、成長して素潜りが上達した子供達は、毎年六月頃から、雨が降って外で遊べない時などに、もり作りに精を出した。

先ずはげ山の中腹にある竹薮で、身長に応じた適当な長さと太さの、丈夫な笹竹を採って来て、陰干しで乾燥させる。

そして町の鉄工所で鉄棒の屑を貰って来る。

鉄工所も、その季節になると子供達がもり作りに鉄屑を貰いに来るので、体格に応じて選べるように、様々な太さと長さの鉄棒を、片方に穴を開けて取って置き、勿論無料で分けてくれた。

貰って来た鉄棒の穴の空いてない方を金鎚で叩いて平らにし、ヤスリで先端を尖らせ、掛りを作ってもり先が出来る。

次に、柄に使う為に乾燥させた笹竹の節を削って、外周を滑らかにする。

そして竹竿の細い方の端に穴を空け、その穴ともり先の根元の穴が合うように、竹竿の先端からもり先を挿入し、重なった穴に細い針金を何重にも通して巻き付け、固定する。

最後に竹竿の根元に小さな穴を空け、太く丈夫なゴムひもを同じ径で何重にも輪にした物を、穴を通した針金で固定し、針金で身体を傷付けないよう、針金の上からビニールテープを何重にも巻いて完成する。

もりの完成度と大きさは、それを作った子供の成長度と、早く大人になりたいという願望の強さの顕われだった。

小学六年生の健太が今年作ったもりは全長が二メートル弱あって、水中で二メートル、空中で一〇メートルも飛び、「これ、先生に見せて、図工、五にしてもらえや」と、じいちゃんが褒めてくれたほどの、素晴らしい出来栄えだった。

もりは使い方を誤れば危険極まりない物だったが、子供達は代々作り方を教わる大人や先輩の忠告を忠実に守り、事故が起こった事はかつて一度もなかった。

この日の磯探りの漁果は、五〇〇グラム程のタコ一ぱいだけだった。

獲ったばかりのタコは、勿論逃げようとするのだが、頭をひっくり返すと動かなくなる事を教えられていた。

サザエもアワビも何ばいか見つけたが、小さかったので獲らなかった。

子供達は、自分の握り拳より小さいサザエ、掌より小さいアワビは獲るなと教えられ、それを忠実に守っていた。

それは、子供の頃は許されても、成長するに従って、許されなくなる事があるという人生の教えでもあった。


家に戻ると、じいちゃんが釣り上げる際フカに食われて傷物になり、市場に出せないイカを、刺身用とタイ、ハマチの延縄漁のえさ用に捌いていた。

「どがだったか?」

「うん、タコが一ぱいだけだでな」

《やった、また傷イカの刺身だ》

じいちゃんにとっては漁が減るので重大事であったが、毎朝のように食卓に出るどんぶり一杯のイカの刺身は、魚嫌いを自称する健太も大好物で、毎日でも嫌ではなかった。

「きちしやのう、フカのやつめが」

イカを捌きながら、じいちゃんが独り言を言った。

長年海で漁をすれば、独り言が癖になるとじいちゃんは言った。

健太も魚釣りや素潜りで大物を逃した時など、無意識に独り言が出るようになっていた。


フカはイカ釣り漁船や延縄漁船にとっても重大事だが、底曳漁船の方が一層深刻だった。

底曳網にフカが入り込むと網の中の魚を食い荒し、暴れて高価な網を破るのだ。

海岸通りの街灯の元で、底曳船の漁師達がフカに破られた網を、徹夜で修理したという話を何度か聴いた事があった。

フカが繁殖して増え、被害がひどくなると港の船が総出で、ブタの血を海に流し、寄って来たフカをもりで突いたり、釣り上げたりもしたのだ。

柱時計が六時を打ち始めた。

じいちゃんがイカを捌くのを見ていた健太は、タコを網に入れてバケツに放り込み、井戸水をつるべで汲み上げ、バケツを冷水で満たす。

この町のほとんどの家庭に井戸があり、海がすぐ傍にあるせいで、海水程の濃度ではなかったが、

多少の塩分を含んでいた。


健太は近所の子供達とラジオ体操を済ませ、海神様の神社の傍の畑まで走った。

健太の家は畑を四枚持っていた。

山の畑ではイモ、豆類を、バス停傍の畑と町外れの畑ではその他の野菜を、そして海神様の傍の畑でイチゴ、ウリ、スイカなどの果物を作っていて、それぞれの季節には、旬の味覚を満喫出来た。

健太は海神様の傍の畑に行くのが一番好きだった。

ここで収穫される果物類は好物だったせいだが、美味しいと思いながらも野菜嫌いを装う健太は、他の畑で野菜が沢山穣るのをうらめしく思っていた。

ただ畑の手伝い自体、嫌ではなかった。

どの畑でも見られる四季折々、朝昼夕の自然の移ろいに伴う植物の成長や変化、昆虫や小動物の生態が興味深く、魅力的だったのだ。

海神様の傍の畑は、その周囲を巡らした竹の柵一面に、様々な色合いの朝顔が、今やまさに満開であった。

「何ぞ、獲れたか?」

「うん、タコが一ぱいだけな」

イチゴを摘んでいた父が、健太に気付いて顔を上げた。

涼しい朝にも拘らず、父の額には汗が光っていた。

母は顔も上げずに草むしりをしていた。

磯探りは健太が始めた事ではない。

父も幼い頃、年上の子供に習って、やっていたそうだ。

健太も、健太を慕って一緒に遊びたがる近所の年下の子供に、遣り方を教えていた。

昨晩の父は健太の通信簿を見て、無言ではあったが、満足そうに微笑んでうなずいた。

「おかさん、は、帰ろや」

「は、そがな時間だかな?」

父が腕時計を見て母に声を掛け、イチゴを入れた手かごを抱えて畑の出口に向かい、母が額の汗を洋服の袖でぬぐいながら従った。

母の後に続いた健太の眼に、自分のこぶし程のスイカが止まった。

「おとさん、スイカの子供がなっとるが」

「こいから、スイカもウリもようけなるき、いっと食えよ」

父が健太を振り返って眼を細めた。


丼一杯の傷イカの刺身と、丼一杯のイチゴの朝食を済ませ、父が仕事に出掛けてから、健太は片付けをする母に促されて、ちゃぶ台に宿題を拡げた。

しかしすぐに、眼の前にある古い柱時計が気になり始めていた。

《あーあ、未だ二時間もあるが》

小学校の校則で決められた夏休みの外出時間は、盆と夏祭り以外、朝一〇時から夜六時だったが、厳正なものではなかった。

それは暗黙の了解事で、子供達が朝には畑仕事の手伝い、夜には船の手伝いに出るからだった。

「おかさん、お茶にしてごせや」

しばらくしてじいちゃんが、出掛ける時に、坊主頭にねじりはちまきをしている手ぬぐいで滴る汗を拭きながら、船のバッテリーの充電から帰って来た。

さかいのおじいさんも一緒だった。

「どがなかな?健太、勉強しとるか?良い成績だったげなの。じいさんが自慢しとったで」

さかいのおじいさんが健太を見降ろして、赤黒いしわだらけの顔をほころばせた。

《じいちゃんが、わしの事自慢しとった》

健太はさかいのおじいさんに褒められた事より、じいちゃんが自慢した事が嬉しくて、さかいのおじいさんを見上げて照れ笑いを浮かべ、宿題を畳の上に降ろして腹ばいになると、二人がちゃぶ台を囲んで座った。

この町では、朝の一〇時頃と昼の三時頃、親しい家を行き来して集まり、世間話をしながら、お茶を飲む習慣があった。

母が湯飲みや急須を乗せた盆と、湯気の立っている古びたやかんを運んで来て、お湯をポットに注ぎ、お茶の葉を入れた急須にも注ぎながら、さかいのおじいさんに話し掛けた。

「まあ、毎日暑いでな」

「さい、年々暑なるげなでな」

じいちゃんとさかいのおじいさんが煙草に火を点け、母が居間の隅に置いてある灰皿を取ってちゃぶ台に乗せ、二人に向けて風が行くように扇風機を回した。

母が入れたお茶を配っていると、ばあちゃんがキュウリとナスの浅漬けを入れた器を、盆に乗せて運んで来て、母の後ろに座った。

「今年も野菜が良うなって、美味しいでな」

「ほんに毎年ありがたい事だでなあ」

母がばあちゃんから受け取った器をちゃぶ台の上に乗せ、じいちゃんとさかいのおじいさんが浅漬けを指で摘まんで口に放り込んだ。

健太も朝食に食べて、美味しいと感じた浅漬けを食べたかったが、野菜を美味しいと思っている事を母に知られたくなくて、止めた。

母がじいちゃんとさかいのおじいさんをうちわで扇ぎ、ばあちゃんがうちわを手にして、何時ものように無言で、ハエを追った。

「おじいさん、あんた、帰りにナス持っていんどくれやな。採れ過ぎて困るが」

「おお、おおきに。うちねは今年ナス植えんかったき、助かるが」

《ほんなら全部持っていんどくれや。うちねはいっちょもいらんき》

町のほとんどの家が畑で野菜を作っていて、作っていない野菜を分け合う習慣があった。

健太はそれがうらめしかった。

「うちねは今年カボチャがまげになっての、後で嫁が持って来るで」

「おおきに。助かるがな」

《わし、助かりともないで》

話している処へさかいのおばさんが来て、土間に重そうなしょいこを降ろした。

「どがなかな?やれ、しわいの。カボチャ三つ程、もろとくれやな。またのうなったら言うとくれよ。持って来るき」

「いっつもおおきに。後で背戸からナス出すき持っていんどくれよ。暑いな、毎日。あんたも上がってお茶飲みなはいや」

「はい、おおきに。健太の勉強の邪魔にならへんかいな?」

「は、済んだき。わしもお茶おくれやな」

健太はむきになって宿題を片付け、じいちゃんの横に座り込んだ。

「しかしのう、野菜は毎年毎年良うなっとるが、魚は年々獲れんよになって来とるがの」

「さいのう。獲れんよになったの」

さかいのおじいさんがぽつりと言い、じいちゃんが煙草の煙をくゆらせてうなずいた。

「何でもな、隣の市だ、三年前に出来た化学工場が排水を海に流して問題になっとるげなで。そいにな最近百姓家だ、跡継ぎがおらんき人手が足らんよになって、使う農薬の量がずの増えとるで、この辺の海も、海水が汚染されて来とるげなでな」

「さい。こないだ、新聞に載っとったなあ」

さかいのおばさんが母から受け取ったお茶をすすってから、声を潜めて言うと、母があいづちを打ち、皆がうなずいた。

健太は驚いた。

この地方の産業の発展に貢献していると聴かされ、去年の秋に遠足で見学に行った、隣の市の化学工場が流す排水のせいで、また農業を営んでいる同級生の家も沢山あったが、その農家が使う農薬のせいで海水が汚染され、魚が減って来ているとは。

健太の心に初めて、自分の将来に対する不安が過ぎった。

「漁師はこいから、おおごとかも知れんの」

じいちゃんが寂しそうにつぶやき、さかいのおじいさんもうなずいた。

「健太も大学出て、おとさんやあんちゃんみたげに、給料取りになった方が良いでな」

《おばさん、要らん事言わんで良いに》

さかいのおばさんが、健太の最も触れられたくない事を口にした。

「わし、大学なんか行かへんで。中学校出たら漁師になるき」

むきになって言いながら宿題を持って立った健太に、予想通り母の説教が始まった。

「なしてそがな事言うかいな。ねえちゃんもあんちゃんも頑張って勉強して、大学出たに」

《あれやちの話は止めとくれや》

「裏の浜で魚釣っとるきな」

母が姉兄を語る度に覆う不本意な思いが、健太の心を一層曇らせた。

健太は急いで茶飲み話の席を離れて納屋に向かった。


高くなる太陽の光で次第に温められて行く磯の匂いを含んださわやかな潮風が、仕掛けを海に投げ込む健太を包み、青空に向かって砂浜に突き立てた竿先を軽やかに揺らす。

テグスをゆっくりと手繰り寄せ、脚元の砂浜の上に円を描いて重ねて行く。

指先に魚信が伝わると思わず笑みが洩れた。

合わせて掛かったのを確認し、巻き上げる。

幼い頃から日課にして来た釣りだった。

《キスだ。結構でかいが》

二年前くらいから、魚信で掛かった魚の種類や大体の大きさが判るようになった。

釣りをしながら、健太は先刻の大人達の話を想い出した。

確かに健太の幼い頃、四、五年前までは、膝まで海に浸かって足元に釣り糸を垂らすだけで大型のキスが釣れ、魚がえさに食い付くのさえも肉眼で見えたが、何時の頃からかそんな事はなくなってしまっていた。

父が子供の頃は、二、三メートルの深さで、形の良い大型のハマグリが幾らでも獲れたそうだ。

健太も時々ハマグリ獲りに潜ったが、深さ一〇メートルも潜らなければ獲れなかったし、父が言う程大型でも、大漁でもなかった。

《やっぱり、海が汚のなっとるだろか》

そんな想いと母の説教のせいで、絶好の夏日和にも拘わらず、健太の心は晴れなかった。

母が昼食に呼ぶ声で、健太は一〇匹程のキスとカレイ、ハゼを入れたかごを手にした。


《やっと泳げる》

弾む心を抑えて昼食を終え、海水パンツに着替えてから、エヌエイチケーラジオの「昼の憩い」という番組を聴くともなしに聴く。

当時は、ほとんどの家庭にテレビはなく、この番組での全国の便りやトピックスが、新聞やラジオのニュースと併せての情報源であった。

この番組が終わると一時で、いよいよ泳げる。

逸る心と身体を抑えて、直径五〇センチ、深さ五〇センチ程の縦桶の側面に付けた針金の輪に手製のもりと、アワビ獲り用の使い古したドライバーを差し込む。

縦桶には細長い綱が付けてあり、先端を脚首に巻き付け、潜る深さに応じて長さを調節し、サザエ漁をするのだ。

健太は去年まで一五メートル程の長さだった綱を、今年二五メートルの綱に付け替えた。

一年間身体を鍛え、去年に比べてどれだけ深く潜れるようになっただろうか。

縦桶を抱えて裏木戸を飛び出すと、同じ出で立ちの武と洋二が丁度走って来た。

太陽光で熱せられて焼けた砂浜を跳ねるように波打ち際まで走る三人の顔は、一年振りの海に嬉しさが噴き零れていたが、「沖の瀬」への初挑戦を前に、緊張気味でもあった。

「先に、いっぺん、中の瀬潜ろか?」

「おお、良いで。試しに行こや」

「去年と一緒だと思うがな」

健太の家の裏の波打ち際から一〇〇メートル程の位置に、深さ五メートルから一〇メートル程の「中の瀬」があり、さらに一〇〇メートル程沖に、深さ一〇メートルから一五メートル程の「沖の瀬」があった。

三人は二年間中の瀬でサザエ漁をしていたが、漁が少ないので今年は沖の瀬に挑戦しようと話し合っていた。

沖の瀬は深くて、大人の漁師達でさえ、ほとんど潜らない漁場だった。

しかしそれだけに大漁が期待出来たのだ。


縦桶の綱を片方の脚首に結んで、いきなり海に飛び込む。

《ああ、海だ》

一年振りの海が一年間成長した健太を、しっかりと抱き止めてくれた。

飛び込んでしばらく、三人で競争するように全力で泳ぐ。

波打ち際から少し泳ぐと、水中眼鏡越しに、海底の砂地の上を泳ぎ回る無数のキスや小ダイ、カレイ、イトヨリ、フグ、ハゼなどが、海底まで差し込む陽光に全身をきらめかせ、その生を満喫しているかのように戯れている。

しばらく泳いでから、海面に仰向けになって身体を浮かせ、脚の蹴りだけで泳ぐ。

真夏の鋭い日差しが眼を射て、まぶしさに眼を閉じると、まぶたの裏が真っ赤だった。

海水に浸かった耳に響く、はるかな大海を流れる大潮のうねりの遠いどよめきと、浅瀬に向かって静かに寄せては返し、返しては寄せる幾千万もの波が、波打ち際の砂や貝殻をさらって転がす音、磯の岩場の隙間に満ちては溢れ、また引いて行く音が、健太の心臓の鼓動と重なって、美しく激しい壮大な交響曲を奏でた。

魚が泳ぐ音さえ聴こえるような気がした。

中の瀬の海上には、すぐに到着した。

中の瀬は、健太達が一年成長した分だけさらに浅く狭く感じられた。

中の瀬にはここ二年程夏休み中潜っていて、何処にサザエの巣があるか、タコやアワビが何処を好んで潜んでいるか、三人共ほとんど知っていた。

最も浅い方から三人で平行して、それぞれ思い思いに潜って漁をする。

しかしやはり去年と比べてさえ、獲れるサザエもアワビも型が小さく、少なかった。

岩の隙間に見えるタコも小振りで、もりを手にする気にもなれなかった。

「おらんなあ」

「こまいのばっかしだで。獲る気にならへんてや」

「やっぱり、沖の瀬に行こや」

三人はうなずき合って中の瀬での漁を諦め、沖の瀬に向かって泳ぎ出した。

しばらく泳いで、水中眼鏡越しに、そびえ立つ山のような沖の瀬が初めて臨めた時、健太は興奮と緊張で肌が粟立つのを覚えた。

一年間憧れ、夢にまで見た沖の瀬は、中の瀬の規模をはるかに凌ぎ、想像以上に巨大で豊かな漁場だった。

少し薄暗ささえ感じる海底辺りまで差し込む陽光が幾筋もオーロラのように揺らめく中で、無数の種類の色とりどりの磯魚があちこちに群れをなし、一際巨大な年無しのチヌの群れが舞うように泳ぎ、数匹の年無しのイシダイがあちらこちらで土煙を立てて、岩に蒸したコケに潜む虫をついばんでいた。

岩陰から岩陰に移動しながら潜むアイナメやガシラ、海藻の間を泳ぎ回るカワハギやベラ、フグでさえ、波止場で釣れる物より二回りも大きかった。

三人は夢中で潜り始めた。

沖の瀬は中の瀬に比べ、やはり相当深かったが、こなせなくはなかった。

一年間でそれだけ三人が成長したのだ。

また獲れるサザエやアワビの質と量も、三人に呼吸を我慢させた。

「めちゃくちゃでかいサザエだがっ!」

「見てみやっ!ごっついアワビっ」

「いっぺんに獲り切れへんがっ!」

「このタコ、二キロはあるでっ!」

三人は海面に浮上する度に顔を見合わせ、口々に興奮を伝え合った。

獲れるサザエもアワビも、ほとんど殻にコケが蒸していた。

サザエやアワビを手にして浮上する際、底で漁をしている武や洋二を見ると、浅い中の瀬では海中が透明なせいで白く見えた二人の身体も、沖の瀬では青みがかって見えた。

やはり沖の瀬はそれほど深いのだった。

小一時間程潜っただけで、縦桶があっと言う間に一杯になった。

「は、桶が一杯だで。戻ろや」

「明日も来よで」

「おお、逃げらへんてや」

興奮と満足で胸一杯の三人は、漁を打ち切って引き揚げる事にした。

大漁のお陰で、泳いで戻る際に重い縦桶の綱が脚首に食い込む。

その痛みさえむしろ嬉しかった。


重い縦桶を担いで熱く焼けた砂浜を飛び跳ねるように走って家に戻り、喜び勇んで裏木戸に飛び込むと、誰もいなかった。

三人は山の畑へ、雑草取りに出掛けていて、未だ帰っていなかった。

じいちゃんの褒め言葉と、驚く笑顔を期待していた健太はがっかりしたが、漁果が逃げないよう縦桶に網を被せ、冷たい井戸水をつるべで汲み上げて縦桶を満たし、浜辺に戻った。

波打ち際に横たわり、心地良い穏やかな波に身体を委ねていると、武と洋二が笑い転げながら走って来て、健太の傍に倒れ込むように横たわった。

「おかさんがびっくりしとったで」

「家中がたまげとったで」

《後で見てもろたら良いが》

抜けるような真っ青な青空に、じいちゃんや皆の驚く顔が浮かんだ。

健太は急に立ち上がり、二人に何も言わず、水中眼鏡を付けて海に飛び込み、泳ぎ出した。

去年ハマグリ獲りに潜っていた時、発見した独り遊びをするつもりだった。


中の瀬近くまで泳いで行き、深さ一〇メートル程の海底に潜り、仰向けに横たわる。

焼けた背中に冷たい砂地が気持ち良かった。

海面に透ける太陽を見上げていると、海面から差し込む陽光が波の動きを通して作る、オーロラのような陰影が周辺のあちらこちらに揺らいでいる。

《来たっ!》

一瞬、陽差しと健太の視線に対して垂直になった小さな波をレンズにして、鋭い太陽光線が健太の眼に飛び込んで来る。

真に眼もくらむような感覚が、夢の世界にいるような気分をもたらせた。

海が、太陽が、空が、そして大地さえも自分の独占物に思える瞬間だった。

時折、健太よりも大きいエイや、何処までも途切れない雲のようなイワシの大群が、海底に横たわる健太の上に影を落として、泳ぎ過ぎた事もあった。

呼吸が苦しくなると浮上して息を継ぎ、また潜って海底に横たわる。

三〇分程戯れた後、身体が冷えて来たので波打ち際まで戻った。

「わ、何しとったかの?」

「もっぺん、中の瀬で潜ってみたが。は、やっぱりつまらんが」

健太は独り遊びの事を二人に話すと、子供っぽくてくだらないと、笑われそうな気がしてごまかし、波打ち際に寝そべってさわやかな波に身体を委ねた。

やがて太陽が西の空に傾き掛けながら、赤みを帯びて来た。

健太はその太陽を見つめながら、昨日かいま見た、分家のおばさんの柔らかそうで大きな乳房と、扶美の笑顔を想い出していた。

健太は、さっきまで独りで体験していためくるめく光の世界を、扶美と手を取り合って潜り、一緒に体験出来たら、どんなにか幸せだろうと想った。

扶美もきっと心から感動し、喜んでくれるだろうと想った。

しかし次の瞬間、扶美はそれ程泳ぎが上手でないと聴いた事があるのを想い出していた。


夜探りに行こか?」

健太は立ち上がって、二人を振り向いた。

「おお、良いで」

「ほんなら九時に、市場の裏でな」

海に向かって吹く風が少し強まった。

日本海の海辺は七月の下旬から八月の上旬の真夏でも、太陽が傾いて陸風が少し強まると、濡れた身体では肌寒くなる。

三人は夜の約束を交わして帰宅した。

家に帰って行水をして着替え、海水パンツを裏木戸に干していると、汗と土で、顔も手も洋服も泥塗れになった三人が帰って来た。

一番先に裏木戸に入ったじいちゃんが、健太の漁果を見て眼を丸くした。

「ほお、健太、これ、何処で獲ったかの?」

「すごかろがな。沖の瀬に潜ったら、こがなんがずのおってな」

「ほお、わら、沖の瀬に潜ったかや?」

「うん、深かったがな、潜れたで。沖の瀬はまげに広てな、底の方は、は、薄暗てな。そいでもな、潜ら潜るほど、こがなんが何ぼでも獲れるがな」

健太は興奮してまくしたて、眼を細めるじいちゃんに向かって、誇らしげに胸を張った。

「おじいさん、海浴びて来よやな。は、漁に出なはる時間だいな」

「おかさん、これ、今夜の市場に出しといたれや」

農具を片付けて納屋から出て来た母とばあちゃんも、健太の漁果を見て眼を丸くした。

「まあ、何と、こがなまげなサザエ、久しぶりに見たでな」

「沖の瀬潜ったきな。アワビもこがなんだでな」

健太は得意そうに、五はい獲ったうち、健太の手のひらの倍近くあるアワビを抱えた。

「そいでも沖の瀬は深て、漁師さんやちも良う潜らんとこだき、気付けんといけんでな」

「世話ないわい。武や洋二も潜れるでな」

健太は母に向かって、もう子供扱いしないでくれと言わんばかりに胸を張った。

三人が海を浴びに出る前に、じいちゃんが健太を振り返った。

「中の瀬は潜らんかったか?」

「潜ったでな。そいでも中の瀬は、は、つまらんが。こまいのばっかりだでな」

健太の応えに、じいちゃんが寂しそうに無言で頷き、出て行った。

健太はじいちゃんの表情を見ながら、今朝の大人達の会話を思い出して、不安になった。

魚が獲れなくなって来ているという事実は、健太にとっても重大事だった。

じいちゃんがイカ釣り漁に出掛け、健太もじいちゃんの本家の船の手伝いに出た。


夕食の時、健太が母に頼んで、市場に出さずに残して置いてもらった一ぱいのアワビと五はいのサザエの刺身に、父は健太が得意そうに沖の瀬での漁を語るのを聴きながら、舌鼓を打った。

健太は、父から、やはり子供の頃から素潜りが得意だった父でさえ沖の瀬には潜った事がないと聴かされ、一層誇らしく想えた。

夕食を終えた後、キス釣りの仕掛けを修理していた健太は、柱時計を見て立ち上がった。

「夜探り、行って来るきな」

「夜は危ないき、気付けなはいよ」

裏木戸に出ようとした健太の背中に、炊事場で洗い物をしている母の忠告が飛んだ。

「沖の瀬で潜れるわしが、なしてあがな浅瀬で溺れるかいな。は、こまい子だないきな」

健太は、大人の漁師もほとんど潜れず、父さえ潜った事のない沖の瀬に潜れたという事に、大きな自信と誇りを抱いていた。

だから尚更、何時までも自分を子供扱いする母が、今はうとましかった。

懐中電灯と手網、バケツを手に提げて海岸通りを北に向かう。

海岸通りに出ると、市を終えて帰宅する、仲買業をしている近所のおじさんに出会った。

健太が磯探りを教えている年下の子供の父親だった。

「健太。夜探りか?今度、うちねの坊主も連れて行ってやってごせや」

「はい。明日の晩にでも、声掛けるき」

健太は尚更得意になって胸を張った。

さっきまでの勇ましい賑わいがうそのように、港はひっそりと静まり返り、横波止の先端の灯台の灯が、波一つない穏やかな港内の海面を照らし、砂浜に据えられた底曳漁船の労苦を癒すように、優しい灯りを投げ掛けていた。


市場の裏に回ると、二つの懐中電灯の灯が揺れていた。

「すまんの。待ったか?」

「いんや、今来たとこだき」

街の北に拡がる岩場の浅瀬は遠浅になっていて、二〇メ―トル程沖でも健太達の膝程の深さ、五〇メートル程沖に出ても胸程の深さしかなく、怪我をする事があっても溺れる危険のないこの磯で、幼い子供達は先ず海に慣れ、泳ぎを覚えた。

