第1話

 目を覚ますと、そこは見慣れない一軒家の一室だった。壁には何が良いのかさっぱりな絵が飾ってあり、優雅なクラシック音楽が、時折ノイズを交えながら流れていた。そして、目の前にいる男が私を「雨玉ちゃん」と呼んだ。

 …。あぁ、そうだった。私は昨日の事を思い出す。親と喧嘩して家出した私は、何処か遠くに行きたくて、バスやら電車やらを使ってこの街に来たのだ。そして、雨でずぶ濡れになった私を、この男が拾ってくれたのだった。

「どう?寝心地は良かったかな。一応質の良い寝具を貸してあげた心算つもりなんだけど。」

優しそうで、でも何処か危険そうな笑顔で男は言った。危険そうに見えるのは、単に私が警戒しているからなのか、実際にこの人が危ない人だからなのかは分からなかった。

「はい。お陰様でぐっすり眠れました。有難う御座います。」

一応相手が気分を害さないように、丁寧に返答する。でも、そういうのを抜きにしても、実際私が寝ていたベッドはフカフカで、とても気持ちがよかった。男が質が良いというのも頷ける。

「そっか。気に入ってくれたなら良かったよ。下に朝食が用意してあるから、冷めないうちに食べちゃってね。」

「分かりました。」

私が返答すると、男はニコッと笑って部屋を出て行った。

 私はその後暫くの間ゴロゴロとしながらベットの感触を楽しみ、ゆったりと起き上った。そして、男が私に貸した、まるでアンティークの人形が着てそうなメルヒェンチックのネグリジェを脱いで、昨日私が着ていた白いダボダボのパーカーと臙脂えんじ色のキュロットスカートに身を包んだ。男が態々わざわざ乾かしてくれたのか、昨日雨でずぶ濡れになっていた筈の私の服は、何の嫌悪感もなく着ることができた。


  *


 この家は大方赤煉瓦で出来ていて、欧州とかその地方を彷彿とさせる、割と私好みの家だった。しかも、リビングダイニングには、御伽話にも出てきそうな如何にもな暖炉があって、異国感は増し増しだった。梅雨時期なので、その暖炉が稼働していないのが残念ではあったが。

「どう?御飯、口に合うかい?一応僕の手作りなんだけど。」

「はい。とても美味しいです。」

件のリビングダイニングで、私は朝食を摂っていた。朝食には、私の大好物の超半熟のゆで卵があったので、ちょっぴりテンションが上がった。

「そういえば、何時まで僕の家に居るの?雨玉ちゃんは。」

男がテーブルの向かいで頬杖をついて尋ねた。そういえば、家に帰ることなんてこれっぽっちも考えていなかった。

「すいません。今はまだ何とも…。」

「そうかい。雨玉ちゃんが望むんだったら、ずっと此処に居ても良いんだからね。」

「あ、はい。」

我ながら淡泊だな、と思う返事をして、私は食事を続けた。男はそんな私の姿を、嬉しそうに眺めているのであった。


  *


 「仕事に行ってくるよ」

男が突然にそう言ったのは、午前十一時を過ぎた辺りだった。

「お仕事って、何をなされているんですか?」

興味本位でそう聞いた。そして、私は不覚にも吹き出してしまった。名前も歳も知らないこの男に対して、初めて聞いた個人情報が「職業」であったことが、妙に私のツボに入ってしまったのだった。あれ、おかしい。この程度で笑うような人間だったっけ、私。

「僕の仕事?んー、一応絵を描いてるよ。」

何に吹いたの?とでも言いたげな顔で、男は私にそう言った。へー、絵描きなんだ、この人。もしかして、寝室に飾ってあったあの絵ってこの男が描いたのかな。だとしたら、妙に納得のいく絵だと思う。よく分からないこの男が描いた絵なら、よく分からなくて当然だ。

「田町の小沢池おざわいけって所にアトリエがあるんだけど、何なら一緒に行くかい?」

え、いいんですか…、と言いかけて咄嗟に言葉を飲み込む。田町の小沢池には家族で何度か行ったことがあるが、そこは都内とは名ばかりに、ものすごい田舎で、人は少なかった。そんな、に、この男と二人きりで行くのは危ないと、私の直感が告げていた。

「いえ、大丈夫です。」

少し冷たく思われるかもしれないが、私はきっぱりと男の誘いを断った。男は一瞬物悲しい顔になったが、すぐにいつもの笑顔に戻り、「了解」とだけ呟いた。


  *


「あぁ、そうだった。」

男は出かけ際にそう言い、持っていたバックの中をガサゴソと漁りだした。そして、何かの鍵を一つと、一万円札を二枚取り出し、私に渡した。

「家のスペアとお金渡しとくから、生活必需品でも買ってきなよ。ここら辺だったら多分何でも揃うと思うし。じゃ、出かけてくるよ。あんまり遅くならないようにね。」

男は早口でそう言って家を出て行った。鍵には革でできたキーホルダーがぶら下がっていて、「Aki」と刻印されていた。多分、元カノの名前だろう。別れちゃったんだ、あの人。そう思うと、あの人が急に人間臭く思えてきた。なんだ、あの人でもくっついたり離れたりとかするんだ。なんだ、全然危険じゃないじゃん。むしろ、私と似たようなものじゃん。

 私は、少しにやつきながら、そのキーホルダーを指でピンと弾いたのだった。

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レイニー・ステップ アンダンテ @kazamidori04

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