そして水中眼鏡を掛けて海底の一抱え程の岩を起こせば、その下に潜む、磯に生息する様々な生物の生態を観察して魅了され、また海草や貝を採って食べ、その味を覚えた。

健太達のように大きくなり、この磯で泳ぐのが物足りなくなった子供達でも、夜探りで覚えるこの磯の魅力を忘れられないでいた。

夜探りとは、懐中電灯で照らしながら磯のあちこちを見て回り、満ち潮に乗ってえさを求め、浅瀬に上がったサザエ、アワビ、タコなどを捕らえるのだ。

真っ暗な海面を懐中電灯で照らすと、その灯りに向かって、いきなりフグやベラ、ボラ、スズキ、イカなどが浮かび上がって来る事もあって、それを網ですくう。

さわやかな夜風に波が柔らかく砕け、おびただしい夜光虫がきらめいた。

三人はサザエを四はい獲ったが、海に戻した。

沖の瀬での漁果に比べて、余りにみすぼらしかったのだ。

沖の瀬での興奮と感動が未だ醒めない三人は、そのまま家に帰らず、縦波止の付け根に夜探りの道具を置き、砂浜を南に向かった。


歩きながら見上げると、何十億年もの太古からそうであったように、そして健太が幼い頃からそのままに、真っ黒な天空にちりばめられた何千億もの星々が悠々と健太を見降ろし、ずっと見つめていると身体ごと吸い込まれたり、星々が空ごと落ちて来たりするような錯覚に襲われた。

視線を下げると、無限の星々の輝きを水面に映して堂々と横たわる海原は、やはり何億年もの太古からそうであったように、そして健太が幼い頃から変わらず、さやかな波々が磯辺を慈しむように撫で、永遠に続く穏やかで美しい交響曲を奏でた。

健太を優しく包むように存在する、二つの大いなる大自然が融合する水平線には、何百もの漁火が、不規則ではあるが色とりどりの大きさの異なる宝石をつないで並べたように点在していた。

健太は何時も、この圧倒的なスケールの夜の星空と海原を、無心に何時までも眺めているのが好きだった。

武と洋二がじゃれあいながら、健太の先になり、後になり、時折健太にも絡んで来た。

「おお、迷いホタルだが」

岡の方を歩いていた洋二が宙に手を伸ばして、踊るような格好をした。

「ああ、ほんとだが」

洋二が手を伸ばす先にゆらゆらと小さな灯が浮かんでいた。

歩きながら見つめていると、そのまま星空に吸い込まれるように消えて行った。

海岸通りは健太の家を少し南に行った辺りで切れ、その先は、時化の際に波が流れ込むのを防ぐ防波堤の役割を果たすように、土を盛った土手が砂浜から隔て、山の手は水田や畑が拡がっていた。

六月中旬から七月上旬に掛けて、この辺りの小川や用水路では、毎年ホタルの乱舞が見られたが、七月中旬過ぎても、わずかではあるが、季節外れのホタルが見られる事があった。

それを地元では、迷いホタルと呼んでいた。

しばらく進んだ時、健太はふと前方の異様な光景を眼にして立ち止まり、二人を制した。


「おい、あれ、何しとるだろか?」

三〇〇メートル程先の、河口近くの砂浜の上に停まった車のヘッドライトが波打ち際を照らし、波打ち際で二人の人影がうごめいていた。

乗用車が未だ珍しい町だったし、砂浜に車を停めるはずがなかった。

あの辺りは、砂浜の起伏のせいで、町の方からは見えない処だった。

「おかしいで、あれ」

「にきに行ってみよや」

三人は岡の方に迂回しながら姿勢を低くして、小走りで前方に進んだ。

「わ、わいちゃっ、見てみやっ!バ、バッテリーで魚を獲っとるがっ!」

五〇メートル程に近付いた時、先頭の武が振り返り、声を潜めて叫んだ。

鈍いエンジン音を立てる車の、開かれたボンネットから二本のコードが波打ち際まで延び、ゴムの合羽を着た二人の男が、周辺を何度も伺いながら投網を打って、獲った魚を木箱に移しているのが確認出来た。

薬物や爆薬、バッテリーを使っての漁は、禁止されているはずだった。

この辺りは河口に近く、汽水に近い状態になっていて、プランクトンが豊富で小魚が大量に繁殖し、回遊魚の餌場になっていて、健太達が南の岬に遊びに行く為に河口を渡る時、海底の砂地一面が銀色に見える程、フグの大群が身体半分を砂に埋めて横たわっていたり、また餌を追って浅瀬に入った大型のスズキやボラが、海面にうねりを立てて泳いでいたりして、もりを持参しなかった事を悔しがった事が何度もあったほどだった。

「あれ、このじげのもんと違うで」

「じげのもんは、あがな事せへんてや」

「健太、わら、見張っとけや。わし、おとさんやち、呼んで来るき」

「わしも、上の家のおっちゃんとこに行って来らい。あんねも男しがおっちゃるき」

健太の家に男は父しかいない。

武が先ず姿勢を低くして、岡に向かって小走りで駆け出し、洋二も後に続いた。

二人の顔がひどく強張っていた。


二人が去った後、健太は急いで砂浜に腹這いになり、男達の様子を伺った。

心臓の鼓動が一気に激しくなった。

犯罪の現場を目の当たりにするのは、勿論生まれて初めてだった。

心が不安と緊張とで一杯になり、心臓が縮むような気がした。

まもなく男達がコードを巻き取り、魚で一杯の木箱をトランクに積み込み始めた。

男達は本家のおじさん達と同じ位の年齢に見えた。

しかし彼らの風采や体つきは軟弱そうで、長年海での漁で鍛えられて逞しく、顔が赤黒くなったりして、漁の苦労を知ったこの町の大人達とは違う事が、健太のような子供でも、また暗い闇を照らすヘッドライトの灯りの中でも、はっきり判った。

《早よ来んと、逃げられてしまうが》

健太の心に憎悪が湧き上った。

生まれて初めての感情だった。

身体を低くして走り、一〇メートル程まで近寄って行って、もう一度腹這いになった。

健太の周囲の大人達は、誰もが皆、生きる事に誠実で、仕事に一生懸命で、だからこそ健太も大人に憧れ、早く大人になり、立派な漁師になりたいと願っていたのだ。

密漁者達は、何か談笑しながら、煙草に火を点け、トランクを閉じて、車に乗り掛けた。

《だめだ、間に合わんが》

「あ、あんたやちっ、そ、そこでっ、な、何しとるかなっ?」

健太は身体を伏せたまま、思わず叫んだ。

男達が驚いて健太の潜む方向に振り向き、周囲を伺いながら身構えた。

「あ、あんたやちっ!い、今そこでっ、な、何しとったかなっ?」

健太は立ち上がって、もう一度精一杯の大声で叫んだ。

恐怖と緊張で情けない程声がかすれ、全身が震えて止まらなかった。

それでもここで逃げ出したら、大人達を呼びに行っている二人に顔向け出来ないと想って、ありったけの勇気を振り絞った。

「なんや。がきやないか」

言葉訛りが違っていた。

健太は密漁者達が地元の人間ではないと知って安心した代わりに、「がき」と言われて頭に血が上った。

「あ、あんたやちっ、バ、バッテリーで魚獲ったらいけんいう事っ、知っとろがなっ」

今度も恥ずかしい程声が震えた。

「ふん、がきが偉そうに。どないなやり方で獲ろうが一緒じゃ」

「ほ、法律で決まっとるでなっ。わ、悪い事したらいけんがなっ。大人のくせにっ」

健太は涙が出そうになった。

大人でも平気で法を犯し、犯罪を罪悪と感じず、平然としている者がいると知って、心から悔しいと想った。

「おあ、あんたやちっ、ど、何処のもんかなっ?こ、ここはっ、わ、わしらの、う、海だきっ。こ、ここでっ、わ、悪い事しなはんなやっ!」

「学校で習うたろ?海は皆のもんや」

「い、いんやっ。こ、ここはっ、わ、わしらの海だきっ!」

そう叫んだ時、不思議な事に恐怖が一瞬消えて、健太はもう一度叫んだ。

「こ、ここはっ、わ、わしの海だがっ!」

「何やて?生意気な。このがき」

男達が健太の方に走り寄って捕まえようとした、その瞬間健太は横に跳び退いた。

健太は、自分を捕まえようと襲って来る二人の男の手から簡単に逃がれられるのが、自分でも不思議だった。

男達が必死で捕まえようとしても、健太は素早く逃げられた。

砂浜での野球と遊び、船の手伝いが子供達の脚腰を知らないうちに鍛え、稲刈り後の切り株だらけの田んぼでする野球、はげ山での遊びが、子供達の反射神経を知らないうちに鋭くしていた。

お陰で健太自身も驚く程簡単に、男達の手から逃れられたのだ。

《なして悪い事するかな?大人のくせに》

健太はずっと憧れていた、大人という存在に裏切られたと感じた。

大人という存在を無条件に信じていた自分自身に対しても、無性に腹が立った。

悔しくて堪らず、逃げ回っているうちに涙が溢れて来た。

涙を手の甲でぬぐいながら、必死で逃げ回った。

「こらーっ!止めんかーっ!」

「わいちゃーっ!何しとるかーっ!」

どれだけ逃げ回ったか、男達の手を逃れながら怒鳴り声の方を振り向くと、懐中電灯を振りながら、武と洋二を先頭に五、六人の大人達が走って来るのが見えた。

密漁者は慌てて車に飛び乗り、川沿いの道に入って逃げ出した。

大人達は走って追い掛けたが、無駄を悟ってすぐに諦めた。

息を切らしてその場にへたり込んだ健太の傍に、武の父と武、洋二が駆け寄った。

「健太、世話ないか?」

「は、はいっ、つ、捕まらんかったきっ」

武の父に抱え起こされた時、悔しさと恐怖と、そして緊張が緩んだせいで、声を上げて泣き出しそうになるのを健太は必死で堪えた。

身体の震えが声に伝わり、健太は恥ずかしいと思ったが、抑える事は出来なかった。

武の父、武と洋二が健太を家まで送り、遅い帰りを心配していた父母に事情を説明してくれた。

その後もずっと、悔しさと情けなさで身体が震えて眠れず、じいちゃんがイカ釣りから戻るまで眠れずにいた。

三時を過ぎた頃イカ釣りから戻って来て、起きて来た父から話を聴いたじいちゃんは、冷酒を呑みながらうなずき、「良う頑張ったの」と、傍に座った健太の頭を撫でてくれた。

その夜は久しぶりにじいちゃんの横に布団を敷いて、同じ蚊帳の中で寝た。

じいちゃんの匂いが健太を落ち着かせたのか、すぐ眠る事が出来た。

まどろみながら窓から差し込む薄明かりの中で時計を見ると、六時を示していた。

じいちゃんは既に起きて、何処かに出掛けていた。

眠るのが遅かったせいで未だ眠かったが、勢い良く起き上がった。

健太は、磯探りの仕度をしながら、夢のような昨夜の出来事を想い起こしていた。

《この港の大人は、悪い事なんか、せへん》

幼い頃から見続けている大人達を、健太は勿論信じてはいたが、生まれて初めて、大人の犯罪を目の当たりにして出来た心の傷は、決して小さくなかった。

昨夜の出来事は、健太の心に大きな傷跡として刻まれた。


健太はそれでも、その日からもずっと、始まったばかりの夏休みを楽しんだ。

海の凪いだ日は武、洋二と沖の瀬に潜って漁をした。

沖の瀬は初めて経験した日に増して広く感じられ、何処に潜ってもサザエやアワビが沢山獲れたし、巨大なタコや魚をもりの標的にする事も出来た。

三人とも、中の瀬同様、沖の瀬でも、サザエ、アワビ、タコが、同じ岩棚を「巣」にしていて、前日に獲った処で翌日にも獲れる、という事を経験上知っていた。

そして大漁の縦桶を担いで帰った後は、健太は武、洋二には内緒で、あの独り遊びを繰り返した。

また夜は夜探りを夜釣りに、早朝の磯探りをキス釣りに変えたりして、近所の年下の男の子達に夜探りや磯探り、釣りを教え、彼らが獲物を手にする事が出来て健太に感謝すると、得意になれた。

海が時化た日は、数人で手を繋ぎ、砂浜から駆け出して波打ち際で大きく口を開いた波に頭から飛び込んで、身体が波にもみくちゃにされるのを面白がって何度も飽きる事もなく繰り返した。

晴天で凪ぎの日が続くと、町の南側を流れる川の水量が大きく減って、海に流れ込む辺りが浅くなり、中学校のある南の岬のふもとまで歩いて渡れるようになるので、午前中にそこまで行って釣りをしたりした。

川向こうは断崖に遮られていて、他の町の釣り人が知らない秘密の釣り場だった。

その岬の裏側は、扶美の住む町の子達が海水浴に来る砂浜が拡がっていた。

午後になってから、岬を泳いで迂回すれば、友人と泳ぎに来るはずの扶美に逢えたかも知れなかったが、逢えば逢ったで照れ臭いだけだし、扶美に逢いたくてわざわざそこまでやって来た事を見透かされるのも嫌だったので、午前中の釣りが終わると引き上げていた。

 

そんな風にして、今日も昨日と同じ、永遠に続くような幸せな日々を過ごした。

また三日置きくらいに、じいちゃんがイカ釣りに連れて出てくれた。

夜の海でイカを釣り上げ、真っ暗な海面から抜け出たイカが吐くスミを、じいちゃんやさかいのおじいさんは上手く避けたが、健太はしばしば頭や身体に被った。

健太は自分の未熟さを思い知るのだが、船縁の灯りに照らされて赤銅色に輝くイカを手にする時、健太の漁師への願望は一層増幅するのだった。

しかしやはり沖の瀬での大漁以外は、じいちゃん達の船上での会話が、イカの漁の減った事を健太に教え、キスも、釣り場所や時間を変え、餌を変えても、健太が幼い頃に比べるとやはり少なく、魚が獲れなくなっている事を認識させ、健太を不安にさせていた。


七月三〇日は夏祭りだった。

その前日、夜のイカ釣り漁は休み、底曳漁は夕暮れ前に帰港し、漁師達は風呂を浴びて浄めた身体を羽織袴で包む。

市場が終わった夕方から、海神様に酒と塩、笹の枝葉と乾燥させたホンダワラを持参して浄めて戻り、乗組み仲間や親類同士で集まって夜通し酒を酌み交わす。

翌朝、塩を船の四隅に撒き、お神酒を浸した笹枝とホンダワラを振ってお祓いをし、船を浄めて豊漁を祈願する。

そしてその後、全員が漁業組合に集まって半期の総会を終えて、祭りが始まる。

主婦達は普段でさえ早朝から深夜まで多忙なのに、祭りの二、三日前からは、祭り料理の下ごしらえで一層忙しくなった。

鮮度を要し、当日すぐ出来る物以外の、すもじや巻き寿司、ショウガの干し大根巻き、野菜の煮炊き物、小魚の生酢、牛肉の時雨れ煮、抱き寿司、小魚のから揚げ、アナゴの蒲焼など、暑い夏でも数日は保存出来るように工夫された料理の仕込みは、保存器具や調理器具の普及していない時代では、随分知恵が要り、手間暇の掛かる作業だった。

すもじとは、五目寿司が具を酢飯に混ぜ合わせるのに対し、具を微塵切りに刻んで煮詰め、それを一五寸角の木枠の中に酢飯でサンドイッチのように挟み、その上にイチゴか山椒の葉と薄焼き玉子、刻み紅ショウガを乗せてから、菖蒲の葉で仕切り、何層にも重ねて板で圧し固め、一層を三寸角に切って食べる。

抱き寿司はタイ、アマダイ、アジ、サバなどを背割りに開き、頭以外の骨を取り、ショウガを入れて甘辛く炊いたオカラを内側に詰め、二、三日程酢漬けにした物である。

何れもこの地方伝統の、祝いの膳を飾る、手の込んだ郷土料理であった。

祭りの前日にもなると、祭りの料理の為に、女達は寝る暇もない程忙しかったのである。

祭り当日には、普段行き来のない、違う町に住む親類を招き、互いの健在を喜び合った。

正月は自宅で祝うのを通例とし、親類の交流は祭りの時だけがほとんどであったので、親類間では正月よりも祭りの方が重要な行事ではあった。

子供達も、洩れがないように全員で相談し合い、隣町の同級生をそれぞれ手分けして招待するという、代々からの習慣が出来ていて、隣町の秋祭りには逆に、港町の子供達が、同様にして全員招待された。

子供達は勿論祭りが大好きであった。

普段口に出来ないごちそうがふんだんに食べられるし、正月以外にもらう事のないお小遣いをもらえるせいでもあった。

もらったお小遣いは幾ら遣っても良い事になっていたが、もらう額は勿論少なく、何でも買えると言う程ではなかった。

健太にしてもじいちゃんと父がくれる一〇〇円ずつの、二〇〇円だけで、本家のおじいさんやおじさん、さかいのおじいさん、四世帯ある母の兄姉がくれるのは母に没収され、恐らくは貯金されているはずだった。

ただ一〇〇円とは言え、当時はガムやキャラメルが一個一〇円程度で買えたので、それなりの金額ではあった。


健太のサザエ漁の売上金は、健太の眼にも触れず、組合から受け取ったじいちゃんから父に渡り、父の勤める銀行に貯金されていたので、健太自身どれだけ貯まっているのかも知らなかったが、健太にとって大好きな海に潜って漁をするのが楽しいのであって、稼いだ額は大した興味もなかった。

祭りでは、子供達を魅了する露店が朝から海岸通りに並んで、子供達を待ち受ける。

お小遣いを握り締めて露店を何軒も回り、本当に欲しい物から順を付けて買う。

欲しい物がなければ、後日欲しい物が出来た時に買えるよう、貯えて置いた。

普段、文房具などを買う以外に親からお金などもらえる事がない子供達は、そんな自主的な判断を強制され、お金と物の価値観を無意識に育んでいた。

祭りの醍醐味は何と言っても、酒で勢いの付いた勇壮な大人達が繰り出す、威勢の良い山車と神輿であった。

幼稚園児達が担ぐ子供神輿を先頭に、町の最南端の海神様から、最北端の市場まで町内を勇ましく縦断し、それぞれ地区ごとに子供達から子供達へ、大人達から大人達へ引き継いで練り回し、市場の奥に奉納する。

そして夕方から市場で催される地方の伝統芸能である石見神楽を、町中総出で見物するのだった。


祭りの前夜、父母とばあちゃんが汗に塗れて忙しなく働いた。

ただでさえ蒸し暑い夏の台所で、火を起こしっ放しの二口の釜戸と、二基の七輪に掛けた釜や鍋から噴き出す湯気と共に、美味しそうな匂いが立ち昇り、次々と料理が出来て行く。

じいちゃんは一升瓶を片手に訪ねて来たさかいのおじいさん、本家のおじいさん達と客間で酒を呑んでいた。

分家のじいちゃんを本家のおじいさん達が訪ねるのは、この町では異例だったが、じいちゃんは本来本家の長男だし、また町で唯一人の遠洋漁業の経験者なので、遠洋漁業のノウハウを底曳漁に取り入れられないかと、町の漁師達が良く、じいちゃんの元へ漁の相談に来ていたりもしていたのだ。

じいちゃんに付いて海神様のお参りに行った健太は、お小遣いをもらった後はじいちゃんの傍に座って、見事なタイの塩焼き、揚げ立てのカレイやアジの唐揚げ、ワカナやイカ、ヒラメなどの新鮮な刺身などには眼もくれず、かまぼこやてんぷら、ハム、ソーセージなど、普段滅多に食べられない、お店で買った食品ばかりをお腹に詰め込んでいた。

本家のおじさん達がからかい半分に、「健太も、は、大人だき、一杯呑めや」と、ジュースを飲んでいたコップに冷酒をわずかばかり注いでくれた。

健太が一気に呑み干すと「じいさんに似て酒呑みだてや」「良い漁師になるてや」と褒めてくれ、さらに酒を注いでくれた。

父はほとんど酒が飲めず、祭りと正月だけ、ビールをコップに半分程呑んだが、すぐに全身を真っ赤にして酔っ払い、健太にうちわであおがせる程だった。

本家の人達が、血がつながっていないのを知っていながら、父母のいる処でも、じいちゃんに似ている、良い漁師になれると言ってくれ、また健太を大人扱いしてくれるのが嬉しかった。

健太が得意になれるひと時だった。


翌朝眼を覚ますと、酔って眠り込んだ健太を誰かが運んだのか、納戸に吊られた蚊帳の中に敷かれた布団の上だった。

空きっ腹に沁み込む良い匂いに誘われて台所に行くと、湯気と煙が蒸せ返る中で、汗だくの父母とばあちゃんが、料理を作っていた。

「おかさん、茶碗蒸し、いっと作っとくれやな。わし五個ぐらい食うきな」

「はい、はい、今日は二〇も三〇も作るき、腹が裂ける程食いなはいや」

あごから汗を滴らせ、釜戸に掛けた大きな釜の上で湯気を噴き出すせいろの中の様子を伺う母が、今日だけは、贅沢だとか、あれはだめ、これはだめとは言わなかった。

「健太、刺身にするき、アワビかタコ、獲って来い」

父が首に掛けた手ぬぐいで額の汗をぬぐいながら、健太に磯探りの獲物を注文した。

「判った。獲って来る」

健太は納屋に跳び込み、バケツを片手にもりと鈎竿を握り締めると、波止場に走った。

うれしさに弾む心で、何時も以上に真剣に海底を探ったが、獲物は見つからなかった。

アワビが防波堤の底の方にへばり付いているのを見付け、鉤竿と手網を同時に降ろし、鉤竿で斜め下方から引っ掛けるように剥がして網で掬い上げたが、小振りの雌アワビだったので海に戻した。

《こがなこまいの獲られへんが。来年は、子供、いっと産めよ》

こぶし大の二はいのサザエも獲ったが、やはり小さ過ぎたので、両手で慈しむように海に返した。

海岸通りに戻ると、羽織袴のいでたちで、船のお浄めから戻るじいちゃんに出会った。

「どがだったかの?」

「こまいき、獲らんかったが」

父に期待され、勇んで家を飛び出したのに、手ぶらで戻るのが恥ずかしかった。

その健太の情けなさそうな顔を、裏山から顔を現わしたまぶしい朝日が鋭く射た。

《祭りだ!》


絶好の祭り日和だった。

朝から大皿に盛られた豪勢な料理が、客間に据えた、お盆と正月、祭りにしか出さない来客用の大きなテーブルに、所狭しと並んだ。

じいちゃんが船のお浄めを済ませて持ち帰り、白いとっくりに移して神棚にお供えして置いたお神酒を、訳の判らない詔を唱えながら丁寧に拝んでから降ろし、皆に配った湯飲みに注いで行く。

一通り料理を作り終えた父は羽織袴に、母とばあちゃんも、今日は和服に着替え、薄化粧をしていた。

「お前も呑むか?」

とっくりを持ったじいちゃんの言葉に、健太は勢い良く湯吞みを差し出した。

しかし並々と注いで欲しかった健太の期待に反して、当然だが、じいちゃんは舐める程しか注いでくれなかった。

《たったこんだけか》

お神酒を一呑みにし、いきなり牛肉の時雨煮の大皿を手元に引き寄せ、はしを付けようとした健太を、普段は滅多に注意したり、叱ったりしない父が、珍しく健太を制した。

「茶碗蒸しはなんぼ食っても良いが、肉は残しとけよ。昼にお客さんが来ちゃるき」

「ああ、そがなかな?おかさんのあんさんやちが来ちゃるかな?」

父が、母方の来客に気を遣っているのが、健太にも解った。

父は早くに親を亡くしたからか、またそのせいで兄弟がいないからか、日頃から母の親類を格別大切にしていた。

「良いでな。あんねは肉なんか食い飽きとるき。喜んじゃらへんき。魚をいっと食ってもろたら良いがな」

母は、正月以来半年振りの兄姉達との再会を前に、ひどく機嫌が良かった。

《良いなあ。いっぺんで良いき、食い飽きる程、肉食ってみたいが》

健太は、秋の収穫祭で母の実家に招かれて行く度、搾り立ての牛乳で煮込んだ、美味しい鶏鍋を夢中で食べる自分を想い出していた。

母の実家は農業の傍ら、乳牛を十数頭、鶏を数十羽飼育していて、牛肉、鶏肉、牛乳や卵を出荷していたが、大切な来客のある時や祝い事の際、鶏を絞めてもてなしたり、祝ったりしていたのだ。

許可をもらった健太は牛肉の大皿を独占し、茶碗蒸しをお代わりしながら、故意に大胆な動作でじいちゃんの湯吞みの酒にはしを浸けてなめ、じいちゃんが酒を勧めてくれるのを待ったが、期待外れだった。

酒が美味しくて飲みたいのではなく、酒を勧められるのが大人扱いされているようで、嬉しいだけだったのだが。


じいちゃんは一休みしてから、八時に始まる漁業組合の半期の総会に出掛けた。

漁師全員が漁業組合の会議室に集まるのだが、特に難しい会議をする訳ではない。

毎年在り来たりの会計報告と、「今期もこうです」という組合運営の発表があり、「了解」、「賛成」の手打ちで簡単に終わるのだ。

一〇時には、海神様の境内から山車と神輿が繰り出すはずだった。

ところが九時半を過ぎても、じいちゃんは戻って来ない。

裏木戸に出て見ると、海岸通りでは、色とりどりののぼりを立てた露店が立ち並んで子供達を待ち受け、合間合間の路地口には、老若の女達と、彼女達に連れられた子供神輿を担ぐはっぴ姿の小さな子供達が、組合の方を待ち遠しそうに眺めていた。

《どがしただろか?》

健太は胸騒ぎを覚えながら、陽光にきらめく穏やかな海を所在無く眺めていた。

組合の建物から、羽織袴の人波が一斉に出て来たのは、家の中の柱時計が一〇時を打つのが聴こえた後だった。

ざわめきが聴こえて来そうな海岸通りの、羽織袴の黒い大きな流れが、次第にそれぞれの路地に別れて細り、最後にじいちゃんが独り戻って来た。

「どがしたかな?」

「おお、ま、中に入れや」

じいちゃんは健太を見ても、何時ものように微笑んではくれず、考え事をしているような硬い表情を崩さず、健太を家の中に促した。

急な来客に備え、客間の食卓には、冷蔵庫に入れた生物以外の料理のほとんどが、ハエ除けの網を被せて、そのまま並べてある。

じいちゃんが表の客間に座って、一升瓶から湯飲みに酒を注いで一呑みし、煙草に火を点けて一服した処へ、父母が真剣な表情で寄って来て座った。

父もこの日は毎年銀行を休んでいた。

「何ぞ、あったかな?」

重い沈黙を破って父が尋ね、じいちゃんがもう一度酒をあおってから、口を開いた。


「こいから計画立てよかいう話で、正式に決まった事だないがな、今の港を倍ぐらいに拡げての、組合の前の港と北側の浅瀬を改造して、養殖しよか、いう計画が出たがの」

「養殖いうて、何のな?」

息を飲んだ皆を代表して、父が尋ねた。

「さいのう、良う売れて値の張る魚言うたら、ハマチかタイかヒラメだろが。ま、出来るか出来んか解らんし、こいから研究して決めるげなで。おおかた五年先から始める計画でな」

「なして、また、そがな計画が出たかな?」

父の後ろから母が、健太を叱る時のような真剣な表情で、身体を乗り出して質問した。

日頃から「私は銀行員のおとさんと、漁師のおじいさんの、二人の嫁に来た」と言っている母にとっても、またこの町に住む主婦としても勿論、男達だけの仕事の話では済まなかったようだ。

「そら、魚が獲れんよになった来たきだが」

じいちゃんが一層厳しい顔付きで、冷酒を勢い良くあおった。

「養殖せんとやっていけん、いう程魚が獲れんよになって来とるだかな?」

健太にとっても五年先と言えば、自分の将来に関わる重大事だ。

「子供は口を出すな」と言われそうだったが、つい勢い込んで尋ねた。

母はむしろ、健太の漁師への夢を覚ます絶好の機会だと思ったのであろうか、何も言わなかった。

じいちゃんが再び話し始めた。

「わしもそこまで漁が減っとるとは気が付かんかったが、組合全体の水揚げが二〇年前の半分、一〇年前の三分の二に落ちとるとや。わしの若い頃に比べら、船も速よなったき漁する時間も増えたし、大きなったき乗組も増やせたし、網も大き出来たし頑丈になった。漁法も改良されたしな。そいでも漁がこがに減ったいう事は、海の魚自体減っとるいう事だが。そいで養殖するんが良い、いう話になったで。出荷量が減ったら値が上がるき、儲けは一緒だが、いう意見も出たがの、値が上がったら誰も魚買わんよになるてや。ハムだのソーセージだのばっかり食うよになっての」

じいちゃんが、健太の胸を突き刺すような言葉を付け足して、また酒をあおった。

《買うたもん食べんこに、魚、ちゃんと食べよ》

健太は一瞬心の片隅で誓った。

「そいにの、若いもんは知らんだろが、年寄りは昔と比べてどがに儲けが減ったか、皆知っとる。わしらが若い時分にゃ、底曳船に乗って一〇年も必死で働いて金貯めら、組合で金借りんでも家が建てられたし、家の要らんもんは船や網が買えて、人さえ集まら、独立出来たてや。今は見てみや。漁が減っとるいうに、生活が贅沢になっての、皆がテレビも買うわ、洗濯機も買うわ、あれも欲しい、これも欲しいで、家も船も網も皆借金で買うとろがや。このまんま行ったら、皆が船や網を捨てんと生活して行かれんよになって、おおごとするてや。漁師が船や網を捨ててどがするだかや。そいで養殖に切り替えんといけん、いうのは判るがの。実際県下だ、規模は小さいが、は、やっとるとこもあるらしいで、組合長らがあちこち見学に回る、言うとるし、国と県に補助金制度があるげなで」

じいちゃんが酒を呑みながら、言葉を選ぶようにゆっくり話した。

「わしも養殖するんは良いと思うがな。冬場なんかは月に四、五日しか漁に出られん漁師さんやちの生活が安定するきな」

沈黙の後、父が溜め息混じりに言った。

健太はじいちゃんの話を聴きながら、心の中で初めて、憧れの漁師達の輝きが次第にくすみ、父と同じ、普通の地味な大人に変わり始めるのを感じて、慌てて打ち消そうとした。

「船と網はどがするだかな?底曳きもシイラも、イカ釣りもタイ縄も、せへんだかな?」

何時も優しく微笑んで健太を見守るじいちゃんが、今回ばかりは笑みを浮かべず、真剣な表情で健太の問いに応えた。

「今まで通り自分で漁したいもんはそのまんまして、養殖に参加するもんの船と網を組合が買い取って、組合の共有にして養殖に使うか、全部組合が買い取って、自分で漁するもんに、月何ぼかで貸し出すか、どっちかにする言うとるがの。未だ右も左も判らんだろてや。船や網の大小や、古い新しいもあるしの。どのみち国や県の補助金だけだ足らんき、来年一月から、皆で積立金しよか、言うとる。そいとな、おとさん。養殖やる事が決まって、計画が進んで、金が足らんよになった時、銀行で借金の算段せんといけんが、そん時にの、お前に口利いて欲しいいう話が出たがや。もそっと具体的になら、組合長が相談に来るげなで」

「ま、口利くぐらいは出来るがな。この港の漁師は預金高も多いし、組合自体もずっと黒字だき、世話ないと思うがな」

父の後ろで、母が誇らしそうに胸を張って微笑み、健太を見た。

慌てて視線を逸らして父を見つめる健太に、初めて父が大きく輝いて見えた。

「山車と神輿は、十二時から出すとや」

酒をあおったじいちゃんが締め括って立ち上がり、便所に向かった。

「どがしても漁師になりたかったら、大学で養殖の勉強して戻って、働か良いだないか」

ふり向いた母の予想通りの言葉に対して、健太は言葉に窮し、聴こえない振りで俯いたまま海を見ようと立ち上がった。

同級生達の家でも同様の家族会議が行われたであろうが、皆はどう感じただろうか。

「漁師になって、おとさんの船に乗る」と、日頃から堂々と言って、健太を何時もうらやましがらせる洋二と武の、誇らしげな笑顔が脳裏に浮かんだ。


健太は何時も何気なくしているように、裏木戸を潜って海岸通りに出た。

健太が想像したように、何処の家でも話し合いが行われているのだろう、海岸通りは未だ人影もなくひっそりとした佇まいで、ただ夏の日の陽光に照らされているだけだった。

《何処が変わっただろか?》

海は健太が子供の頃から変わらず、雄大な存在を誇り、何処までも抜けるような青空のほぼ中央まで昇った太陽の光を浴び、焼けた砂浜の熱を運ぶ潮風にそよぐさざ波が頻りに反射してきらめき、暗雲の立ち込めた健太の心を少しは晴らし、なごませてくれた。

南北の岬を結ぶ線から外海は、お盆過ぎから潮の流れがきつくなる。

海の青さの色調が一層緑掛かって深くなり、細かい波頭が盛んに立って白くきらめき始め、それが眼に見えてはっきり判るようになる。

未だ八月にも入っていないのに、今でも青さが一際深くなってその存在が分かる沖の瀬の海上に、小さな白い波頭が無数に立ち、陽光を反射してきらめいていた。

《海は変わらへん。人が変わるだけだき》

健太は心の中の大人への憧れと、漁師になるはずの自分の未来に落とされた影を、太陽を反射してきらめく、雄大で真っ青な美しい海を何時までも見つめて、払おうとした。


しばらくして健太が招待した同級生が、汗をびっしょりかいて自転車でやって来た。

立ち話をしているとすぐに、母の兄姉の四家族、十四人が一台のマイクロバスでやって来た。

皆は疲れた様子でバスから降りて来たが、窮屈に縮めていた身体を大きく伸ばし、雄大な夏の海を見ながら大きく深呼吸して、顔を輝かせた。

「車の中が蒸し風呂だったで」

「ほんにずすのなるで」

「何時来ても、海の良い匂いがするが」

「何時見てもきれいな海だがな」

滴る汗を拭きながら笑う皆の、他所行きの洋服は、汗が染みて色が変わっていた。

大学生や社会人になった者は、もう来る事はなくなったが、男の子も女の子も健太同様、正月以来、わずか半年でさえ、眼に見えて成長していた。

その中でも特に、母の本家の、高校三年生の末娘は健太が見上げる程背丈があり、健太の眼にも、一際まぶしく見えた。

向かい合った時に丁度健太の目の前に来る胸の膨らみも、何かの拍子にブラウスのボタンが弾け跳びそうな程であった。

《扶美も高校三年生くらいになったら、おっぱいがこがに大きなるだろか?》

健太は、扶美が母の本家の末娘くらいの背丈に成長した姿を想像して、ショックを受け、思わず眼を逸らした。

健太は扶美が高校三年生くらいになった時、当然のように、自分も同じ程成長しているという事が想像出来なかったのだ。

《扶美は、今日来るだろか?》

扶美も、誰かに招待されて来るはずだった。

母の兄姉達が手分けして、車から米の一斗袋を四つと、二本を縛ってのし紙で包装した日本酒の一升瓶を四対取り出した。

「美味い米持って来たき、いっと食えよ。酒はおじさんやちが全部呑んでいぬるがな」

母の本家の跡取りのおじさんが、健太の頭を乱暴に撫でて豪快に笑った。


来客達がじいちゃん、父母、ばあちゃんと再会を喜んで丁寧な挨拶を交し、順番に客間の仏壇に線香を立てて手を合わせた。

家の中が一気に騒々しくなった。

皆でふすまを外し、表の間から中の間、納戸まで続き部屋にし、ちゃぶ台と折畳みテーブルをつないで長い食卓を用意した。

おばさん達が持参の割烹着やエプロンを着けて台所に立つと、男達はそれぞれの近況を報告し合いながら、酒を飲み始めた。

《すごいなあ。相変わらず大酒呑みだが》

座って未だ一〇分も経たないのに、もう一升瓶が一本空になった。

農業と畜産を営む母の身内の男達は身体も逞しく、この町の漁師達に劣らず日焼けして威勢も良く、水のように酒を呑んだ。

湯飲みを持つ彼らの手も、赤黒く節くれ立っていた。

父は勧められるままに酒を呑んで、顔も手足も、既に真っ赤だった。

《あーあ、おとさん、は、酔っとっちゃるが》

呆れながらも、滅多に見ない父の楽しそうな姿を見て、健太の心は弾んだ。

「使とらへんでな。人の口に入る米や野菜や、家畜の餌にする牧草に農薬なんか使われへんが」

「その分、年中、雑草と虫との戦いだがな」

思い掛けず、健太が気にしていた農薬の話題が出た。

一笑に付したおじさん達の笑顔を見て、健太は胸を撫で降ろした。

「そちねは、農薬使とるか?」

健太は、家が専業農家である同級生に、声を潜めて尋ねた。

「今はじいちゃんもばあちゃんもおるき、使とらへんが、二人が働けんよなったら、手が足らんよなって、使うかも知れん、言うとるが」

同級生も、周囲を気にして声を潜めた。

「わが跡継ぎなったら、農薬みたいなやくたいもないもん使うなや」

「うん」

同級生が真剣な表情でうなずいたので、健太は二度ほっとした。

しかし人手が足らなくなって雑草刈りが進まず、また害虫を退治するのに手間が掛かり、農作物の収穫に影響が出るのであれば、農薬を使うのは止むを得ない事なのではないだろうか。

雑草刈りの苦労は、父母の手伝いに何度も畑に出ていて、健太も知っていたので、そんな第三者的な考えも、健太の脳裏を過ぎった。


朝食に肉と茶碗蒸しを腹一杯食べ、組合の話を聞かされて食欲が減退していた健太は、それでもちゃぶ台のごちそうを眼にしてつい手が伸び、さっきのじいちゃんの話の途中で、密かに誓った事も、もう何処に行ったのか、今も店で買った物ばかりを次々に口に運んだ。

健太と逆に、同級生やいとこ達は皆、魚料理ばかりを食べた。

健太は呆れて尋ねた。

「わら、良うそがに、魚ばっかり食うな?」

「何でや?美味いき。わら、美味ないか?」

同級生はタイの塩焼きを一匹平らげてから、今度はワカナの刺身に夢中であった。

いとこ達もカレイの唐揚げやアマダイの煮付け、アナゴの蒲焼、タイの刺身など、魚ばかりにはしを伸ばしていた。

「大きい声で魚が美味い、美味い言うなや。美味いのは分かっとるが。そいでも毎日食わされてみや。ほんに嫌になるで」

健太は日頃からの癖になっているように、母に、自分が実は魚が好きである事を知られたくなくて、声を潜めた。

「わし、毎日でも良いで。わこそ、良うそがに、ハムだのソーセージだの食うな?」

「なして?美味いき。わら、美味ないか?」

「毎日食わされてみや。朝は目玉焼きとソーセージ、夜はハムかハンバーグ、弁当のおかずまで玉子、ハム、ソーセージだき。一月続いてみや。堪らんてや。ほんに嫌になって、イリコでもイワシの頭でもかじりとなるき」

反論して声を潜めた同級生の質問も応えも、健太と立場が逆になっているだけだった。

「良いの。わと、家替わって欲しいが」

「わしもこんねの子になって、朝から晩まで魚食っとりたいで。野菜は要らんがの」

「おお、わしも野菜は要らんてや」

二人の意見が合い、いとこ達も同様なのであろう、皆顔を見合わせて含み笑いをした。

「こらっ!野菜もちゃんと食わんと、病気になるし、大きなれんで」

見上げると母の姉のおばさんが、子供達皆を見降ろして、にらんでいた。

子供達が満腹になって席を離れ始めた頃、女達が前掛けや割烹着を外して宴席に加わり、男達に勧められてお酒を少し呑んでから、にぎやかに食事を始めた。

ふと見るとはしを持つおばさん達の手指も、この町の女達と同様にひび割れ、汚れの染みが一杯付いていた。

「健太、は、皆連れて、祭りに行けや」

父が真っ赤な顔をして健太に言った。


いとこ達と共に海岸通りに出ると、武、洋二が露店に首を突っ込んで、物色しているのが見えた。

いとこ達は幼い頃から何度も来ていて、この狭い町を良く知っている。

それぞれ二、三人ずつに別れて露店巡りを始めた。

すれ違う同級生達と露店の情報を交換し合い、露店を軒並み覗いて回り、おもちゃやお菓子を買って歩く。

通り掛かりに、可愛い子うさぎを売っていて、健太は、扶美がうさぎを飼っていると作文に書いていたのを思い出して、自分も飼いたいと思ったが、母が許すはずもなかった。

健太の家に限らず、数軒の家を除いては、この町の何処の家もペットを飼う程の余裕はなかった。

特に、裏木戸や庭先に干した魚をかじったり、また時には大胆にも、炊事場にさえ忍び込んでまな板の上に出して置いた魚を咥えて逃げる程の猫や犬は、この町の人々にとって天敵でさえあった。

やがて山車と神輿の一群が、にぎやかにやって来た。

しかし威勢の良い掛け声を張り上げる、勇壮な大人達が動かす山車や神輿を見物しても、何となく元気がなさそうに見えて、健太の心の曇りは晴れなかった。

《漁師さんやち、どが想ちゃっただろか?》

健太は自ら、自分の抱いた不安を消そうとしながらも、母の言葉に心が揺らいでもいた。

そんな健太の重い気分を晴らしたのは、扶美の愛らしい笑顔だった。

仲間達と露店巡りをしていた時、人混みの中に、何時ものように小首を傾げて、健太に微笑み掛ける扶美を見つけたのだ。

大勢の人混みに紛れてさえ、紺色のスカートに真っ白な半袖のブラウス姿の清楚な扶美が、健太の眼に一際まぶしく映った。

先日の登校日に会ったばかりだったが、泳ぎに行ったのか、少し日焼けして、大人びて見えた。

「健太!行けっ。デートせやっ」

「チャンスだぜっ!健太くーん」

扶美に気付いた武や洋二達が、からかい半分で健太の背中を押して促した。

扶美を招待した女の子が健太を指差しながら、扶美に何か耳打ちしてやはり扶美の肩を押した。

うなずいた扶美は、彼女に手を振ってから恥ずかしそうに俯いたまま、健太に向かって小走りで近寄って来た。

「やったっ!健太っ。頑張れよ」

「健太くーん、好きよーん」

「いてて。いってぇっ」

仲間達が健太の背中を力任せにたたき、祭りの人混みの中に消え去った。

初めて経験する事態に胸の鼓動が一気に高鳴った。

恥ずかしさを堪え、嬉しさに綻ぶ顔を必死で引き締めるようにして、健太が無言で砂浜の方へ歩き出すと、扶美は無言で後に従った。

扶美が道行く人にぶつからないよう、寄り添うように後ろを歩く扶美を振り返り、気遣いながら、山車と神輿を追って移動する人混みを縫うように歩いていると、本家のおばあさん達の一行が向こうからやって来るのに出会った。

《しもたっ!絶対何か言われるでっ》

どうして人気の少ない本通りを歩かなかったのか。

後悔は既に遅かった。

知らない振りをして通り過ぎようとする健太に、心配した通り、冷やかしの合唱が一斉に飛んだ。

「おお、わいちゃ!見てみや。健太がべっぴんの彼女とデートしとるで!」

「健太。まあ、何と可愛い彼女だないかや!大事にしたらんといけんで」

「やっぱりのう。健太は良い男だき、可愛い彼女がおるてや」

「健太。わら、ちゃんと手つないで歩いたらんと、可愛い彼女が迷子になるでな」

冷や汗をびっしょりかいて早く逃げ出そうと小走りになり、恥ずかしさを堪えて振り返って見ると、扶美も顔を真っ赤にして俯いたまま、小走りで付いて来た。

「彼女なんかだ、ないてや!」

「大きい声で言いなはんなや!」

健太は強く否定しながらも、恥ずかしさと同時に嬉しさがこみ上げ、頬が緩みっ放しになった。

それを扶美に悟られないように堪えながら、健太は扶美の腕を掴んで急ぎ足になり、海岸通りを一気に砂浜まで小走りで駆け抜けた。

縦波止の付け根まで走ると、足を止める。

ふと我に戻った健太は、扶美の腕を掴んでいるのに気付き、慌てて手を解いた。

手に持っていたお菓子やおもちゃを縦波止の付け根に置いた。

扶美と折角、学校以外で初めて二人っきりになれたのに、そんな物を持ったままである事がひどく子供じみて不似合いな気がしたのだ。

扶美も同じようにした。

ゆっくり砂浜を踏み締める自分の足音と、扶美の足音が重なるのを感じた健太の手のひらに、女性を意識し出して初めて触れた、扶美の腕の感触が熱く残っていた。

《扶美は、彼女だの、言われて、しょべかわれて、嫌がっとらへんだろか》

扶美の顔を見て、どう感じているのか確かめたかったが、怒った表情を見るのも怖く、また改まって扶美の顔を見るのも恥ずかしくて、健太は振り返る事が出来ないまま歩いた。

健太が女性を意識したのは、扶美が生まれて初めてだったし、女性を意識してから扶美と二人っきりになったのも初めてだった。

扶美と二人っきりになりたいと何時も思っていて、学校でも何かに付けて、二人っきりになれるように行動していた。

扶美は意識していないのか、積極的なのか、健太には解らなかったが、健太が一人でいると良く近寄って来たり、話し掛けて来たりしていた。

しかしそうしていざ二人っきりになってしまうと、健太の方が照れ臭くなってその場を逃げ出してしまうのが常だったのだ。

今は完全に二人っきりだった。

仲間は気を利かして健太から離れて行った。

逃げ出そうにも、理由が見つからない。

いや、逃げ出したくない。

扶美とこのまま二人っきりでいたい。

再び鼓動が一気に高鳴るのを覚えた。

鼓動が、扶美に聴こえてしまいそうに感じられて気が気ではなく、動転する心で何を話そうか、どうしようかと思案しているせいか、よけいに何も話せなくなっていた。

扶美の足音が健太の足音に重なったまま、歩調を併せて背後に付いて来た。

海岸通りの続きの土手では、白、ピンク、赤の花を開かせたハマナスが真っ盛りだった。

以前読んだ本に「花のような少女」という表現があったのを、健太は扶美の容姿と笑顔を脳裏に浮かべながら、想い出していた。


しばらく歩いて立ち止まり、夏の陽射しで熱く焼けた砂浜の上で、海に向かって腰を降ろすと、扶美がはすかいに並んで座った。

わずかに西の空に移行しようとする太陽が、水平線上の空に伸び拡がった巨大な入道雲を、美しい淡い朱色に輝かせ、穏やかな波が繰り返し寄せては返し、返しては寄せる渚の色をも染め始めた。

二人はその大いなる自然の移ろいを、永い時間無言のまま眺めていた。

時折盗み見するように扶美の顔を見ると、俯き加減で優しい微笑みを浮かべていた。

先程の本家のおばあさん達の冷やかしを怒ってはいない風であったので、健太はほっとした。

健太は頻りに汗ばみ、触れた熱い砂が張り付く掌を、何度もたたいて払った。

汗が、陽射しや砂の熱さのせいだけではないのを、健太は未だ知らなかった。

夕凪前の柔らかくそよぐ風が、朱色に染まり始めた波打ち際に寄せる穏やかな波を細かく砕き、優しい波が砂を撫で、寄せては引いて行く音が健太の心を和やかに鎮めてくれた。

「健太くん。私、良う解らんけど、漁師さん達、何かあったらしいね?」

想いがけずに扶美と二人っきりになれた嬉しさで胸が一杯になり、朝から覆っていた心のもやが少し晴れた頃、優しい沈黙を破った扶美が、手で砂をすくって落とした。

声の調子で扶美が、本家のおばあさん達のからかいに怒っていない事を知り、安堵した健太は愛らしい声に釣られて、無意識に扶美の手を見つめた。

《やっぱりきれいな手しとるが》

健太は、砂を掬っては零す扶美の愛らしい手と、しなやかな指先に思わず見とれてしまっていた。

扶美は健太の視線に気付いて慌てて掌を砂に埋め、恥ずかしそうに俯いた。

健太も、生まれて初めて意識して扶美の手を見つめ、美しいと感じたのを扶美に悟られたような気がして、ひどく照れ臭くなった。

「おお、さ、魚が獲れんよになったきな、港全体で養殖するいう計画が、今朝、年の組合の総会で発表があったらしてな」

「うん、漁師さん達、大変みたいね」

同級生の女の子達は普段から、男の子達と違って、学校で習うような標準語に近い言葉を遣った。

《扶美は長女だき、寺の家の跡を継いで、おなごの坊さんになるだろか?》

扶美の家はお寺で、妹二人の長女だった。

健太の脳裏で、母の本家の末娘のような高校生に成長した制服姿の扶美、大人に成長した坊主頭の扶美、去年見た分家のおばさんの花嫁姿に重ねた扶美の花嫁姿、同時に、瞬間眼にした分家のおばさんの乳房、小太りの母のシュミーズ姿、大人の女達のひび割れた手指、黙々とご飯を食べるばあちゃんの白髪頭などが、一瞬のうちに交錯した。

「あ、あんな…」

健太は、想わず口を開いた。

扶美に何かを言いたかっただけだったのだが、何を言いたいのかが自分でも想い付かなかった。

ただ、武や洋二には普段の何気ない想いを平気で告げる事が出来ても、芙美にはそれが出来なかったのだが、芙美にはもっと自分の内面の、根源的な想いを伝えたいという衝動が沸き起こっていた。

扶美が顔を挙げて健太を見つめた。

「うん?何?」

健太は合った視線をすぐに逸らし、海の方を向いた。

「わし、漁師にならんかも知れんが」

優しい沈黙の後、健太は砂と戯れるように波が寄せては返す渚を見つめ、想い付くままにつぶやき、その声が震えているのを恥ずかしいと想った。

健太の「漁師になる」という言葉は、即ち大人になるという願望を無意識に含んでいた。

健太が中学を出て漁師になるという夢を、以前から知っていた扶美は、返す言葉を失い、再び二人を沈黙が包んだ。


夕凪前の風が少し強まり、扶美の長い黒髪を何度も優しくなびかせた。

潮の匂いに混じった、セッケンかシャンプーか何かの清潔そうな扶美のほのかな匂いが、何時も以上に健太の胸を甘く締め付けた。

無言のまま二人で海を見つめていると、水平線に掛かろうとする前の太陽と二人を結ぶ海面に、金色にきらめく巨大な一直線の光の道が出来た。

その光の道は、輝かしい未来に夢を抱いた幼い二人を、水平線の彼方にあるであろう幸せな世界に招いているようだった。

健太は穏やかな海上に出来た金色の光の道を見つめたまま、想わずつぶやいた。

「扶美、お前は大人になるなや」

「えっ?何?」

健太の言葉の意味が解らなかった扶美は、いつものように小首を傾げて健太の横顔を見つめた。

「お前は、大人になるなや」

健太が今度ははっきりと、自分にも言い聴かせるように、同じ言葉を繰り返した。

明確な意味を意識した訳ではなかったが、これから厳しい大人の世界に入って行く自分自身への不安、扶美が大人になってもっと美しく成長し、自分から離れて行ってしまうかも知れないという不安、そして美しい扶美が大人になって、母やおばさん達、ばあちゃんのようになってしまう事への不安を訴えたかったのだ。

扶美は、健太の言葉の真意が理解出来なくて返事に困ったが、健太がそれ以上言葉を継がないのを知って、ただ素直にその言葉通り受け止めて頷いた。

健太は、扶美に、自分の言葉を理解して欲しいと想った。

そして確かめた訳ではなかったが、ただ何となく、扶美が理解してくれたような気がしていた。

視界に映る物全てを真っ赤に染め、揺らめきながら水平線上に降りた夕陽が、少しずつ輝きを弱め、一層膨張したように見えて赤みを増した。

それに連れて海上の金色の光の道が赤くなり、やがて色あせて消え、海がよどんだ濃緑色に変わり始めた。

もっと永く扶美と、二人っきりでこのまま一緒にいたい健太の願望を裏切って、水平線の下方へ引っ張られるように、夕陽が急いで沈んで行く。

水平線から上空に向かって赤、橙、黄、白、水色、青、紺と段階的に彩られる大空の、紺色の部分に、一番星の金星が輝き始めた。

振り返ると、東の空は既に薄暮となり、真ん丸の月がほんのり浮かんでいた。

「いのか?」

名残を惜しみながら立ち上がり、洋服の砂を払いながら扶美の顔を見つめた健太と、同様にした扶美の視線が重なった。

どれだけ見つめ合っただろうか、随分永い時間見つめ合ったような気もしたが、照れ臭くて、あっと言う間に眼を逸らしたようにも想えた。

しかし健太は、生まれて初めて、扶美と二人っきりで過ごしたひと時の永遠に残る想いと、恐らく初めて意識して見つめ合った、美しい扶美の澄んだ瞳を、深い充実感と共に心に刻み込んだ。

健太がゆっくり歩き出すと、何時もしている事のように、扶美が後に従った。

暮れなずみ掛けた海岸通りに戻り、置いていたおもちゃとお菓子を手にすると、市場の方から石見神楽のお囃子が聴こえて来た。

そしてそれを見物しようとする大勢の人達が、足早に市場の方に向かっていた。

同級生の家に寄って自転車で帰ると言う扶美が、何度か振り返り、健太に小さく手を振って恥ずかしそうに微笑み、やがて人混みに紛れて消えて行った。

健太は扶美に手を振り返すでもなく、ただ扶美の姿を見守りながら、扶美に対するいとおしさを心の中で抱き締めていた。


家に帰ると、父は酔っ払って寝ていたが、じいちゃんがおじさん達を相手に未だ酒を呑んでいた。

《すごいなあ。未だ呑んどっちゃるが》

健太は彼らの酒豪振りに呆れながら、急いでごちそうを詰め込み、市場に出掛けた。

地元で発祥した勇壮な石見神楽はマンガやテレビが未だそれ程普及していない時代の、この地方の子供達のヒーローだった。

恐ろしい顔をくねらせながら、客席をのし歩く「酒呑童子」の鬼達、客席を縦横無尽に跳ね回り、仮設舞台の天井にさえよじ登ったりする「白ぎつね」、客席の背後からうねりながら登場する、全長三〇メートルもある「八股の大蛇」などが出現すると、怖がって泣き出したり、逃げ出したりする小さな子供も大勢いた。

そして白煙がたかれ、虹色の照明が交錯する中で、舞台から客席まで処狭しと躍動してそれらを退治する、きらびやかな鎧衣装の武士達に、子供達の可愛い応援や拍手が沸き起こるのだった。

石見神楽は最高に盛り上がっていた。

客席を見回すと、おばさん達やいとこ達の集団と、その反対側に同級生達がいた。

同級生達の輪に飛び込んだ健太を、皆が振り返った。

「どうかね?初めてのデートの感想は?」

「こんな事はしなかったかね?君。してなかったら、逮捕するよ」

洋二がふざけて健太に抱き付き、健太の顔の前に尖らせた唇を突き出した。

「何もしとらへんてや」

「なしてだか?わいちゃ、何しとったかの?」

「浜で座っとっただけだき」

「わいちゃ、なしてだかいの?折角わしらが気利かして、二人っきりにしてやったになあ」

「そう。ちゃんとキスしてあげないと、大好きな扶美ちゃんに逃げられちゃうよ。君」

「わ、判った、判った。そのうちにな」

口々にからかう仲間達を、健太は周囲の人達の耳を気にしながら制した。

露店で買ったお菓子を交換して食べ、おもちゃを比べて自慢し合ったりしながら、石見神楽を見物する。

同級生の女の子達の集団も少し離れた所にいたが、扶美の姿はもうなかった。

扶美の家は、自転車で二〇分近く掛かるので、あまり暗くならないうちに帰ったのだろう。

友人達は神楽に夢中になっていたが、健太は虚しい気持ちになっていた。

生まれて初めて体験した扶美との二人だけのひと時がひとしお嬉しかっただけに、よけい虚しさが募った。

石見神楽の幕間、健太は武と洋二に、組合の話を切り出して尋ねてみた。

「わいちゃ、今朝の組合の話、どが想うかの?」

生まれてからずっと一緒に遊んで育ち、他愛もない話なら幾らでもして来た武や洋二に、初めて人生に関わるような想いを曝け出したような気がした。

祖父も父親も漁師の家で生まれた二人の答えは単純明快だった。

「この町が好きだし海が好きだき、養殖だろが何だろが、関係ないてや」

「わしもな、ここで一生漁師して暮らせら、そいで良いが」

健太は明快に応える二人を、ひどくうらやましく感じた。

神楽は一〇時頃に終わり、健太が招いた同級生は神楽、母がが終わるまでいて、母が重箱に詰めた料理を持って、帰って行った。

母の兄姉の集団も、毎年のように雑魚寝同然で一泊した翌朝、じいちゃんと父が準備したみやげの、干し魚と干しワカメの大きな袋を幾つも車に積み込み、秋の収穫祭への、健太の家族の来訪を約束して、帰って行った。

《扶美も高校生になったら、ほんにあがになるだろか?》

 健太は彼らがマイクロバスに乗り込む際、母の本家の末娘の張り出したような胸を見て、再度扶美とイメージを重ねてみたが、昨日と同じ感情しか湧いて来なかった。


底曳船の漁師達は祭りの翌日一日だけ漁を休んで準備し、八月ひと月、底曳漁は一斉にシイラ漁に変わる。

シイラ漁が始まって数日経ち、市場は以前のように活況を呈しているように想われたが、それでも景気の良い話は聴こえて来ず、健太の不安に拍車を掛けた。

武と洋二は凪の日に、自分の家の船に乗ってシイラ漁に出るようになった。

時折、獲れたシイラを健太の家に届けてもくれた。

シイラはアジやサバよりも鮮度が落ちるのが早いが、それだけに新鮮なシイラの刺身は事の他美味しいし、煮付けや塩焼き、またフライにしても美味しいものだ。

二人が得意そうに話すシイラの群れの豪快さや、船の上での様々な出来事を聴かされるたび、健太は心を躍らせながらもうらやみ、独りで沖の瀬に潜り、時折じいちゃんに付いてイカ釣りに出た。

盆には、姉の家族と兄が帰省して家もにぎやかになり、漁業市場の前の広場で三日間の盆踊り大会が催されたが、やはり健太の眼には漁師達が元気なさそうに映った。

《扶美の浴衣姿、見てみたいが》

女の子達は皆浴衣姿で踊っていた。

扶美の住む町でも同じ日程で盆踊り大会が催されるので、判ってはいた事だが、扶美の姿のない盆踊りが、健太には一層寂しく感じられた。


山陰の夏は、お盆を過ぎるとあっと言う間に過ぎ去って行く。

八月の後半に入ると七月の倍近い雨が降り、平均水温が一気に下がる。

晴天で風がほとんどない日でも、大きな土用波のうねりが寄せるようになり、クラゲが大量に発生し、海水の温度低下が、はっきりと肌に感じ取れるようになる。

盆明け二日後、その年初めて台風の直撃があり、漁船は二日間漁を休んだ。

船を海岸通りの近くまで据えた漁師達は、船を整備したり網を繕ったりした後、暇を持て余した。

夏の海が大好きな健太にとって、三日も海が時化る事は、時間の損失であるようにも想えた。

する事といえば、母のメノハ拾いと、じいちゃんの流木拾いの手伝いであった。

海が時化ると、浅瀬の海藻が根こそぎなぎ倒されて海岸に打ち寄せられ、また、大雨で河川流域に留まっていた流木が海に流され、海岸に打ち寄せられる。

メノハは干して食用に、流木は乾燥させて細かく割り、風呂や釜戸の薪にするので大変重宝した。

じいちゃんも、さかいのおじいさんと船を保護し、母やばあちゃんと激しい風雨の中を畑に出掛け、作物を保護して忙しそうにしていたが、二日目は何をするでもなく、玄関の上がり口の指定席で、ぼんやりと考え事をしながら、火鉢を抱くようにして煙草を吸った。

そのじいちゃんの姿も、健太の眼にはひどく寂しそうに映った。

訪ねて来た本家のおじいさんやさかいのおじいさんとの茶飲み話もやはり、漁が少ないという話と、養殖の話ばかりだった。

「まあ、ゆっくりな台風だで」

「ほんに。ただでさえシイラ漁が少ないに」

「早よ、台風がいなんと、潜れへんが」

大人達の会話に併せて健太が不平を言うと、母が決まり文句で健太を諭した。

「こがな時漁師さんやちは難儀しちゃるき、覚えときなはいや。お前は二言目には漁師になる言うが、みやすてなれるもんだないき。そいより宿題、は、全部やっときなはいよ」

「言われんでも、は、全部終わらいな。そがに勉強、勉強言わんでも良かろがな」

健太は自分の信念が揺らいでいるのを母に見透かされているような気がして、今まで以上に母に対して、反感を覚えていた。

海が時化たり大雨が降ったりした後の二、三日は、川の水が海に流れ出し、濁って潜れない。

毎年の中の瀬でさえ海底が良く見えなかったから、もっと深い沖の瀬は尚更であろう。

健太は毎朝の磯探りで海水を観察して、その日潜れるかどうかを判断していたが、台風が去って三日後、良く晴れて波が穏やかになり、透明度を取り戻したので潜る事にした。


《今年はあれがいっぺんも見れんかったが》

健太は、七月中旬から八月上旬の、最も暑い時期に起こる、珍しい海水の現象を想い出していた。

凪が何日も続いて海が澄み切った日の、海水の温度が最高になる午後三時過ぎ頃、時化た時以外は速い潮が流れ込まない、縦波止の付け根の潮溜りで、深さ三メートル程の海底が、手が届くと錯覚する程浮き上がって見える事があった。

健太はその不思議な自然現象を見るたび、全身の肌が粟立つ程興奮した。

その情景は余りにも鮮烈過ぎて、見慣れた海とは異質の、幻か何かの映像を見ているように想えたのだ。

海が何日も良く凪いで、海水の透明度が非常に高くなる事、磯が澱んで冷たい潮が流れ込まない事、強烈な陽光を浴びて海水が熱せられ、屈折率が高くなる事。

そんな自然の条件が複合的に重ならなければ起こらないのであろう、その神秘的な自然現象が、毎日のように海に行っていた健太にも、今年は一度も見られなかったのだった。

健太が子供の頃は、もっと頻繁に見られたように記憶していた。

《やっぱり海が汚のなっとるだろか?そいで魚が獲れんよになっとるだろか?》

身体を海に浸けて泳ぎながら、例年のように、海の表情や海水の肌触りがお盆前とお盆後では違う事に気付きながら、それでも数日間海に潜れずに沈んでいた健太は、久し振りの海に身体を委ねたとたん、心を弾ませていた。

その健太を、沖の瀬で驚くべき異変が待ち受けていた。


沖の瀬の海上に着いた時、水中眼鏡越しに海底の藻草がひどくなびいているのに気付いた。

何時ものように潜ろうとしても、強い潮流の抵抗を受け、沖の瀬の海底に到着するのに、普段の倍近い時間を要したのだ。

《な、何だっ!こ、これっ?》

それまでとは違う沖の瀬の雰囲気を感じながらも、健太は素潜り漁を始めた。

《な、なしてだっ?し、潮がずの速いがっ!》

海底まで辿り着く途中でも、海底で北から南に移動する時でも、少しでも気を緩めたり力を抜いたりすると身体が一気に流され、逆に移動すると重い抵抗を受け、身動きも出来なくなる程だった。

健太は必死で岩を抱え、丈夫な海藻を掴んで、恐る恐る漁を続けた。

サザエやアワビを獲って浮上しても、流されて延び切った縦桶の細いロープを、その都度たぐり寄せなければならなかった。

《なして?こがな?》

また何度潜っても、流される縦桶に身体ごと引っ張られた。

さらに海面から海底を水中眼鏡越しに覗くと、浮上する時に蹴った海底から健太自身が、四、五メートル近く流されていた。

何時もは群れをなして泳いでいる魚も、速い潮の流れを避けて岩陰に潜んでいるのか、姿がほとんど見えないように想えた。

この時期の外海の潮が速いのは、漁師達の話で知っており、自分でも裏木戸から海上を眺め、外海の波頭の砕け方から感じてはいたが、実際に体験してみると想像以上だった。

かつて、多少うねりがある日でも。中の瀬に潜った時はこんなに流される事はなかった。

まるで時化の日に皆で、波打ち際に大きく口を開いた波に飛び込んで、身体をもみくちゃにされる遊びをする時の感覚に近かった。

海面に浮上し、一息付きながら周囲を見渡す。

頭上にはまばゆい太陽、そして水平線上には大きな入道雲は出ていたが、空は真っ青に澄み、海面を吹き渡る風は心地良くそよいでいて、何時もとほとんど変わりのない、見慣れた光景だった。

肌で感じる水温が多少低く、降り注ぐまばゆい陽光にきらめく海面に、ゆったりとした大きな土用波こそ寄せているが、この時期に中の瀬で経験する波と、ほとんど変わらないように想えた。

海水も良く透き通り、お盆前と同じ程、海底が良く眺められた。

それなのにこの潮の速さはどうした事だ。

全身が鳥肌立った。

健太は不安を抱きながらも何度か潜ってみたが、潜れば潜る程、潮の流れが一層速くなるように感じた。

それは健太が外海の沖の瀬に出て、初めて経験した潮の流れの速さだった。

南の岬と、夜探りをする市場の裏手の岩場の先端を結ぶ線より内海にある中の瀬で、これ程速い潮の流れはかつて経験した事がなかったのだ。

《な、流されるっ?お、おぞいっ!》

健太は生まれて初めて、海に対して強い恐怖を覚えた。

それは生まれてから今まで、揺りかごのように、何時も優しく健太を受け入れてくれていた海が、初めて健太に示した威嚇であり、何時も甘えていた海に対して、健太が生まれて初めて抱いた恐怖だった。

健太は潜るのを止め、波打ち際目指して必死で泳いだ。

夢中で海面を両手でかき、叩いた。

縦桶を結ぶ足首の綱が足枷のように想えた。

縦桶を捨ててでも早く波打ち際に戻りたい。

しかし縦桶も貴重な家財だった。

呼吸がひどく苦しくなったが、健太は泳ぐ事を止めなかった。

どれだけもがいても、海岸が逆に遠のいて行くように想えた。

速い潮の流れと、巨大な波が背後から追い掛けて来て、自分を飲み込んで沖に引き戻そうとするような錯覚に陥った。

空はひたすら青く、太陽はさんさんと輝き、海は良く凪ぎ、風も穏やかだった。

しかし健太は、自分が暴風雨の真っ只中にいるように感じた。

気の遠くなる程永い時間、必死でもがき苦しみ、息継ぎをするのに顔を上げた、その眼に左手の縦波止が、そうやく映るようになった。

それでも未だ健太は恐怖に苛まれていた。

苦しさに耐えて尚も泳ぎ続けた。

やがて水中眼鏡越しに海底が浅くなるのが見え、しばらくして海水をかく手の先に、渚の砂地が触れた。

そしてやっと慣れ親しんだ波打ち際にたどり着いた健太は、恐怖に打ちのめされた心と、疲れ果てた身体を、優しく静かに砕ける心地良い波に委ね、降り注ぐさわやかな陽光に晒したまま、しばらくは動けなかった。

子供の頃から優しい海に守られるように育ち、知らないうちに芽生えていた甘えとうぬぼれが、一瞬のうちに打ち砕かれていた。

大人達が「危ないき、気付けんと」と言うのが不思議に想え、泳ぎを覚える前の、海が怖いと感じていた、ずっと幼い頃の記憶さえ失っていた。

《海なんかちょっともおぞい事あらへん》

健太は泳ぎと素潜りが上達するに連れ、海が危険だと言う大人達を臆病に感じ、成長した自分が勇敢になったとさえ錯覚していた。

うぬぼれて、海をなめていた健太を戒める為に、海が健太に厳しさを教えたのだった。

岬と岬を結ぶ線から内海にある中の瀬と、外海にある沖の瀬は、即ち、優しい子供の遊び場と、厳しい大人の仕事場の違いだった。

大人という存在に対しても同様だった。

周囲の大人達に褒められ、うぬぼれていた健太は、自分が大人と対等になれる程成長したと錯覚していた。

そして漁師達の格好良さ、威勢の良さの表面的な部分に憧れていただけで、現実の生活の厳しさ、職業としての漁師の厳しさを理解してはいなかったのだ。

大人達はその厳しさを自ら受け入れ、立ち向かう精神力と体力を培っていた。

健太はその事に無意識に眼を背けていた。

それ故ちんばさんに会うたびに、自分の甘さや、うわべの強がりを見透かされているようで、気後れしていたのだった。


「今日は漁が少ないの?」

「う、うん。途中で腹痛起こしてな、早よ、戻ったき」

海から上がった健太が抱えた縦桶を覗き込んだじいちゃんの問い掛けにも、曖昧に答えた。

健太は沖の瀬で体験した恐怖と、海に促された反省を誰にも言わず、またその日以降、漁師になりたいとも言わなくなった。

そして本家の船の手伝いに出て大人達に褒められても、以前のように得意がる事はなくなっていた。


沖の瀬には、夏休みの終わりまでに、海が良く凪いだ三日だけ潜った。

《ここで沖の瀬に潜るの止めら、わし、大人になれんよになるが》

そう感じた健太は勇気を奮い起こし、恐怖と必死で戦い、大いなる敵に立ち向かう決意を持って潜った。

怖かった。

しかし、怖いから止めるのでは、一人前になれない。

そんな気がした。

シイラ漁に付いて出て、一歩も二歩も先を歩いている武と洋二に負けたくないとも、笑われたくないとも想った。

それはまるで夏の初めに、独りで密漁者達に立ち向かって行った時のようだった。

台風直後と違い、沖の瀬の潮の流れは多少穏やかになっていたが、それでも七月に比べるとやはり随分速かった。

健太は漁をしながら、細心の注意を払った。

それはこれから、厳しい大人の世界に入って行こうとする事に対して、漠然とではあるが、芽生えた自覚だった。

そして健太が何の悩みも苦しみもなく、ただひたすら、海から与えられる喜びを満喫するだけの子供でいられ、今日も昨日と同じ幸せな日々の続きであった夏は、これが最後であった。


うろこ雲が早い秋を連れて来た。

夏が終わり、港は再び底曳漁が始まった。

二学期が始まって学校に戻った子供達は、毎年そうするように、秋を迎えて、普段通り帰港した船や畑仕事の手伝いに励み、魚釣りや砂浜や海岸での遊びはするものの、海からはげ山や野原、稲刈りの終わった後の田んぼに遊び場を移して行った。

海での遊び程ではないものの、紅葉に彩られた美しい野山を走り回り、栗、椎、グミ、アケビの実を採って食べ、木の枝や竹、笹などで様々なおもちゃを作って遊ぶのは、勿論それはそれで子供達の楽しみであった。

一〇月の半ば、運動会が開催された。

勉強は苦手でも、運動の得意な子供達がヒーローになる日であった。

健太も、一〇〇メートルや二〇〇メートル、リレーでは同級生達には及ばなかったが、四〇〇メートルや八〇〇メートルでは誰にも負けなかった。

九月の終わり頃から練習を重ねた運動会当日、朝食の真っ最中に港町に異変が起こった。


「沖イワシの大群が来ましたで!漁師は船を出して下さい!」

早朝、いきなり漁業組合の拡声器が大声で何度もまくし立てた。

健太は誰よりも早く朝食の箸を置き、急いで裏木戸を潜り抜け出た。

「うわーっ!ごっついっ!」

思わず声に出して叫んだ。

沖イワシの大群が晴天で真っ青な海面に巨大な銀色の帯を作っていた。

まるで銀色の大蛇が何匹も泳ぎうねっているように見えた。

波打ち際のあちらこちらで、既に夥しい数の沖イワシが打ち上げられ、銀色に光ってはねている。

「じいちゃんっ!すごいでっ!」

家族全員が後を追って飛び出して来た。

じいちゃんは、すぐに船を出しに走った。

父が手かごを二つ出して来て、健太に一つ手渡した。

父と砂浜に飛び降りて波打ち際まで走る。

母も手かごを下げてばあちゃんと一緒に家を走り出た。

母やばあちゃんが走るのを生まれて初めて見たような気がして、無性に嬉しくなった。

周囲の家々も家族総出だ。

底曳船は大き過ぎて小回りが効かないので衝突したり、浅瀬に船底が乗り上げたりする危険があったので、底曳船に乗っている漁師達は、伝馬船を出したり、波止場に走ったりして大きな手網で沖イワシの群れをすくった。

じいちゃん達の乗っている船は小型なので、健太達が沖イワシを拾っている波打ち際のすぐ傍まで船を回し、大きな手網で沖イワシをすくっては船の甲板に置いた魚箱に放り出した。

三〇分程の大騒動だっただろうか。

海が何時もの青さを取り戻したが、砂浜で跳ねている大群の処理が残っていた。

近所の年寄りから幼い子供まで、時間が経つのも忘れて、沖イワシを拾い集めている。

組合の拡声器がもう一度鳴った。

「運動会は一時間遅れて開催される事になりましたで、子供達も一時間遅れで良いだげな」

「は、限がないが。これぐらいで良かろがい」

父が健太に声を掛けた。

母と、一緒にいたばあちゃんも顔を挙げてうなずいた。

手籠を注意して持たないと、沖イワシが零れ落ちそうになる。

近所の皆も引き揚げ始めた。

拾い切れずに打ち上げられたままの大量の沖イワシを狙って、人間が引き揚げた後、カラス、カモメ、トンビの群れが波打ち際に殺到していた。

さらに集まって来た犬や猫と争奪戦が始まっていた。

母が洗い流すからと、四人で持ち帰った沖イワシを炊事場の流しに移すと、流しから何匹も零れ落ちた。

「こがに一杯獲れて、どがするかな?」

興奮から覚めた健太は、呆れた。

「普段でさえ沖イワシは安いし、第一このじげだ、誰も買わへんだろてや」

父も呆れ顔だった。

これ以外にじいちゃんが船を出して獲ったイワシは、恐らくこの倍はあるだろう。

「干して、皆に送ってやるき」

母だけは、ニコニコ顔だった。

「こがな事、わしが生まれて初めてだが」

父が大きく伸びをしながらつぶやいた。

「運動会の朝に、魚も運動会だかいな」

健太は冗談を言って一人笑ったが、すぐにはっとなった。

《まさか、これが全部のうなるまで、ずっと弁当のおかず、沖イワシだかいな?》

健太の予感は、恐らく外れないだろう。

夕食はともかく、朝食も弁当のおかずも、ずっと、沖イワシがなくなるまで。

沖イワシは、生食では、煮ても焼いてもそれほど美味しくはないが、干物にすると、別の魚かと想う程美味しい。

特に冬に向けては脂が乗って来て、気を付けて焼かないと、沖イワシに日が点いて燃えるほどになる。

健太自身も、沖イワシの干物の美味しさは判っている。

判ってはいるが、しかし。

《犬や猫がしょいこ担いで来て、いっと盗んで行ってくれへんかな》

背筋が寒い思いをしていると、じいちゃんが戻って来た。

「大漁なんは良いが、売れへんで」

「なして、こがな事が起こっただろかいな?」

父が手を洗いながら、じいちゃんに尋ねた。

「潮の流れが変わったかも知れんな。沖イワシはこがに沿岸には来んで。ワカナの大群が沖イワシの大群を追い回しただろがい」

じいちゃんが、手ぬぐいで汗を拭きながら、ぽつりとつぶやいた。

《これも海水汚染のせいだろか?海の環境が変わったせいだろか?》

大騒動に興奮した後の醒めた心に、じいちゃんの言葉が重かった。

この町の一大珍事は、翌朝の新聞の地方版のトップを飾った。

その日から数日は、町中何処の家の軒先も庭先も、砂浜さえ、干した沖イワシだらけになった。


運動会の次は学芸会だった。

最上級生は毎年、劇ではなく、合唱や楽器演奏をするのが慣わしであり、リーダーは勿論合唱部の部長の扶美であった。

遠慮がちに皆を指導し、必死でまとめようとする扶美に、心の中で応援を送りながら、健太は恋心を一層募らせるのであった。

学芸会が終わってしばらく経ち、山の紅葉も深まり、朝晩には冷え込むようになったある土曜日の事だった。


授業が終わってお腹を空かせ、急いで帰宅しようと玄関口で靴を履いている健太の肩を、扶美が背後からそっと叩いた。

「健太君。明日はげ山に遊びに連れてってくれへん?」

「明日?はげ山?」

振り返った健太は、何時ものように扶美の清楚な微笑を目の当たりにして胸をときめかせた。

「うん。遊びに行こう」

「だ、誰とや?」

「健太君と私。二人で」

《ふ、二人?二人っきりで?》

健太は、背中に一気に汗が噴出したのを感じた。

「い、良いで。な、何時にや?」

「私ね。お弁当作るき。健太君の分も。一〇時に。私、麓のバス停まで自転車で行くが」

「わ、判ったき」

「じゃあ、明日ね」

扶美は健太の動揺を知らないかのように一際笑顔を綻ばせてから、音楽室の方へ去って行った。

その後姿を見送っていると、下駄箱の陰から武と洋二が悪戯っぽい顔を覗かせた。

「けーんたくんっ。可愛い芙美ちゃんとっ、明日何処に行くのーんっ?」

「僕達に内緒で何処に行くかな?君達」

《あっちゃー。聞かれた》

「私ねーん。お弁当作るきーん。健太君の分もーん」

「はげ山で、二人っきりで、何をするのかなー?」

二人は健太の両腕を抱えて挟むように歩きながら、校庭に連れ出した。

 「な、何もせえへんてや」

 「だめーん。何もしなかったら、扶美、つまんないー。私、健太君の事嫌いになっちゃうーん」

 二人に知られたと判って一層動揺する健太を、二人は面白がってさらにからかった。

 「健太。わ、夏祭りの日も何もせんかったろがい?折角わしらがチャンス作ってやったになあ。今度はちゃんとせえよ」

 「ちゃんと、言うて、何するだか?」

 「キス!」「キス!」

 二人が声を揃えた。

 健太は真っ赤になって、周囲を見回した。

 「やくたいもないっ!何、かばちたれとるかの?扶美はそがな女子だないき」

 「女は皆、待ってるのよーん」

 年上の姉がいて、姉の読む週刊誌を盗み読みしているせいか、武は同級生の中で最もませていた。

 「ほんなら、武、お前、した事あるかの?」

 健太の逆襲に、武が顔色を変えた。

 「そ、そら、お前っ、キ、キスの一つや二つ…、や三つや四つ…」

 「キスて、一つ、二ついうて数えるだか?」

 洋二が今度は健太の味方になって、武を追及した。

 その時だった。

 「こらっ!お前ら、職員室の傍で、何ちゅう話をしとるっ!」

 頭上の窓が開いて、雷が落ちた。

 見上げると、担任の先生だった。

 三人が緊張して、先生の顔色を伺っていると、先生はすぐに微笑んだ。

 「なあ、洋二、武。あんまり健太と扶美をしょべかうなや」

 「は、はい」

「わ、判りました」

「お前らがあんまりしょべかうと、扶美が恥ずかしがって、健太に近付かんよなるきなあ」

先生が健太の方を向いた。

「健太。扶美は良い子だき、大事にせえよ。お前、要らんかったら、先生にごせや」

「せ、先生っ!」

真面目な話をしていると思った先生が、唐突な言葉を口にした。

「ははは。冗談だが。先生は大事な奥さんがおるきな。まあ、お前らは信用しとるし、扶美の気持ちも変わらへんてや。慌てんこに普通に、自然に交際ったら良いが。ほら、早よ帰れ」

「先生、さよなら」

「さよなら」

「さよなら」

「おう、健太、明日頑張れよ。はげ山まで応援に行ったるき」

「せ、先生っ!」

三人は笑い転げながら校庭を走り出て、港町の方に向かった。

何時ものようにはげ山の麓を巡る近道に入る。


前方の畑から煙が立ち昇っていた。

「くよししとる」

「どこぞにイモないか?」

「腹減ったな」

三人はくよしの焚き火まで駆け寄った。

くよしというのは、刈り取った雑草や、野菜を収穫した後の不要な茎や根、葉などを畑の隅で枯らして置き、焚き火にして燃やした灰を、次の種付けや苗床の為の肥料として畑に播くのだ。

はげ山の麓は砂地の畑が多く、大抵は豆類、いも類を育てていた。

今は丁度サツマイモの収穫時期であった。

「おお、あったで」

くよしをしている畑のあぜ道に、土の着いたままのサツマイモが数個転がっていた。

「この畑、新田のとこの畑だで」

「ほんなら、このイモ食べて良いで」

この町では、採れた野菜を売る事はなく、自宅で食べ切れない収穫物は親類や親しい家同士で分け合うが、それでも余る場合道沿いに放置し、それは誰でも持ち帰って良いという暗黙の了解があった。

三人は食べたい大きさのサツマイモを選んで、くよしの中に放り込んだ。

「わいちゃ、好きな女子、おらんだか?」

イモが焼けるまで、畑の隅から枯れた雑草を掻き集めて来て燃やしながら、イモの所在を確かめ、また焦げないように木の枝でイモをつついたり、転がしたりして焼け具合をみる。

日中でも、焚き火の暖かさが少し嬉しい季節になって来ていた。

武が俯いたまま、顔を真っ赤にした。

「わ、わし、ひ、浩子っ」

「ふーん、浩子か」

「血は繋がっとらへんが、親戚で小さい頃から知っとるきな」

「何か、合いそな気がするで」

健太も洋二も二人が仲の良い事は知っていた。

「わ、わしはの、和子が好きだが」

洋二がくよしの煙が立ち昇る空を見上げたままつぶやいた。

「和子、言うて、すごい勉強出来るが」

「わし、頭悪いき、勉強出来る女子が好きだが」

「意外だが」

「うん、想てもみんかった」

健太と武は、洋二の新たな一面を見たような気がした。

「そろそろ焼けたろがい。わし、前から想とったが、和子は洋二が好きだで。多分な」

健太は、転がっていた棒っ切れでくよしの中をかき回し、皮の焦げたイモを三個引っ張り出した。

熱い焼きイモを広葉樹の枯葉で包み、熱さを堪えながら割ると、黄金色の中身が湯気と共に、香ばしい匂いが空きっ腹に沁み込む。

「ほんとだか?あち、あちち。あふあふ、う、美味いで」

「あちち、あちっ。ああ、美味いが。うん、わし、浩子にするが。今度告白するきな」

「よし、わしは和子に告白するき。健太、明日、扶美ちゃんとデート、頑張れよ」

「う、うん。そいでもなあ、頑張る、言うてもなあ。何を頑張るだか?」

「そがだいなあ。好きだ、言うて、私も好きだ、言い返されて、そいで、どがするだか?」

「知らん。解らへんが」

「キ、キスするだがっ」

洋二が喉に詰まりそうになったイモをやっとの想いで吞み込んでから、勢い付いて言った。

「キスしてから、どがするだか?」

「知らん。解らへん。ず、ずっと、キスするだろがい」

「キスしとったら、子供が出来るだか?」

当時、性について保健の授業で習うのは、中学に入ってからであった。

「知らん。聴いた事ない。ねえちゃんが読んどる本にも、書いてないで」

「何でも良いき、頑張れや」

三人はそれぞれの初恋に胸をときめかせながらも、美味しい焼イモをかじり終えてから、そのお礼にと、くよしの傍に刈って置いてあった雑草を焚き火に放り込んで山道を下った。


その夜、健太は夕食を終えた後、台所で片付けをしている母に、背中越しで言った。

「あ、明日、昼飯、い、要らんきな」

「なしてな。何処ぞ行くんかな?」

「よ、洋二の親類の川上の家で、昼飯ごっつおなって、お、奥の山にアケビ取りに行くきな」

理由を問い返される事は判っていたので、ごまかしの言い訳を用意して置いた健太はほっとした。

しかしその安堵もつかの間の事だった。

「ほんなら、みやげに沖イワシの干物持って行きなはい。お前が出るまでに包んどくき」

「い、良いがな。い、要らんてや。そながもん」

うそがばれそうになって、健太は慌てて否定した。

「良い事ないがな。他所で昼飯よばれるに、みやげも持たんでどがするだかな?そいに、川上は在所で、魚は高て、買えへんき、喜んじゃるが」

母はきっぱり言って、再び無言で洗い物を始めた。

《あーあ。どがしょうか。捨てられへんし、扶美にやるのもおかしいし》

健太は、今年の夏のボーナスで買ったテレビで野球を観ている居間の父の傍に座り込んだ。

《明日、扶美と、二人っきりで・・・。キス、いうて、どがしてするだろか?》

幼い健太は、国語辞典で調べて、男女が唇を重ねるのがキスだとは知ってはいたが、未だ本やテレビでさえも男女がキスをするのを見た事がなかった。


翌朝、何時もより早く目が覚めて、早い磯探りに出掛け、獲物なしに帰った健太は、手持ち無沙汰で、時間が遅く感じるのに苛立ちながら過ごした。

約束の時間より三〇分も早く家を出た健太は、町外れのはげ山の麓にあるバス停で扶美を待った。

一〇月半ばには珍しく、直射日光に当たると汗ばむ程の、初夏のような天気だった。

しばらくして、水色の長袖ブラウスに薄茶色のスラックス姿の芙美が、自転車に乗ってやって来た。

学校の制服姿も可愛いが、普段着姿も可愛いと、健太は想った。

「ご、ごめんね。待った?」

「いんや。さっき、来たばっかりだき」

扶美が健太に微笑み、息を整えながら、自転車をバス停の待合所の脇に停めた。

「その新聞紙の包み、何?」

「ああ、こ、これな。昼飯要らん言うのに、ごまかしてな、洋二のおばさんとこに行く、言うたら、沖イワシの干物持って行け、いうておかさんに言われてな。お前、持って帰るか?こないだ、運動会の朝、沖イワシの大群が来たろが。その時の干物だが」

「私、沖イワシの干物大好き。家の皆も好きだが。貰ても良いん?買うと高いし。皆喜ぶき」

健太が新聞紙の包みを渡すと、扶美はそれを受け取って自転車の籠に置き、弁当の入ったリュックと水筒を持った。

「カラスやトンビが匂いを嗅いで来て、持って行かへんだろか?」

「世話ないと思うがな。ビニール袋に包んで輪ゴムで括ってあるき。念の為、板を被せとこか」

健太はバス停の横に置いてあった板を二枚並べて自転車の籠を覆ってから、扶美の手から、バッグと水筒を受け取った。

「うん。これで世話ないね」

その瞬間、両手が扶美の両手に触れ、健太は胸をときめかせ、扶美もまた、顔を赤らめて俯いた。

「行こや」

健太が先に歩いて芙美が後に従い、山道に入った。

木漏れ日を浴びながら、両脇に清らかな湧き水が流れる山道を登って行く。

健太は、時々辺りを伺い、人の気配を確かめた。

担任の先生はともかく、あの好奇心の強い武と洋二の事だ。

本当に様子を見に来ているかも知れなかった。

「気持ち良いが。山歩きなんて久しぶりだき」

「なして?お前の家の裏山は?」

「時々歩くけど、山、言うほどきつないし。あいたっ!」

少し後ろを歩いていた扶美が急に鋭い悲鳴を上げた。

驚いて振り返り、近寄ると、扶美が左手の指で右手の人差し指を絞るように握り、先端部分から血が流れ出していた。

「笹の葉で切っただな?ちり紙かハンカチ持っとるか?」

「りょ、両方、持っとるよ」

「ちり紙出せや」

「うん」

健太は足元に生えているヨモギの葉を二、三枚引きちぎって山道に沿って流れるせせらぎの湧き水ですすいで岩の上に置き、せせらぎの中から拾い上げた小石でヨモギを捏ね潰してから、扶美の人差し指を口に含んで血を吸い出し、捏ね潰したヨモギを傷口に当てて、扶美がポケットから取り出したちり紙で巻き付けて止めた。

「ヨモギは消毒になるし、血止めにもなるきな。これで世話ないわい。ほんの間、心臓よりも傷口を高う上げて、反対の指でちり紙の上から軽く押さえとけや。すぐに止まるが」

山で遊ぶ時は擦り傷や切り傷を作る事が多く、家まで手当てに帰れない時の応急処置法が子供達の間で代々伝えられていた。

「あ、ありがとう」

健太はまた先に立って歩き出した。

《あれっ?わ、わしっ。ふ、扶美の指?》

慌てていたのと、何時も、誰かが怪我をした時に当たり前のようにしていたので、無意識にした行動だったが、やっと健太は、扶美の指を口に含んだのを想い出していた。

何という大胆な事をしたのだろう。

どっと冷や汗が出た。

健太は、自分が扶美の指を口に含みたくて、応急処置を施したのだと、疑われたらどうしようか、と頭の中が一杯になった。

《誰でもする事だき。他の女子にもした事あるがな》

言い訳を見つけて自分の気持ちを落ち着けようとしたが、歩き方が急にぎこちなくなり、何度かつまづいて転びそうになった程だった。


はげ山の頂上には半時間ほどで到着した。

扶美の住む町は、ハゲ山よりも高い、奥の山並みの裏側にあるので見えなかったが、健太の住む港町が一望出来る側に回ると、扶美が眼を輝かせた。

「わー、海がきれいっ。家がおもちゃみたいだが。あれが健太君の家」

扶美が、怪我をした方の人差し指で健太の家を指差した。

もうちり紙は外していた。

「ゆ、指、な、治っただか?」

「う、うん、血も止まったき、あ、ありがとう」

「あ、あれは、だ、誰でもするきな。わ、わざとだないきな」

健太は必死で弁解した。

「う、うん。わ、判っとる。でも、う、嬉しかったき」

《嬉しかった、言うて、お前?》

振り向いて頬を赤く染めて俯いた扶美に、その意味を訊くには未だ健太は幼過ぎた。

怪我の処置を素早くしたから嬉しかったのか、健太が扶美の指を口に含んだのが嬉しかったのか。

しかし幼い扶美も、まさかそんな事を意識して言った訳ではなかっただろう。

《まあ、良いが。先生も昨日、慌てんこに普通に交際え、言うちゃったし》

そう想って落ち着こうとしても、心ときめく沈黙に堪え切れなくなった健太が、口を開いた。

「ふ、扶美、腹減らんか?」

「うん、私もお腹空いたが」

扶美が顔を挙げて屈託のない笑みを返した。


良く伸びた古い松の巨木の根っこが丁度良い具合のテーブルと椅子になった。

扶美がリュックから出した女の子らしいピンクの弁当箱を受け取って開く。

一口サイズの真っ白なおにぎりがぎっしりと詰まっていて、タクアンが数切れ、隅っこに顔を覗かせていた。

「白い握り飯、久し振りだが」

真っ白いのは、珍しい米だけのおにぎりだからだ。

健太の家だけでなく何処の家でも、普通米を炊く時、麦を混ぜるのが通例で、それ以外でも大抵はサツマイモやジャガイモ、季節にはサトイモやヤマイモ、豆などを炊き込むのが日常であった。

扶美が開いたもう一つの弁当には、玉子焼きとウィンナーソーセージ、鶏の唐揚げ、筍とフキの煮物、もう一つの器には、リンゴと柿が一口サイズに皮を剥いて切ってあった。

「わし、こがなまげな弁当、食った事ないがな」

「これ、本当はね、お母ちゃんが作ってくれたの。健太君と遊びに行くき、言うたら。私が作ったのは、玉子焼きとウィンナーソーセージを炒めたのだけ。ああ、おにぎりも、私が握ったき」

「上手に出来とる。買うた駅弁みたげなが。食って良いか?」

「どうぞ」

「いただきまーすっ」

《扶美が握ったおにぎりだが》

健太がお握りを一つ指で摘んでかぶりついた。

扶美が水筒のキャップを開けてお茶を注いだ。

「うまーい。ほんに、味も駅弁みたげなが。去年おかさんの親類に汽車で行った時にな、生まれて初めて駅弁食べてな、それと一緒だが」

「良かった。喜んでくれて。あれっ?お茶飲むコップ忘れて来た。水筒のキャップで良いよね?」

扶美が、驚いた表情をして、しかしすぐに頬を赤らめて微笑んだ。

「健太君、先に飲んで良いよ」

《先に飲んで良いよ、言うて。同じ処に口着けるがな?》

驚いておにぎりを喉に詰まらせそうになった健太に、扶美がお茶の入ったキャップを手渡した。

健太はそれを受け取り、慌てて一気に飲み干してから、扶美に返した。

「おかずも食べてね、一杯。私も食べるき。はし持って来んかった代わりに、ちり紙濡らしたの、ビニール袋に入れて持って来たき、手を汚しても良いよ」

「へえ、気が利くな」

《良い嫁じょになるで》

健太は思わず言葉を飲み込んでいた。

「お母ちゃんが、してくれたんよ。持って行け言うて」

扶美がキャップにお茶を注いで飲んだ。

健太が盗み見していると、知ってか知らずか、真に健太が口を着けた処からであった。

扶美は微笑んだまま、大きく息を付き、またキャップにお茶を注ぐと、木の根っこの上に置いた。

《ほんに、わしが口着けた処に、扶美が口着けたが》

健太は、今自分と扶美が口を付けたキャップの部分を凝視し、扶美の表情を盗み見た。

玉子焼きを指で摘んで口に入れた扶美は自然に振舞っていて、ぎこちなさは感じられなかった。

《まあ、良いや。慌てんこに、慌てんこに》

健太は、昨日の先生の言葉を再び想い出しながら視線を戻すと、おかずを片っ端から食べ始めた。

「この玉子焼き、甘過ぎたが。失敗だき」

扶美が玉子焼きを口にして、かみ締めながらしかめっ面をした。

そんな表情も可愛いと思ったが、眼が合わないうちに慌てて視線を逸らした。

「何でや?そがな事ないで。美味いが。わし、玉子焼きは甘い方が好きだき」

「ほんに?良かった」

扶美が愛らしい微笑みに戻して、今度はお握りに手を伸ばした。

「うちねのおかさんが作る玉子焼きは塩辛いだけだで。干物や漬物も塩辛いし。漁師の家は忙してな、薄い味付けでゆっくり煮付けるような料理出来へんき、濃い味付けで早よ作るいうて、おかさん、言うとった。だき、煮魚食べる時、中が未だ生煮えだったりしてな」

「ふーん。そうなんだ。ねえ、健太くん。前から想うとったけど、学校でお弁当、時々交換せへん?私、何時もウィンナーかソーセージと玉子焼きばっかりで、魚食べたいが。健太君達のお弁当のおかず、何時も魚でしょ?私が自分でお弁当作った時は健太君に食べて欲しいき、私の方から言うが」

扶美が言い終わる前に、恥ずかしそうに俯いた。

それは健太にとって、二重の嬉しい提案だった。

「おお、良いで。そがしよか。何時でも良いき、言えや」

扶美の作った弁当が食べられるし、朝昼晩の魚攻めから開放される。

また同級生の眼の前でそんな事したらからかわれるのは判っていたが、周囲の皆に一層扶美との初恋を認めてもらえるとも考え、心が弾んだ。

また夏祭りの時同級生が言ったように、農村の子達は魚を、漁師町の子達はハムやソーセージ、玉子焼きなどを食べたいのは当然だったから、自分達だけでなく、皆で弁当を交換し合ったら良いとも想った。

武と浩子、洋二と和子も弁当の交換から、初恋が進展するかも知れない。

「うん。そうするき」

扶美は健太の同意を心から喜びながら、水筒のキャップにお茶を注いで健太に差し出した。

震える手で水筒のキャップを取り、先程扶美が口を付けた処に口を付けてお茶を飲んだ。

《扶美が口付けたとこだが》

緊張して喉にお茶が詰まりそうになった。

扶美の様子を盗み見すると、気が付かないのか意識していないのか、扶美は遠くの景色を眺めながらおにぎりを食べていた。

健太はほっとして、次のおにぎりをぱく付き、もう一方の手指で玉子焼きとウィンナーソーセージを一度に持ち、口に放り込んだ。

扶美がそんな健太の様子を伺いながら、楽しそうに微笑み、おにぎりを上品に口にする。

間もなく、健太は、そんなに沢山食べた訳ではないのにお腹が充ちて来たのに気付いた。

《なしてだろか?そがに食べとらんに》

扶美と初めて二人っきりで、お昼を食べる事に胸が一杯で、食が進まなくなっているのが判らなかったのだ。

扶美もまた、嬉しさと緊張のせいで、余り食べてはいなかった。

二人分のお弁当の三分の一くらいが残っていたが、健太は扶美と扶美の母が心を込めて作ってくれた弁当を残したくなくて、最後まで詰め込んだ。

「美味かったで」

「私も、健太君と、初めて、二人っきりで食べたき、こがな美味しいお弁当初めてだが」

扶美は健太の顔を見ずに俯いたまま、つぶやくように言った。

扶美のてらいのない告白のような言葉に対して、健太は応えを失っていた。

最近の扶美は、健太に対する想いをあからさまに言葉や行動で現して来るように感じていた。

健太はそれに気付いてはいたものの、気恥ずかしくて、気の利いた応えが出来ない自分を、その度に悔いていた。


空になった弁当をリュックに収め、二人で頂上から少し下った森の中を散策する。

「あっ、健太君、アケビの実が一杯なっとる」

芙美の声に振り返り、指差した方を見上げると、熟れて口を開いたアケビが鈴なりに実っていた。

「うん。珍しないで。今の時期。採ったろか?」

「でも高いから手が届かへんでしょう?」

「木に登ったら採れるがな」

健太は傍の木の幹に掴まってするすると登って行き、その木に巻き付いているアケビの弦を引っ張って、そのまま扶美が立っている小道目掛けて跳び下りる。

「きゃーっ!あ、危ないっ!」

扶美の悲鳴が聴こえた。

「世話ないわい。ほら」

顔を両手で覆った扶美が健太の声に、恐る恐る手を離した。

扶美の清楚な顔が恐怖に歪み、澄んだ瞳がうっすらと潤んでいた。

「す、すまん。び、びっくりさせて」

「ほ、ほんに怖かったんよ。け、健太君が、お、落ちた、想て」

扶美の声が震えていた。

「すまん。そいでもな、これくらいの高さなら、皆するで。ほら、アケビ、家に持って帰れや」

健太は形の良いアケビを弦から一〇個程もぎ取って弁当のバッグに放り込んだ。

「う、うん、あ、ありがとう。健太君のは?」

「わしは、欲しなったら、何時でも採りに来れるき。全部お前、持って帰れや」

グミの実や椎の実、栗の実を採って二人で食べ、綺麗なのをリュックのポケットに入れながら、尚も森の中を歩く。

健太は尿意を催していた。

恐らく扶美も同様ではないかと感じた。

「しょ、小便したなったき、そこの木の向こうでするが。お、お前もしたかったら、そっちの笹薮の向こうでせえや」

扶美が清楚な美貌を真っ赤にして、愛らしい唇を震わせ、俯いた。

やはり口には出さなかったが、扶美も我慢していたのだ。

「山に入る時は、男も女子も一緒だきな。家まで帰られへんしな。お前が済んだら声出せや」

健太は少し離れた処の木陰で用を足し、しばらく扶美の気配を伺った。

「け、健太君っ。も、もう良いよっ」

さっきの処まで戻ったのであろう扶美の声が聴こえて、健太は扶美の元に戻った。

扶美が恥ずかしそうに俯いたまま、居心地が悪そうにして立っていた。

「頂上まで戻ろか?」

「うん」

健太が先に歩き出すと、また扶美が後に従った。

頂上まで戻ると、太陽はやや西の空に移ろいかけていた。

「気持ち良いが。太陽と、空と、海と、大地が、全部、私と健太君、二人だけの物みたいだき」

健太が大の字になって寝転がると、扶美も寄り添うように並んで寝転がりながら言った。

扶美のその言葉は、健太が夏に何時も、海の底での独り遊びに興じている時に感じている、そのままであった。

そしてそれは、扶美の、健太への初恋の告白のように想えた。

健太は、その扶美の想いに応えなければ、と想った。

「わ、わしもな、独りで海の底に潜った時、何時もそがに想う事があるで」

「本当に?一緒だね?」

《扶美が好きだ》

今までは漠然としていた扶美への初恋が、自分の心の中で、文字となって明確に立ち上がった。

胸の鼓動が高まった。

傍で並んで仰向けになっている扶美に聴こえそうな気がする程大きくなった。

手を伸ばせば、扶美の顔にも、髪にも、手にも触れられる。

《「好きだ」いうて、言えや》

《キスせえや》

武と洋二の顔が脳裏に浮かんだ。

《やっぱり、出来へん。未だ良いが。やり方も判らへんし》

健太は、二人の顔を打ち消して上半身を起こした。

「お前の家、お寺さんだが。お前一番上だろが?お前が跡継ぐだか?」

扶美も上半身を起こして、夏祭りの日に砂浜でしたように、海に向かってはすかいに座った。

「そがな話、一回もした事ないが。どのみち、私、お坊さんも尼さんも嫌だき」

扶美が話す途中で健太から視線を逸らして、怒ったようにつんと顔を上向けた。

屈託のない笑顔も愛くるしいが、そんなだだっ子のような扶美も可愛らしいと想った。

「嫌、言うても、跡取りがおらんかったら、困るだろが?」

健太は、扶美の機嫌を損ねないようにやんわりと尋ねた。

「家は困るかも知れんけど、私は嫌だき。私は、高校を出て音楽大学に行って、ピアノの先生になりたいが。でなければ」

 扶美が急に健太に真顔を向けた。

 「す、好きな人の、お、お嫁さんになりたい」

 扶美は、健太に訴えるように健太を見つめ、しかし自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと言葉をかみ締めてから、すぐに慌てて俯いた。

健太は、生まれて初めて女性から、それも大好きな扶美から告白されたような気がして、跳び上がるほど嬉しくなった。

そしてそれに応えられるような言葉を必死で探したが、頭が真っ白になって出来なくなり、また扶美の視線に気圧されて眼を逸らした。

ただ心の隅で、もしかしたら、自分に対して言っているとは限らないような気もしていた。

「そ、そら、お、お前、す、好きな人の嫁じょになるんが、一番だが」

健太は、声が上ずって震えているのを感じて、恥ずかしくなった。

「そ、そうでしょう?私、好きな人のお嫁さんになるの」

扶美が、そんな健太の煮え切らない態度に怒ったように、再び健太からぷいっと顔を背けた。

健太は、扶美に「貴方のお嫁さんになりたい」と言って欲しかったし、「わしの嫁じょになれ」と言いたかったが、勿論それは求めても未だ得られるものではなかったし、また求められるものでもないように思えた。

「寒なって来たき、いのや」

しばらくの重い沈黙の後、健太は立ち上がってズボンのお尻をはたいた。

「うん」

扶美もそれまでの会話を忘れたかのように返事して立ち上がり、スラックスのお尻をはたいた。

無言で山道を下る。

二人の心に「帰りたくない」「帰したくない」の想いが膨らみ、足取りが重くなっていた。

沈み行く夕陽を眺めながら山道を下る、二人の顔は夕焼けに映えて真っ赤に染まった。

バス停に辿り着いた頃には、夕陽は水平線に沈み、辺りは夜の帳が立ち込め始めていた。

「魚。世話なかったな?」

自転車のかごに放置していた干し魚の新聞紙の包みに異常はなかった。

「うん。健太君。ありがとう。嬉しかったが。また誘って良い?」

「何時でも良いで。気付けて帰れや」

自分も嬉しかった、という言葉が喉から出掛かったが、飲み込んでしまった。

「うん。さいなら」

扶美は屈託なく微笑むと自転車に跨って去って行った。

健太は、先程の扶美との遣り取りを想い出しながら、自転車が夕焼けに燃える曲がり角に消えるまでずっと見送った。


翌朝、海神様の境内の角で何時も待ち合わせる二人がにやにやしながら近付いて来た。

「けーんたくん。昨日は何をしたのかな?キスは出来たのかな?」

「愛する扶美ちゃんに告白はしたのかね?」

健太は二人が傍に来ると、さっさと歩き始めた。

「うーん。した、言うたら、したし、しとらん、言うたら、しとらんが」

健太は、わざと思い悩むようなふりをして、首を傾げて腕組みした。

「お、おい、それ、どがな意味だか?」

「い、いきなり、て、哲学的な発言をするね。朝から。君は」

二人が追いかけて来て、両側から健太をせっついた。

「あれか何と表現したら良いのだろうね?若い君達には理解出来ないだろうがねえ」

健太はもったいぶって、二人をからかった。

「ど、どがな事した?」

「な、何っ?そ、それっ」

健太は立ち止まって、真剣な表情を二人に見せた。

「良いで、教えたるき。わいちゃ、絶対、誰にも言わへんか?」

「うんっ。内緒にする」

「絶対、言わへん」

二人が真剣に頷いて、健太の顔を覗き込んだ。

「ばらしたら、武、お前が四年生の時、うちねに泊まって、わしの布団の中で、寝小便した事学校でばらすきな」

「わ、判ったっ、ぜ、絶対内緒にする」

「洋二。お前が、仏壇の引き出しから一〇〇円くすねて、アイスクリーム買うたの、親にばらすきな」

「う、うん、絶対しゃべらへんてや」

「では、未熟な君達にお教えしよう。あのな。扶美がコップ忘れて来てな、一つの水筒のキャップで口付けて、お茶飲んだき、キスしたようなもんだろが」

「キャイーン。こ、この男は、な、なんちゅううらやましい事をっ」

「この、すけべ男がっ」

「いってーっ」

二人が健太の背中を思いっきり叩いて走り出した。

「こ、こらっ、ぜ、絶対しゃべるなよっ」

健太は二人の後を追いかけた。


四日程経った昼休み、扶美が何時もとは違い、整った顔を曇らせたまま、健太に近付いて来た。

「健太君、あ、あのね」

「おお。何が?」

「あの日もろた、沖イワシの干物ね」

「どがしたかの?」

「お母ちゃんに、健太君からもろたって言うたの。そしたら、お母ちゃん、健太君のお母さんに一昨日、丁度学校の給仕当番で一緒になったき、お礼を言うたらね。健太君のお母さん、訳を知らんき、《何の話ですかいな?》って訊かれたで、お母ちゃん、話したんだって。私と健太君がお弁当持ってはげ山に行った事」

「う、うそっ。な、なんちゅう、恐ろしい事をっ」

健太は驚き、しかし、驚いたのをごまかすように冗談めかした。

「一昨日の夜も昨日も、おかさん、何にも言わへんかったし、変な顔もしとらへんかったで」

《おかさん、知っとって、わしが恥ずかしがる思て、知らん顔してごいとる》

母の、大人の思いやりが、少し解ったような気がした。

「ごめんね。口止めしとけば良かったね」

「良いが。悪い事した訳だないし。最初ごまかしたわしが悪いき」

「うん」

授業開始のベルの音で、扶美は席に戻った。

《大人いうて、そがなもんかいな?》

そう理解したものの、今夜家に帰って母と顔を合わせるのが恥ずかしい健太であった。


短い秋が駆け足で過ぎ、厳しい風雪の続く日本海の長い冬が来る。

一月に一〇日も凪ぎの日がなく、漁師にとっては、漁に出たくても出られず、苦悶の日々が続く。

雪交じりの強風が古い家を揺らし、音を立てる。

外に出ると呼吸も満足に出来なくなる程である。

冬休みに入り、正月も迫って来た二七日、二八日頃、何処の家でも餅つきをする。

前夜から餅米を洗い研ぎ、水に浸して置いて翌朝につく。

大阪でアパートの独り住まいをしている兄は勿論、姉も結婚して団地に住んでいたので餅つきは出来ず、毎年正月に帰省した際に持ち帰っていた。

何処の家でも、家族数にも拠るが、約一月分、大抵一五升から二〇升はつく。

一臼が一升である。

健太の家も、今年も一五升つく事になった。

「わし、今年、一人で全部つくき、じいちゃんもおとさんも寝とって良いでな」

健太は、昨年一〇升ついたので、今年は全部つく事にした。

「大きな事言うて、世話ないかいな?」

「おお、じいさんは、煙草しとるき、頼むで」

「ははは。ほんなら、おとさんは丸める役をすらい」

母は子ども扱いしたが、じいちゃんと父は手放しで喜んだ。

二口の釜戸に掛けた蒸籠で蒸したもち米を母が器用に臼に移す。

最初、餅米が飛ばないように全体をゆっくり捏ねる。

時間を掛けると、もち米が冷めて固まってしまうので、速さと器用さが要求される。

「はい。良いで」

粘りが出て来たところで、母が水を付けた手で餅米を叩いて合図を入れる。

杵を左手だけで握り、右手を軽く添えて振りかぶり、遠心力を利用して、振り下ろす瞬間だけ力を入れるのだ。

以前は両手で力一杯杵の取っ手を握り締めて、力任せに振り下ろしていて、すぐに疲れ、手にマメを作っていたが、昨年くらいから要領を会得したのだ。

じいちゃんと父が見守る先で、健太は見事に一五升つき上げて見せた。

その間に、父とじいちゃんが仏前と神棚と船に供える鏡餅を丸め、その後、普通の餅を丸める。

心地良い疲労感に見舞われながら、みぞれ餅とあん入り餅を何個も平らげた。

じいちゃんが神棚に、父が仏壇に、そして母が床の間に鏡餅を供えた。


大晦日、兄と姉の家族が帰省し、家が一気に賑やかになった。

「今年は、わしが一五臼、一人で全部ついたき、わしに感謝して食べなはいよ」

「ほんにや。わしも一〇はついたが、一五はついた事ないで」

「そら、美味かろてや」

兄も姉も、年の離れた弟の成長振りに目を細めた。

夕方から、じいちゃんは夏祭りと同じ儀式をする。

海神様に一升瓶と塩、笹とホンダワラ、鏡餅を風呂敷に包んで持参し、お祓いをしてもらってから船まで行って、お酒を船のあちらこちらに撒いて塩で清め、笹とホンダワラをお神酒に浸して船の隅々までお祓いし、舳先に鏡餅を据える。

健太も毎年じいちゃんに同行していた。

帰宅すると、年越し蕎麦を皆で食べる。

この地方では、イリコで出汁を取ったシンプルなしょうゆ味で、千切りにしたカマボコ、短冊状に切った薄焼き玉子、削り節、屑海苔、刻みねぎを載せて、蕎麦を食べる。

因みに翌朝、元旦の朝のお雑煮も蕎麦が餅に変わるだけで、出汁も具も全く同じである。

親戚も皆自宅で正月を迎えるので来客はほとんどなく、おせち料理は夏祭りと同じような内容ではあるが、作る量は夏祭りほどではない。

お年玉をもらい、一〇時を過ぎてから町の駄菓子屋や万屋に出掛けると、町中の子供達が集まって、おもちゃやお菓子を物色していた。

お菓子や玩具を買って、武や他の同級生と共に洋二の家に行く。

洋二の家は分家で、比較的新しく建てたので、洋二専用の部屋があった。

最近は、皆そこに集まるようになっていた。

途中で昼食を採りに帰ってまた戻り、日暮れまでトランプや将棋をしたり、マンガを読んだりして過ごす。

また、天気の良い日にははげ山に登り、竹や笹の枝を切って帰り、手作りのおもちゃを作ったりもする。

夏休みに比べると、冬休みはあっと言う間に過ぎる。


三学期が始まった。

時折人目に付くようになった健太と扶美の弁当の交換は、当然のように教室の誰もが知る処となり、町の子と漁師町の子との弁当の交換が日常化されるようになり、さらには健太と扶美の交換を真似て、数組の他の男女の弁当の交換が、初恋の告白を兼ねるようになっていた。

以前焼イモを食べながら打ち明けあった、武と洋二の初恋も順調にスタートしたようであった。


二月三日の節分の日には、「仮屋さん」という、この町の行事があった。

お正月用についた餅の余りを、町中が家族総出で海神様の境内に持参し、境内に焚かれた細長く大きな焚き火の上で焼いて食べ、その年の無病息災を祈念するのだ。

正月に作った餅がなくなると、親しい家から分けてもらったり、わざわざこの行事の為に餅つきをしたりする事もあった。

何処の家庭にも、この行事の為の餅焼きの道具が、家族の人数分用意してある。

五〇センチメートルから一メートル程の竹竿の先に、針金で編んだ直径一〇センチメートル程の円形の「焼き網」を三ヶ所か四ヶ所針金で吊るしただけの物だった。

その「焼き網」のうえに餅を乗せ、焦がさないように焼いて食べるのだ。

神殿内では、前年に不幸があったり、今年厄年を迎えたりして、賽銭を払ってお祓いをしてもらう家もあった。

この行事は、何もない冬の間に町中の人が集まり、夏祭りほどではなかったが、露店も立ち、お正月のお年玉の余りを残しておいて、お菓子や玩具を買ったりして、子供達もそれなりに楽しんだ。


二月のある土曜日の朝、授業前に扶美が健太に近寄って来た。

「明日、家に来られない?私の誕生日なの。それで母が、健太君を一度、我が家に招待したらって」

扶美が、珍しくすまし顔で、「お母ちゃん」とは言わずに「母」と言った。

「おお、行っても良いなら、良いで」

「うん。じゃあ、明日、待ってるね」

扶美が、自分の誕生日の招待に健太が応じたのを喜んで、健太が初めて見る程の満面の微笑みを浮かべた。

だが安請け合いしたものの、扶美が自分の席に戻る後姿を眺めながら、健太は悩んだ。

お誕生日会というのがあって、親しい友人同士で、誕生日に呼んだり呼ばれたりし、プレゼントを持参して、ケーキやご馳走を食べて祝う、というのをマンガなどで読み知ってはいたが、女の子の誕生日どころか、武や洋二の誕生日にさえ、勿論行った事がなかったし、自分の誕生日に友達を招いた事もなかったのだ。

《プレゼント持って行かないけんがな。何が良いだろか?女子が喜ぶ言うたら?何買うたら良いか判らへんが。変なもん買うて持って行って、がっかりされるのも嫌だし。今から市まで買いに行かれへんし。駄菓子屋や万屋に売っとるもん、いうても子供の玩具だし。まさか沖イワシの干物もなあ》

健太は頭を抱えた。

武や洋二に相談したかったが、今回に限って地獄耳の二人には聞かれなかったのだ。

また、改まって彼らに相談しても、二人にこんな場合のアイディアがあるとも想えなかった。

翌日、朝食を終え、新品のジャンバーに着替えて出掛けようとする健太の姿が、台所にいた母の眼に留まった。

普段は兄のお下がりばかり着ていたが、このジャンバーは、昨年の冬、父がボーナスで買ってくれた物だった。

「何処に行くだかな?この雪ん中を」

《あちゃっ。見つかったが》

「あ、遊びに行くき。ちゅ、昼飯要らんきな」

既に降り止んではいたが、昨日の夕方から早朝に掛けて半日以上も降り続けたせいで、前の路地には一〇センチメートル程も雪が積もっていた。

健太は、ぎこちない返事をした。

「扶美ちゃんの処に行くなら、沖イワシの干物を持って行ってあげ」

母が洗い物で濡れた手を前掛けで拭きながら、納屋の方に向かった。

図星を付かれて健太は立ちすくんだ。

《ばれとるがな》

「な、なして、判るかな?」

「そら、判るがな。じげの友達の処に遊びに行くなら、お前が、そがな格好で行く訳ないがな」

あっけに取られていると、母が、沖イワシと赤モジ、カレイの干物を新聞紙に包み、それをビニールの風呂敷で包んでくれた。

「扶美ちゃんとこは在所のお寺さんで、港に親戚もないき、魚は高て買えへんで、喜んじゃるで。お母さんによろし言うてな。そいと行儀悪い事しなはんなよ。ぶさいくだき」

「わ、判った」

扶美に関して、武や洋二のからかいに慣れた健太に、母のぶっきろぼうな態度は、当然と言えば当然だったが、逆にあっけなく感じられる程だった。

母から干し魚の包を受け取った健太は、恥ずかしさを紛らわせるように急いで家を飛び出した。


雪は既に止んでいた。

海辺は海風が暖かいせいで、少々雪が積もっても数時間で溶けてみぞれ状態になるが、それでも滑らないように気を付けながら自転車を走らせる。

しかし、橋を渡って小学校の前辺りからは、海風が林で遮られ、雪が積もったままで、結局健太は自転車を降りて、引っ張って歩くことにした。

久しぶりに扶美と学校以外で逢える。

初めて扶美の家に、部屋に招待される。

心が弾んだ。

扶美の家は、大きなお寺の門を潜り、本堂の裏手にあった。

「こんにちは。すみません。どがなかな?」

古びたガラス戸をたたきながら声を掛けると、少ししてからガラス戸の向こうに人影が見えた。

「まあまあ。健太君。こんな雪の中を、良うおいでたねえ。扶美ー。健太君が来てくれちゃったよー」

ガラス戸が開いて驚いた顔を見せた扶美の母が二階に向かって声を上げると、勢い良くドアが開く音がして、階段を転がり降りるような足音と共に、扶美が玄関に降りて来た。

「こ、こんな雪だし、き、来てくれへん、想うた」

扶美の目が赤く腫れていて、瞳が潤んでいた。

「さっきね、泣いとったんよ。大雪で、健太君が来てくれへん、言うて」

「お母ちゃんっ。い、言わんといてっ」

「大雪言うても、は、雪降っとらへんし。約束したき」

芙美が恥ずかしさを隠すように、健太に手招きした。

「ああ、ありがとう。さ、寒かったでしょ?は、早う上がって」

「ああ、お、おばさん。こ、これ、お、おかさんが、持って行け、言うて、魚干したやつ」

健太は、母が濡れないように新聞紙の上からビニールで包んでくれた干物を差し出した。

「ああ、おおきに。冬は特に魚が高値だから助かるわ。この前も戴いて。あらっ。そうだわ。この前はごめんなさいね。二人のデートをお母さんにばらしちゃって」

扶美の母が大人の女性とは思えないほど茶目っ気のある悪戯っぽい表情で笑った。

「ああ、い、いいえっ」

扶美の母があっけらかんと「デート」などと言ったのに驚いた。

健太の母は、まず絶対言わないだろうし、そんな言葉を知っているようにも想えなかった。

二階の芙美の部屋に案内される。

炬燵を勧められ、遠慮なく足を伸ばすと、扶美が運んで来たポットからお湯を注いで、良い香りの紅茶を入れてくれた。

部屋の隅に置かれたゲージに、白いウサギが一匹いて、ケージの桟に前足を掛け、伸びをするようにして、新参者の健太を見ていた。

顔や仕草が何となく扶美に似ているような気がして、ふっとおかしくなった。

「け、健太君。ほんにありがとう。来てくれて」

「う、うん。わ、わしも、お、お前の家に来たかったし」

精一杯の勇気を出してそう言うと、扶美の瞳が再び少し潤んだような気がした。

「ゆっくりして行って?何もないけど。お腹空いたでしょう?」

扶美のお母さんが、湯気の立ち昇るオムライスを二皿運んで来て、炬燵の上に並べた。

「すっごいっ。オムライスだが!」

「健太くんのは少し大きめにしたわよ。沢山食べて。足りなかったら、すぐに作れるし」

「四年生の時、家族で市内の食堂に行った時に生まれて初めて食べたが、ほんに美味かったきなあ。戴きますっ」

 「私も、戴きます」

 二人でスプーンを取り上げ、食べ始めると、芙美の母が紅茶のお代わりを入れてくれてから、部屋を出て行った。

 「美味いなあ。お前のおかさん、料理が上手だな」

 「私ね、お母ちゃんに、料理教えてもろとるんよ。カレーとかハンバーグとか」

 「へえっ。すごいなあ」

 「今度、お弁当にして持って行くが。カレーは無理だけど、ドライ カレーいうてカレー味の炒めご飯みたいなのがあるし、ハンバーグも作れるようになったき」

 「おお、頼むで」

会話も食事も弾む二人であった。

食べ終わった頃、母が可愛らしい小皿に乗せたイチゴのショートケーキと、ガラスの器にイチゴジャムを溶かしたアイスクリームを二つずつ運んで来た。

「オムライス。めちゃくちゃ美味かったです」

「やっぱり男の子は沢山食べるき、気持ち良いが。うちねは女の子ばかりだから健太君みたいな男の子供が欲しかったが」

《うちねのおかさんと大違いだが》

扶美の母は、健太の母よりも随分若く、扶美の母らしく美人で、かいま見た手指も細く、美しかったし、言葉も標準語に近かった。

「わ、わし、誕生日なんかに、呼ばれた事なんか一回もないし、何して良いか判らへんし、ただ、遊びに来ました」

「気遣わんでも良いきね。去年まで、近所の女の子の同級生がお祝いに来てくれとったに、この子が急に《今年は健太君だけ呼ぶ》って言い出したんよ」

《あれっ?昨日の扶美の話だ、お母さんが、わしを呼んだら、言うた、言うて》

扶美を見ると、扶美が健太の視線に気付いて、慌てて口を開いた。

「だ、だって、もう来年は中学生だし、お子様ごっこは卒業したかったき。け、健太君、遠慮しないで食べてね。ケーキの後は特製アイスクリーム」

「特製アイスクリーム?ああ、ケーキ美味しいです。ほんに誕生日しか食べた事がないき」

「これが特製アイスクリーム。裏庭に積もった雪を掬って、お砂糖と牛乳を掛けてイチゴジャムを混ぜてかき回したのよ。お母ちゃんのアイディア。やっぱりほんに美味いが」

「ああ、これも美味いです。こがなん食べた事なかったき」

健太は、そのめったに口に出来ないケーキとアイスクリームを、手を休める事もなく食べた。

「雪さえ降れば簡単に作れるし、安上がりだし、美味いよね。ゆっくりして行ってね」

母が優しい微笑みを湛えながら部屋を出て行った。

一息付いて初めて芙美の部屋の中を見回す。

女性を意識して以来、女性の部屋に入ったのは初めてであった。

「女子の部屋に入るの、初めてだが。わし、自分の部屋も無いし」

洋二の姉の部屋を開いたドア越しにかいま見た事があったが、勿論洋二の姉よりずっと年下の芙美の部屋はそれより地味なように想えたが、淡いピンクのカバーの掛かったベッド、人形や写真立てなど囲まれた勉強机とピアノ、本箱もシールやぬいぐるみで飾られていて、愛らしかった。

部屋全体に、扶美の髪から漂って来るシャンプーの匂いのような香りがした。

そんな芙美の部屋に自分がいる事が急に照れ臭くなった健太は、想い出したようにポケットからプレゼントを取り出して、ぶっきらぼうに炬燵の上に置いた。

「あ、あのな、こ、これっ。こがなもんしか、想い付かんかったき」

昨晩ずっと考え抜いた結果だった。

「わあ、きれい!」

嫁いだ姉が残して行った、コルク栓のふたが付いた小さなガラス瓶に、扶美に何時か見せてやったら喜ぶだろうと、海底や波打ち際で拾い集めた、美しい小さな貝殻の欠片や小石を詰めただけの物だったが、扶美は事の外喜んでくれた。

「嬉しい!健太君、ありがとう!」

扶美は長い事、蛍光灯の灯りに小瓶を透かして、揺すったり逆さにしたり、回したりした。

「誰からのよりも、何よりも嬉しい。健太君がくれた生まれて初めてのプレゼント。私に。世界中でたった一つの。一生宝物にするき」

扶美は小瓶を、本当に宝物を扱うように両手で持ち、勉強机の一番正面に置いた。

「そがなもんで良かったら、海や砂浜でなんぼでも採れるがな」

「私でも採れるね。岬の南の海岸で。そうだ。来年の夏、貝殻や石の欠片を集めて絵を描くき」

「へえ。そがな事出来るかや?面白げなな?」

「絶対楽しいで。出来たら健太君に一番に見せるき。ううん。健太君の誕生日のプレゼントにするね。世界中で一つしかない、私の作った絵」

「う、うん」

何気ない学校での話、友人の話題、会話の途切れる度に胸がときめく沈黙。

扶美との楽しいひと時はあっという間に過ぎる。

「は、そろそろいぬき」

「ああ、は、外が暗いが。また遊びに来てね。絶対」

「お、おう」

立ち上がった健太に扶美が寄り添うように立ち上がった。

一瞬、あの夏祭りのひと時、あのはげ山でのひと時が脳裏を過ぎった。

手を伸ばすだけで扶美に触れられる、そんな余りの近さに健太が困惑していると、階下から扶美の母の声がした。

「健太君。日が暮れんうちに帰らんといけんで。危ないきな」

「は、はい。そのつもりで、は、いぬるきな」

もっとそのままでいたい気持ちと、救われたような気持ちが交錯したまま、健太は部屋のドアの方に向かい、扶美が後に従った。

「お母さんに、これ、もらい物ですけどって、渡して」

扶美の母が、お菓子の詰め合わせであろう、きれいに包装した箱を紙袋に入れて健太に手渡した。

「おおきに。戴きます」

健太は、見送りに出た扶美と母に無言で会釈して、自転車にまたがり、曲がり角の手前で振り返ると、二人が手を振った。

道路に積もった雪は、大分溶けかかっていた。

雪が溶けた路面を走る自転車のタイヤが何度もスリップしそうになるのをコントロールしながら、先刻の芙美の嬉しそうな表情を想い出し、後ろ髪を引かれる想いになる。

吐く息が白く立ち上った。


「昨日は来てくれてありがとう」

翌日の放課後、学校の玄関口で靴を履き替えていると、少し離れた処から扶美が声を掛けた。

「あ、ああ、」

《大きな声で言うなや》

「お母ちゃんが、健太君って良い子だねって」

「お、おう。またな」

健太は照れ臭くなり、また嫌な予感もあったので、扶美を振り返りもせずに歩き始めると、武と洋二がいきなり後ろから健太に抱き付いた。

「誰が何処に来てくれて、ありがとう、なのかな?」

「誰が良い子だって、誰が言うたてて?」

《あちっ。こいつら、神出鬼没だがな。ほんに》

「内緒だき。言われへん」

健太は、二人を振り切って、雪解けの水溜りがそこここに残る校庭を駆け出した。

ゴムの長靴の音と水溜りが跳ねる音が走る度に鳴った。

武と洋二のの長靴の音が健太の背後に迫った。

「わしらの間で隠し事は止めよや。なあ、良い子の健太くーん」

「名探偵の洋二君をごまかせると思ってるのかね?君は。あさはかな?あれっ?あか、あかさかな?いや、あさかかな?」

「はい、はい。参りました。昨日、扶美の誕生日でな」

健太は二人のしつこさに諦めて、走るのを止めた。

「お前、扶美ちゃんの家に遊びに行っただか?何したかの?」

校庭の隅の方は、未だ雪が溶けておらず、処々みぞれのようになっていたり、凍っていたりしていて、三人は滑らないように小足になった。

「何もしとらへん。話しとっただけだき」

「ふーん。扶美ちゃんのお母さんと三人で、婿養子になってお寺を継ぐ相談でもしたかね?」

「か、かばちたれるなや。ふ、普通の話だが。おお、後でうちねに来いや。良いもん食わしたるき」

「何だか?」

「何をや?」

「後でな」


健太が宿題と書き取りを終えた頃、武と洋二がやって来た。

「おかさん。砂糖と牛乳、もらうきな」

健太は玄関先に二人を待たせて、納戸で裁縫台に向かっている母に声を掛けた。

「一杯使いなはんなよ」

「判っとるがな」

イチゴジャムなど食料品店に売っているのを見ただけで、パンやショートケーキに入っている場合以外食べた事もなかった。

健太は、そのまま台所に行って、丼に牛乳を半分くらい入れ、砂糖を適当に放り込み、二人を促して表の露地に出た。

家の北側に、全く解けていない雪が積もっている。

健太はそれを適当に手で掬って丼に放り込み、持って来たスプーンでこづいてかき混ぜた。

昨日食べた程度の硬さになるまで雪を掬っては混ぜ、一口食べてみる。

「うん。やっぱり美味いが。ほら、食ってみや」

武に丼とスプーンを手渡すと、武が慌てて口に放り込んだ。

「わっ。何だ?これ?めちゃめちゃ美味いが。アイスクリームみたげだが」

「どらどら。わしも。おお、これは名探偵も初めて食する味だ」

三人は交互に丼を回しながら、あっと言う間に空っぽになった。

「これをな、昨日、扶美の家でよばれただがな」

「ほほう。さぞ、楽しかっただろうね?これがいわゆる、初恋の味というものだ。若い君には解らないだろうがね」

「そいで、キ、キスは?し、したか?」

「せえへんてや。そがな事。未だ、早いし」

健太は、しかし、昨日帰りがけに、扶美が寄り添って立った時、しようと思えば出来たかも知れないと、一瞬想った。

また、扶美はそれを拒まないだろうとも想った。

「また、そのうちにな」

健太は、半分後悔している自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


田んぼや小川に氷の欠片がなくなって温み、あぜ道に霜柱が立たなくなる穏やかな季節になって、健太達は中学に入学した。

町に小学校も中学校も一つ、一学年四〇人程が一クラス、同じ小学校の同級生がそのまま中学に入るので、顔ぶれは小学校一年生の時から全く同じである。

春は春で、自然の中で子供達は遊ぶ。

天気の穏やかな日は、漁業組合の裏手の磯に出掛け、冬の間に誰も採っていない海苔を皆で採って分け合い、家に持って帰って、吸い物に入れたり、佃煮にしたり、干したりしてご飯に掛けて食べる。

海が時化の日は、女の子達は、畑でレンゲの花や、クローバーの葉で首飾りや王冠を作って遊び、男の子達ははげ山に入り、木や竹や笹で玩具を作ったり、トリモチを短く切った細い竹に塗って椿の木の枝に仕掛け、ウグイスやメジロを獲り、市内のペットショップに売りに行ったりする。

小鳥は一羽五〇円くらいで買ってくれた。

トリモチとは、山の中に生えているモチの木の樹皮をナイフで剥ぎ、滲み出た樹液を採取して持ち帰り、乾燥させないように水に浸して置いて、時折出してこね上げ、また水に浸けて置く。

それを何度か繰り返すうちに、強力な粘着性を帯びて来るのだ。

健太はトリモチの仕掛け処が巧く、毎年二、三羽獲った。

午前中に仕掛けて帰り、昼飯を食べてから見に行き、掛かってなければ、夕方まではげ山で釣り竿や竹とんぼ、竹鉄砲を作ったりして遊び、夕方家に帰る頃、もう一度確かめに行く。

年上の子にも褒められたが、健太は、トリモチを仕掛ける場所を決めるのに、サザエやアワビやタコが、何時も同じ場所に潜んでいるのと同じような感覚を抱いていた。

美味しいえさがある。

隠れ易い。

逃げ易い。

動物がそんな処を好むのを、健太は素潜りの経験で感じていた。

また家の前の露地にレンガで仕掛けを作り、米や麦を周辺に播いてスズメを捕獲する。

スズメは、漁師達の行き付けの焼鳥屋さんが一羽一〇円で買ってくれた。

田んぼや砂浜で野球をしたり、積んであるわら束の山の中で相撲をしたりする。

また日曜日など、前日から声を掛け合って置き、町中の小学生達のほとんどが集まる「たんてん」という、町全体を使っての大掛かりな遊びもあった。

集まった子供達を最年長者が相談して力関係が均一になるように、二組に分ける。

大抵は男の子達だけの遊びだったが、女の子も時折参加していた。

一組は逃げ隠れ、もう一組が探し捕まえる。

逃げ隠れる方は町の境界の中であれば、何処に隠れても良かった。

漁業組合の倉庫、網置き場、市場の二階の物置、底曳船のガソリン缶置き場から自宅は勿論、親戚の家、友人の家など、何処に隠れても良かったし、「たんてんしとるき」と言えば、何処の家にも出入り自由で、家捜しも自由であった。

洋二は小学三年の時、祖父母の家の押入れに隠れ、そのまま眠り込んで行方知れずになり、大騒ぎを起こした事があった。

陣地を決めて置き、掴まった捕虜は陣地に拘束される。

捕虜が増えたり、重要な味方が掴まったりすると、この遊びの醍醐味である救出劇が始まる。

数人で作戦を立てて敵陣を襲い、捕虜の誰かに味方が手を触れるだけで解放されるのだ。

知恵を使って、囮を作ったり、攻撃本隊とは別に隠密部隊を作ったりして、救出計画を実行する。

捕獲する側は交代で陣地を守るが、救出する方も防ぐ方も子供達の責任は重大で、捕虜を逃がし、逆に失敗して掴まり、泣き出す子供達もいた。

たんてんの他に、「特攻隊」「エスの字」など相撲を基礎にしたような遊びが沢山あったが、擦り傷を作ったり、軽い捻挫をしたり、時には過って骨折したり脱臼したりする事はあっても、やはり年長者は年少者に対して、体力に優る者は劣る者に、力を加減するのが常識であった。

休みの日、朝から夕方まで費やすこれらの遊びは、季節には関係なく一年を通しての遊びだったが、やはり代々子供達が受け継いで来た遊びだった。


六月というと暦の上での行事らしい行事は何もないが、「泥落とし」という、行事とは言えないまでも、この地方の風習があった。

田植えが終わる時季、田植えで脚に塗れた田んぼの泥を落とす、という意味合いの名称で、植えた稲が豊作になるようにとの祈念なのであろう、小豆を一晩甘く煮込んだ中に、小麦粉を団子状や太い麺状に練った物を炊き込んだ「煮流し」というぜんざいに似た料理を食べる。

これは必ずしも、実際に田植えをする農家だけでなく、一般の家庭でもしており、また稲刈りが終わる時季にもする場合もあり、普段からおやつのない子供達にとっては、大層なご馳走であった。


「健太。川尻にウナギ獲りに行かんか?」

もうすぐ夏休みを迎える、梅雨明けのからっと晴れた日曜日の昼食後、玄関先で洋二の声がした。

「おお、行こや。すぐ出るき」

健太は、急いで海水パンツに履き替え、背戸の物置に走って、ウナギ釣りの道具と魚籠を手にすると、家を飛び出した。

二人で武の家に行って、武も誘い、川尻に向かう。

川尻は護岸工事によって石垣が積まれており、天気で水量の少ない日は深さが膝程しかない川に入り、その石と石の間に出来る穴に潜むウナギを「穴釣り」という釣り方で獲る。

一メートル程のテグスの先に釣り針を付け、餌はミミズでも昆虫でも何でも良かった。

太さ一センチメートル、長さ五〇センチメートル程の竹竿の先に餌を付けた針の尾尻を引っ掛け、その先端を、ウナギが潜んでいそうな穴に挿し込む。

貪欲なウナギは、穴に潜んでいれば、すぐに釣れた。

久し振りのウナギ釣りの収穫は、健太と洋二が二匹、武が三匹であった。

その夜の夕食は、勿論美味しいウナギの蒲焼であった。


そしてめくるめく光に包まれた幸せな夏休みが訪れた。

武と洋二は、中学を卒業する前からの訓練だと言い、夏休みの初めから親と共に底曳漁に出た。

自分を置いて、どんどん大人の世界に入って行く二人をうらやみ、進路に迷う中途半端な自分を持て余しながらも、健太は、今はこれしかないと自分に言い聴かせ、ただ独りで沖の瀬に潜る。

波打ち際に立ち、陽光に煌めく真っ青な海に脚を浸けたとたんに、去年体験した恐怖が甦る。

しかし健太はやはり海で生まれ、海で育った少年だった。

勢い良く海水を掬って顔を洗い、全身に海水を掛けてから一気に跳び込むと、嬉しさが込み上げて来る。

健太が去年の夏の終わりに海に戒められてから一年経ち、海はまた、一年間成長した健太の身体と想いを受け止めてくれた。

沖の瀬ではサザエもアワビも去年と同じ程の漁があり、年々漁獲高が落ちている事に対する、潜る前の不安を消してくれた。

しかし、やはり盆を過ぎてからの沖の瀬は、昨年同様潮の流れがひどくきつくなっていて、健太は時折襲われる恐怖と戦い、細心の注意を怠らなかった。

そして去年以前程ではないが、それなりに幸せな日々を満喫した夏が終わり、秋が訪れ、夏のイカ釣り漁が終わる九月末の事だった。


「は、みがらも言う事利かんし、漁がいっと減って、燃料代も出んよなったき」

じいちゃんが船を降り、さかいのおじいさんも「独りだ、無理だき」と言って漁を辞めた。

それは、じいちゃんが何時も何時までも、強く大きく輝いて見えた健太には、ひどくショッキングな出来事だった。

じいちゃんは、母やばあちゃんと畑仕事をし、健太と本家の船の手伝いに出るだけで、他に何をするでもなく、指定席の上がり口に座ってラジオを聴いたり、テレビを見たり、裏木戸で海を眺めて過ごしたり、誰かがお茶を飲みに来た時に世間話をするだけの生活になった。

大好きな酒も次第に呑む量が減り、そのうち船の手伝いにも出なくなった。

そして時折寝込んだりするようになり、やせ細って小さくなり、正月が明ける頃には、成長し続けていた健太の方が、何時の間にか背丈も伸びて大きくなっていた。

《あのじいちゃんが、年取ると、こがにこまなって、こがに弱げになるだが》

遠い記憶の中、幼い健太が虫歯の痛みに泣いていた時、二キロもある道程の歯医者まで健太をおぶって往復してくれたじいちゃんが。

肩車をされた時、地面から余りに高過ぎて怖かった、あのじいちゃんが。

アルバムに、あぐらをかいたじいちゃんの膝の上に小さく包まれた健太の写真が貼ってある、あのじいちゃんが。

健太は次第に弱々しくなって行くじいちゃんを見るのが怖かったが、それでも時間の許す限りじいちゃんの傍にいたかった。

毎日毎晩のように、真冬の日本海の猛々しい雪交じりの暴風が家を揺らし、海鳴りを響かせた。

布団に横たわるじいちゃんは、健太に気付くと時折、独り言のように、「漁師はしわいき」とだけ言った。

それは「しわいき」漁師にはなるなとも、「しわいき」腹を据えて一生懸命頑張れとも解釈出来て、健太を尚更悩ませた。

「どがでも良いが。お前が自分で決めら、良いてや」

言葉の真意を尋ねる健太に、じいちゃんは何時もそうつぶやいて、眼を閉じて力無く微笑むだけだった。

そしてじいちゃんは、その冬を越して健太が中学二年生になった五月、よほど体力が弱っていたのか、軽い風邪からいきなり重度の肺炎を引き起こし、帰らぬ人となった。


健太が土曜日の午前中の授業を終えて帰ると、係り付けのお医者さんが来ていて、入院させる相談をしていた、その場で、まるで健太の帰宅を待っていたかのように、息を引き取ったのだ。

どんな時でも何があっても、健太には微笑んで優しくしてくれた、大好きなじいちゃんに向かう健太の想いを、じいちゃんは二度と受け止めてくれない人となった。

健太はじいちゃんが横たわった布団にうつ伏して泣いた。

《じいちゃんがおらんよなって、わし、どがしたら良いかな》

勿論じいちゃんは健太の頭を撫でる事も、健太に声を掛ける事もなかった。

じいちゃんの遺体の傍に居たたまれなくなり、無意識に海を眺めようと裏木戸を出る健太の涙眼に、納屋の漬物樽の陰で、人目を避けるようにうずくまって、泣いているばあちゃんの姿が映った。

「あんちゃんが死んだが。あんちゃんが死んだが」

か細く震える、うわ言のような小さなばあちゃんの言葉。

健太は思わず立ち止まって、ばあちゃんの様子を伺った。

一年中、起きてから寝るまで、ほとんど誰とも、何の会話をするでもなく、何の感情も持っていないかのように無言で暮らしているばあちゃんが、周りに誰もいないのに、それでも声を圧し殺して泣いていた。

ばあちゃんは自分が病弱だったせいで、ずっとじいちゃんや健太の父母の世話になっていた。

それをずっと負い目に感じていたから、何時も周りの誰に対しても遠慮し、じいちゃんや父母の言うままに、自分を抑えて生きて来たのだ。

《悲しても苦しても、何か言いたても周りの皆に遠慮して、いっつもあがして我慢しとっただろか。ほんとは皆がおる前ででも、じいちゃんに甘えたかっただないかな。ほんとはじいちゃんにすがり付いて泣きたいだないかな。じいちゃんもばあちゃんが心配で、死んでも死に切れんかっただろにな》

生きる事の苦しみや悲しみがほとばしるような、ばあちゃんの姿だった。

小さな天窓から薄日が差し込むだけの薄暗い納屋で、ばあちゃんの身体が一層はかなくなって、消えてしまいそうに感じた。

健太は想わずばあちゃんの背後に駆け寄り、ばあちゃんの手を取って引っ張った。

「ばあちゃん、じいちゃんのとこに行こ」

涙に塗れたばあちゃんのしわだらけの小さな手を引っ張って、炊事場の土間から座敷に上がり、母とお医者さんが見守るじいちゃんの傍に連れて行った。

ばあちゃんは少しの間じいちゃんを見つめて立ちすくんでいたが、わあっと泣き出してじいちゃんにすがり付いた。

「あんちゃん。あんちゃん。わしを置いて。あんちゃん」

ばあちゃんは、じいちゃんの手を両手で握り締めて、しわくちゃの自分の顔に圧しつけて泣いた。

「健太も人の気持ちが想い遣れるようになったかいな」

お医者さんが微笑みながら健太の頭をくしゃくしゃに撫でた。

健太は新たに溢れた涙を制服の袖でぬぐいながら、小走りに裏木戸へ出た。

海はじいちゃんの死にも拘らず、健太の悲しみにも拘らず、暖かい春の穏やかな陽光を浴び、まぶしく輝く波をたたえて雄大だった。

中学校がある岬のあちらこちらに野生の藤の花が美しく咲き誇っていた。

しかし健太の悲しみと溢れる涙が、美しく輝く海や、瑞々しい新緑を湛えた山々を暗くゆがんだものにし、空も海も砂浜も、区別出来なくさせていた。

近所の誰かが通報したのであろう、漁業組合の拡声器が、じいちゃんの死を町中に知らせた。

海岸通りを歩いていた数人の人達が一斉に脚を止め、健太の家の方を振り返って両手を合わせた。

《海は変わらへん。人間が変わるだけだき》

しばらく海を眺めてから家の中に入ると、葬儀屋さんがやって来ていて、母や隣組のおばさん達の手で、真っ白な装束に着替えさせられたじいちゃんが、白い棺桶に横たえられていた。

《あがに大きかった手がこがにこまなって》

じいちゃんは胸の上で小さくなったしわだらけの赤黒い手を組んで眼を閉じ、少し微笑んでいるような表情で、楽しい夢でも見て眠っているようだった。

急いでやって来た本家のおばあさん、おばさん達が涙を零しながら、じいちゃんの手や顔を撫で擦った。

「ほんに急な事でなあ」

「笑とっちゃるみたげなが」

「良い顔して逝っちゃったが」

「あんた、良い家族に恵まれて、ほんに幸せだったいなあ」

さかいのおじいさんが走ってやって来て、上がり口で向こうずねをぶつけるのも構わず上がり込んで、棺桶の前で立ちすくむと、涙塗れの顔をくしゃくしゃにしたまま、じいちゃんの顔や手を撫でながら無言で肩を震わせた。

本家のおばあさん、おばさん達は、母やばあちゃん、町内の人達と、それぞれの家にある什器などを持ち寄る相談をしながら、御通夜の準備をし始めた。

急いで帰宅した父も、さかいのおじいさん同様、棺桶の前で、じいちゃんの手を握り、顔を見つめ、ずっと無言で棒立ちになっていた。

父の涙が頬を伝って足元に滴った。

《おとさんが泣いとっちゃる》

健太が父の涙を見たのは、生まれて初めてだった。

父の涙を見て、再び健太の眼に涙が溢れた。

ちんばさんも古びた自転車を鳴らしてやって来て、さかいのおじいさんと同じように、上がり口で向こう脛をぶつけたのに、痛いそぶりも見せず、目尻に涙をためてじいちゃんの手や顔を撫で擦り、線香を立てて拝み、独り言のようにつぶやいて肩を震わせた。

「わら、わしより若て、元気だったに、なしてわしより先に逝くかいなあ」

健太にとって怖い印象しかなかったちんばさんでさえ、ひどく弱々しく見えた。

漁業組合からの無線で知ったのであろう、普段の帰港時間よりずっと早く戻って来た本家のおじいさん、おじさん達が漁のいでたちのまま駆け付けた。

「なして、また、急に」

「ほんに、急過ぎるでな」

「こがには早よ、逝かんでも」

ゴムの合羽を玄関にもどかしく脱ぎ捨て、肌着にふんどし姿のまま、転がるように表の間に立った三人は、じいちゃんの死に顔を見つめ、頭や顔や手を撫でながら絶句した。

その夜、皆は表の間の仏壇の前に置かれた棺桶の前に線香立てを置き、線香の煙の立ち昇る中で車座になり、じいちゃんの昔話をしながら、酒を酌み交わした。

父は仏壇のろうそくの火と線香の煙を絶やさないように気遣いながら、時折涙眼でじいちゃんの死に顔を見つめたり、顔や手を擦ったりした。

まもなくお寺さんがやって来て、一頻り棺桶の中のじいちゃんに向かってお辞儀し、手を合わせて念仏を唱えてから仏壇に向かい、木魚を叩きながらお経を唱え始めた。

健太の家で風呂を浴び、おばあさん達が持って来た羽織りに着替えた本家のおじいさんやおじさん達がお寺さんの後ろに正座した父の背後に並んで正座し、数珠を持った手を合わせた。

「明日一〇時から本葬で良いかいな?」

「そいでお願いします」

「明日は日曜だが、役所と火葬場には連絡しちゃったかいな?」

「もう手配しましたき」

「ほんなら明日、九時半頃来ますきな」

お経を終え、父と葬儀の打合わせをしたお寺さんが帰ると、皆は再び酒を呑み始めた。

健太が空になった一升瓶を抱え、お代わりをもらいに台所に行くと、お手伝いに来ている近所の女の人達が、眼を真っ赤にして鼻をすすりながら料理を作っていた。

母もばあちゃんも、割烹着で涙を繰り返し拭い、鼻をすすりながら、何かに耐えて怒っているかのように無言で働いた。

一升瓶を片手に表の間に戻ると、何時も豪快に笑っている本家のおじいさんが、目尻に涙を零して大きな身体を震わせ、棺桶のじいちゃんに向かって声を絞り出すように言った。

「兄貴。わら、未だ早過ぎるてや」

「わしら、未だなんぼでも長生きせんといけん年だに。なしてそがに早よ逝くかいなあ」

さかいのおじいさんも、怒ったように笑い、赤黒い手の甲で何度も涙を拭った。

普段陽気な本家のおじさん達も、無言で冷酒をあおり、涙や鼻水をハンカチで拭った。

夜遅く姉の家族もやって来た。

姉は、じいちゃんの棺桶に抱き付くようにして泣き崩れた。

姉の傍で、幼稚園に入園したばかりの男の子が、母親が泣いている事を悲しんで泣いた。

「お母ちゃん、どうして泣いてるの?」

健太に良く懐いていた、小学校に入学したばかりの姉の娘が、未だ何も解らないのであろう、きょとんとした表情で健太に尋ねた。

「大好きな人が、おらんよなったきな」

健太にはそれだけしか言葉に出来なかった。


港の全ての船が漁を休んだ翌日の葬式でも、参列した威勢の良い漁師達が、眼を真っ赤に腫らして肩を震わせた。

道で出会った時に健太が挨拶すると何時も笑顔で挨拶を返してくれる女の人達も、皆泣いていた。

「また夏祭りで一緒に呑むの、楽しみにしとったになあ」

「去年の祭りだ、あがに元気だったに」

訃報を聴いて駆け付けた母方の親類の男達も、眼を真っ赤にして、怒ったように吐き捨てた。

「いっつも笑とっちゃって。豪快な人だったに」

おばさん達も頻りにハンカチを目頭に宛てた。

《大人は滅多に泣かんだが。あがして悲しても苦しても我慢して、笑とるだが》

健太は再び大人の強さと、生きる事の厳しさを想い知らされたような気がした。

また想いを遺して逝くじいちゃんの悲しみと、想いを遺して逝かせる皆の悲しみが、健太は少しだけ理解出来たような気がした。

「健太がじいさんの良い跡継ぎになるてや」

「おお、健太は良い漁師になるで」

参列した町の漁師達が口々に言うのに、健太はうつむいて、「はい」と小さく応えただけだった。

 武と洋二も、家族と一緒にお線香を立ててくれた。

 二人とも健太の顔を見ても、何を言って良いのか解らなかったのだろう、神妙な表情で健太の前に立ち、無言で、親と一緒に頭を下げただけだった。

 健太も、自分がその立場だったら、同様に言葉が出なかっただろうと感じた。

 彼らもまた、健太同様、物心付いて以来、葬式に参列するなど、初めての経験だった。

 学校の代表としての担任教師と、クラスの代表として学級委員の扶美が連れ立って来た。

 健太は扶美の顔を見たとたん、新たな涙が込み上げて来て必死で堪えたが、溢れる涙を抑えることが出来なかった。

扶美は健太の涙を見て何時もの愛らしい顔を歪め、溢れる涙を何度もハンカチで拭った。

大阪から夜行の急行列車で帰宅し、火葬場に行く前に間に合った兄も、棺桶の中のじいちゃんの手を握り締めたまま、ただ無言で身体を震わせて泣いた。


葬式を終え、初七日、四九日も続けて済ませて少し落ち着き、姉の家族が帰り、兄が大阪に戻る前夜、健太は裏木戸で海を眺めている兄に、自分の気持ちを初めて打ち明けた。

「わし、高校も大学も行きとないが。ここで漁師になりたいが。お前、どが想うかの?」

兄は満天の星々を見上げ、遠くはるかな水平線の漁火を眺めながら、健太に言った。

「わしゃ、長男でこんねの跡取りだき、おとさんやおかさんの面倒を看てあげんといけんでサラリーマンになっただが。お前はそがな事気にせんで想た事を好きなよにすら良いき。おとさんに頼んでもろて、本家の船に乗せてもろて頑張ってみや」

兄は自分の事だけでなく、父母の老後や健太の将来さえ、しっかりと考えていた。

健太は自分が未だ、本当に甘ったれた子供だと認識させられていた。

真っ暗な水平線上に並ぶ無数の漁火が、その中にじいちゃんがいないのだと思うと、ひどく寂しそうに震えて見えた。


じいちゃんのいない新しい生活が始まった。

学校から帰った時、玄関の上がり口で漁具を手入れしているはずのじいちゃんが、食事の時、健太の隣にいるはずのじいちゃんが、夕方縦波止で魚釣りしている時、出漁する船の上で必ず手を振ってくれたじいちゃんが、今はもういなかった。

じいちゃんが乗り組んでいた船は、さかいのおじいさんが売却したようだ。

健太は日々の生活の中で、心から甘えられ、頼る事が出来た人がいなくなった事を、何かに付けて認識させられていた。

そしてじいちゃんが死んで二月、健太はじいちゃんのいない初めての夏を迎えた。

海に、沖の瀬に、大人の世界の厳しさを教えられてから二年、健太は未だ少年の身体付きではあったが、当時と比較にならない程逞しくなっていた。

そしてずっと独りでも、潜ってサザエ獲りを続けていた健太は、沖の瀬の海底の地形を全て記憶し、沖の瀬でも最も深い、一五メートルを超える瀬の淵の、薄暗い砂地まで潜れる程巧みになっていた。

《沖の瀬いうて、こがに浅かったかいな?こがに狭かったかいな?》

それでもやはり、あの日の恐怖を忘れないでいた。

また恐らく一生忘れられないだろうと、健太自身が感じていた。

それなりに幸せな夏を過ごして秋を迎えた健太に、もう一つの異変が起こった。


盆を過ぎた頃から寝込みがちになったばあちゃんが、秋も半ば、じいちゃんの後を追うように、肺炎をこじらせて亡くなったのだ。

《ばあちゃん、可哀想にな。言いたい事やしたい事がいっとあったろにな。何がしたかっただろか?好きな人がおっただろか?楽しい事があっただろか?は、じいちゃんはばあちゃん一人のもんだき、天国で、いっと甘えとくれや》

子供の頃からの、普段の生活の断片でしかなかったが、ばあちゃんとのやり取りが、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。

健太は、子供の頃からずっと、何時もばあちゃんに世話をしてもらっていただけで、自分がばあちゃんに何もしてあげた事がなかったと、今更のように気付いてひどく後悔した。

元々そんなに広い家ではなかったが、じいちゃんとばあちゃんがいなくなって、随分広く感じるようになった。

食事をしている時も、じいちゃんとばあちゃんがいても、それほど話が弾むと言うほどでもなかったが、父母と健太の三人だけの食卓は、広く、また寂しく想えた。

そしてまた一年経ち、一層成長した健太は再び沖の瀬で心身を鍛える、中学生最後の夏を迎えた。

相変わらず恐怖は覚えるが、既に知り尽くした沖の瀬での素潜りや朝晩の釣りに明け暮れたが、未だ進路は決めかねていた。


《ずっと沖の瀬にばっかり潜っとったき、久しぶりに中の瀬に潜ってみよか》

三年間潜らなかった中の瀬で、サザエやアワビが成長し、殖えているかも知れない。

他の子供達も、中の瀬で漁が少ないのを聴いて知っているのだろう、中の瀬にはほとんど潜らず、市場の裏の浅瀬の沖で潜って、漁をしていた。

市場の裏は、直接外海につながっていて、沖の瀬ほどではないが、毎年それなりにサザエやアワビが獲れたのだった。

中の瀬は、沖の瀬の深さになじんだ健太にとって、ひどく物足りなく感じた。

しかし健太が想像した通り、沖の瀬程ではないが、サザエもアワビも、それなりに大きい物が以前よりはるかに多く獲れ、健太を驚かせると同時にほっとさせた。

《やっぱり、中の瀬で、わしらが獲り過ぎとっただけだが》

中の瀬は父の幼い頃から、泳ぎの上達したこの町の子供達が、夏の遊びを兼ねて身体を鍛え、小遣い稼ぎをするのに絶好の漁場だったのだ。

中学三年になり、新聞を読むようになった健太は、新聞、ラジオ、テレビのニュースなどで、日本の漁船だけでなく、東アジア各国の漁船が日本近海で乱獲しているせいで、日本全体の漁獲高が落ちている事を知った。

さらに以前から気にしていた通り、工業排水や農薬の海水汚染も問題になり始め、特に工業排水が海水や河川の水、井戸水に混じり、そのせいで原因不明の病気になったと主張する人達が、その会社を相手に訴訟を起こし、裁判の成り行きがマスコミをにぎわせるようにもなった。

《海は変わらへん。人が変わるだけだき》

健太は一大決心をして、沖の瀬でも、勿論中の瀬でも、素潜り漁を辞める事にした。

釣りをしても、家で食事のおかずにするだけ釣れたら止める事に決め、その必要がない場合は、釣っても余程大物でない限りは逃がす事にした。

潜らなくなったお陰で暇を持て余したが、釣りをしながら将来の進路を模索したり、じいちゃんとばあちゃんがいなくなって一気に負担が増えた母の畑仕事を手伝い、雨の日でもないのに、家で兄が残して置いた本を読んだりして過ごした。

畑仕事の手伝いは小さい頃からしてはいたが、健太の自由意志でしていただけだった。

今は、銀行が休みの日に父も畑仕事をするものの、それまで母とじいちゃんとばあちゃんが三人で世話をしていたのを、母が一人でしなければいけなくなったのだ。

少しでも母の手助けになればと、時間がある限り手伝ってみたものの、それが大変な重労働だという事が解った。

父母は、手に負えなくなったので、さかいのおじいさんの家に畑を二枚貸す事に決めた。

 畑が二枚になって、労働が半分で済むようになったからと言っても、畑を耕し、種を捲いたり苗を植えたり、また雑草の刈り取りをしながら、船の手伝いのそれとは違う、腕や脚、腰が鉛を着けたような重さや痛みを感じ、ふと手を休めると、母は真っ赤になった顔から汗を滴らせたまま、未だ休みもせずに黙々と作業をしている。

 《女子のおかさんに負けられへんが》

競うようにむきになって作業をしても、やはり先に作業を中断するのは健太の方だった。

《やっぱり大人はすごいがな》

今更のように自分にはない大人の体力と忍耐力のすごさを認識した健太は、母に対しても、今まで以上に尊敬の念を以って接するようになった。

そんな健太に、母は好意的に接し、以前程小言を言わなくなった。


中学生最後の夏が、依然進路に悩む健太に訪れた。

沖の瀬で漁をしたい気持ちはあったが我慢し、釣りと夜探り、磯探りは毎日の日課として続けても、獲物は小物であったり、食事に必要でなかったりすれば逃がしてやり、扶美の喜ぶ顔を見たくて、波打ち際で貝や小石のきれいな欠片を集めたりした。

また毎年のように時折繰り返している、海の底で寝そべって太陽の光を眼に当てる遊びと、身体を鍛える為に想い付いた、縦波止の先端から南の岬までの一海里程を往復する遠泳の毎日に明け暮れた。

 健太自身、自分が以前に比べて逞しくなったのを少しは自覚していたが、以前ほど一緒に遊ばなくなった洋二、武に会うと、彼らは自分より遥かに逞しくなり、大人びて見えた。

 それでも終日、父母の畑仕事を手伝っている最中に、「健太の力が付いて、大人と同じほど仕事するよになったき、助かるで」と言う父に、嬉しくなって、一層頑張るようにもなった。


そして、夏祭りが来た。

以前に比べて夏祭り自体には興味が薄れ、扶美と逢う事が最大の楽しみになっていた。

友人達にからかわれるのが嫌で、大体の時間を決めて縦波止の付け根で待ち合わせた。

海岸道路の方を見ていると、扶美が来るのを待ち望んでいるのを見透かされるような気がして海を眺めながら待つ。

少し前から待っていると、背後から砂を踏む軽やかな足音が近付いて来た。

振り返ると、水色のワンピースにしなやかな身体を包んだ扶美が照れ臭そうに俯き加減で微笑んでいた。

学校で見る制服姿より、大人びて見え、清楚で上品な美しさが一層魅力的に想えた。

無意識に扶美の胸に視線を遣る。

胸の膨らみが少し目立つようになった気がして、恥ずかしくなってすぐに眼を逸らす。

立ち上がると、以前は同じ程度の身長だったのに、頭一つ分健太の方が、背丈が伸びているのに気付き、少し誇らしい気持ちになった。

 毎年のように、先を行く健太を少し離れて扶美が従い、長い砂浜の中程で腰を下ろす。

 やはりいつものように、海に向かってお互い半身になる。

学校でもしょっちゅう顔を合わせ、言葉を交わし、二人っきりになる事もあったが、特別な会話をしないでも、心のときめきは以前と比べても、慣れるどころか激しくなる一方に感じられた。

 まして、今年は特別だった。

 自分が漁師になり、扶美が高校に進学すれば、これが最後になるかも知れないと感じていたのだ。

 嬉しさと不安とが入り混じった心が、それでも弾んだ。

 

「なしてか判らんけど、夏祭りの日は、毎年良い天気だが?」

 肩まで伸ばした美しい黒髪を、時折海面をさらって来る潮風になびかせる扶美が眩しそうに眼を細め、海を眺めながら口を開いた。

 「お、おう。そがだな」

 健太は応えながら、かつて記憶にある限り、一度も雨に降られた事がないのを、初めて意識した。

 海は穏やかに凪いで、真っ青な空に輝く太陽の光を浴びてきらめいていた。

 「あ、あのな、お、お前、泳ぎ、上手になったかや?どれぐらい潜れるか?」

 長い沈黙の後、健太は想い切って尋ねてみた。

 扶美の住む町の子達は、中学校がある岬の下の海岸の方が近く、そちらに泳ぎに行くせいで、健太は扶美が泳ぐのを見た事がなかった。

 泳ぎがそんなに上手ではないという噂は聴いたが、直接尋ねたのは初めてだった。

 健太は海の底での素晴らしい感覚を、扶美と一緒に体験したいとの想いを初めて口にした。

 「多分一〇〇メートルくらい泳げるようになったけど、潜るのは三ートルぐらい、うーん、三〇秒位かな?測った事ないき判らんが。だってひと夏に四、五回しか泳ぎに行かへんき。なして?」

 扶美は恥ずかしそうに頬を染めて応えた。

 「い、いや、何でもあらへん」

 健太は海の底での感激を扶美に教え、一緒に体験したいと告白しようとしたが、とても上手く表現出来ないと想って諦めた。

 ましてそんな告白が出来るはずもなかった。

しかし共に経験し、扶美に健太と同じ感動を共有して欲しいという気持ちは募る一方だった。

 「あ、あのな、やっぱり潜る練習せや。出来たら五メートルぐらいの深さで、時間は一分くらいでも良いき。あ、あのな、う、海の底にな、一緒に潜って、お、お前に見せたいもんがあるきな」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 「わ、判った。前にはげ山で健太君、言うとった、世界が自分独りの物のように想えるって、その事?どがなの?」

 扶美が顔を輝かせ、声を弾ませた。

「う、上手い事、言葉で説明出来へんが」

「うん。判った。でも嬉しい。私、お風呂でも息止める練習するき。そいで来年の夏も、頑張って毎日海に行って、練習するが。絶対潜れるようになるき」

 扶美が心から嬉しそうに笑った。

健太は、扶美が自分を受け入れてくれて、何時か一緒に手を繋いで海の底での素晴らしい感動を扶美と共有出来る確信を覚えて、胸のときめきが一層激しくなった。

 扶美は初めて健太から自分に個人的な要求をされ、また健太に、恐らく健太だけが知っている大切な何かを自分に教えたいと初めて告白されたように感じて、それが嬉しくて、照れ臭い時の癖なのか、砂を掬ってしなやかな指の隙間から零した。

 健太はそれを見ながら、改めてこの町の女性達の荒れた逞しい手を想い出していた。

 《扶美が漁師になったわしの嫁じょになって、あがな手になら、ピアノも弾けんよになるが》

 扶美は、今春の県のピアノコンクールで、中学生の部の二位になっていた。

 健太は、自分が漁師になる夢を諦めて高校に進学しなければ、違う道を歩もうとする扶美の傍に一生連れ添う事が出来ないように想えた。

 扶美は健太が見つめているのを知っても、恥ずかしそうに頬を染めるだけで、かつてのように手を引っ込める事はしなくなっていた。

 健太も扶美のしなやかな手指を見つめて美しいと感じている想いを扶美に知られても、照れ臭くなりはしても、視線を逸らす事はなくなっていた。

 時折扶美と視線が合う。

 扶美は何か想い詰めているようで、愛らしい唇を開き、何か言いたそうな表情を何度か浮かべた。

 しかし以前と同様、多くの言葉を交わす事もなく、またその必要もなく、ただ一緒にいるだけで心をときめかせる時が過ぎて行く。

 気が付くと太陽が水平線に掛かり始めていた。

 毎年見つめる、二人から水平線の太陽に向かって鮮やかにきらめく黄金色の道が延びる。

 健太は漁師になる夢も、扶美と共に人生を歩む夢も失いたくなかった。

 未だ迷いの中にどっぷりと浸かっていたのだ。

 太陽が眼に見えて速く沈んで行く。

 辺りを夕闇の帳が包み始めても、健太は扶美を帰したくなかった。

 《早う、キスせえや》

 武と洋二がせかす顔も脳裏を過ぎった。

 《こがな処で、どがしてしたら良いか、解らへん》

 薄暗くなって来たとは言え、遠くからの人目があるかも知れない砂浜では大胆過ぎたし、タイミングも解らなかった。

 暗くなり行く空に星があちらこちらに見え始めても、健太は立ち上がらなかった。

 扶美に自分の気持ちを伝えたい。

 これが扶美と二人っきりで過ごせる最後の時になるかも知れない。

 《好きだ、言うくらいは、せんと。出来るかも知れへんき》

扶美を帰す前に言葉にしなければと一生懸命考えたが、しかしあせればあせるほどタイミングが掴めず、口も開かなかった。

 扶美がそわそわし始めた。

 帰りたがっているのだろうと健太は感じたが、しかし心の片隅で、何故か扶美が、自分からは「帰る」と言わないような気がしていたし、未だ帰したくなかった。

 永い時間が経ったような気がした。

 健太は、扶美への想いを未だ言葉に出来ない自分に対して心から苛立ちを感じ始めていた。

 そんな時だった。

 扶美が口を開いた。

 「あ、あのね。健太君」

 《やっぱりいにたいだが》

 「お、おう?いぬるか?」

 健太ががっかりしたが、また話す機会もあるだろうと想い、立ち上がり掛けた。

 しかし扶美は意外にも立ち上がろうとはしなかった。

そして座ったままの扶美の口から出たのは、健太には想像も出来なかった言葉だった。

 「こないだ、お、お母ちゃんに訊いたが。りょ、漁師さんの、お、お嫁さんになっても良い?って」

 驚いて扶美の顔を視詰めると、扶美は健太の顔も見ずに素早く立ち上がって、海岸通りの方に走り去った。

 健太が立ち上がると、芙美が少し走ってから立ち止まり、振り返った。

 「お母ちゃんがねー、健太君なら、良いってー」

 芙美が少し大きな声で叫んだ後、再び背を向けて走り出し、すぐに夜の帳の中に消えて行った。

 健太はしばらく呆然と座り込んだままだったが、やがて立ち上がった。

 《扶美が、わしが高校行かんで漁師になっても、わしの嫁じょになる、いう事だが》

 心の中で扶美の言葉を繰り返しながら、徐々に深く激しい喜びがこみ上げて来た。

 振り返って東の空を見上げる。

 鮮やかな満月と、満ち欠けを繰り返す月に未来永劫寄り添っているような金星の輝きを見つめながら、健太は飛び上がって叫びたい程感動していた。

 このまま家に帰るのも、現実に引き戻されるようで嫌だったし、夏祭りの雑踏の中に身を置くのも嫌だった。

 健太は波打ち際まで降りて、洋服のまま海に飛び込み、全力で泳ぎ出した。

 扶美が自分を好きでいてくれる事は、何年も前から自覚してはいた。

 しかし、具体的な言葉として受け止めたのは、これが初めてだった。

 それも健太が告白する前に、である。

 扶美もまた健太に好かれている事は自覚していた。

 だから進路に悩む健太に、漁師の道を選んでも自分の気持ちは変わらない事を告白したのだ。

 「扶美―っ。好きだーっ」

 中の瀬の海上辺りまで泳ぐと、海面に仰向けになり、健太は想いっ切り叫んだ。

 辺りはばからず、何度も叫んだ。

 嬉しさと興奮で身体が震えていた。

 満月と無限数の星々を仰ぎながら、健太はずっと波に身体を任せていた。


中学生最後の夏が終わり、三年の秋を迎えた。

港ではシイラ漁が終わり、例年のように九月に入って底曳漁が始まり、同時にタイとワカナ、ヒラメ、アワビとサザエの養殖計画に応じた、大規模な港の改造工事がスタートした。

その夏の総会で、養殖は県水産試験場の研究者の指導の下で、年寄り達や婦人会の一部の女性達に委ね、働き盛りのほとんどの漁師は従来通りの漁を続ける事が決まっていた。

また都会に働きに出ていた者も何人か帰省し、養殖に参加するという話も聴いた。


扶美とは、学校で何度も顔を合わせたが、お互い照れ臭いせいで、友人達と一緒の時以外はすぐに離れたりしていた。

 しかし、健太の胸のときめきは、今まで以上に激しくなっていた。

 扶美も恐らくあの言葉を口にした事で、健太への思いを一層募らせる結果になってしまっていた。

 健太の方から扶美に声を掛ける事などほとんどなかっただけに、扶美が健太に話し掛ける事が少なくなったので、二人の会話も接触も途絶えてしまっていた。

 しかし、扶美は勿論、健太も、それによって互いの想いが褪める事などあり得ないと信じていた。

 新学期が始まってから、健太に話し掛ける事がなくなった扶美に、もう一つ変化があった。

 扶美が何故か、指先に包帯を巻いたり絆創膏を貼っていたりする事が増えたのである。

 《扶美はお寺の子で、荒い仕事なんかせえへんに、何で指先を怪我するだろか?》

 漁師さんのお嫁さんになる、と健太に対して宣言したので、まさかその練習をしている訳ではないだろう、と健太は想った。

 そうであれば、健太をさらに有頂天にしたのであろうが。

 しかし宣言されたとしても、扶美が高校を卒業し、健太が一人前の漁師になって、いわゆる、年が明け、扶美を迎えるには数年掛かるのだから、今から、訓練もないだろう。

 それにしても、あの指先の怪我は何だろう。

 それはほとんど毎日であり、また包帯や絆創膏の場所が違っている事もしばしばであった。

 放課後の合唱の練習でも、扶美が、指が痛くてピアノが弾けないという話を聴いた。

 しかし、扶美に健太の方からその理由を問い質すのも変だし、と、健太は手をこまねいて、ただ訳も解らず首を傾げるだけであった。


やがて、学校での担任との進路相談の時が近付いてきた。

健太は意を決して、父母に向かって、ついに宣言した。

「中学出たら、漁師になる事に決めたきな」

健太が漁師になる事を諦めたと想い込んでいた母は、勿論ひどく驚いた。

「あんちゃんもねえちゃんも、高校出て大学も出て、ちゃんと会社勤めしたに、なしてお前はそがに勉強を嫌がるかいなあ」

健太は涙を流しながら訴える母に、初めて、改まって自分の想いを言葉にした。

「おかさん。は、ねえちゃんやあんちゃんの話はしなはんなや。あれやちはあれやち、わしはわしだでな。わし、漁師になってこの家におって、あんちゃんの代わりに、おとさんやおかさんの面倒看てあげるきな」

「わしらの心配はせんでも良いが。まあ、未だ若いきな、やり直しも効くで。お前が想たよにしてみや」

母は不満そうだったが、父が反対しなかったので、それ以上言葉を継がなかった。

父にも反対されたら高校へ行くしかないと、決心して打ち明けた父の意外な言葉に、健太は躍り上って喜んだ。

「あのな、おかさん、上手い事言えんかも知れんが、聴いとくれやな。おかさんの言う通り、ねえちゃんやあんちゃんみたげに、高校出て大学に行って、良い会社に入ら、わしの将来は安定するかも知れん。そいでもな、都会の子も田舎の子も、皆が皆、大学出て良い会社に入ろと想うたら、すごい競争になって、負けるもんも出て来るがな。会社も、そがに大勢の人間を入れる事も出来んよになるかも知れへんがな」

 健太は、そこまで話すと、一息入れて、母の顔を見た。

 母は未だ不満そうはしてはいたが、健太の話を真剣に聴いてくれているようだった。

 「そいにな、皆が皆、都会に出て働いて生活するようになら、誰が魚獲ったり米や野菜を作ったりするだかな。漁業や農業が、寂れるだけだがな。そがになったら、食べるもんがのうなってしまうがな。おかさんの家も、あんさんやちが跡継いで、百姓やる身内がおるき今は安心だが、わしの従兄弟らが皆都会に出たら、誰がおかさんの本家の田んぼや畑を守って米や野菜を作るだかな。牛や鶏は誰が面倒看るだかな。漁業や農業だけだないでな。この市には有名な瓦産業があるし、伝統のある有名な菓子や蒲鉾もあるがな。そがなもんも、それに石見神楽なんかの伝統芸能も跡継ぎがおらんよになら、廃れてしまうがな。わし、勉強が嫌いだき、高校に行かんだないでな。本読んだり新聞読んだりするの、好きだしな。そいでも、わしな、漁師になって、武や洋二らと一緒に、この町の漁業を守りたいだが。将来はどがなるか、判らへんがな、今は、それしか考えられへんでな」

そんな思いを、言葉を選びながら母に必死で伝える健太を、父は微笑みながら見守った。

母も、最期には首を縦に何度も振りながら、健太の訴えを聞いてくれた。

しばらくの沈黙の後、母は無言で炊事場に立ったが、健太の想いを認めてくれたようだった。

 

それからの日々も、母は健太に進路の話をする事はなかった。

 健太は一層、母の畑仕事を手伝ったり、じいちゃんの本家の船の手伝いに精を出した。

 一一月半ば、健太の誕生日、学校から帰ると母が一通の手紙を健太に差し出した。

 「扶美ちゃんからお前に手紙だでな」

 受け取ると、普通の手紙にしては重い気がした。

 扶美が手紙をくれるなど、初めての事だった。

 あの衝撃的な夏の日以来、学校でも扶美と話す機会が全くなくなっていたので、扶美からの手紙は宝物のように嬉しかった。

 《何だろか?》

 期待と不安を覚えながら、健太は封を切った。

 《わあ、すごいっ、これっ?》

 往復はがきを開いた程度の大きさであった。

 それは、一枚の絵だった。

 いや、絵とは言えなかった。

それは普通に描いたものではなく、小さく砕いた貝殻の欠片の一つずつに色を塗って糊で貼り付けた物だったのだ。

  毎年の夏祭りの日、何時も二人が砂浜から眺めた、水平線に夕陽が沈む瞬間が描かれていた。

  扶美の誕生日に、生まれて初めてのプレゼントで、海岸や海底で拾ったきれいな石や貝殻を小瓶に詰めたものを扶美に手渡した際、扶美が大層喜んでくれ、「私も海岸で貝殻の欠片や小石を拾って、絵を描く」と言った、それであった。

 通信簿の図画工作の成績が三の健太でも、その素晴らしさが伝わって来るようであった。

 《すごい。これを、扶美が》

 どれくらい手間暇を掛けたのだろうか。

 おそらく一月以上、いや、それ以上に時間を掛けたであろう。

 二学期に入ってからの、扶美の指の包帯や絆創膏の謎がやっと解けたのである。

 しばらく、その作品を眺めて深呼吸をし、もう一枚の便箋を拡げた。

 《何度も失敗しながら、やっと満足出来るものが出来ました。直接渡すの恥ずかしいから、手紙にしました。漁師さんになる健太君に、誕生日のプレゼントです》

 きれいな文字で書かれた手紙を、健太は何度も何度も繰り返し読んだ。

 そして、想い切って返事の手紙を書いた。

 《一生懸命作った綺麗な絵をありがとう。一生大事にするよ。それと漁師になる事を親に認めてもらいました。頑張る》

 夕食を終えてから、何時間も書いては破り、書いては破りで、結局それだけの短い文章になった。

 《一人前になったら嫁に来い》とも、《好きだ》とも書いてみたが、結局恥ずかしくて止めた。

 翌日、生まれて初めて、好きな女性に書いた手紙を、健太は両手で拝むようにポストに落とした。

 

そして、正月。

帰省した兄もじいちゃんの葬式の時と同じ考えで、久し振りに愚痴を零す母をたしなめてくれた。

「美味い魚、ずの獲って、送ってごせよ」

県庁に勤め、高校の教師と結婚した程堅物の姉も、反対するかと思っていたが、意外にも賛成してくれた。

しかし健太の決断に最も大きな影響を与えたのは、やはり扶美の一言だったのだ。

扶美の告白がなければ、父の反対に合って、健太は仕方なく高校進学を選んでいただろう。


正月明け、父が健太を本家に連れて行き、健太を船に乗せて一人前の漁師に育ててやって欲しいと、正式に頼んでくれた。

「ほんならわしも、は、漁がしわなって来たき、健太が一人前になったら船降りて、養殖の仕事でもしよかの」

本家のおじいさんは快諾してくれた。

「じいさんに負けんよな漁師になれよ」

「立派なじいさんの二代目になれよ」

おじさん達も健太の頭を撫でて激励してくれた。


翌春、未だ肌寒い夜明け前の街灯の下を、真新しいくらがいと水筒を小脇に抱えて海岸通りを駆け抜け、初めて出漁する健太の新米の漁師姿があった。

首に下げた母がくれた海神様のお守り袋には、お守りと一緒に花柄の美しい便箋が小さく畳んで入れられていた。

市内の高校に進学する扶美が、卒業式の前日、健太の家に遊びに来て、「私が帰った後で読んで」と、恥ずかしそうに渡してくれた手紙であった。

「健太君が大人になるまでは、私も未だ大人になりません。海は危険で心配だけど、気を付けて頑張って。扶美」

《扶美があの日の言葉を憶えとったが》

健太は扶美が帰った後、きれいな字で書かれた短い手紙を、何度も繰り返して読んだ。

それはあの、初めて二人っきりになった、小学六年生の夏祭りの日、健太が扶美に自分の想いのたけを伝えたくて、つぶやいた言葉だった。

二人は何度も二人っきりで、海や山へ遊びに行ったり、互いの家を行き来したりしたが、互いの恋心を知りながら、結局「好きだ」とも言えず、抱き合う事もないままに中学生活を終えていた。

しかし、互いの心は言葉にしなくても、行動に移さなくても解り過ぎる程解っていた。

これから新しい人生が始まる。

この町での人生の幸不幸は全て自分達の努力次第であり、自分達を育んでくれる海次第であった。

本家のおじいさんやおじさん達と比べて勿論体格も劣り、顔付きも幼さが消えず、動きもぎこちなかった。

しかし想像以上に厳しいであろう未知の大人の世界に、やっと一歩を踏み出す健太は、港を出て行く船の甲板に立ち、未だ夜明け前の真っ暗な、大きな波がうねる沖の瀬の、さらに彼方の沖の海上を鋭く見据えていた。  (了)       






追記文中に出て来る方言は、島根県の石見地方のものです

○1ページ

「しょべかう」・・・「からかう」

「や」・・・文末に付ける強調語。

○2ページ

「が」・・・文末に付ける断定語。

「ほんなら」・・・「それなら」

「昼飯」・・・「ちゅうはん」と言う。朝食は「朝飯(あさはん)」夕食は「夕飯(ゆうはん)」

○4ページ

「戻ったき」・・・「ただいま」の慣用句。

○5ページ

「なして」・・・「どうして」

「き」・・・「から」

「の」・・・文末に付ける強調語

「もろた」・・・「もらった」

「おぞかろが」・・・「怖いだろう」。「おぞい」は「怖い」の意。

「がい」・・・「が」の漁師言葉。「がや」とも言う。

「でな」・・・文末に付ける丁寧語。尊敬語

「がな」・・・「が」の丁寧語

「わ」・・・「お前」。「わら」も同じ。

「そがなか?」・・・「そうなのか?」

「しわい」・・・「きつい」「苦しい」

「てや」・・・文末に付ける強調語。

「じげ」・・・「近所」

「揃とる」・・・「揃っている」

「うちね」・・・「うちの家」

「そい」・・・「それ」

「欲しなって」・・・「欲しくなって」

「つまらん」・・・良くない

「おおごとする」・・・「大変な事になる」

「戻っとる」・・・「戻っている」

「おっちゃる」・・・「おられます」「いらっしゃる」

○6ページ

「は」・・・「もう」

「いっつも」・・・「何時も」

「何ぞ」・・・「何か」

「言いなはんな」・・・「言いなさるな」「言ってはいけません」

「やれんまんま」・・・「やれないまま」

「みなはい」・・・「みなさい」

「いっと」・・・「いっぱい」「たくさん」

「めがら」・・・「身体」

「ずの」・・・「ものすごく」

「こがな」・・・「こんな」

「言われとない」・・・「言われたくない」 

「だ」・・・「じゃ」

「やれん」・・・「出来ない」

○7ページ

「ほんにや」・・・「本当か」「そうか」

「ごせ」・・・「くれ」

「刈ったらい」・・・「刈ってやるわい」

「やちゃ」・・・「達は」。「やち」は「達」

「こい」・・・「これ」

「おかさん」・・・「おかあさん」

「みたげに」・・・「みたいに」

「おらんこに」・・・「いないで」

○8ページ

「何ぞ」・・・「何か」

「タイ縄」・・・タイの延縄。

「りんと」・・・「ちゃんと」「きちんと」

「あすこ」・・・「あそこ」

「通て」・・・「通って」

○9ページ

「食べ過ぎなはんな」・・・「食べ過ぎなさるな」「食べ過ぎてはいけません」

「置かな」・・・「置かないと」

「いけん」・・・「いけない」

「てご」・・・「手伝い」

○10ページ

「どがなかな?」・・・挨拶の慣用句。「どうですか?」

「しよかな」・・・「しましょうか」

「ぼやけとった」・・・「ぼーっとしていた」

「なら」・・・「なったら」

「さい」・・・「はい」

○11ページ

「だげなの」・・・「だそうだな」

「わら」・・・「お前ら」

「いなげな」・・・「おかしな」「(訳の)判らない」

「よけ」・・・「よけい」「よけいに」

「みたげに」・・・「みたいに」

「そら」・・・「それは」

「ようけ」・・・「一杯」「沢山」

「若いし」・・・「若者」

「おろ」・・・「いるだろう」

○12ページ

「女子」・・・「おなご」と言う。

「あがなんか」・・・「あんなのか」

「おいおい」・・・「そろそろ」

「抱いとっとくれ」・・・「抱いていておくれ」

「わいちゃ」・・・「お前達」

「嫁じょ」・・・「お嫁さん」「奥さん」

「すろ」・・・「するだろう」

「慌てんこに」・・・「慌てないで」

○13ページ

「船から上がる」・・・「船から(降りて岡に)上がる」

「よろしに」・・・「よろしく」

「入れといとくれやな」・・・「入れておいて下さいな」

○14ページ

「しちゃったげなな」・・・「されたそうですね」

「気遣(きつこ)てもろて」・・・「気を遣って下さって」

「はよ、良うなるよに」・・・「早く(身体が)良くなるように」

○16ページ

「きちしや」・・・「悔しい」

○17ページ

「おとさん」・・・「お父さん」

「なっとる」・・・「実を付けている」。「なる」は「実る」

「こいから」・・・「これから」

○18ページ

「暑なるげなでな」・・・「暑くなるそうですね」

「いんどくれ」・・・「帰って下さい」。「いぬ」「いぬる」は「帰る」

「まげに」・・・「見事に」

「助かりともない」・・・「助かりたくもない」

「のうなったら」・・・「なくなったら」

「飲みなはい」・・・「飲みなさい」

「だ」・・・「では」

「百姓家」・・・「農家」

「汚のなっとる」・・・「汚くなっている」

○19ページ

「おおごと」・・・「大変」

○21ページ

「こまい」・・・「小さい」「細かい」

「逃げらへん」・・・「逃げたりしない」

○22ページ

「もっぺん」・・・「もう一回」

○23ページ

「こがなん」・・・「こんなの」

「広て」・・・「広くて」

「薄暗(うすぐろ)て」・・・「薄暗くて」

「潜ら潜るほど」・・・「潜れば潜るほど」

「出なはる」・・・「出なさる」「出られる」

「時間だいな」・・・「時間ですよ」

「深(ふこ)て」・・・「深くて」

「世話ない」・・・「心配ない」

○25ページ

「にき」・・・「近く」

「せへん」・・・「しない」

「あんね」・・・「あの家」

「来らい」・・・「来るわい」

「男し」・・・「男の人」

○26ページ

「知っとろがな」・・・「知っているでしょう」

○31ページ

「来ちゃる」・・・「来られる」

「喜んじゃらへん」・・・「喜んで下さらない」

○32ページ

「さいのう」・・・「そうだなあ」

「おおかた」・・・「だいたい」

○33ページ

「そら」・・・「それは」

「比べら」・・・「比べたら」

「貯めら」・・・「貯めたら」

「集まら」・・・「集まったら」

「買(こ)うとろ」・・・「買っているだろう」

「せへん」・・・「しない」

「どのみち」・・・「どっちにしても」

○34ページ

「もそっと」・・・「もうちょっと」

「なら」・・・「なったら」

「働か」・・・「働けば」

「ずすのなる」・・・「具合が悪くなる」

○35ページ

「いぬる」・・・「帰る」

「酔っとっちゃる」・・・「酔っておられる」

○36ページ

「そちね」・・・「君の家」「貴方の家」。「そんね」とも言う。

「使(つこ)とる」・・・「「使っている」

「やくたいもない」・・・「馬鹿な事」「つまらない」「どうしようもない」

「美味(うも)ない」・・・「美味くない」

「かじりとなる」・・・「かじりたくなる」

「こんね」・・・「この家」

○38ページ

「しもた」・・・「しまった」

「したらんと」・・・「してやらないと」

「歩いたらんと」・・・「歩いてやらないと」

○39ページ

「らしてな」・・・「らしくってね」

「あんな」・・・「あのな」

○41ページ

「いのか?」・・・「帰ろうか?」

「呑んどっちゃる」・・・「呑んでおられる」

「しとらへん」・・・「していない」

○42ページ

「暮らせら」・・・「暮らせたら」

○43ページ

「みやすて」・・・「簡単に」

「終わらい」・・・「終わるよ」

○46ページ

「止めら」・・・「止めたら」

○48ページ

「良いだげな」・・・「良いそうです」

「良かろがい」・・・「良いだろう」

「のうなる」・・・「なくなる」

「だろがい」・・・「だろうが」

○49ページ

「かばちたれる」・・・「だいそれた事を言う」「ばかな事を言う」「いい加減な事を言う」。「かばち」は「口」「大口」

○51ページ

「そがだいなあ」・・・「そうだなあ」

「ごっつおなって」・・・「ご馳走になって」

○52ページ

「昼飯よばれる」・・・「お昼ご飯をご馳走になる」。「よばれる」は招かれるの意味もある。

「在所」・・・(漁村に対して)農村。海から離れた内陸の町。

「高(たこ)て」・・・「高くて」

「喜んじゃる」・・・「喜ばれる」

○53ページ

「きつない」・・・「きつくない」

○54ページ

「言うちゃった」・・・「おっしゃった」

○55ページ

「忙して」・・・「忙しくって」

「だき」・・・「だから」

○58ページ

「寒なって」・・・「寒くなって」

○59ページ

「ごいとる」・・・「くれている」

○60ページ

「煙草する」・・・「休憩する」「休む」。煙草を喫わなくても同様に言う。

○61ページ

「万屋」・・・「よろずや」。何でも売っている処から呼び名が付いた。

○63ページ

「おいでた」・・・「来てくれた」「いらっしゃった」

○66ページ

「言うたてて?」・・・「言ったんだって?」

○69ページ

「出んよなったき」・・・「出ないようになったから」

「船を降りる」・・・「漁を辞める」「(漁師を)引退する」

「独りだ」・・・「独りでは」

○70ページ

「こまなって」・・・「小さくなって」。「こもなって」とも言う。

「弱げになって」・・・「弱そうになって」

「おらんよなって」・・・「いなくなって」

○71ページ

「悲しても」・・・「悲しくっても」

「苦しても」・・・「苦しくっても」

「言いたても」・・・「言いたくても」

「あがして」・・・「ああして」

「笑とっちゃる」・・・「笑っていらっしゃる」

「幸せだったいなあ」・・・「幸せだったなあ」

○72ページ

「泣いとっちゃる」・・・「泣いていらっしゃる」

「連絡しちゃった」・・・「連絡されました」

○78ページ

「いにたい」・・・「帰りたい」

○82ページ

「しわなって」・・・「苦しくなって」「つらくなって」

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沖の瀬 @yana1110

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